Day 7. うねり
「ノア」
声が聞こえて、ノアは目を開けた。
またいつの間にか眠っていたらしい。窓の外には、すっかり高く昇った太陽の光が差し込んでいる。
ベッドに視線を向ける。
ルカが、目を開けていた。
「ルカ……! 具合は?」
ノアは慌てて身を乗り出し、額に手を当てる。
まだ少し熱い。
「だいぶいい……結局足止めして、すまん」
ルカは申し訳なさそうに目を細めた。
ノアは首を振る。
額から頬に手を滑らせて、体温を確かめるように触れる。自分の手のひらで、少しでも冷やすみたいに。
ルカはゆるゆると手を動かし、その手を握った。
ぎゅっと、意外と強く。
ノアは、一瞬だけ躊躇い、それからその力にそっと応えるように、指を絡めて握り返した。
「まだちょっと熱がある。もう少し寝ておけ」
「あぁ」
ルカは小さく頷き、また目を閉じる。
ルカの手から力が抜けていくまで、ノアはその手を握ったまま動かなかった。
ルカが再び眠りについた頃、コンコン、と小さくノックする音がして、扉が開いた。
ゾランが入ってくる。
ルカの様子をちらりと見てから、ノアに視線を移した。
「容体はどうだ」
「だいぶ良さそうだ。さっき一度目を覚ました」
「そうか」
ゾランは短く頷くと、腕を組んだ。
「右隣の建物が俺の家だ。食事を用意してる。……お前、ろくに食ってねぇだろ。シャワーも使っていい。少しゆっくりしてこい」
ノアは瞬きをする。
(……そういえば)
ここ丸一日、まともに食事をしていなかったことを思い出す。
ちらりとルカを見る。
その様子を見て、ゾランが苦笑する。
「こいつの様子はたまに見ておく。それより、洗濯機も使っていいから、この血まみれの服、なんとかしてやれ」
そう言って、ルカのブルゾンをノアの胸に押しつけた。
「……悪い、助かる」
ノアは小さく礼を言い、ジャケットと一緒に抱え込む。深く眠るルカを少し見つめてから、静かに部屋から出た。
ゾランの家は、地下の住居にそっくりな造りだった。
広めのワンルームに、必要最低限の家具。端のほうに備え付けられたキッチンには、小さなロボットがいて、テーブルの上に食事を並べている。
調理台、食器洗浄機、洗濯機。どれも地下で一般的に使われているようなものだった。
(なんか、懐かしい気がする)
ノアは、少しだけ肩の力を抜いた。
言われた通りシャワーを借りる。熱い湯が頭から足先まで流れていくと、張りつめていたものが少しずつ剥がれ落ちていくようだった。
洗濯機に服を放り込み、スイッチを押す。
慣れ親しんだ起動音が、静かな部屋に響いた。
シャワーから出ると、テーブルには食事がきれいに並べられていた。食事だけは、地下製のパック食ではなく、地上で採れたものを使った料理だった。
湯気と、香ばしい匂い。温かい料理と懐かしい雰囲気に、気が緩む。
(ルカ、無事でよかった)
テーブルに突っ伏すように腕を投げ出しながら、ノアはさっき握られた手の感触を思い出す。
ぐ、と手を握る。
(……早く戻ろう)
そう自分に言い聞かせるように心の中で呟き、ノアは背筋を伸ばした。
食器を軽く片づけ、ふと棚に目がいく。
上には、ホロ写真が一枚。
ゾランではないが、どこか雰囲気の似た若い男が写っていた。下には本がズラリと並んでいる。どれも地下で人気のばかり。しかも、最新のものもある。
ノアは眉を寄せる。
(新しい本まで)
ノアは一瞬だけ視線を留めてから、すぐに目を逸らした。
(あとでもう一度、地下のこと聞いてみるか)
洗濯が終わるまで待たず、服は後で取りに来ることにして、ノアはゾランの家を後にした。
――
ホールに戻り、ゾランを探す。
見渡してみるが、どこにも姿はなかった。
(部屋、戻るか)
そう思って奥へ足を進める。
すると、奥の廊下からテッサが歩いてくるのが見えた。
ノアは、その姿を見て思わず眉を寄せる。テッサもノアに気づき、うんざりしたように視線を上に転がした。
「何もとってないよ。ボスに頼まれたから、あいつの様子見てただけ」
「ゾランは」
「用があるって外に出た。ボスはずっとあんたたちに構ってるほど、暇じゃないの」
じろりと睨まれる。
ノアは小さく肩を上げた。
「そうか。……ルカをみててくれてありがとう、テッサ」
礼を言うと、テッサが一瞬だけ目を瞬かせる。だがすぐに、また不機嫌そうな顔に戻った。
「あんた、海行きたいんだって?」
「……あぁ」
「弟死んだのに、恋人と海目指してんの」
テッサが、わざとらしく肩をすくめて煽る。
ノアの眉がぴくりと動いた。
息を吐く。
「……そんなんじゃない」
低くそう答え、奥へ進もうとしたところで、背中に言葉が飛んできた。
「ま、死んだ人間より生きてる人間が大事よね」
声が廊下に響いた。
ノアは目を見開く。
ガツンと頭を殴られたみたいな衝撃が走る。
(ノエルと一緒に地上に来た。けど、……ここ数日、俺は何を考えてた?)
ノエルを思い返す時間が、目に見えて減っていたこと。
ルカと旅をしている自分が、ノエルのことを忘れて、笑ってしまっていたこと。
長いトンネルの中でさえ、頭の中を占めていたのはルカのことだけだったこと。
ぐるぐると、罪悪感が胸の内側を擦っていく。
ノアは踵を返し、足早にテッサの元を立ち去った。
ホールを抜ける手前で、ゾランとすれ違う。
「もう帰ったのか──」
声が聞こえたが、ノアは立ち止まらず、そのまま外へ出ていく。
*
ゾランは首を傾げ、視線を前へ向けた。そこには、ばつの悪そうな顔をしたテッサが立っている。
ゾランは、わずかに眉を顰める。
「テッサ……何をした」
「何もしてない。本当のこと言っただけだよ」
テッサは不貞腐れたように言う。
「ムカつくんだ。あいつ」
唇をかみ、続ける。
「守ってくれるような、そんなやつがいるのに。一人じゃないのに。悲しみでいっぱいです、みたいな顔してさ」
ゾランは大きくため息をつく。
「ノアは弟を失ったばかりだぞ」
「でもさ! じゃあなんで海に行くんだよ!」
テッサが声を荒げる。
ゾランは少しだけ目を細めた。
「……テッサ。狭い地下ではな、死んだ人間を土に埋めて墓を立てるなんて出来ねぇんだ」
テッサは首を傾げ、眉をひそめる。
「ノアが持ってる荷物の中に、弟の遺灰が入ってる。骨じゃなくて、灰だ」
テッサが、はっと目を見開いた。
「それを、海に持ってってやりたい。そういう目的だ」
ゾランは腕を組み、視線を落とす。
テッサは俯いた。
「……でもあいつは、一人じゃないじゃん」
ぼそりと呟く。
「レイを失って悲しいのはよく分かる。だが、それをノアにぶつけるのは違うだろ」
テッサは下唇を突き出す。
「ボスは何も失ってないじゃん。離れてても、ニコはまだ生きてるじゃん」
ゾランは、静かに目を細めた。
「……そうだな」
言いながら、思う。
もしニコを失ったら、自分はテッサのように自暴自棄になるのか。ノアのように、感情が固まってしまうのか。
あるいは、もっとどうしようもない壊れ方をするのか。
ポン、とゾランはテッサの肩を軽く叩いた。
「お前は一人じゃないだろ。街の仲間もみんな、お前を気にしてる。お前が前を見ていないだけだ」
「……」
テッサは拳を握りしめたまま、俯いている。
「ノアを探してくる。あいつを見ててくれ」
そう告げて、ゾランはホールを出た。
テッサはまだ俯いたまま、指先に力を込め続けていた。
――
ノアは街をひたすら歩いていた。
人気のない外れのほうまで来て、やっと腰を下ろす。
『ま、死んだ人間より生きてる人間が大事よね』
テッサの言葉が、頭の中でぐるぐると巡る。
自分も、そうなのだろうか。
ノエルのことが、世界で一番大事なはずなのに。
――歓声に沸くスタジアムのプール。
ウェーブボード。
娯楽の少ない地下では、観客を魅了する競技が人気だった。ウェーブボードもそのひとつで、プロになれば夢のような生活が送れると言われていた。
あの日。
ノエルが出ていたのは、アマチュア大会の中で最も注目を集める大会だった。
プロチームのスカウトがずらりと並び、上空のドローンが映像を拾って、地下全体に生中継されている。
予選結果がホロに映し出される。
ランキング一位のところに――
『ノエル・アシュフォード』
その名前が出た瞬間、会場が大きく沸いていた。
決勝までの空き時間に、ノアは控室を訪ねた。
『ノエル。予選一位おめでとう』
『兄貴!! 今日やばい、調子いい』
ノエルがニカッと笑う。
ノアは少し眉をひそめた。
『今日、なんか人工プールの波、おかしくないか?』
『まあ、ちょっとうねるな。でも、それのおかげで余計に飛べてるってのもある』
『運営に──』
ノアが言いかけたところで、コンコン、と控室のドアが叩かれる。
『ノエル選手』
入ってきたのは、有名チームのスカウトだった。
ノエルが思わず背筋を伸ばす。
『我々のチームは、あなたにとても注目しています。決勝戦も頑張ってください』
スカウトはそう言って、ノエルとノアに軽く頭を下げて出ていく。
二人で顔を見合わせる。
ニヤリと笑い合った。
『やべぇ、緊張してきた』
『あんま気にするなよ』
『優勝して、兄貴と海に行くんだ俺は』
まっすぐな目だった。
『お前なら、いつも通りやれば大丈夫だ』
いつものように手を差し出す。ノエルが頷き、パチンと手を叩いた。
時間を見て、ノエルが慌ててボードを持つ。
『そろそろ行かなきゃ! 兄貴、また後でな!!』
『気をつけろよ』
背中に声をかける。
ノエルは振り向いて、親指を立ててみせた。
決勝戦でも、人工プールの波は荒れていた。
波に手こずり、本調子を出せない選手もいれば、いつもより調子良さそうな選手もいる。
ノアは最前列で、両手を固く結びながらその様子を見守っていた。
わっと、またスタジアムに歓声が湧く。ノエルのひとつ前の選手が、最高得点を更新したのだ。
『最後の一人は大注目のアシュフォード選手! これで大会の結果が決まります!』
アナウンサーが興奮気味に叫ぶ。
ノエルが出てくる。
いつも通りの、柔らかい顔。それを見て、ノアは少しだけほっとした。
ノエルはスタート位置まで泳ぎ、ボードをセットする。
開始のベルが鳴る。
波がうねり出す。
滑るように波に乗り、高く飛ぶ。空中で数回回転し、技を決めて、また着地。高難度の技に、会場から歓声が上がる。
全部で三本。
二本目も、またきれいに技を決める。
ノアは固唾を飲んで見守る。
三本目。波がさっきよりも大きくうねりだした。
ノアは思わず立ち上がる。
(無茶すんなよ)
拳を強く握りしめる。
ノエルが波に乗り、跳躍する瞬間、波が大きく右にうねった。
跳躍と波のうねりが変に噛み合い、ノエルの身体が大きく横へ弾き飛ばされる。
アナウンサーと観客が同時に叫んだ。
『ノエル!!』
ノアが叫ぶ中、ノエルは高い位置から、水のないコンクリート部分へ頭から落ちていった。
ノアはスタジアムへ飛び出す。
係員に止められるのを振り払い、ノエルのもとへ駆け寄ろうとする。
目の前。頭から真っ赤な血を流しながら、ノエルが横たわっているのが見えた。
『……!! ノエル!!』
叫んだところで係員たちが割り込んで視界を塞ぎ、ノアは引きずり戻される。
『弟なんだ!!』
必死に叫ぶ。誰にも届かない。
騒然とするスタジアムの中。
ノエルがどこかへ運ばれていくのを、腕を掴まれたまま、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
地下では、病院に付き添うことすらできない。
しばらくして医者から連絡が入り、即死だったと告げられた。
実感のないまま、会うことも、泣くこともできないまま、灰だけが送られてくる。
目の裏に浮かぶのは、最後に親指を立てて笑ったノエルの姿。
控え室で、ちゃんと止めていれば。
波がおかしいって分かってたのに。
もう会えないことも、もう話せないことも信じられないまま、後悔と共にノアの心はそこで固まってしまった。
その後、ユーリに地上への道の話を聞いて、
『波を乗りこなせる男は、小さい世界じゃ満足がいかないってか』
ノエルにそう告げたことを思い出す。
境界線さえなければ、ノエルは。
憧れていた、広い海に連れて行かねば。
せめて天国では自由に、波に乗れるように。
その思いだけを強く抱いて、シャフトを登り出した――
はずだったのに。
ノアはポケットから革袋を取り出す。
シャフトの向こうには、ルカがいた。
初めて見る景色や、ルカとの旅に夢中になってしまっていた。
ノエルを、心の中に置き去りにして。
『さっさとスターになって、俺を楽させてくれ』
『優勝したら、考えてやる』
自分が弟に言った言葉が蘇る。
(こんなことを言ったから、ノエルは大会で無茶をしたんだ)
(なのに俺は、のうのうと――)
アッシュ・ベアに出くわしたあのとき。
本当にノエルの元へ行けるのであれば、あのまま行ってしまった方が、良かったのかもしれない。
『ノア!!』
ルカが自分を呼んだ声が、頭の中で反響する。
ノアは頭を振って、膝を抱え込んだ。
――
トン、と肩を叩かれて、ふと目を開ける。
気づけば、もう辺りは真っ暗だ。
顔を上げると、ゾランがいた。金色の髪だけが、月の光を弾いてきらりと光っている。
「ずいぶん探したぞ」
呆れたように言われる。
「悪い」
「テッサに何言われたか知らねぇが……ひでぇツラしてるな。ほら、冷えるから行くぞ」
手を差し出される。
「……なんで、お前はそんなによくしてくれる」
差し出された手を取りながら、ノアはぼそりと呟いた。
ゾランは少しだけ上を見て考え、それから口角を上げる。
「……ちょっとついてこい」
大股で歩き出す。ノアは怪訝な顔をしながらも、その背中を追った。
外れから、さらに奥へ。
あたりに街灯は一本もなくなり、真っ暗な道が続く。フェンスの外から、アッシュ・ウルフの遠吠えが聞こえた。
ゾランは暗闇にも慣れた足取りで、ためらいなく進んでいく。
やがて、真っ黒な丸い穴がぽっかりと口を開けている場所に出た。
直径三メートルほど。ノアが登ってきたシャフトと同じくらいの大きさだ。上部は鉄格子で塞がれている。
ゾランはその穴の横に腰を下ろすと、ポケットから何かを取り出した。
ノアは、それを見て目を見開く。
「それは……」
「そう。ホロ・メッセンジャーだ」
地下で広く普及している通信端末。
ゾランはそれを開き、何かを操作する。ビビ、と受信音が鳴ると、ニヤリと笑った。
「ここでしか、繋がらなくてな」
画面に表示されたメッセージを、ノアへ向けて差し出す。
『それ、ノエル・アッシュフォードだろ。有名なアマチュアのウェーブボードの選手。俺も大会見てた。悲しい事件だったぜ。プールが変じゃなかったら、あいつが優勝してたね』
画面の端には、「Nico」の名前が表示されていた。
ノアは息を呑む。
「……どういうことだ」
「俺にも、弟がいてな」
ゾランは端末を操作しながら言う。
「ニコ。今は地下にいる」
ノアは、ゾランの家の棚の上にあったホロ写真を思い出した。
「なんで、地下に?」
「俺もニコも、この街で生まれた。昨日も言った通り、ひでぇ街でな。兄弟ふたりでこの辺りを仕切って、いろいろ仕事を回したり、時には力づくで従わせたりしながら、この辺をなんとか建て直してきたんだ」
ゾランは端末をぴ、と閉じ、ポケットにしまう。
「だが、地上に残された少ない物資じゃ、どうしても街のみんなを食わせていけなくなっていった」
「……」
「俺は街を離れられねぇ。そんな時に、ニコが地下に潜り込む算段を思いついてな。もともと器用なやつだ。身分を偽って、四年ほど前から中枢部に潜り込んでる」
ニヤリと笑う。
「中枢部って……政府と軍事関係者しかいないところだぞ」
ノアがゾランを見る。
「軍事関係者御用達の調達屋をやってるらしい」
ゾランはあごで、足元の穴を指した。
「ここの穴から、ドローンで物資のやり取りをしてる。地上のものは、地下にとっては結構貴重なものが多いからな。物々交換ってやつだ」
「だから、ここにこんなに地下のものがあるのか……」
「そういうことだ」
ゾランは立ち上がる。
「会えねぇけどな。俺はあいつのために、あいつは俺のために生きてる」
はっとして、ノアはゾランを見る。
「弟を想う気持ちは、よく分かる」
ゾランは静かに告げた。
真っ暗だった周りの景色が、少し明るくなり始める。
フェンスの向こう。草原の地平線から、光がじわじわと滲むように漏れ出していた。
昨日までのノアなら、その景色に目を奪われていただろう。
だが今は。
ノアはその光から目を逸らすように、俯いた。




