村娘の不運
※書いているうちに矛盾点があったり書き直したくなった場合は遠慮なく勝手に書き直しますご注意ください。
※行き当たりばったりで書いてます。
鳥たちはさえずり、木々は互いに枝葉をこすり合わせ、川は静かに流れる。
ここは自然に囲まれた豊かな土地。
王都からそう遠く離れたところではないが、ここの空気は都会と比べとても清らかに澄んでいた。
遠い昔――それも今の自分が生まれるよりずっと前のこと――を少女はしみじみと思い出していた。
「……平和っていいよね、うん」
ぽつりと呟かれた言葉は誰の耳に届くこともない。
少女はのんびりとした調子で空を見上げながら平和というものを実感していた。
ミルクティーのように甘く柔らかい色をした髪は少女の腰に届くほど長く、絹糸のように繊細で艶やかで、琥珀色の円らな瞳は大きく、今は青く広がる大空を映し出していた。
肌は健康的な色合いをしているが、他のものと比べると些か白く、華奢な体つきと相まって見るものに儚げな印象を与えそうだ。
本人はそこそこ恵まれた容姿を持っているとは自覚しているが、まさか村一番の美少女だと密かに謳われていることなんて知る由もない。
少女の名はアズリア。
もちろんただの村娘なのだから、姓があるはずもない。
アズリアは空の籠を手にし、薬草摘みに出掛けていた。
今日も今日とて変わらない一日を送るのだろう。
籠いっぱいに薬草を集め、家に帰れば洗濯物を取り入れ、夕食の用意。
そしてこの村の唯一の観光名所とも言える温泉で一日の疲れを癒し、就寝。
アズリアとして生を受けてからこれまで、ずっと繰り返してきた日常だ。
まさかこの日常が一瞬で崩れてしまうだなんて、誰が予想できようか。
アズリアは知らない。いや、知る由もない。
鼻歌を歌いながら道を歩くこの時でさえ、じわじわとその瞬間がやってきていることを。
彼女は普通の村娘。特に秀でた能力もない彼女には、わかるはずもなかった。
どうしたものか。
老人は頭を悩ませていた。
それもそのはず、本来そこにあるべき存在の姿が全く見えないのだから。
――儀式は成功したはずだった。
必要なのは、本と、呪文と、それを読み上げる王族の血を引くもの。
ただそれだけのはず。
やはり、呪文を読み上げる際にくしゃみをしてしまったのがいけなかったのだろうか。
それとも読み上げる途中で何度も噛み、何度も言い直してしまったことが。
挙げだしたら限がない。
「あー……やっぱり、失敗?」
あちゃー、と小さく声を溢したのは、紛れもない呪文を読み上げたその人物。
事の重大さを理解しているのかしていないのか、酷く落ち着いた様子で辺りを見回していた。
しかし辺りから感じ取れる濃密な魔力は、間違いなく儀式は行われたと物語っている。
「……陛下」
「うん?」
「まさかとは思うが、その本に記された呪文どおりに読み上げなかった、ということはあるまいな?」
「えー。俺を疑うの? そんなことあるわけないじゃん。ちゃーんと、ここに書いてあるとおり、まあちょっとくしゃみしたり噛んだり読み直したりしたけど……読んだよ?」
そのちょっとが、影響を及ぼしているんじゃないのだろうか。
思わず頭を抱えたくなった老人だったが、それでも、原因は他にあるはず、と自分を奮い立たせる。
「一字一句、間違えずに、か?」
「もちろん。『異世界より来たりし者、契約の名の下に、そこに召喚する。我が名はフレデリック・マーニ・トラヴァーズ。異界の者よ、姿を現し給え』……ほら、完璧でしょ」
「ううむ……」
呪文に間違いがないとすると、やはりくしゃみなどがいけなかったのだろうか。
そう思い直そうとして、老人はそこで違和感を覚えた。
何故か先ほどの彼の呪文には、拭い切れない違和感があったのだ。
「陛下、今の呪文をもう一度」
「『異世界より来たりし者、契約の名の下に、そこに召喚する。我が名はフレデリック・マーニ・トラヴァーズ。異界の者よ、姿を現し給え』……ってさっきから何度も言ってるのに、さっきみたいに何かが起こる様子もないんだけど、やっぱり召喚されてるのかな」
老人は頭の中で何度も呪文を繰り返した。
すると、違和感はこれでもかというぐらい膨らんでいき、やがて、気付いた。
聞き間違いだろうか?
いや、そうではないだろう。
既に答えは老人の頭の中で弾き出されつつあった。
「……陛下、前半部分を、もう一度」
「え? 『異世界より来たりし者、契約の名の下に、そこに召喚する』?」
「………」
あ。と声を溢したのは、陛下と呼ばれた男だ。
見る見るうちに険しくなっていく老人の表情に、陛下と呼ばれた男は先ほどまでの余裕をなくし、おろおろとしながら視線を彷徨わせている。
何度も唱えた呪文と、本に記された呪文を照らし合わせた。
その間違いは、一目瞭然である。
背後からひしひしと伝わってくる老人の怒りに、たらりと冷や汗をかいた。
い、いやだって何度も呪文読み間違いして、読み直したりしたけど、大丈夫だったじゃないか。
それにくしゃみだってしたけど、一応召喚できたんだから、そんなに大した問題じゃないんじゃないか。
要は呪文を『ここに召喚する』と言うところを『そこに召喚する』と言ってしまっただけじゃないか。
男は必死に言い訳を考えるものの、思い浮かんだ言い訳は、どう考えてもこの老人を納得させられるものではない。
老人が低い声で「陛下」と男を呼んだ。
あぁ、きっと次の瞬間には、彼の怒号がこの部屋に響き渡るに違いない。
男は待ち受ける説教を、すっかり引きつってしまった顔で迎えることとなった。
召喚は確かに成功した。
それは間違いのないことで、確かに召喚されたはずなのだ。
ならば肝心の『異界の者』はどこにいるのか。
それはこの怒り狂う老人にも、叱られている男にもわからない。
何故なら呪文を間違えて唱えた男は『そこ』に召喚してしまったのだから。
この世界にいることは間違いない。それは確かである。
しかし、呪文を唱えた男の示す『そこ』というのは、果たしてどこを指しているのだろうか。
アズリアは目の前で起こった非常識な出来事に、パニックを起こしそうになった。
慌てて口元に手を当てなければ、その場で悲鳴を上げてしまいそうなぐらい、それは突然起きたのだ。
男がいる。
これだけなら、何ら変わりはないだろう。たかが男。村の住人にはもちろん男もいるのだから。別段不思議なことではないのだ。
彼女が驚いているのは、彼の性別に関してではない。
問題は、彼がどのようにしてアズリアの目の前にいるのか、ということだ。
「……えーっと、君、は……?」
流暢にこの世界の言葉を話す彼は、まさか自分が異世界の言語を喋っているだなんて、思いもしないだろう。
この男、何の躊躇いもなく話しているが、人がどれほど苦労して覚えて話せるようになったと思うのだろうか。
異世界から転生してきたアズリアにとって、新しく言語を覚えるというものは並大抵のことではなかった。それなのに、いとも簡単にこの世界の言葉を使いこなす男を彼女は少し憎いと思った。
しかし男の方からすれば、自分が異世界の言葉を使っているだなんて思いもよらないのだから、そんな彼女の気持ちを汲み取ることもできない。静かに自分を見つめているアズリアにただただ首を傾げるばかりだった。
さて、この男は一体なんだろうか。
突如として上空の方から現れた魔法陣のようなものから落ちてきたこの男。
見上げれば空は青く大きく広がっており、あの魔法陣は既に姿を消しており、まるで先ほどの幻想的な場面は嘘だったかのようだ。
しかしこれはまぎれもない現実。こうしてアズリアが茫然としている間にも時間は過ぎていくばかりだ。
これじゃあまるでどこかのファンタジーな物語のストーリーでもなぞっているかのようだ。
まさか。そんなことがあるわけがない。
ぱっと頭に浮かんだそれをアズリアはとっさに否定した。
そんな出来すぎたことがあるわけがない。さらに言えば、そんなことがこんな普通の何の取り柄もない、言うなれば村娘Aとでも呼ばれそうなこの私の前で、そんな非常識なことが起こり得るわけがないのだ。
「……あのー、聞いてる……?」
これは夢だと言い聞かせて自分を取り戻そうとしたアズリアの努力も空しく、目の前の男は遠慮気味に再び話しかけた。
アズリアは確信せざる負えなくなってしまった。これは現実なのだ、と。
しかし彼女は強かった。色んな意味で。
「えっと、じゃあ、さようなら」
斯くなる上は回避だ。
これは所謂フラグだと見たアズリアは思ったのだ。ならば、フラグは立つ前に折ってしまえばいい、と。
それも二度と立たなくなるぐらいボキボキと無残に叩き潰してやればいいのだ、と。
そう判断したアズリアの行動は早かった。
「いやいやいやいや! ちょ、スルーかよっ?!」
「するー? えっと、ごめんなさい、私、よくわからないんだけど……」
「イヤァアア! なんかすっごい痛いものを見るような目なんですが! でも何でだろうちょっと心地いいと思ったりしちゃうゾ! って嘘です冗談です大丈夫ですお嬢さん、俺決して怪しくないんで、いや、本当に! だからお願いします遠ざからないで見るからに引かないでお願いします」
「あの……仕事もあるから、そろそろ、戻りたいんだけど」
しかもこの男、ちょっと頭がおかしい。
いやちょっとどころではない、かなり痛々しいというか、可哀想というか。
こんな男と好き好んで関わるわけがない。
アズリアはさっと踵を返し、一刻も早くこの場から立ち去りたい一心だった。
「いやだから待って! 本当、お願いします、見捨てないで!」
男は今にも泣きそうな、そんな情けない表情で縋るようにアズリアの腕を掴んだ。
見た目はひょろひょろとしていて、とても力があるようには思えない男なのに、彼女の腕を掴むその力の強さは思いのほか強いものだった。
思わず顔をしかめるアズリアに、男は慌てて手を離す。
アズリアは少し痛んだ手首を労わるかのように撫でながら、男を一瞥した。
すっかり色の落ちた紺色のブレザー、裾をだらしなく出した皺だらけの薄汚れた白いシャツ、いくつか外れた首元のボタン、緩く結ばれたくすんだ赤いネクタイ。
さらに視線を下へ向ければ、黒いズボンに、くたびれた印象を受けるスニーカーを男は履いていた。
それだけでも、随分と懐かしさを覚える。
彼女は知っていた。この男の服装が何を意味するのかを。
しかし、だからといってそれがこの男を助けるための理由にはならない。
「どうして、あなたを助けなくちゃいけないの」
琥珀色の瞳は酷く冷たい。
男はその瞳の冷たさにびくりと体を震わせた。
「あなたを助けて、私が得することって、ある?」
「それは……」
「ないよね? なのに、自分は何の見返りも求められず助けてもらえると思ってるの?」
「えっと、じゃあ、働いて恩返し……」
「そんな綺麗な手をして、貧弱そうな体つきで、どう働くんだろうね」
「ぐっ……返す言葉もないです、はい……」
見る見るうちの男の表情からは生気が抜け、弱々しくなっていく。
なんだか弱い者虐めをしているような気がするが、ここで私が可哀想と思ってどうするというのだ。私はただの村娘。権力者ですらない。自分一人で生きていくのが精いっぱいなのに、その上男一人を養う? そんなことできるわけがない。
じわじわと押し寄せてくる罪悪感に、アズリアは言い聞かせた。
アズリアは後悔していた。
今こうして、彼に話しかけてしまった自分を。
ほんの少しでも、彼に希望を見せてしまったことを。
「この際、はっきりと言うけど。私、面倒事が嫌いなの。つまり、あなたと関わり合いになりたくないんだよ」
これがトドメだと言わんばかりに言い切った。
彼女の冷たい言葉は鋭い刃となり男に深く突き刺さっただろう。
これでもう、この男が私に助けを求めることもないだろうと、アズリアは思ったのだ。
しかし、アズリアの予想を裏切るようにして、男は彼女の肩を掴んだ。
しまった、と思ったときには既に遅かった。
「なぁ、頼むよ。俺、本当、今自分がどんな状況にいるのかも、わからないんだ。なんで自分がこんなところにいるのかも、これからどうすればいいのかも、全部わからないんだ」
「……それを見ず知らずの他人に聞いてどうするの。そんなこと言われても知らないんだけど」
「そりゃ、今の俺は何にもないし、その、ろくに働いたこともないし、役に立つかわからないけど……」
「なら尚更、私があなたを助ける理由がないんだけど」
「だから……お願いします! 何でもします! 助けてください!」
「口だけなら何とでも言えるよね」
男の口からは「頑張る」だの「何でもする」だの、似たような言葉しか出てこない。
そんな彼に呆れながらも、アズリアは悉くその言葉をぶった切った。
しかし男も自分の生死に関わってくるためか、その必死さは異常なものだった。
男はアズリアが了承するまで、肩を掴むその手を放すつもりはないらしい。
長期戦に持ち越されてしまい、アズリアも次第に疲れ始めていた。
こんなに必死だし、彼なら、もしかしたら恩返しもしてくれるかもしれない。
それに元同郷のよしみとして、ちょっと助けるだけでも。
少なからずそう思い始めている自分に、アズリアは心の中で舌打ちをした。
「俺だって、こんなところで死にたくないんだ。頼むよ……何でもするから、だから」
「………」
「助けてください、お願いします」
「……そこまで言うからには、それを証明する証拠は?」
ついぽろっと言ってしまった言葉は、きっと疲れによるものだ。
「証拠?」
「そう、証拠だよ証拠。私があなたを助けて、あなたが私に恩返しを必ずするってことを証明できる証拠があれば、信じてあげないこともないけど」
半ば投げやりな感じにも聞こえる彼女の言葉に、男は不思議そうな表情を浮かべる。
「もし私があなたを助けたとして、あなたがちゃんと恩返しをしてくれるかなんて、わからないよね。あなたがこの世界に慣れてきたそのとき、私の家の金目の物を全て盗んで出ていく可能性だって出てくるし」
「そんなことっ」
「しないと言われても、私にはあなたの言葉を信用できるだけの判断材料もないんだけど? それなのに信じろって? 無茶言わないでよ」
「……わかった」
神妙な面持ちで何かないかと探し始める男を、アズリアはじっと見つめていた。
本当なら、証拠など必要ないものだ。
彼女はどうしてこんなことを言ってしまったのだろうと、心の中で少し後悔をしていた。
どうせこのまま言い争いをしていても、いずれはアズリアが折れていたに違いない。それなのに何故彼女はそんなことを言ってしまったのか。それはおそらく、彼女なりの意地だったのかもしれない。
しかし男はそんなことにも気付かず、ただ彼女の了承を得ることだけを考え、何か証拠になるものはないかと自分の持ち物を探った。
――といっても、悲しいことに、男は何の荷物も手に持っていなかった。
何故なら男が先ほどまでいたのは、自分の部屋だったのだから。
男は自分の部屋でオンラインゲームをしようとして、何故か、気づいたらここにいたのだから。
荷物など持っているわけがない。
どうすればいいんだろう。
次第に焦り始める男はズボンのポケットに手を突っ込んだ。何かないだろうかと縋るように。
「……あった」
そう呟いた男の声は、表情は、浮かないものだった。
何故なら男の持っていた唯一のそれは、唯一残された希望だったのだから。
「これしかないんだけど……いいかな……?」
男から手渡された、黒い小さな箱のようなものを目にしたアズリアは目を見開いた。
「……これは?」
「えっと、その、なんて説明したらいいんだろ……俺の世界では、それを使って電話? ……通信が離れた所でもできて……まあ、要するに、離れた所でも会話ができるための道具、みたいな」
「……ふぅん」
アズリアは興味があるのかないのか、よくわからない声の調子で返した。
しかし彼女は何の躊躇いもなくその箱の僅かな隙間を開いて見せた。
一瞬、壊されるのではないだろうかと考えた男は、彼女のその行動にびくりと震えた。
男がそんなことを考えているなど露知らず。
アズリアはただ、自分の手の中にあるそれをじっと見つめ、懐かしい、と感じていた。
まさかこの世界で、これを目にする日が来るとは思いもしなかった。
アズリアはその小さな液晶画面に映された『圏外』という文字に視線を落とす。
その文字の形を見るのはとても久しかったけれども、思ったよりもすんなりと、その文字を読み取ることができた。
そのことにほっとしたような、どこか寂しいような。なんともいえない感情を湧きあがらせ、しかし彼女はこの液晶画面の示す絶望を悲しく思った。
これを証拠として取り上げることは簡単だ。
だとしても、これを彼から取り上げてよいものだろうかと、アズリアは悩んだ。
これは、男が持つ唯一のものではないだろうか。
見たところ、彼は他に何も持っていない。
男の表情はとても不安げで、見るからにこれが大切だと言わんばかりだった。
もし、私なら。
アズリアは考えた。
もし、私が彼と同じような立場になったら、きっとこれを手放すことはないだろうと。
何故ならこれはあの世界と繋がる唯一のものなのだから。
今はこうして『圏外』と表示されているが、もしかしたら、誰かと連絡ができるかもしれない。もしかしたら、誰かが自分を心配して連絡をしてくれるかもしれない。
そんな希望を指示してくれるものを、簡単に手放すわけがないのだ。
ちらりと彼を見る。
黒い髪に黒い瞳。前の世界では何度も目にした特有の顔立ち。
なんて情けない表情をしているのだろう。
彼は今にも泣きそうで、けれどその目に涙は滲んでいない。
――馬鹿だなぁ。
アズリアはとうとう、彼に同情してしまった。
「これは……いらない」
「えぇ?!」
「返す。大事にしなよ」
ぱたん、とそれを閉じ、彼の手の上にそれを乗せた。
「じ、じゃあ、証拠は……」
「いらない。と、言いたいところなんだけど、それだと私がただのお人よしになってちょっと悔しいから、やっぱりもらうことにする」
何をもらおうと言うのだろう。
男は首を傾げ、不思議そうな顔で彼女を見つめる。
しゅるり。
男の首元でそんな音がして、はっとする。
アズリアはくすんだ赤いネクタイを手にして、くすりと微笑んだ。
「だから、代わりにこれをもらっちゃおうかな」
その姿は妖艶にして、美しく、そして可憐だった。
思わず見惚れてしまった男は慌てたように自分の首元からそれがなくなっているのを確認した。
「おいで。村まで案内するよ」
「え、いやでも」
「根負けしたのは私だからね。助けてあげるって言ってるんだよ」
「でも証拠が……」
「はあ……だから証拠なんてどうでもよかったんだって。証拠云々を切り出した時点で、もう諦めてたし。まあでも、タダで何かしてあげるっていうのは、ちょっと悔しいから、適当に言っただけ。本気にしなくていいよ」
くるりと踵を返し、ゆったりとした歩調で村を目指す。
「あ。待って」
「……何?」
やや不機嫌そうな様子でアズリアは振り返る。
そこでやっと、アズリアは男の顔をまともに見た。
「俺、天野春太って言うんだ。あ、ちなみに春太が名前なんだけど……」
「それぐらいわかる。わざわざ言わなくてもいい。私はアズリア。……あと、この世界では性を持っていることは珍しいから、あまり名乗らない方がいいんじゃないかな」
「あ、やっぱりそうなんだ」
「まあ名乗りたければ名乗ればいいんじゃない? それで問題が起きたら、遠慮なくあなたを追い出すつもりだけど」
「……き、気をつけます、はい」
元の世界での基準でいえば、ちょっとかっこいいような気がしなくもない。
男の先ほどの笑顔を思い出し、アズリアはひっそりと思った。
しかしこの世界の男の顔に見慣れてしまった彼女には、今のこの男の顔の造りは、少し不思議な印象を受けてしまうのだ。
それが見る人によって良い印象ととられるか、悪い印象ととられるか。
これで何も問題が起きなければいいのにな、とアズリアは小さく溜息をついたのだった。
さて、この男を村の住人として違和感なく迎え入れるには、どう説明すればいいだろう。
無難に説明するならば、倒れていたところを助けたというところだろうか。しかし、それだけだと村で養うための理由になるのかどうか。何故倒れていたのか、という理由もどう説明すればいいのか。
どこまでも現実主義者なアズリアは頭を悩ませていた。しかし、それと同時に説明をしなければならないということに面倒くささをひしひしと感じてもいた。
もういっそのこと、そのままの真実を話してしまった方がボロが出ないからいいかもしれない、とも思い始めていたアズリアはちらりと後ろを振り返る。
「……えっと、何、かな?」
見たところかなり頼りなく、こんな調子できちんと説明ができるのだろうか、とアズリアは小さく溜息をついた。
そんな彼女に、もしや気が変わったのでは、と不安になった春太は見る見るうちに顔色を青くさせていく。もちろん、それはただの思い込みにしかすぎないのだが、そんな彼の不安をひしひしと身に受け、アズリアの顔はさらに引きつった。
これはもはや自分が何とかするしかないだろう。アズリアは渋々ながらも決心する。
「……私が適当に説明するから、春太君は合わせるだけでいいよ」
「え、あ、合わせる……?」
「とにかく、平和に生きて行くんだったら、言うとおりにして」
「はあ……」
まあ、なるようになるだろう。
考えることが次第に面倒臭くなってきたアズリアは楽観的に思うようにした。どうせ面倒を見るのは自分なのだから、と言い聞かせて。
村に到着したアズリアたちは、そのまま村長の家へ赴いた。
村長は見慣れぬ服装の春太に興味を示し、春太はなるべく良い印象を与えようと愛想よく笑う。そんな彼の笑みに、気を良くした村長を見て、話すなら今だとアズリアは切り出した。
春太が突然魔法陣から現れたこと、異世界から来たということ、行く当てがないということ。
だから、自分が面倒を見たいということを全て話し切り、最後には、問題があったときは自分が全て責任を負うとまで言った。
ここまで言えば、村長も納得してくれるだろうと思ったが、それでも不安は隠しきれない。
「うーむ……」
村長は低い声で唸り、春太はびくりと震える。
「――ま、アズリアが面倒を見るのなら、ワシは全く構わんよって」
にぱっと人好きしそうな笑みを浮かべた村長は、春太の背中をばしばしと叩いた。
思いのほかあっさりと下りた了承の言葉に拍子抜けをしたのは、春太か、それともアズリアか。
まあ何はともあれ駄目だと言われなかったのだからそれでいいのだろう。
アズリアはほっと胸を撫で下ろし、春太は村長に背中を叩かれながら乾いた笑みを浮かべた。
こうして、春太は無事に村の住人として迎え入れられたのである。
こんなにあっさりと事が運んでいいのだろうか、とアズリアは内心で呆れながらも、面倒くさいことにならなくてよかったと一先ずは安心することにした。
春太を自分の家まで案内し、さて、とアズリアは彼を見た。
「ここに来るまでの経緯、聞かれたい? それとも、話したくない?」
「いやいやいや、ここは普通聞くもんじゃないの?!」
「私に話したところでどうにかなる問題じゃないから、聞いたって意味ないと思うんだけど」
アズリアの言葉に、春太は顔を俯かせる。
彼女の言う通り、今ここで自分がここに至るまでのことを話したって、何の解決にもならないことは紛れもない事実だろう。ならばここで話す意味などないことも、春太には十分わかっていた。しかし、だからといって何も言わないということも、心の内がもやもやして嫌だとも思っていた。
「……聞くだけ、聞いて欲しい、です」
ぽつりと呟いてはみたものの、どうせばっさりと「嫌だ」といって切り捨てられるのでは、と春太は覚悟していた。
「わかった」
「ですよね、そんな都合よく聞いてくれるわけ……」
え。嘘、本当?
勢いよく顔を上げた春太の目には、アズリアの呆れたような表情が映った。
しまった。そう思った彼は慌てて取り繕うとするものの、彼女を前にして通じるような言い訳も思い浮かばず、素直に「ごめんなさい」と謝ることにした。
「……あのね、確かに初対面であんなに冷たくしたのは酷いなって私も思うよ。だからこんな風な反応をされることも予想がついたし、自業自得だから、そこは責めないけどさ。でも、私だって人の心を少なからず持ってるし、聞いて欲しいことがあれば聞いてあげるよ。まあ、力にはなれないけどね」
「アズリア、さん……」
「あぁもう! そんな情けない顔しないでよ。ほら、話して?」
初対面のときの瞳の冷たさが嘘だったかのように、今のアズリアは信じられないぐらい優しかった。
そのギャップを見て、あぁ、自分は本当に異世界に来たんだということを強く実感してしまった春太は、どうしようもないぐらい泣きそうになって目を潤ませた。
そんな彼の顔を見てどうしたものかと困り果てたアズリアは、不器用ながらも励ますように彼の頭を撫でた。
その瞬間、春太の涙腺が決壊した。
涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらも、少しずつ自分の身の上を春太は語った。
自分が今までいた世界のこと。
いつもどおりの日々を過ごしていたこと。
オンラインゲームをしようとして、気づいたら目の前が真っ白になって、あんなところへ落ちたこと。
自分がこれからどうなるのかという不安や、元の世界に帰れるかどうかすらもわからないということへの不安。
話し出したら切りがない。
次第には愚痴になっていき、いつまでも長くなりそうな話を聞きながら、アズリアは心の中で同情をしていた。
自分は今こうして、転生をしたおかげでアズリアという立場がある。
けれど、もし自分が彼と同じように突然異世界へ放り出されたら、どうだろうか。
今まで当たり前にあったものが全て失ったのだ。友人や、家族から全て。誰も自分のことを知る者がいない異世界で、元の世界のことを忘れられるだろうか。
よくよく考えたら、この男がとてつもない災難に見舞われているような気がしてならない。
なんだか可哀想だと思ったアズリアは、ついつい春太の愚痴のような話を聞いてしまっていた。
この彼女の中途半端な優しさが、まさか、あんな結果に繋がってしまうだなんて。
誰が予想できただろうか。
きっと、誰も予想できなかったに違いない。
春太は情けない醜態を見せながらも、それでも自分の話を親身になって聞いてくれているアズリアに、これまでにないほど胸をときめかせていた。
何故なら彼は、しがない男子高校生。彼女いない歴を自分の年齢とイコールで結べてしまう彼は、女子と話したことなんて人生で数えるほどしかないのだ。
そんな中で、村一番の美少女と密かに謳われているアズリアに、こうも親切にされてしまってはときめかないわけがない。
初対面のときの冷たい反応と、今の優しさのギャップも、おそらくそれに拍車をかけていることだろう。
彼女と一緒にいれるのなら、異世界での生活も悪くない。
そう思い始めている自分がいることに春太は気づいていた。
それほどまでに、彼はアズリアに絶対的とも言える信頼を寄せていたのだ。
そんなことなど露知らず。
春太の境遇を哀れむ彼女は相手を傷つけないよう、いかに相手を宥めさせるかを考えていた。
そうして、たどたどしく言葉を選ぶアズリアの優しさに、春太はさらにときめいていることを彼女は知る由もなかった。
三人称って難しい!
何これ凄く難しい……。
挫けないように細々と頑張りたいと思います、まる。




