Day 12. 海
明け方、朝日が山と同じくらいの高さまで昇ったころ、ノアとルカはバイクを押しながら山を下っていた。
ノアは、バイクが滑り落ちないように荷台を引きながら、一歩一歩足元を確かめる。登りに比べれば、ずいぶん楽だ。
今日も空の機嫌はいい。雲ひとつない快晴だった。海は真っ青に染まり、白い波がところどころ線を引いている。
「波、いい感じだな」
ノアはぼんやり海を眺めながら、ぽつりと呟く。
「ボード持ってくりゃよかった」
「ノアもウェーブボードやんの?」
ルカがバイクを慎重に押しながら、少しだけ振り返る。
「ああ。わりと、上手い方だと思う」
「へぇ。見てみてぇ」
「でも、地下からボード運んでくるのは、さすがに大変だ」
「確かになぁ……なんか、自動で上まで運んでくれる装置でもあればいいのにな」
「装置……」
ノアはふと、ゾランの街の穴を思い出す。ニコに頼めばボードくらいならドローンで上げてくれるかも? と、そんなことをチラリと思った。
他愛もないことを話しているうちに、稜線が途切れ、土の色が濃くなっていく。
「この辺から乗れそうだな」
ルカがバイクに跨る。ノアが後部座席に乗ると、バイクはゆっくりと、慎重に走り出した。
一度、海が遠ざかり、見えなくなる。
「海でも釣りできんのかな」
ルカがぽつりと呟く。
「地下じゃ、海の魚のほうが市場に出回ってるし、できるんじゃないか」
「でもよ、海の魚の種類わかんねぇからなぁ……毒とかあったら笑える」
「笑えないだろ……でも、海の魚は図鑑でよく見てたから、見たら分かるかもしれない」
「お、じゃあまた釣りすっか」
ルカの声が、弾んだ。
「ニコに渡すものも、何か探さないとな」
「お、いいじゃん。デートっぽい」
「……そうか?」
やがて木が増え、舗装された道が現れる。アスファルトの上を走る振動が少しずつ柔らかくなり、確実に海へ近づいているのを、ノアはなんとなく肌で感じ取った。
海に着いたら、自分はどうなるのか。
ここまで来ても、まだよく分からない。
ノエルに海を見せて、それからどうする?
海に連れて行ってやりたい。その一心でここまで走ってきたけれど、見せたあと、自分の中で何が変わるのか――想像がつかなかった。
漠然とした不安が、また胸をかすめる。
ポケットに手を入れ、革袋に触れた。
それでも、間近で海を見せてやりたい。そのためにここまで来た。自分が変わろうが変わるまいが、関係ない。
(もうすぐだ、ノエル)
木々がだんだんと少なくなり、やがてぱったりと途切れた。細い道を抜け、大きな道と交わった瞬間、視界がひらける。
同じ高さの少し先に、海が見えた。
海は大きな弧を描き、その縁をなぞるように、廃墟が点々と並んでいる。
ノアが大きく息を吸い込むと、鼻の奥にひっかかるような、不思議な匂いがした。
「……変わった匂いがするな」
「海の匂いってやつかな。かなり近くまで来たってことだ」
ルカが上機嫌に答える。
二股の道を海側へと曲がる。
次の瞬間、目の前いっぱいに、海がひろがった。
「すげぇ……目の前、全部海」
「……すごいな」
近くで見る海は、ゆらゆらと光を反射し、きらめいていた。
廃墟群を抜けていくと、崩れかけたコンクリートの堤防に出る。その先には、長く続く砂浜が広がっていた。
「歩いてくか」
ルカがバイクをゆっくり停める。
堤防の脇にバイクを寄せ、二人で堤防沿いを歩き出した。
砂浜には、折れた看板や柱が半分埋まり、堤防の割れ目からは緑が侵食してきている。頭上では鳥が悠々と円を描き、急降下しては海に突っ込んで、器用に魚をさらっていった。
近くで見た海は、さっきまでの「青」とは少し違い、エメラルドグリーンに近い色をしていた。
さっき山の上から見たときとも、また色が違う。
何を映したら、こんな色になるのか――ノアはぼんやりと考える。
「よし」
ルカが急に堤防に手をつき、そのままひょい、と飛び降りた。堤防から二メートルほど下がった浜辺に、軽く着地する。
「ノアもこいよー」
下から呼ばれる。
ノアも堤防をよじ登り、同じように浜辺へ飛び降りた。
着地した瞬間、ばふっと白い砂が舞い上がる。ノアはそのまましゃがみ込み、両手いっぱいに砂をすくってみた。
砂はサラサラと指の間からこぼれ落ち、手のなかに、小さな石ころと貝殻がいくつか残った。
「貝殻だ」
ノアが呟くと、ルカが覗き込んでくる。
「初めて見た」
「地下にも貝はあるけど、食用にする大きいやつだからな。こんな小さいのは、俺も初めてだ」
「おいノア、あっちのほう、めっちゃ落ちてる」
ルカが指さした先を見ると、砂浜のあちこちに石や貝殻が散らばっている。
「でもその前にな」
ぐい、と手を引かれ、海のほうへ連行される。
ルカが途中で立ち止まり、ブーツを脱ぎ始めた。ノアもそれに倣ってブーツを脱ぎ、ついでにバックパックを置く。少し考えて、バックパックの上に革袋を置いた。
「濡れたら大変だもんな。おいノエル、そこから海、よく見えるか?」
ルカが革袋に尋ねる。返事がなくとも、どこか満足そうに微笑んだ。
ノアはその様子を見て、また胸がぎゅ、となった。
二人で波打ち際へ近づく。
砂が湿ったあたりに足をのせると、ひんやりと冷たかった。
「つめてぇ」
ルカが笑う。
次の瞬間、波がどん、と押し寄せてきて、二人の膝下をまとめてさらっていく。
「うおっ」
跳ねた海水が、頬にかかった。
「波の勢い、すげぇな!」
「波もだけど……この、引いてく力が……」
押し寄せた水が、足ごと砂をえぐるように引いていく。
ノアは倒れないように、踏ん張る。すると、間髪入れずに次の波が打ち寄せてきた。
寄せては返す波が、絶え間なく足元をさらっていく。
「地下のプールは、ウェーブボード用に深くなってるからさ。こんな浅いところで波を感じるのは……なんか、変な感じだ」
ノアが笑うと、ルカもつられたように微笑んだ。
ルカが指先を海につけ、そのまま舐めてみせる。眉をひそめたあと、神妙な顔で言った。
「なんだよ、ただの水じゃん。塩水って聞いてたけど、川と同じような味だな」
「へぇ」
ノアも指で水をすくい、舐めてみる。
「水」と言われたので、つい多めに口に含んでしまったことを、すぐさま後悔した。
「……しょっ……」
ぺっ、と思わず口から吐き出す。舌がしびれるほど塩辛かった。
ルカが腹を抱えて笑う。ノアはむっとして、ルカの足をべしっと足で払った。
「おわっ」
ぐらり、と体勢を崩したルカが、そのまま尻もちをつく。そのタイミングを狙ったかのように、大きめの波が襲ってきて、ルカは一気にずぶ濡れになった。
呆然と座り込むルカを見て、ノアは吹き出す。
「……やってくれたな?」
じとっと睨まれたので、ノアはさっさと逃げ出した。
そこから、ほとんど本気の鬼ごっこがはじまる。
結果、ノアは完敗し、二人とも全身びしょ濡れになった。
そのあと、ルカが手際よく焚き火をつくり、二人で体をあたためながら、ニコに渡す貝殻を探した。
それぞれが「いい」と思った貝殻を拾ってきて、見せ合う。
ノアの目にとまったのは、ルカが持ってきた、ほんのり青みがかった小さめの貝殻だった。
「じゃ、これはノアが持ってろ」
ルカが、その貝殻をノアの手のひらに乗せる。
「……じゃあ、ニコはこっちかな」
最終的に、小ぶりの白い巻き貝を選んだ。
バックパックからニコ宛ての封筒を取り出し、そっと貝殻を同封する。
「なんて書いてあるんだろうなぁ」
ルカがニヤニヤしながら覗き込もうとする。ノアも少し気になったが「やめとこう、さすがに」と大人しく封をなぞり、バックパックにしまった。
「なぁ、あそこ行ってみよう。釣りできそうじゃね?」
ルカが指さした先に、長く海へ突き出した石橋のようなものが見えた。
「あぁ、行くか」
ノアは革袋を片手に持ち、ルカのあとに続く。
掌に伝わる、ずしりとした重み。
――ノエルを、どうしよう。
ふと、その考えが胸をかすめる。
海は見せた。この分厚い革袋越しに。
ノアの足が、ぴたりと止まった。
ルカが振り返り、首を傾げる。
「どうした、ノア」
ノアはルカを見つめたまま、革袋を少し持ち上げる。
「ルカ」
短く呼んで、言葉を続けた。
「ノエルを、海に還そうと思うんだ」
ルカの目が見開かれる。
「還すって……海に、撒くのか?」
ノアは小さくうなずいた。
「……ああ」
「そっか」
ルカはふっと息を吐き、柔らかく笑った。
「じゃあノエルは、大好きな海で、自由になれるわけだ」
その優しい笑顔に胸が詰まり、ノアは思わずうつむいた。
ルカが近づいてきて、ぎゅっと抱きしめてくれる。しばらく、ルカの肩に額を押しあてた。
その存在を、手放すわけじゃない。
ノエルはずっと、自分の中にいる。
何でもない瞬間に顔を出して、くだらないことを話しかけてくる。
身体だけを、憧れてやまなかった海に還して――記憶は、自分の胸の中で、大切に抱きしめておけばいい。
そう心の中で言葉にしてから、ノアはルカから離れた。
ルカが小さくうなずき、ノアの手を取る。
二人は手をつないだまま、石の橋へ向かった。
石の橋は、ところどころが欠けて崩れていたが、造りそのものはしっかりしていた。足元の石には、ところどころ小さな電球らしきものが埋め込まれている。
内側の波は穏やかだが、外海から打ちつける波は強い。荒波を防ぐために造られた防波堤なのかもしれない、とノアは思う。
橋の先まで進むと、ノアは立ち止まり、革袋を取り出した。しばらく両手で抱えるように持ち、またそっとポケットにしまい込む。
この袋が、軽くなってしまうのが怖かった。
ため息をひとつ落とし、ノアはその場に座り込んだ。
後ろの方に腰を下ろしたルカが、背中をそっとさすりながら言う。
「ゆっくりでいい」
橋の下で、波が打ち寄せる音がする。
『こんなの、無理だよ!』
ふいに、ノエルの泣き声がよみがえった。
ウェーブボードを初めて教えたときのこと。
子ども用の浅いプールで、打ち寄せる波にうまく乗れず、癇癪を起こしたノエル。
『落ち着いて、いくつか波をやり過ごすんだよ。乗れそうなタイミングを待ってから乗る。焦って全部乗ろうとするから、溺れる。自分が乗れそうな波はいつか来るから』
『だって、次々に波が来るんだよ!』
ノアは思わず笑う。
『それが”波”なんだから、仕方ないだろ』
『うぅ〜……兄ちゃんみたいに、うまく乗れないよぉ』
そう言って、ぽろぽろ泣き出すノエル。ノアは、自分よりひと回り小さな体を後ろから支えた。
『ほら。やり過ごし方、教えてやるから。まず落ち着け』
『……うぅ』
身体の使い方を教えると、ノエルはすぐにコツをつかんだ。
波をいくつかやり過ごし、そのうち一本を選んでつかまえる――それができるようになるまで、そう時間はかからなかった。
『兄ちゃん!! 見て!!』
はじめて数メートル、まっすぐ波に乗れたときの、あのまぶしい笑顔。
ザン――と、大きめの波が橋にぶつかり、白くはじけた。
ノアはそこで我に返る。
気づけば、太陽は傾き、光の色が変わりはじめていた。
好きでたまらない太陽が沈みきってしまう前に、と心だけが焦る。
ポケットから革袋を取り出すが、それ以上は手がまったく動かなかった。
革袋に、幼いノエルの笑顔が重なる。
ノエルを自由にしてやりたい気持ちと、形を失ってしまう寂しさが、胸の中で絡まり合う。
心の中には居続けるはずなのに――それでも怖かった。
立ち上がって紐に手をかけては、また座る。
それを何回か繰り返す。
やっぱり、無理かもしれない、といよいよ座り込んだ。
やがて太陽は、昨日より少し濃いオレンジの光を海に残しながら、ゆっくりと沈んでいく。
あたりが薄闇に包まれはじめたころ、離れた場所を見て回っていたルカが、橋の方に戻って来た。
山からの風が、すっと海へ吹き下りてくる。
風に背中を押されたように、ノアはまたゆっくりと立ち上がった。
震える指で、革袋の紐に触れる。
恐る恐るそれをほどいた、そのとき――
「なんだこれ」
ルカの低い呟きと同時に、金属を引き上げたようなガシャンという音が響いた。
次の瞬間、足元の石に埋め込まれた灯りが、一斉にぱっと点く。
橋の床から、柔らかい光が立ち上って、ノアの両手――革袋を、真下から照らした。
光に押し出されるように、ノアは革袋を両手で高く掲げる。そして、海に向かって、いっきに灰を放った。
灰はライトの光を反射しながら、きらきらと瞬いた。
風に乗って舞い上がり、そのまま暗い空へ溶けていく。
見上げた先には、ぽつぽつと星が浮かび始めていた。
ノエルが、星になっていくように見えた。
途端に、ノアの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
一度こぼれた涙はもう止まらなかった。堰が切れたみたいに、ぼろぼろと溢れ続ける。
悲しい。会いたい。声が聞きたい。
でも、もうノエルはいない。
星になってしまった。
空になった袋を握りしめた時、その事実を、やっと自分の心が受け入れた。
背中から、そっと抱きしめられる。
ルカの腕の重みと体温が、泣きじゃくる身体を支えてくれる。
寂しい。けれど――もう、一人じゃない。
ノエルの記憶を抱いたまま、ルカと一緒に未来を歩きたい。
そんな思いが胸の奥から、静かに湧き上がってくる。
ノアは涙で滲む視界のまま、空を見上げた。
頬を伝う涙は、まだ止まらない。
地上の旅で大好きになった太陽。
そして、ノエルが還っていった海と、星があるならば。
「ルカ」
呼びかけると、耳元で小さな返事がした。
「ん?」
ノアはゆっくりと振り向く。
ルカの目を、まっすぐに見つめる。
「進む未来を、決めたんだ」
それだけ告げてから、そっと腕を回し、自分からルカに唇を重ねた。
波のざわめきだけが、優しく耳に届く。
空には、丸い月がくっきりと浮かんでいる。周りでは、星が月を祝福するように瞬いていた。




