Day 3. 過酷な世界
三日目の朝は、曇り空で始まった。
昨日とは打って変わって、分厚い黒い雲が広い空を覆っている。ところどころ雲間から覗く空は、まだかすかに青い。
バイクは二人を乗せて、順調にハイウェイを走っていた。
眼前に広がるハイウェイ。
左右には瓦礫と、奥が見えないほど広大な荒野。平べったい円を積み上げたような岩が点在し、サボテンのような植物が、かつての建物よりも高く伸びている。
「今日、天気ヤバいかもな」
ちらりと空を見上げて、ルカが言う。
「空にある黒いモヤ、初日のやつに似てる」
ノアは後ろの荷台を掴み、身体ごと上を向いた。
「雲な」
ルカが笑いながら教える。
黒く分厚い雲の中で、時おり光が瞬いていた。
「……雲、なんか、光ってる」
「マジか」
ルカの声色が、少しだけ焦りを帯びる。
「雷だとしたらまずいな。せめて森の方まで行きてぇけど」
アクセルを握る手に力がこもる。ぐん、とスピードが上がった。ノアは空を見上げる体勢をやめ、ルカのブルゾンの裾を掴み直す。
──と、すぐにスピードが落ちる。
「うーわ。崩れてら」
「?」
ノアがルカの肩越しに前を見る。
道沿いの大きな建物が崩れ落ち、瓦礫が広い車線を丸ごと塞いでいた。更に地面にはひび割れと陥没の跡。亀裂は大きく、ハイウェイの奥の方まで続いている。
「無理やり通ったら、道ごと抜けそうだな……」
ルカが頬をかきながら、左右を見渡す。
左右に脇道はない。あるのは、道の悪い土の荒地だけ。
生命力の強い雑草が、ぽつぽつと生えている。
「ちょっとこっち通るか。揺れるから、しっかり掴まれよ」
言いざま、ルカの手が伸びてきた。裾を握っていたノアの手首を強引に掴み、自身の腰へと引き寄せる。
「あ、あぁ」
ノアは躊躇いながらも、観念してもう片方の手もそこへ回す。
ルカは大きくハンドルを右に切り、そのまま荒地へ突っ込んでいった。
ゴリゴリ、と石や雑草を踏む音。
砂埃を上げながら、バイクは荒地を走る。
立ちはだかる植物や瓦礫を、ルカは器用に避けていく。後輪が大きく跳ねるたび、ノアは振り落とされそうになり、ルカにしがみついた。
「もうちょい、続く!」
ルカの声が、いつもより必死な響きを帯びる。
「どこまでっ」
ノアの言葉は、さらに大きな揺れでかき消された。
大きく道を外れているように思えたが、ハイウェイが右へ緩くカーブしていたらしく、少し先にまた道路が見えてくる。
その瞬間、急ブレーキ。
「わっ」
大きく前につんのめる。抱きついていたおかげで、今日は顔をぶつけずに済んだ。
「どうし──」
「静かに」
ルカが短く制する。
彼の視線の先。灰色の瓦礫だと思っていた塊が、ぬらりと動いた。一つではない。三つ、四つ。景色に溶け込むような灰色の毛並みをした獣たちが、ハイウェイの縁を徘徊している。
「アッシュ・ウルフだ。気づかれたらやばい。襲ってくる」
小声でルカが言うと、再び大きく右へハンドルを切る。
ゴリゴリ、と音を立てて、バイクはハイウェイと平行に荒地を進む。
ノアは呆然とアッシュ・ウルフたちを見つめた。
こちらにはまだ気づいていない様子。
生で見る野生動物に、地上に来て初めて、感動よりも恐怖が勝つ。
「あれは、人を食べるのか」
「はは。なんでも食うぜ、アイツら。しかも賢い。群れで狩りをするんだ」
ノアは、だんだん小さくなっていく影を見ながら、ほっと息を吐いた。
(地上には、あんなのがいるのか……)
しばらく荒野を走った後、バイクはようやくハイウェイへ戻り、一度停車する。
その途端、天がゴロゴロと不穏な音を立て始めた。
「休憩にしようかと思ったけど……してる場合じゃなさそうだな」
ルカが振り向く。
ノアは、まだルカに抱きついていた自分に気づき、慌てて手を離した。
「あ。あったかかったのに」
「うるせえ」
ノアは視線を逸らして言う。
ルカは堪えきれないように笑った。
「揺れ、結構強かったけど、酔ったりしてないか? 大丈夫なら、このまま行くけど」
「大丈夫。ルカこそ、平気かよ」
その言葉に、ルカは少し嬉しそうに笑う。
ノアは咄嗟にまた視線を外した。
この笑顔には弱い。
人懐っこい笑顔の裏に、ノエルを重ねてしまうから。
「俺は全然平気。じゃあ、このまま森まで進むぞ」
空はまだ、低く唸るような音を立てていた。
曇天の下、バイクは再び滑り出す。
――
大きな坂道を越えると、ハイウェイが二手に分かれているのが遠くに見えた。
一つは真っ直ぐ伸び、もう一つは大きなカーブを描いて、古い橋へと続いている。
橋の下には深い渓谷。濃い緑に覆われていて、底は見えない。
二人を乗せたバイクは、橋を目指して走る。
途中、ぼとぼとと大粒の雨が落ちてきた。
「やべえ、降ってきたな」
ルカは片手でゴーグルを引き下ろす。
「どっかで止まるか?」
「いや、ウルフの縄張りは広いから、この辺も危ない。なんとか橋渡って、森に抜けてぇ」
前方に見えてきた橋へ、ちらりと視線を送る。
古びた長い鉄橋。
ひび割れた鉄骨に、剥がれたコンクリート。
その瞬間、バケツをひっくり返したみたいに雨脚が一気に強まった。
「雨すげえな!」
ルカの叫びは、轟音みたいな雨にかき消されて、ノアにはほとんど聞こえなかった。
やがてバイクは鉄橋に差し掛かる。
傾いた古い橋に乗り上げたところで、スピードが落ちる。
「これ、渡れんのか?」
ノアが言った瞬間、ゴォン、と遠くで雷鳴が響いた。聞いたことのない爆音に、ノアの肩がびくりと揺れる。
「雷か……ぐずぐずしてる暇はねぇな」
ルカが独り言みたいに呟き、アクセルを思い切り捻る。
一気に橋を駆ける。足元から伝わる、嫌な振動。ぐにゃりと橋全体が歪むような揺れが、バイクごしに伝わってくる。
(思ったより、揺れる)
ノアがそう思った瞬間、バキン、と高い音が後ろから聞こえた。
はっとして振り返る。
目線の端で鉄橋の入口側の支柱が折れた。支柱はそのまま下へ落ち、その周囲の道路ごと、渓谷へ崩れ落ちていく。
バキバキ、と固いものが割れる音がする。
抉れた穴の縁から、ひびが放射状に広がった。
「ルカ! 後ろから崩れる!」
ノアが叫ぶ。
土煙が猛獣のように追いかけてくる。橋が後ろからどんどん消えていっているのが分かる。
前方。出口まで、あと少し。
そのとき、目の前の路面にも亀裂が走った。
「掴まれ!!」
ルカがさらにアクセルをひねる。
バイクが跳ねるように加速する。ノアはルカの腰に、力いっぱいしがみついた。
崩れ落ちる橋の端から、宙へ飛び出す。
衝撃。
橋の先の地面に着地した瞬間、タイヤがスリップし、バイクは半回転してから、どうにか止まった。
視線の先で、橋の端が轟音を立てて崩れていく。
ルカは思わず笑った。
「はははっ……あーー、今のはやばかった!」
ノアは、ルカの背中に額を預けたまま、長く息を吐いた。
と、またゴォンと雷の落ちる音。
ルカは慌ててハンドルを切り、森の方へバイクを進めた。
――
森は高い木々に覆われていた。
幹と葉が屋根のように連なり、雨足が一気に弱くなる。
すると、バイクからカラカラ、と異音が響いた。
「あー……今のジャンプでちょっとチェーンがいかれたかもな」
ルカが足元へ視線を落とす。
「大丈夫なのか」
「チェーンなら、ちょっといじれば直せる。とりあえず、どっか良い場所探すか」
バイクは森の中の道をゆっくり進む。遠くに川の濁流が見えてきた。川沿いには、廃屋や、壊れかけた水車の残骸がある。
川から少し離れた高い位置に、岩肌の穴が見えた。
「あそこ、良いかもな」
近くまでバイクで上がり、傾斜を二人で押して洞穴の前まで登る。
バイクを止めた途端、二人ともその場にへたり込んだ。
「はーー、今日は波乱だらけだったな」
ルカは泥水を浴びてぐしゃぐしゃになったブルゾンを脱ぎ、ブーツをひっくり返して中の水をざばっと出す。
ノアはバックパックから、小さな袋をひとつ取り出した。留め具を外すと、ぼん、と音を立てて、大きめの袋に膨らむ。
「水、持ってくる」
そう言って、袋を抱えて水辺へ降りていく。
ルカは座り込んだまま、その様子を少し離れたところから見守った。
しばらくして、ノアが袋いっぱいに水を入れて戻ってくる。重そうな足取りに、ルカが慌てて駆け寄ってきて、後ろから袋を支えた。
「おも。どんだけ入ってんだよ」
「三十リットルくらい」
「重いわけだ」
二人で笑いながら、水を洞穴の前まで運ぶ。
「服、ぐしゃぐしゃだろ」
水を置き、ノアはそう言うと、バックパックから手のひらサイズのゴムの塊を取り出した。
「なにそれ」
「これ、昨日言ってた洗濯機」
「……は?」
ノアが端を引っ張ると、ぼふん、と一気に膨らんだ。
気づけば足元には、浅いプールみたいな容器が広がっている。
「すげ……」
ルカは呆然とそれを見つめる。
ノアは川から持ってきた水の半分ほどを、その”プール”に移した。続けて、ルカの脱いだブルゾンをぽい、と放り込む。
そのまま、自分の服も脱いで、淡々と放り込んでいく。
ルカがぱっと目を逸らした。
「お前の服も、全部入れろよ」
ルカが振り向くと、ノアはすでに別の服を着終えていた。
「着替えんの早」
言いながら、着ている服を全部脱ぎ、容器の中へ放り込む。
ノアは小さなカプセル状の薬のようなものを取り出し、水の中に放り入れると、ゴムの縁にある小さなスイッチを押した。
シュッと音を立てて、ホログラムのような幕が容器の上に張られる。カプセルが溶け、ぶくぶくと泡立ち、衣服が勝手に揺れ始めた。
「すげぇ! ガチで洗濯機じゃん!!」
ルカの瞳が、一気に輝く。
ノアはため息をついた。
「いいから早く、服着ろよ」
――
雨は、もう止んだようだった。
木々の隙間から、星空が覗き始める。
洞穴の入口近くで、ルカが拾ってきた枝や廃材に火をつけた。しばらくくすぶっていた炎が、乾いた木に移って一気に立ち上がる。
パチ、パチ、と小さな音を立てて、火の粉が弾けた。折れた枝がひとつ、ぱきんと音を立てて崩れ、赤く染まった炭の上に落ちる。
ノアは洗濯物を洞穴の奥に干していく。
ルカは焚き火が燃え盛り始めると、バイクのそばに行ってしゃがみ込んだ。
「チェーン、見とくか」
工具を取り出し、手慣れた様子で作業を始める。
洗濯物を干し終えたノアは、バックパックから小さなパックを取り出した。
「そしたら夕飯は俺が用意する。今日は、少しいいもの出そう」
「お、マジ?」
ルカが顔を上げる。その目が、子供みたいに期待で光っていた。
「地下でも人気の携帯フードだ」
そう言いながら、さっき汲んできた水を鍋に移す。水にタブレットを入れると、泡立って、水の濁りがすっと消えていった。
「洗濯機に入れてたやつみてぇなの、飯にも入れんの?」
遠目で見ていたルカが、驚いた顔をする。
「違うやつ。これは浄水タブレット」
「はぇ〜」
ルカが眉を上げる。そう言い置いて、またチェーンの調整に戻った。
「地下の技術はすげえぁ」
ノアは鍋を火にかざす。
しばらくすると、ぷつぷつと湯が沸き始めた。一度鍋を下ろし、小さな袋を二つ取り出して、中身を丁寧に鍋へ入れていく。
たちまち、香ばしい匂いがあたりに立ちこめた。
「うわ、なんかうまそうな匂い」
ルカが匂いに釣られて、焚き火のそばまでやってくる。
ノアは鍋をかき混ぜ、小分けの容器に中身をよそった。フォークと一緒にルカへ渡す。
野菜たっぷりの濃いスープの中に、太めの麺がたっぷり沈んでいる。
「熱いから、一気に食うなよ」
「なんか、パスタみてぇだな」
「近いかもな。地下ではヌードルって呼ばれてる」
ルカはフォークで麺をすくい、息を吹きかけて冷ますと、一口食べてからスープをすすった。
「……うめぇな、これ!」
目を輝かせて、ノアを見る。
「だろ。あんま持ってきてないけど。余ったらやるよ」
ノアも笑みを浮かべながら麺を啜る。
ルカは麺をうまくすすれないらしく、はぐはぐと噛みながら、夢中で食べている。
「野菜も入ってんのな。なんでこれ腐んねぇの」
ルカがフォークで野菜を掬い、首を傾げる。
「乾燥させて小さくしてんだよ。水とかお湯で戻る」
「へぇぇ」
感心したように野菜を見て、また食べ始める。
「あ、そうだ」
しばらくして、再びルカが手を止める。
「明日さ、ちょっとバッテリーチャージしねぇとなんだよ。チャージが終わるまで、森で待機でもいい?」
「もちろん」
「チャージ中、なんかしようぜ。明日は晴れると思う」
「ああ」
頷きながら、明日か。と心の中で呟く。
ルカは当たり前みたいに「明日」の話をする。
明日のこと、その先のこと。
自分には、明日のことも、海に行った後のこともまだ何も浮かばない。そんな自分に付き合ってるのに、ルカはいつだって前を向いているように見える。
視線が落ちる。
「付き合わせて、悪いな。バイクも調子悪くなったし」
「はは。なんも気に病むことねぇよ。これでもかなり、楽しんでるんだ」
ルカは麺を食べながら、景色を見渡す。
「長距離の移動なんて、結構久々だからな」
「久々ってことは、昔はわりと移動とかしてたのか?」
「俺、生まれたのはあそこじゃないんだ。親がさ、各地を移動しながら暮らしてた人で」
「そうだったのか」
ノアは空になった容器を置くと、ルカの方に体を向けた。ルカは景色を見ながら、懐かしそうに目を細める。
「八歳まで、いろんな場所を車でめっちゃ移動してた。俺が車とかいじれんのは、親父に色々教わったからなんだ」
そう言って容器の底のスープまで飲み干した。
「美味かった〜。ごっそさん!」
ノアは容器を受け取り、少し迷ってから口を開く。
「八歳のとき、何があったんだよ」
「あー……」
ルカは一瞬、眉を下げる。
「八歳の時さ。車で移動中に、遠くに今住んでる街を見つけてさ。人が居そうだし行ってみよう、ってなって、向かってる途中で車が崩落に巻き込まれたんだ」
ルカは頭をかく。
「後部座席にいた俺だけ、瓦礫から運よく逃れて助かった」
ノアはかける言葉が見つからず、顔を歪めた。
「まぁ、地上じゃよくある話だ」
ルカは肩をすくめた。
「……」
軽く笑いながら話すルカの横顔を、ノアは黙って見つめていた。
手が、自然とポーチへ向かう。
中にある革袋の存在を確かめてから、ひとつ息を吐き、星空を見上げた。
(ルカは、八歳で目の前で親を失って。それでも前を向いて歩いたのか)
ノエルを失って、悲しみごと立ち止まってしまった自分とは大違いだな、とノアは思う。
「ルカは、強いな」
ノアは空を見上げる。
――『これめっちゃたくさん持ってけばいいんじゃね』
ふとまた、いつかのノエルの声が聞こえてくる。食料品店で、二人で買い物をしていた時の記憶。
今食べたヌードルは、ノエルも大好きだった。
『ヌードルたくさん持ってさ、一ヶ月くらい地上で旅しようよ。ボードも持ってさ、海目指そうぜ』
ノエルはそう言って、笑ってヌードルを大量にカゴに入れていった。半ば本気の目に、ノアは呆れて笑う。
『大会、一ヶ月後だろ。』
『それまでに戻ろう』
『バカ言うなよ』
ノアは笑いながらノエルの肩を小突く。いつの間にか自分より高い位置にある肩。低く耳馴染みのいい大人の声なのに、言っていることは十歳くらいから変わらない。
『ま、お前が大会優勝したら、考えるか』
ノアはニヤリと笑う。
ノエルは目を瞬かせ、『まじ?』と言いながら、ヌードルの種類を再び吟味し始めた――
(あんなこと。言うんじゃなかった)
ノアは思う。
空を見ながら。
その中にノエルを探しながら。
*
爆ぜた薪の欠片が、夜空へ舞い上がって消えた。
その火の粉を目で追いながら、ルカは隣の横顔を盗み見る。炎の揺らめきが、ノアの整った顔立ちに濃い影を落としていた。
その表情は、物理的な傷なんてどこにもないのに、痛々しいほど張り詰めている。
お前も——
そう問いかけそうになって、ルカはやめた。
(お前も、誰か失ったのか)
(海に行きたいのは、そいつのためなのか)
心の中だけで問いかける。
二日前。突然シャフトから音がして、開けてみたらノアが出てきた。
変なガスマスクをかぶった怪しい奴。そう思っていたのに、マスクの下から現れた顔を見て、息が止まりそうになった。
地上の人間にはない、色素の薄い肌と、ガラス玉みたいな瞳。
正直、理屈抜きで目を奪われた。
海までの道のりを危険だと説明したとき、
『まぁ、死んだら死んだだな』
そう言い放ったときの顔には、何の感情もなくて。
(ロボットでも拾ったのかと思った)
思い出して、ひとりで少し笑う。
でも。
初めての雨や景色を見ているノアは、ちゃんと感情豊かな人間だった。
景色に感動して、くだらない話に笑いもするのに、どこか大事なところだけ固まってしまったみたいで。そのちぐはぐさを見ていると、どうしたって放っておけなくなる。
もう一度、ノアを横目で見る。
ノアは唇を固く結んだまま、ずっと空を見上げていた。
(ノアには、星以外の何が見えてるんだろう)
ルカはそんなことを思いながら、寝袋を用意するために立ち上がった。




