Day 4. 森の中
まぶたの裏で、光が揺れた。
ルカはゆっくりと目を開ける。洞穴の天井に反射した朝日が、チラチラと揺れていた。
ふと視線を下ろすと、視界いっぱいにノアの寝顔があった。無防備な吐息がかかる距離。喉の奥がきゅっと締まり、心臓が不躾に跳ねた。
少しの間、その穏やかな寝顔を見つめる。
昨夜、焚き火の光の中で見た、痛みに満ちた横顔とは違う。
それに、ほっとする。
起こさないようにそっと寝袋を抜け出した。
洞窟の外は嘘みたいに晴れていた。木々の隙間から覗く空には、雲ひとつない。
ルカはあくびを噛み殺しながら、外にソーラーパネルを並べ始めた。金属の板を広げ、角度を調整するたび、朝の光がきらりと光を返す。
並べ終わる頃、背後からごそごそと音がした。
「おはよ」
ルカは物音に声を掛けた。
「……おはよう。寝過ぎた」
寝ぼけたような掠れた声に、笑みがこぼれる。
「はは。昨日は散々だったからな」
ノアが寝袋を畳み、洞穴から出てきた。並べてある金属に視線を落とす。
「ソーラーパネルか」
「ああ。この天気と日差しなら、昼までにはそこそこ溜まるかもな」
「昨日の雨が信じられないくらい、晴れてるな」
ノアが目を細めて、景色を見回した。ルカも隣に立って川を見下ろす。
昨日は濁流だった川が、今は青く光りながらさらさらと流れているのが、遠くに見えた。
真っ黒な影みたいだった木々も、雨粒を含んで青緑に輝いていた。風が吹くたび、枝から水滴がばらばらと落ち、小さな雨みたいに降り注ぐ。
「川もいい感じだし、魚でもとるか!」
ルカはぱっと立ち上がり、降ろした荷物をがさごそ漁り始める。
「魚、捕まえられるのか?」
ノアが首を傾げる。
「なかなか手じゃ捕まんねぇよ」
そういって荷物の中から、木の棒と紐を二本ずつ取り出した。紐の先には、金属片を曲げて作ったような針がついている。
「釣りで捕んの! 教えてやる」
一本を、ノアのほうに差し出す。
「釣り」
ノアは手のひらに乗った棒を、まじまじと見つめた。
*
川は水量こそ多いが、穏やかに流れていた。
水面には、高く伸びた木々が映り込んでいる。揺れる葉の影に隠れるように、魚が時おり光を反射しながら泳ぐ。
「そこ、立ってみ」
ルカに促され、ノアは川岸の少し高くなった岩の上に立った。
言われた通りに木の棒を握ってみるが、どこをどう持てばいいのか分からない。
とりあえず、警棒のように構えてみる。
「……こうか?」
「違う違う。なんでそんな構え物騒なんだよ。敵でも殴る気か」
笑いながら、ルカが後ろに回る。
背中のすぐ後ろに、体温を感じた。ルカの腕がノアの腕の外側から伸び、手に重なる。
「ほら、ここ。この辺握れ。糸は……これくらいの長さな」
ノアの指に、ルカの指が絡むように触れた。耳のすぐそばで、声が落ちる。
「……近い」
「教えてやってんだから、我慢しろって」
お構いなしの口調のまま、ルカはノアの手を支えて、棒の角度を変えていく。先端が水面に向かって、ちょうどよくしなる位置で止まった。
「よし。あとは、そっと前に出すだけ。投げるんじゃねぇぞ。倒すだけ」
言われた通り、腕を前に倒す。
糸がするりと水面へ落ちていった。
「おお」
自分でも意外なほど、狙ったあたりに針が沈んでいく。
「お、いい感じ」
満足そうな声が、すぐ後ろから聞こえた。
ルカは少し離れた位置に移動し、同じように糸を垂らす。
二人は並んで川辺に立ち、黙って水面を眺めた。
水面には、真っ青な空が映り込む。反射が強くて、水の中はあまり見えない。
風が吹くたび、草がさわさわと揺れる。
驚くほど、静かだった。
隣のルカを見る。いつも何かしら喋っている男が、真剣な顔で水面を見つめていた。
「……こういうときは静かにできるんだな」
ノアがぼそっと言う。
ルカがむっとした顔で、こちらを向いた。
「俺だって静かにできるわ」
「いつもうるさいから、意外で」
「うるさいってなんだよ。お前が静かすぎんだよ」
ノアはくすりと笑う。ルカは少し照れくさそうに顔をしかめて、また水面へ視線を戻す。
「……地下って、魚いるのか?」
「養殖場がところどころある。食用の」
「釣りはしないのか」
「しない。養殖場に入れるのも、係員だけだ」
「もったいねぇな。楽しいのに」
言いながら、ルカはぱっと棒を引き上げる。小さな魚が、針に掛かっていた。
「よっしゃ。一匹ゲット」
ノアは眉を上げる。
「すげぇな」
「小さくて骨多いけどうまい魚だ」
そう言って、ルカは持ってきたバケツに魚を入れた。
ふいに、ノアの竿がぐん、と強く引かれる。
「……え?」
思った以上の力に、ノアの身体が前へ引きずられた。足元の石が、ぐらりと動く。
「おい、落ちるぞ!」
ルカの声が飛ぶより早く、ノアの足がずるっと滑った。
川に落ちかけたところを、腰に手を回されて抱き止められる。ルカの体重が、そのままブレーキになった。
「っ……!」
ノアの背中に、ルカの胸板の硬さがぶつかる。心臓の音が、少し跳ねた。
「あんま棒引っ張んなよ。糸切れるから」
耳元で、低い声がした。
ルカは自分の手をノアの手の上にそっと重ね、ぐい、と棒を立てる。ノアも言われるままに力を込めた。
「ちょっとずつ、こっち寄せる」
二人分の力で棒を少しずつ後ろに引くと、水面の下で何かが暴れる感触が伝わってくる。
もう少し引くと、水面の下に大きな魚の影が現れた。
「お、でけぇな。少し泳がせるか」
魚の行く方向に合わせて、ゆっくりと棒を振る。
密着したままの状態に、なぜかノアの心臓が落ち着いてくれない。
しばらく泳がせると、魚の引く力がだんだん弱まってきた。
ぱ、とルカの手と体が離れる。
「そのまま、ゆっくり引き上げてみ」
ノアは小さく頷き、慎重に引っ張り上げる。水面から出ると、魚が激しく暴れ出す。頭が出た瞬間に、一気に引き上げる。魚は水飛沫を上げながら、水面から飛び出した。ぽとりとノアの横に落ち、びちびちと跳ねる。
「……釣れた」
呆然と呟く。
「すげえじゃん!」
ルカは笑いながら魚を掴み、針を外してバケツへ放り込む。
「初めての釣りでこんな大物釣るなんて、やるな」
バケツを見せながら、にっこりと笑う。
「ルカがほとんど手伝ってくれたけどな」
ノアもそう言いつつ、自然と笑みがこぼれた。
「釣り、楽しいだろ?」
「あぁ……悪くない」
そのあともしばらく、二人は黙って釣りを続けた。小川の流れみたいに、穏やかな時間がゆっくり流れていく。
結局、その後ルカがもう一匹釣り上げ、お昼ご飯は三匹となった。
――
森の中で、小さな焚き火を起こす。
ノアは捕まえた魚を並べ、無造作にナイフを入れはじめた。
ルカが眉を上げる。
「捌けんの?」
「地下でも、魚は同じ形だからな」
ノアは苦笑しながら、手際よく腹を割き、内臓を抜いていく。迷いのないナイフさばきに、ルカは感心して目を細めた。
捌き終わったものをルカが受け取り、川まで持っていって洗う。冷たい水が、白い身の上を滑っていく。
戻ってくると、木の枝に刺して焚き火の上へ掲げた。ほどなく香ばしい匂いが森の中に立ち込める。
「でけぇの、解体できる?」
バケツには、ノアが釣り上げた大物がまだ残っていた。
ノアは肩をすくめ、無言で頭を落とすと、三枚に下ろしていく。上身、下身、中骨が、きれいに三つに分かれた。
「器用だなぁ、お前」
ルカは呟きながら、その身を木の枝に通して焚き火の上へ並べる。脂がじわじわとにじみ出て、表面がこんがりと色づいていく。
「これは、ぜってぇ、うまいやつだな」
喉を鳴らしながら、ルカが火加減を見る。
焼けた魚は、骨の一本まできれいに平らげた。
二人で洞穴へ戻ると、ルカはバイクのチェーンの最終チェックに取りかかる。
「よし。問題なさそうだな」
ソーラーパネルで充電したバッテリーをバイクに取り付ける。
ノアはその間に荷物をまとめ、昨日洗った服を回収する。日差しのおかげで、布はすっかり乾いていた。指でつまむと、まだ少しだけ太陽のぬくもりが残っている。
ルカは乾きたてのブルゾンをノアから受け取った。
袖を通し、バイクに跨る。
「じゃ、行くか」
ノアもジャケットを羽織り、後部座席に腰を下ろす。
「今日も、よろしく頼む」
バイクは、森の中の細い道を静かに走り出した。
タイヤが湿った土を踏みしめるたび、柔らかく沈むような感触が伝わってくる。
木々の隙間から差し込む光が、二人の影を前へ前へと押し出していた。
――
森の小道を、バイクはゆっくり進んでいく。
右下の方、少し離れたところに、小川がきらきらと光って見えた。
「もう少しで森も抜ける。そのあと一つ街を迂回したら、海側に出れるぞ」
荷台に手をついていたノアは、「海」という言葉に思わず身を乗り出す。
「もう、海に着くのか」
ルカの肩口を掴んで聞いた。
「海側っつっても、海が見えるのはまだまだ先なんだよ。こっちからだと山ひとつ越える必要があって」
「山……あの土が積もったやつか」
「そう、それ」
ルカは少し笑って頷く。
「てか、地図ではどの辺まで来てるんだ? ルカが送ってくれるって言ってたところまでは、あと少しか?」
「んー、まぁ、ぼちぼちだな」
「……そうか。もう少し、よろしく頼む」
自分では気づかないまま、ノアの声は少しだけ落ちていた。
「あ。水、大丈夫か? しばらく水辺ねぇけど」
横目でノアの気配を探りながら、ルカが言う。
「そうなのか。じゃあ少し足してくるかな」
ノアの返事と同時に、バイクのスピードが落ちる。
バイクを止めると、ルカは鞄を漁り、工具を取り出した。
「下に行きゃ小川があるから。ちょっとまだチェーンがガバいんだよな。今のうちに調整しとくわ」
「じゃあ、ルカの分も汲んでくる」
「サンキュー」
ルカのボトルを受け取り、ノアは小道脇の斜面を滑り降りるようにして下っていく。
下のほうでは草が生い茂り、腰の高さまで伸びていた。足元はほとんど見えない。岩も、古い木の根元も、苔に覆われている。深い緑の世界だった。
ノアは足を取られないよう、慎重に地面を踏みしめながら、キラキラと光を反射する小川へ向かう。
川辺にたどり着くと、二人分のボトルに水を入れた。
澄んだ水だったが、あとで念のため浄水タブレットを入れておこう。そう思いながら、顔を上げる。
――視界の端。
川を挟んだすぐ先に、大きな黒い影が見えた。灰色がかった毛並み。人間の倍はありそうな体躯。
見たこともない、大きな獣だった。
ノアは息を呑む。
気づかれないように、気配を消してゆっくりと後ろへ退く。
パキ、と足元で枝が割れた。
その瞬間、獣の頭がカクンと上がる。
真っ直ぐ、ノアのほうを向いた。
低い唸り声をあげ、小川をものともせず突っ切ってこちらへ向かってくる。
「……!」
ノアは身を翻し、全速力で逃げ出した。
木の枝が頬を引っかくのも構わず、小道を目指してひたすら走る。
後ろから、草をかき分ける音と、獣の荒い息づかいが迫ってきた。
途中、腰のポーチが木の枝に引っかかる。ぐん、と後ろに身体が引っ張られた。
「……っ」
引っ張っても取れない。咄嗟にナイフを抜き、ベルトごとポーチを切り離した。
木の枝にポーチがぶら下がる。
(ダメだ。置いていけない)
取り外そうと振り向くと、獣がすぐそこまで迫っていた。木の枝に皮膚が裂かれるのも気にせず、ポーチを掴む。
目線の先で獣が爪を振り上げる。
その動きが、やけにゆっくりに見えた。
(ノエルと同じところに、行けるかもしれない)
そんな考えと共に、身体の動きが一瞬止まる。
「ノア!!!」
悲鳴のような怒号が、静寂を切り裂いた。
弾かれたように我に返り、木の陰へ飛び込む。
ガリッ、と耳を裂くような音。さっきまで自分がいた空間を、獣の爪が抉り、幹に深い爪痕が刻まれる。ジャケットの肩口が少し裂けた。
次の瞬間、ガァン、と破裂するような音が響いた。獣の足元の土が弾け飛ぶ。
もう一度、破裂音。
今度は、さっきより更に近くの地面が抉れた。
獣の身体がびくりと跳ねる。踵を返し、川の奥のほうへと悲鳴じみた声を上げながら逃げ出した。
ノアは、その場にへたり込む。
「ノア! 怪我はないか!?」
ザザ、と上から草をかき分ける男。
猟銃を持ったまま、ルカが滑り降りるように駆け寄ってきた。
「あ、あぁ……助かった」
ノアは愕然としながら呟く。手に握りしめたポーチを、ぎゅっと強く握り込んだ。
(俺は……何を……)
「おい、本当に大丈夫かよ」
ルカがノアの横に屈み込む。
木漏れ日の差し込む向こう側で、逆光になったシルエットが、またノエルと重なる。
ノアは思わず視線を落とした。
「驚いただけだ。……あんなの、いないから」
絞り出すような声は、わずかに震えていた。
「あれはアッシュ・ベアだ。マジでやべぇやつ。見かけねぇからって、油断してた。一人で行かせて悪かった」
ルカはそう言いながら、ノアの腕を取って立たせる。
ノアは視線を落としたまま、ゆっくりと首を横に振る。ルカに腕を引かれるようにして、バイクへと戻った。
――
バイクは、再び森の小道を走り出す。
森を抜けるのに、そう時間はかからなかった。けれどノアは、ずっと口を閉ざしたままだ。
森の中で出会った獣の恐ろしさよりも。
自分によぎった考えに、まだ愕然としていた。
森を抜けると、視界が一気に開けた。
ゆるやかな丘が続いている。
夕陽が低く傾き、草原をオレンジ色に染めていた。
ノアは片手にポーチを握りしめたまま、目を細めてその色彩が流れていくのを眺める。
バイクは丘を越え、ゆっくりと下っていく。
静かに。けれど、確実に前へ進んでいた。
自分の弱い心を置いてけぼりにして、バイクみたいにどんどん前に進めれば良いのに。夕日と流れる景色を見て、そんなことをふと考える。
日が完全に落ちた頃、廃墟が点在する平地に出た。
崩れかけた家々が、黄色い草に埋もれるようにして並んでいる。かつては住宅街だったのかもしれない。
「あの辺、泊まれそうだな」
ルカが、一軒の大きめの廃屋を指さした。屋根は半分崩れているが、壁はまだ残っている。
バイクを止めると、ルカは大きなテントを引っ張り出した。
「屋根ねぇから、今日はこれな」
そう言って、雑に設営を始める。
ノアはまだ何か考え込むような足取りで、それでも板材や木の枝を拾い集め、焚き火の準備をした。
「寒いから、中入んな」
四角いテントの中に寝袋を並べ終え、ルカは焚き火の前に立ち尽くすノアを呼ぶ。
テントの淵に二人は並んで座った。目の前では、焚き火がパチパチと音を立てている。
ルカはノアをちらりと見て、眉を下げる。
「それ、しまわねぇの?」
ノアの手に握られたポーチを、顎で指した。
ノアは自分の手を見下ろす。ゆっくりとポーチを開け、中から小さな革袋を取り出した。
スリ、と表面を撫でる。
「これ、ノエル……弟の、遺灰なんだ」
ルカがわずかに目を見開く。
「海に連れて行ってやりたいんだ」
ノアはそれだけ言って、革袋を両手で優しく包み込んだ。
ルカは、ただ黙って耳を傾ける。
「ノエルが、小さい頃からずっと、海に行きたがってたから」
ノアはそう呟くと、うずくまり革袋を額へ当てた。
ルカは横目でノアを見る。
「……だったら」
少しだけ笑いながら言う。
「諦めないで、ちゃんと行かねぇとだろ。海」
静かに落ちた声に、焚き火のはぜる音が重なる。
ノアは俯いたまま、あぁ、と思った。
あの一瞬、動けなくなったこと。ルカには見えていたのかもしれない。
顔を上げる。ルカは少し困ったように、それでも優しく笑っていた。
その笑顔につられるように、ノアの口元にも、ごく小さな笑みが浮かぶ。
「……そうだな」
頷き、手の中の小さな袋を見つめる。
(約束通り、連れて行く。ちゃんと、諦めないで)
心の中で、決意のように静かに言葉を刻んだ。
*
ルカは、その横顔をじっと見つめていた。
森の中。
アッシュ・ベアに追いかけられるノアが見えた。
焦って猟銃を取り出して、撃とうとした時――
ノアが何もかも諦めて動かなくなった気がした。
(声が届いて良かった)
焚き火の赤い光に照らされたノアの表情は、喪失の痛みだけじゃない何かを抱えているように見える。
ノアはこの先、心から笑える日が来るのだろうか。
もしそんな日が来るなら、その笑顔を見て見たい。欲を言えば、その笑顔の理由が、自分であったらいい。
そんなことをぼんやりと思いながら、ルカは視線を空へと上げた。
(もうあんな風に諦めないように。海まで、無事に……)
胸の内で、ひとりごとのようにそう呟く。
焚き火の火が、その決意に小さくうなずいたように揺れた。




