Day 11. 薄明の空
テントの隙間から陽が差し込み、瞼の裏で光がちらついた。眩しさに、ノアは目を覚ます。
すぐ隣では、ルカが口を開けたまま無防備に寝ていた。
昨日のことが一気に脳裏を掠めて、不思議な気持ちになる。
(自分はルカを好きで、ルカも……)
そこまで考えて、やめる。自爆するだけだと思った。
ルカを起こさないよう、そっと寝袋を抜け出し、静かにテントを出た。
すでに太陽は、かなり高いところまで昇っている。それだけで、どれだけ眠りこけていたのか、なんとなく察せた。
昨日の暗闘が、嘘みたいだと思った。
空の色が変わる世界を、ノアは随分と気に入っていた。地下では、味わえなかった感覚だった。
太陽はいったん沈んでも、必ずまた顔を出す。
暗闘の中にいても、いずれ光が差してくる——そんな当たり前のことが、今はやけに安心感をくれる。
トンネル。ゾランの街。昨日の丘。
そのたびに暗闘の先で待っていてくれた、ルカのように。
テントの中から、がさがさと布の擦れる音がした。
ルカが、もそもそと這い出してくる。
「おはよう、ルカ」
「んぁ……おはよ……」
まだ半分寝ている声だった。ふらふらと立ち上がり、思い切り背伸びをする。
「んー……もう昼前か」
「夜更かしし過ぎたな」
ノアは肩をすくめ、寝袋やテントをてきぱきと片付け始める。
その様子を、ルカがじっと見つめてきた。
「……なんだ」
ノアが眉をひそめる。
「いやさ、普通すぎね? なんかこう、もっとこう……あんだろ! せっかく恋人になったのに!」
ルカがいきなり喚き出す。
「こ——」
ノアの顔が、一気に熱くなり、動きが止まる。昨日のことをほじくり返すのはやめてほしい。恥ずかしすぎる。
そんな反応に気をよくしたのか、ルカはへらっと笑うと、ノアを抱き寄せて頭に軽く口づけを落とした。
「だから、そういうの、いきなりやるのやめろって!」
真っ赤になって叫ぶ。
ルカはわははと笑いながら、まるで気にも留めていない様子で出発の準備を始めた。
***
バイクは国道をまっすぐ進んでいく。昨日、キャンプを探して入り込んだ草原が視界の端を流れていく。
荷台を握りながら、ノアは草原に目をやった。黄みがかった草と緑の草が入り混じり、風に揺れてさわさわと波打っている。
「フィン……大丈夫だったかな」
つぶやくように言う。
「俺、お前探しに来る前に、フィンに会ったぜ。キャンプの外で」
「え……追いかけてきてくれてたのか」
ちくりと胸が痛む。
「鞄投げられて、めっちゃ怒られた」
「フィンに?」
「そう。『ノアが出て行ったのは、ルカとナディアのせいだ!』って」
ルカが片手を、背中の後ろに伸ばす。ノアはその手をそっと握った。
「お前が辛そうにしてたってさ」
そう言って、ぎゅっと握り返し、またハンドルに手を戻す。
ノアはルカの背中に額を預けた。
「……はぁ。子どもにまで気を使わせるとか、俺」
ため息が漏れる。恥ずかしさで、またどこかに消えてしまいたくなる。
前から、はは、とルカの笑い声。
背中ごしに伝わる振動ですら、今は妙に心地よかった。
「なぁノア、恋人いたことあんの?」
ルカがチラと振り返りながら聞いてくる。
「ない」
「マジか。……俺が初か」
声がほんの少し、にやけている。
「あー、ノエルの世話で忙しかった、とか?」
ノアは「世話」という言葉に、少し空を見上げる。
「世話って感覚は、あんまりなかったんだけどな」
ぽつぽつと、言葉がこぼれていく。
「施設で、俺とノエルはよくいじめられたんだ」
「は? 殴る」
即答するルカに、ノアはふっと笑った。
「地下じゃ、親になるには資格を取らなきゃいけないんだよ」
「資格? 親になるのに?」
「そう。お金も時間もかかる。だから、資格を取らないまま出来ちゃって、捨てられる子どもが、施設にはたくさんいる」
「……マジかよ」
「そんな子どもが多いから、俺とノエルみたいにちゃんと親がいた子は、いじめの標的になる」
「やっかみ、ってやつだな」
「だろうな。今思えば、たぶんそういうことだったんだろう」
「親の記憶はあるのか? 幼いときに亡くなったって言ってたけど」
「実は、ほとんどない。ぼんやり姿は覚えてるけど」
ノアは空を見上げて、薄い記憶をたどる。
二人とも、父親譲りの髪の色。母は金髪だった。自分は母親に似ている気がする。自分とあまり似ていないノエルは、きっと父親似なのだろう。
覚えている会話は、ひとつだけ。
「ノエルが生まれた日、母さんが俺に『ノアはお兄ちゃんになったんだよ』って、嬉しそうに言ったんだ。それだけしか覚えてない」
「……両親は、なんで死んだんだ?」
「事故だって聞いてる。ノエルが産まれた、二年くらいあとだ」
両親が亡くなったと聞かされたときも、不思議と実感も悲しみもなかった。ただ——
“お兄ちゃんだから、ノエルを守らなきゃ”
そんな気持ちが強くなったのは、たしかその頃だった。
「だから施設を頑張って早く出て、それからはずっと、俺とノエルだけだった。ノエルを一人にしたくなくて、学校でも帰りに寄り道したりしなかったな」
「好きな人とかも、できなかった?」
「“好き”って概念が、よくわからなかった」
そこで、バイクのスピードがゆるりと落ち、そのまま路肩に停まる。
ルカが、やたら嬉しそうな顔で振り向いた。
「じゃあ俺が、初?」
にかっと笑って聞いてくる。
ノアはじとっと片眉を上げて、ルカを睨む。ニコニコと返事を待つ顔が、だんだんうっとうしくなってくる。
「初だよ、初! いいから、前向け」
肩を押しやると、ルカはわははと笑いながら、再びバイクを走らせた。
ノアはいよいよ、深くため息を吐いた。
「前にさ、俺の両親が死んだときの話したとき、ノアは『ルカは強い』って言ったけど」
少し振り向きながら、ルカが続ける。
「お前のほうが、よっぽど強ぇよ。ずっとノエルを守ってきたんじゃん」
ノアは少しうつむいた。
「……俺は強くない。実際、何度も立ち止まってる」
「立ち止まっても、ちゃんとまた前に進んでる」
「それは……ルカが——」
ルカがいるからだ。
そう続けると、絶対にまた調子に乗って振り返ってくる。
ノアは言葉を飲み込み、代わりにその背中にぎゅっと抱きついた。
「お。いいね、恋人っぽい」
ルカがからりと笑う。
「お前はどうなんだ」
抱きついたまま聞く。
「え?」
「恋人とか、いたのか」
「あーーー……いいんだよ、俺のことは」
頭を掻く。ルカが誤魔化したい時の癖だ、とノアは思う。
「ルカは男が好きなのか?」
「いやぁ。どっちとか、あんまり関係なかったかも」
「ふーん」
「おい、変な勘違いすんなよ! 取っ替え引っ替えとかじゃねぇからな!」
「ふーーーん」
「おいノア!? だから、ちげえって!」
ルカがぎゃあぎゃあと喚き、そのせいでバイクが少し蛇行する。
やがて国道を抜け、前方には山道が口を開けていた。
――
バイクは舗装された山道を走っていた。
道の脇には背の高い草木が生い茂り、ところどころ、アスファルトの割れ目から雑草や根が顔を出している。それが地面に模様を描いているようで、タイヤが踏むたびに小さく跳ねた。ルカはスピードを落とし、慎重にハンドルを切っていく。
「これが山か。確かに”積もり積もった土の塊”だな」
ノアの言葉に、ルカが笑う。
「な? ……っつっても、ここまで緑が深いと、土っていうより草の集合体だけどな」
「バイクで登りきれるのか?」
ノアは先の道を見つめた。どんどん道路は細くなり、山の頂上付近はほとんど緑の気配がないように見える。
「上の方は舗装、なさそうだしな。滑りそうだったら、押すしかねぇかも」
ルカはそう言って、アクセルをさらに軽くひねった。
しばらく森のような山道を走ると、舗装が途切れ、茶色い土の道に変わる。道の両脇には低い灌木と岩がまばらに転がり、さっきまで視界を埋めていた木々はいつの間にか姿を消していた。代わりに、削り取られた斜面と、ところどころ、細い木が風に揺れている。
「なんか寒くなってきたな」
ノアは、吐いた息がうっすら白いことに気づく。
「山の上だからなぁ。今夜は冷えるかも」
「すごいな。少し高くなっただけで、こんなに違うのか」
「今の時期は特にな。気温の差が激しいんだよ。地下は、ずっと変わんねぇの?」
「ほとんど変わらない。スポットによって設定温度は違うらしいけど……街の中はいつも二十度前後だ」
「へぇ〜」
ルカが感心したような声を出す。
「まぁ、一長一短だな。地上は夏は暑すぎるし、冬は死ぬほど寒い」
大きくハンドルを切りながら、ルカがぼやく。最後のカーブを曲がりきった瞬間、視界がぱっと開けた。
ザリザリ、と砂を噛んでタイヤが少し滑る。
「お、ここまでかな」
ルカがバイクを止める。
ノアは後部座席から降りて、あたりを見回した。
先の道は、山の背骨みたいに細く伸び、その先で緩やかに盛り上がっている。左右には、さっきまで足元にあったはずの丘や廃墟が、まとめて遠く下に沈んでいた。
「……高いところまで来たな」
ぞくりと身震いする。寒さなのか、高さへの怖さなのか、自分でも判然としない。
「よし、ここからは押していくかぁ」
ルカがバイクに肩を預けて押しはじめる。ノアも後ろから荷台を押す。
見た目以上に傾斜がきつく、すぐに息が上がる。
「重いな……」
「時間かかるな、こりゃ」
そう言うと、ルカはブルゾンを脱いで腰に巻いた。
太陽が山と同じ高さまで沈んできたころ、ようやく頂上に差しかかる。
バイクを止め、二人で山頂まで歩く。最後の一段を上りきったところで、ノアは、ぴたりと足を止めた。
胸の奥がきゅっと縮んで、息を吸うのを忘れる。
眼下には、海が広がっていた。
山の斜面をなぞるように続く崖の、そのさらに向こう。
オレンジ色の海面が、どこまでも続いている。
空との境目は、にじんだ一筋の線になって、遠くの方でかろうじて世界を分けている。
「……海」
ノアは呆然と呟く。
『海って青いんだな』
ふと、ノエルの声が蘇る。
ノエルが暇さえあれば見ていた、地上のサーフィンの映像。
『青っていうより、鉛色じゃないか?』
ホロを見ながらノアが首を傾げると、ノエルはニヤッと笑った。
『どっちが正解か賭けようぜ』
『何を賭けるんだよ』
『うーん……海に着いた日の飯? 勝った方がヌードルで、負けた方が非常ブロック』
『それは負けたくないな』
二人で笑い合った、他愛ないやり取り。
ノアはポケットから革袋を取り出す。
ノエル。海は、空の色を映してる。
だから、時間とか天気で色が変わるんだ。
夕焼けを映した海は、青でも鉛色でもない。
「……二人とも、非常ブロックだな」
ぽつりと呟く。
「えっ」
ルカが目を見開いてこっちを見ている。
「せっかく海に着いたのに、あのもさもさ食うの? 今日?」
ノアは吹き出した。
「違う、ちょっと思い出しただけだ」
「……ならいいけど」
ルカはほっとしたような顔をする。
「よし、景色もいいし、開けてるし。今日はここにテント立てるか」
ルカがそう言って、風を少しでも避けられそうな大きな岩のそばにテントを建てはじめた。
ノアが手伝おうと振り返ると、「ゆっくり海見てろよ」と追い払われる。ノアは素直に地面に腰を下ろし、景色を眺めた。
太陽が、海に吸い込まれるように沈んでいく。水面には太陽がくっきり映り込み、ふたつの太陽がくっついているみたいに見えた。
やがてテントを建て終え、焚き火に火を点けたルカが、ノアの隣に腰を下ろす。
その瞬間、海に隠れたはずの太陽が、ピンク色の光を地上に残した。水平線をなぞるように淡く光が走り、その上の空は、ゆっくりと深い青紫に染まっていく。海は、そのどちらの色も映し出しながら、静かに揺れている。
太陽光が残した悪戯のような薄明の空は、息を呑むような美しさだった。
隣で、小さく息を吐くような声が聞こえた。
「すげ……こんな色、初めて見た」
言葉というより、感嘆がそのまま漏れ出たような声だった。
「ルカも、見たことがないのか」
「無いなぁ」
「そうか」
ルカと見たこの景色を、忘れることはないだろう。空に目を奪われながら、ノアはただ漠然とそう思った。
しばらく二人とも黙ったまま、その景色を目に焼きつける。
やがてピンクの色が薄れ、空が濃紺に変わる。
「……さむっ」
ルカが肩をすくめる。焚き火の火が小さくなっているのを見て、慌てて薪や枯れ枝を足しに行く。
ノアもようやく立ち上がり、テントへ向かった。
夕飯のスープを作って食べ終えるころには、周囲はすっかり暗くなっていた。
食事で温めたはずの体が、再び冷え始める。焚き火にあたっても、底冷えするような寒さはなかなか抜けない。
「山がこんなに寒いとは……」
ノアが腕をさすりながら言う。
「テントの中のほうが、まだあったけぇかもな」
ルカの一言で、二人はテントへ移動した。寝袋に潜り込んでも、冷えた体は寝袋をなかなか温めてくれない。
「……ルカ、寒い」
ノアは寝袋からのそのそ出て、ルカの大きな寝袋のほうへ近づく。
「え」
ルカは一瞬、驚いたように目を瞬かせ、それから寝袋の口を広げた。
「一緒に寝る?」
ノアはこくりとうなずき、もぐり込む。ルカの体温が移った寝袋は、すでにじんわりと暖かかった。
「冷えてんな」
ルカはそう言って、ノアを抱き寄せ、背中をさすってくれる。ノアはほっと息を吐いたものの、見上げたルカの顔の近さに、今度は別の意味で緊張してくる。
「……近い」
「そりゃそうでしょうよ」
ルカが笑う。
ふと、真面目な表情に変わった。
「なぁ。海から帰ったら、お前はどうすんの?」
ノアは、視線を少し落とす。
「地下に戻る。ニコに手紙を届けて……そのあとは……まだ分からない」
「じゃあ、決まったら教えて」
「……ルカは?」
「俺?」
ルカは一度天井を見てから、ノアに視線を戻す。
「俺はさ。どこか、ってのはあんまり関係なくて。……お前と一緒にいられりゃ、どこでもいい」
「……」
思わず顔を上げる。
「俺は、どこで生きるかより、“誰と、どう生きるか”なんだよ」
穏やかに笑うルカの声に、胸の奥がきゅっと詰まる。
言葉が出なくて、ただルカを見つめる。
ふいに、ルカが顔を寄せ、唇が触れた。ノアは静かに目を閉じる。
昨日より、少し長いキスだった。
ゆっくりと唇が離れ、髪をくしゃりと撫でられる。
「……ま、ゆっくり決めろよ」
ノアは小さくうなずいた。
「ほら。明日には、やっと海だぞ。早く寝ろ」
「だな。……おやすみ、ルカ」
そう言って目を閉じる。目を閉じても、心臓がうるさくて、しばらく眠れなかった。
海のあとのことを少し考えてみる。
ルカは「どこでもいい」と言ったけれど、狭い地下で暮らすルカは、どうしても想像がつかない。
(今は、ノエルを海へ連れていくことだけ考えよう)
そう自分に言い聞かせるうちに、すぐそばの体温にまどろみを誘われて、ノアの意識はゆっくりと途切れていった。




