村人Aの反乱
ようこそ、旅の方。魔王城は北にあります。
私はこの言葉を、三十年間言い続けている。
雨の日も、雪の日も、ぎっくり腰で背中が伸びない日も。勇者が村にやって来たら、北門の脇に立ち、笑顔でそう告げる。それが私の仕事だ。
王国が勇者を支える仕組みを作ったのは、ずっと昔のことらしい。勇者は魔物と戦うだけでも大変だから、道案内や宿の手配などは各地の住民が受け持つ。国が仕事を割りふり、役目を示す銀の札を配ると、勇者が近づいたときに決められた言葉が口から出るようになる。
便利な仕組みだと、初めは私も思った。
役目を間違えずに済むし、勇者だって必要な情報を迷わず手に入れられる。私の村は魔王城へ向かう街道の入り口にあるため、私が教えるのは城の方角だ。ほかのことは、次の村の誰かが教えてくれる。
ところが、長く続けていると一つ困ることがある。
勇者が私のことを、誰も覚えてくれないのだ。
まあ、仕方がない。胸元の銀札には『村人A』としか書かれていないし、勇者が聞くのは道のことばかりである。
私にはエドという名前がある。妻はミナ、娘はリタ。今年で五十三歳になり、釣りが趣味で、魚を焼くのが少し下手だ。妻に言わせると、魚の形をした炭を作る才能があるらしい。
そんな事情を、勇者の皆さんはもちろん知らない。
この間など、若い勇者が仲間に向かってこう言った。
「見ろよ。あの村人、三十年前の勇者の日記にも出てくるらしいぞ。全然変わってないんだな」
変わっている。腰と膝が、特に変わっている。
言い返したかったが、銀札が熱くなり、いつもの言葉が先に出てしまった。
「ようこそ、旅の方。魔王城は北にあります」
「知ってるよ、おじさん。さっき聞いた」
ならなぜ二回も話しかけるのか。そう思いながら、私は今日も北を指さした。
反乱のきっかけは、ある春の日にやって来た、小さな勇者だった。
小さいといっても子どもではない。私の娘と同じくらいの年だろう。剣を腰に下げ、革の鎧を着ていたが、背負った荷物が大きすぎて、歩くたびに本人が揺れていた。
「すみません。ここが、北の街道へ続く村ですか?」
銀札が温かくなった。
「ようこそ、旅の方。魔王城は北にあります」
「あ、よかった。合っていましたね。私、ニーナといいます。今日、王都から来たばかりで」
私は北を指した。
「ようこそ、旅の方。魔王城は北にあります」
「はい、それは今聞きました。あの、ここのお水は飲めますか? 革袋が空になってしまって」
「ようこそ、旅の方。魔王城は北にあります」
「……北にはお水があるんですか?」
私は北を指した。
そこにあるのは、三日前の雨で橋が流された川だ。今すぐ北へ向かわせたら、この勇者は少なくとも靴を一足だめにするだろう。
何とか伝えたかったが、勇者を前にすると、役目の言葉以外はのどの奥に引っかかって出てこない。これは銀札にかけられた魔法のせいだ。勇者への案内を正確にするため、担当者の勝手なおしゃべりを防ぐ仕組みになっている。
長いあいだ不便を感じなかったのは、勇者が皆、私に余計な質問をしなかったからだ。
ニーナはしばらく考えたあと、私の背後にある井戸を見つけた。
「あそこなら、飲み水をもらえそうですね。ありがとうございます!」
私は何も教えていない。むしろ邪魔をした。
そう思った瞬間、胸の銀札が急に重く感じられた。
「あ、最後に一つだけ。おじさんのお名前は?」
「ようこそ、旅の方。魔王城は北にあります」
ニーナは目を丸くした。
「お名前も北にあるんですか?」
思わず吹き出しかけた。その拍子に銀札の留め具が外れ、地面に落ちた。
銀の札が石畳に当たって、いやに大きな音を立てる。
「エドだ!」
気づけば私は叫んでいた。
ニーナはびっくりして身を引いた。私もびっくりした。三十年ぶりに、勇者の前で自分の名前を口にしたのである。
「私の名前はエドだ。井戸の水は飲めるが、北の橋は流されている。そこを渡るつもりなら、東の道へ回りなさい。あと、荷物が多すぎる。まず宿を探したほうがいい」
「は、はい」
「それから、もう一つ。私のことは『村人A』じゃなくて、エドと呼んでほしい」
言い終わると、驚くほどすっきりした。
その代わり、落ちた銀札が赤く光り始めた。
『役目違反を確認。担当者は速やかに所定の位置へ戻ること』
小さな字が札の表面に浮かび上がる。これを無視すれば、王都から役人がやって来る。
私はしばらく札を見つめ、そっと拾い上げた。
「悪いが、今日はもう閉店だ」
北門の脇に立てかけてあった案内板を裏返し、私は家へ帰った。
「それで、勇者様に名前を聞かれて、仕事をやめて帰ってきたの?」
妻のミナは、夕食の豆のスープをよそいながら尋ねた。
「仕事をやめたんじゃない。少し休んだだけだ」
「銀札まで外して?」
「たまたま落ちたんだ」
「そのあと自分で拾って、また外したんでしょう」
「……よく知ってるな」
「向かいの八百屋さんが見てたもの。あんた、ずいぶん大きな声で名前を名乗ったそうじゃない」
私は耳まで熱くなった。
ミナは笑いながらパンをちぎった。若いころ、私が北門の案内役に決まったとき、いちばん喜んでくれたのは彼女だった。王国から手当が出るし、危険な魔物と戦うこともない。少し退屈でも、家族を養うにはありがたい仕事だった。
ただ、最近は釣りにも行けていない。
去年、娘のリタが大きな湖に連れていってくれるという手紙をくれたが、勇者がいつ通るか分からないので断った。リタは「次の休みでいいよ」と書いてくれたものの、その次の休みも決まらないままだった。
「ねえ、エド。仕事を変えたいのなら、変えていいのよ」
「五十三にもなって、そんな簡単に言うな」
「簡単じゃないから、三十年も言わなかったんでしょう」
ミナはそれ以上何も言わず、スープを私の前に置いた。
確かに、ずっと言わずにいた。
娘の手紙を机にしまったことも、勇者の顔を見るたびに少し疲れることも、誰かに話してよかったのかもしれない。
翌朝、王都の役人が来た。
思ったより早かった。
王国勇者支援局の監督官は、細身の若い男だった。
彼は私の店先に立ち、立派な書類かばんから薄い紙を取り出した。
「村人Aさん。昨日、担当の勇者に定められた情報以外を伝えましたね」
「エドです」
「はい?」
「私の名前はエドです」
「職務上は村人Aで登録されていますので」
「では、職務上じゃないときは、エドと呼んでください」
監督官は少し困った顔になった。
「……エドさん。お気持ちは分かりますが、勇者支援は王国の大切な仕組みです。皆さんが勝手に役目を変えると、勇者様が困ってしまいます」
「北の橋が流されたのを教えられないほうが、困ると思いますが」
「それは橋梁管理係の担当です」
「その係はどこにいるんです?」
「次の村です」
「橋を渡ってから?」
「……書類上は、そうなっています」
監督官は紙を裏返した。何かいい説明が書いていないか探しているらしい。
話を聞きつけたのか、向かいの宿屋から女主人のフィーナが出てきた。
「ついでに聞いてもいいかい。うちの宿、勇者様には無料って決まりになってるけど、何人泊まっても同じ手当なのかね」
「宿屋Bさん、それは以前ご説明したはずですが」
「私はフィーナだよ。今朝なんて、勇者の一行が八人で来たんだ。夕食のおかわりまでして、宿帳には全員『勇者の仲間』と書いていった」
「勇者の仲間なら、規則上は支援対象です」
「じゃあ、私の息子が作ったパン代も支援しておくれ。あの子、昨日からずっと粉をこねてるんだよ」
監督官の眉がぴくりと動いた。
そこへ、宝箱の補充係をしているドランまでやって来た。背中には大きな箱を背負っている。
「俺からも一つ。街道の宝箱に入れた薬草、昨日だけで十束なくなったぞ。拾っていった勇者が、『これは自分たちの努力で手に入れたものだ』って言ってたが、あれを山で摘んだのは俺だ」
「宝箱の中身は、勇者の冒険を助けるために置かれています」
「知ってる。だけど、一束くらい『ありがとう』があってもよくないかね」
監督官は紙をもう一枚取り出した。
私は初めて知った。この村には、同じようなことを言いたかった人が、ずいぶんいたのだ。
もっとも、三人で集まって話しているだけなら、まだ反乱とは呼ばれなかっただろう。
問題は、通りかかったニーナがその会話を聞いてしまったことだ。
「あの、昨日はありがとうございました。エドさん」
彼女は新しい水袋を下げ、荷物も少し減らしていた。
「橋のこと、宿屋で教えてもらいました。知らずに進んでいたら、大変なことになるところでした」
「勇者様!」
監督官の顔がぱっと明るくなる。
「こちらは支援局の監督官です。何かご不便はございませんでしたか?」
「いろいろ助けてもらいました。ただ、宿屋の方が大変そうだったので、お代を払いたいんです。でも『規則なので受け取れない』と言われてしまって」
「お気持ちだけで十分です。支援者には国から手当が支払われますから」
「そうなんですね。でも、パンをおいしく作ってくれた人に、直接お礼は言いたいです」
フィーナが笑った。
「それなら、うちの息子に言ってやって。昨日の夜、ずいぶん張り切って焼いてたから」
監督官は、何かおかしなものを見るようにニーナを見た。
「勇者様。支援者の名前は知らなくても、旅に支障はありませんよ」
「でも、知っていたほうが楽しいと思います」
ニーナは不思議そうに答えた。
その一言で、ドランが急に元気になった。
「そうだそうだ。俺の名前はドランだ! 薬草を詰めるのが趣味なんじゃない。山歩きが好きで、ついでに摘んでるんだ」
「おい、誰もそんなこと聞いてないよ」とフィーナが笑った。
「聞いてもらえるうちに話しておきたいんだよ。三十年分あるからな!」
役人はとうとう、持ってきた書類を全部落とした。
それからの二日は、ちょっとした騒ぎになった。
宿屋のフィーナは、勇者向けの食事を一人前ずつ出すことにした。おかわりが欲しい人には、ちゃんと作る代わりに先に言ってもらう。宝箱のドランは、補充する曜日を決め、箱のふたに『薬草は必要な分だけどうぞ』と書いた。
私は北門に戻ったが、胸には銀札をつけなかった。
代わりに置いたのは、自分で書いた木の看板である。
『道案内 エド 朝九時から夕方四時まで。橋の様子も聞いてください』
すると、不思議なことが起きた。
前より道を聞く人が増えたのだ。
勇者以外の商人や旅人まで、私に話しかけるようになった。北の街道へ行きたい者もいれば、南の港へ急ぐ者もいる。遠回りでも安全な道を探している親子には、休める場所も教えた。
銀札をつけていたころは、立っていれば勝手に言葉が出た。今は相手の話を聞いて考えなければならない。正直、少し面倒である。
しかし、案内を終えたあと、「助かったよ、エドさん」と言われると、不思議と疲れが軽くなった。
そんなある日、ニーナが北門へ駆け込んできた。
「エドさん! ちょっと大変です!」
彼女の後ろには、同じくらい若い仲間が二人いた。三人とも泥だらけで、背中には薬草の束がのぞいている。
「どうした。橋なら東へ回るんだぞ」
「それは分かってます。でも、東の道で大きな魔物に追いかけられたんです。街道に近づいてきていて、このままだと村の人も危ないかもしれません」
北の橋が壊れたせいで、魔物も普段とは違う道を通っていたらしい。
私はすぐにドランを呼びに走った。山を歩き回っている彼なら、獣の通り道を知っている。
「西の小さな谷なら回り込める。でも、道が分かりにくいぞ」とドランが言った。
「私が案内する。川べりの古い道なら知っているからな」
「えっ、エドさんも来るんですか?」
ニーナが目を丸くする。
「お前さんたちに剣は任せる。私は道を知っているだけだ」
「それが一番助かります!」
言われて、少し照れくさかった。
谷へ向かう途中、ドランは何度も立ち止まって足跡を調べた。フィーナは出発前に人数分のパンを持たせてくれた。村の若者たちも、魔物を村へ近づけないよう、離れた場所で見張りをしていた。
ようやく魔物を谷の奥へ追い込み、ニーナたちが追い払ったころには、日が傾いていた。
私たちが疲れて村へ戻ると、監督官が北門で待っていた。
「エドさん。あなたは案内役でしょう。魔物との戦いに加わるなど、規則にありません」
「魔物とは戦っていません。道を教えただけです」
「勇者の旅には、決まった進め方があるんです。勝手な行動が増えると、報告書が大変なことになります」
「それは、何ともお気の毒で」
「他人事だと思って!」
監督官はしばらく怒っていたが、ふと私たちの泥だらけの靴に目を落とした。
彼もこの数日、王都との連絡に追われていたのだろう。目の下には濃い影ができ、上着の袖にはインクがついている。
「……もう、書類が二十七枚も増えたんですよ」
「それは大変ですね。夕飯は食べましたか?」
「まだです。宿の手配もできていなくて」
「じゃあ、まずフィーナの宿へ行ったらどうです。明日の話は、明日しましょう」
監督官は反論しかけ、やめた。
その横でニーナが、泥だらけの顔で真面目にうなずいていた。
「ちゃんと寝ないと、いい判断もできませんよ。私もそう言われました」
「……勇者様にまで言われるとは」
監督官は、とうとう笑った。
あれからしばらくして、王都から正式な通知が届いた。
銀札の仕組みはすぐにはなくならないという。役目が決まっていたほうが安心できる人もいるし、実際、手助けが必要な勇者もたくさんいる。私だって、若いころは決められた言葉に何度も救われた。
ただし、案内役が現地の状況に合わせて話せること、休みを申請できること、希望すれば担当を変更できることが、新しい規則に加わった。ほかの仕事についても、各地から意見を集めるそうだ。
少しずつ変えていくらしい。役所の仕事というのは、どうにも時間がかかる。
通知の最後には、担当者の名前を書く欄ができていた。
私はそこに、久しぶりに自分の名前を書いた。
エド。
たった三文字なのに、書き慣れた仕事の記録より、よほど慎重に筆を動かしてしまった。
その次の週、私はようやく休みを取った。
娘のリタが約束していた湖へ連れていってくれることになったのだ。釣り竿を用意していると、妻が「魚は私が焼くからね」と念を押した。
「そんなに下手かな、私の焼き方は」
「魚に聞いてみたら?」
私は反論できず、釣り道具をかばんに詰めた。
出かける朝、北門の前でニーナに会った。
魔王城まではまだ遠いらしいが、途中の村で道具を整えてから、もう一度旅に出るという。彼女は以前より少しだけたくましい顔になっていた。
「エドさん、お出かけですか?」
「ああ。今日は休みをもらってね。娘と釣りに行くんだ」
「いいですね。あの、帰ってきたら、また道を教えてもらえますか?」
「もちろん。急ぎでなければ、来週にしてもらえると助かる」
「分かりました。じゃあ、来週また来ます」
ニーナは手を振り、街道のほうへ歩いていった。
私はその背中を見送ったあと、北門の看板を裏返した。
『本日休業。案内は明日から』
昔なら、勇者を見送る私の頭には、魔王城のことしかなかっただろう。
けれど今日は、湖の水が冷たいかどうかや、リタが昔のように大きな声で笑うだろうかということのほうが気になった。
家の前では、ミナとリタがもう荷物を積み終えていた。
「お父さん、遅い! 魚が逃げちゃうよ!」
「今行くよ。ちょっと看板を直していたんだ」
「また仕事? 今日は休みだって言ったのに」
「もう終わったさ」
私は荷車に乗り込み、娘の隣に座った。
湖は村から南へ半日ほどの場所にある。昔からよく知っている道だが、誰かに案内を頼まれたことはない。
車輪がゆっくり動き出すと、北門が少しずつ遠ざかっていった。
「それで、お父さん。今日はどっちに行くの?」
「南だよ」
「うん、それは知ってる。湖までは、どんな道?」
私は少し考えた。
あの銀札をつけていたころなら、答えはきっと一つしかなかった。
けれど今日は、途中に焼き菓子を売る店があることも、丘の向こうに花が咲き始めていることも知っている。昔、ミナと初めて並んで歩いた坂道のことだって話せる。
「そうだな。まず、森の手前で寄り道をしようか」
リタは笑って、もっと詳しく教えてとせがんだ。
私は久しぶりに、道のことをたくさん話した。




