Day 10-2. ルカ
――少し前。
ルカは案内されたテントの中へ入った。
派手な紋様の布が壁一面に垂れ下がり、床には毛並みのいい毛皮が敷き詰められている。客用なのだろう。外観からは想像できないほど、豪華なつくりのテントだった。
さっき、焚き火の向こうに見えたノアの横顔が頭をよぎる。どこか強張っていて、いつものノアらしくなかった。
(……なんか、あったよな)
あとでノアのテントを聞いて、様子を見にいこう。
そう決めて、ルカは毛皮の上にどさりと腰を下ろした。
このキャンプに着いてから、ほとんどノアと話せていない。
フィンにずっと取られてる気がして、思わず苦笑いがこぼれる。
「子どもに嫉妬するとか、やべぇな。俺」
ひとりごとのように呟いた、そのとき。
「ルカさん」
テントの外から、ナディアの声がした。
「ナディア? どうした」
「入ってもいいですか?」
「え? あぁ、構わねぇけど……」
返事をすると、布がめくれ、ナディアが中へ入ってくる。丁寧に入口の布を閉めると、こちらへ歩み寄ってきた。どこか表情が固い。
「なんかあったのか?」
問いかけると、ナディアはルカの前に正座するように座り込み、黙ったまま視線を落とした。
「……?」
ルカが首を傾げた次の瞬間、ナディアは肩からガウンを滑らせた。布がはらりと落ち、下着姿の白い肌が露わになる。
「は!? お、おい、何してんだよ!」
ルカはギョッとして、反射的に顔をそむける。
ナディアは気にした様子もなく、そのまま深く頭を下げた。
「今夜、もし私を気に入ってくださったなら……ここに残って、私と一緒になってもらえませんか」
伏せられたままの声は、不思議なほど温度がなかった。
若い男がほとんどいないこの移民キャンプにとって、自分のような男が貴重なのだろう――と、ルカはすぐに理解してしまう。
「……」
しばし黙ったあと、ルカはそっとナディアのそばへ膝を寄せ、落ちたガウンを拾い上げた。
その肩に、そっと掛けなおす。
ナディアがはっとして顔を上げる。
「悪い」
ルカは頬をかきながら、正面からその瞳を見る。
「俺はもうさ、誰とどう生きるかは、自分で決めてるから」
まっすぐに告げると、ナディアは俯いたまま、しばらく動かなかった。
やがて、大きく息を吐く。
「……はぁ。よかった」
「え?」
きょとんとするルカに、ナディアはガウンを胸元まで引き寄せ、げんなりした顔で続けた。
「長に言われたの。『あの男をなんとしても引き止めろ』って。いつもそう。若い男がキャンプに来ると、若い女がこうやって差し出されるの」
顔を上げる。疲れ切った目をしていた。
「マジで、うんざり」
その変化に、ルカは思わず眉を上げる。
「でも、すぐ出ていくと失敗したってバレて怒られるから……少しのあいだ、ここにいてもいい?」
「あぁ、それくらいならいくらでも」
ルカが肩をすくめると、ナディアはほっとしたように微笑み、ガウンを着直して膝を抱え込んだ。
「大変なんだな、このキャンプも」
「嫌になるよね。女は若い男を留めさせるための道具なんだもん」
ナディアは深いため息をつく。諦めに近いような表情だった。
「……ねぇ、“誰とどう生きるか決めてる”ってさ」
ナディアが、じっとルカを見る。
「ノアさんのこと、でしょ?」
ルカは、ばつが悪そうに眉を下げた。
「……そうだけどさ。前の街でも速攻バレたんだけど、そんなに俺、分かりやすい?」
後頭部をがしがし掻くと、ナディアはふふ、と小さく笑う。
「うーん、ルカさんのせいっていうよりは、あの人がやたらと綺麗で。二人の雰囲気的にも、もしかしてそうなのかな、って」
「綺麗、か……」
ルカは、ノアと出会った日のことを思い出す。
「あいつさ、最初ガスマスク付けてたんだよ。ごっついやつ」
「マスク?」
「毒がないって伝えたら、それ外してさ」
ノアが重たいマスクを外した瞬間。
汗で額に張りついた髪の隙間から、宝石みたいな瞳があらわになる。その青い目が、初めて見る地上の空を、真っ直ぐに見上げた。
「なんか、雷に打たれたみたいに、動けなくなった」
照れくさそうに呟くと、ナディアはにやりと笑う。
「ビビッときたってやつ?」
ルカは小さくうなずいた。
「まぁ、そんな感じ。マジで運命かも、って思った」
「いいなぁ。一目惚れかぁ」
ナディアが膝を抱えなおし、ぽつりとこぼす。
「このキャンプ、なかなか良い出会いなんてないからね。相手も勝手に決められちゃうし」
「出てみねぇの? キャンプ」
「うーん……フィンを置いていけないしね。出たとしても、どこに行けばいいかも分からない」
困ったように眉を下げるナディアに、ルカは腕を組み、少し考える。
「二人で都市に行けよ。近くにいい街がある」
「まさか、あの”汚染されたフェンスの街”?」
ナディアが嫌そうに顔をしかめる。
「はは。フィンも言ってたな、それ。でも実際行ったけどさ、汚染なんてないし、いい人ばっかだったぜ。あの辺を仕切ってるやつも優しいやつで」
「えっ……あそこに行ったの?」
「行った。ウルフに噛まれたのを、あの街で助けてもらったんだ」
そう言ってブルゾンをずらし、肩の傷を見せる。生々しい傷跡に、ナディアは息を呑んだ。
「みんな、助け合いながら自分で仕事探して、自由に生きてる、そんな感じの街だった。少し治安は悪ぃけどな」
ゾランの仕切るフェンスの街。
自分はほとんど寝ていたが、あの街で、ノアは少し変わった気がする。
新しい環境や出会いが、人をどんどん変えていく。
「俺のいたところも、小さい街でさ。若い連中もそんな多くなくて、そこで暮らしながら”多分このまま、ここで一生過ごすんだろうな”って、なんとなく思ってたんだよ」
ルカが続けると、ナディアは静かに耳を傾けた。
「でもノアと出会って、一緒に旅することになって、景色見たり、ピンチを一緒に乗り越えたりしてるうちにさ。どこでどう生きるか、っていうより、“誰とどう生きるか”のほうが、俺には大事なんだなって思うようになって」
「誰とどう生きるか……」
ナディアが、その言葉をゆっくり復唱する。
ルカは小さく笑って、うなずいた。
旅を通して、ノアの固まっていた感情が、少しずつ解けていくのを見てきた。
笑顔だけじゃなく、不貞腐れた顔や、困った顔や、どうしようもないほど悲しそうな顔も。
そんな姿を見ているうち、途中までじゃなくて、海までちゃんと送り届けてやりたい、そう思うようになった。
でも、自分の気持ちが決定的になったのは、トンネルの所だったんだろうな、とルカは思う。
一人でトンネルに向かうノアの背中を見て、“ここで離れたら、もう二度と会えないかもしれない”――そんな考えが胸をよぎった。
そんな未来は、どうしても嫌だと思った。離れたくない。
そう思って、気づいたらもう瓦礫をぶち破って進んでいた。
「……だからさ。ナディアも、自分でちゃんと決めたほうがいいと思う。どう生きるか」
ナディアの瞳が、わずかに揺れる。
「そうだね。ちゃんと決めなきゃ。……二人みたいに」
膝で組んでた手を強く握りしめた。
「あー、二人っつっても」
ルカは「まだノアにはなんも言ってねぇけどな」と、からりと笑って頭を掻く。
「ノアの中で決着がつくまでは、待つって決めてるから。まだ告白もしてねぇし」
「えっ」
ギョッとしたように、ナディアの目が見開かれる。
「まだ、何も伝えてないの!?」
「まだ」
「もし断られたらどうするの?」
「うーーん。何回でも言う!」
ナディアが堪えきれずに吹き出す。
「あははは! なにそれ!」
膝を抱えたまま、声を上げて笑う。高い笑い声が、布の天井に跳ね返った。
「いいんだよ! なんとかなる。……多分」
ルカがムスッとしながら言うと、ナディアはさらに肩を震わせた。
「一緒に生きるって決め切ってるから、てっきりもう恋人なのかと思ってた」
笑いながらナディアは目尻の涙をぬぐう。
ルカは「笑うなよ」と渋い顔をする。耳が熱くなった。
ナディアは一通り笑い終わると、「はぁ、」と息を吐く。
ふとルカを見て、首を傾げた。
「ところで、ノアさんの決着って、何?」
「……亡くなった弟の灰を、海に持っていく事、かな」
「えっ」とナディアが口に手を当てる。
「そんな」
「すげぇ良いお兄ちゃんなんだよ。ほら、フィンも懐いてるだろ?」
「確かに。あの子、あまりああやって懐かないのに」
ナディアはぎゅ、と眉を寄せた。
「ルカさん、ノアさんの決着がついたら、ちゃんと気持ち伝えてね。あの人のこと、大事にしてあげて」
「もちろん」
ルカは、当然だと言わんばかりに肩をすくめた。
それから、ナディアはキャンプの暮らしのことや、フィンのことを少し話してくれた。
ナディアは親がおらず、フィンの母親によく面倒を見てもらっていたが、フィンが幼い頃に病気で亡くなったという。
そこからフィンの面倒をナディアが見るようになった。
「そういえばさ。ルカさんは”内陸の街”ってわかったけど、ノアさんはどこから来たの? マスクつけてたってことは、もっと奥のほう?」
「あー……」
ルカは天井を見上げてから、ナディアに視線を戻した。
「あいつ、地下から来たんだ」
「……地下!?」
ナディアが目を見開く。
「言ってなかったっけ? あ、フィンにしか話してねぇや」
「だから……灰なのね」
そう呟いた次の瞬間、ナディアの顔色がさっと変わる。
顔を勢いよく上げた。
「って、ノアさんが地下から来たって、みんなにバレたら大変だよ!」
「え、なんで」
「このキャンプでは、“地下は汚染されてる”って教えられてるの。だから、地下のものが多いフェンスの街も”汚染された街”って呼んでる。地下から来たなんて分かったら……追い出されちゃう」
ルカの表情が固くなる。
ぎゅっと拳を握りしめ、立ち上がる。
「汚染とか……ふざけんなよ」
「ちょっと待って。フィンに様子を聞いてくる!」
ナディアが慌ててテントを飛び出していく。
ルカは拳を握ったまま、その背中を見送るしかなかった。
ほどなくして、ナディアが息を切らして戻ってくる。
「大変! ノアさんとフィン、ずいぶん前に出て行ったって……!!」
「クソッ」
奥歯をきしませた次の瞬間には、ルカの体はもう走り出していた。
テントを出ると、焚き火の周りに残っていた男たちが何か声を掛けてくるが、すべて無視する。
入口のそばに停めてあった自分のバイクに飛び乗った。
「ルカさん、私も連れて行って! フィンが心配!」
ナディアが駆け寄り、後部座席によじ登る。
ルカは短くうなずき、ナディアがしっかりと腰を落ち着けたのを確認してから、エンジンをかけた。
――
ノアは、バイクで走ってきた道をなぞるように、暗闇の中をひたすら早足で進んでいた。
集落はもうずっと遠く、周囲を照らすのはかすかな月明かりだけだ。
不思議と恐怖はなかった。ただ、胸の奥から這い出してくる気持ちの悪い感覚を押さえつけたくて、手の中の革袋をぎゅっと握りしめる。
ノエルがいればいい。
ノエルを連れて行けさえすれば、それでいい。
息が上がるほどの速さで、ただ前だけを見て歩き続けた。
足がようやく止まったのは、緩やかな丘を登りきったときだ。さすがに呼吸が荒くなり、丘の上に立つ木の根元へ、どさりと腰を下ろす。
座って息を整えた途端、考えまいとしていたことが、ぐるぐると頭を回りだした。
本当は、ルカと一緒に海へ行きたかった。
ゾランの街で、ルカが怪我した時にも願ったこと。
あの場で、テントに向かって声をかければよかったのだろうか。
でも、そんな勇気なんてない。
ルカにとって自分は、地下から来た、珍しい目の色をした男にすぎない。
自分がルカに対して抱いてしまった、この感情そのものが、おこがましい気がした。
ここまで一緒に来てくれた。何度も助けてくれた。それだけで、本当は十分なはずなのに。
それにここで別れても、ルカはきっと、ノアとノエルのことを、どこかで少しは覚えていてくれるだろう。
「……いいだろ。それだけで」
自分に言い聞かせるように呟き、ノアは立ち上がる。息を整え、一歩踏み出したところで、木の根に足を取られて躓いた。
手から、革袋が転がり落ちる。
ノアは慌てて荷物から懐中電灯を取り出し、周囲を必死に照らして探した。
赤いコスモスのそばに、ぽつんと革袋が落ちているのを見つけて、ほっと息を吐く。その場にまた座り込み、革袋を拾い上げた。
顔を上げると、夜空いっぱいに星が瞬いている。
星はなぜだか、ノエルを思い出させる。
『兄貴は意外と寂しがり屋だからなぁ。一人にしておくの心配だぜ』
大学の合宿で、ノエルが二週間家を離れる前の夜の記憶。
『お前に心配されるとはな』
呆れたように返しながらも、内心では少し寂しいと思っていたことを、今さらながら思い出す。
『ホロ・メッセンジャー、ちゃんと見ろよ! 通話もするから。ちゃんと飯食えよ』
出発ギリギリまで、ノエルはそんなことを言っていた。
『わかったよ。いってらっしゃい、ママ』
『いい子にしてるのよ』
そういって、ニヤリといたずらっぽく笑う顔を思い出す。
くだらなくて、懐かしくて、愛しい会話だった。
ノアは革袋を握りしめる。指先に、革のかすかなざらつきと、そこに眠るノエルの重みを感じる。
寂しい。
ノエルがいなくなってから、ずっと。
――そして今は、ルカもいなくて。
*
真夜中の草原を、一台のバイクが疾走していた。
ノアが海を目指すなら、ひとまず国道へ戻るはず。そう踏んで、ルカは来た道をなぞるようにアクセルを開ける。
ハンドルを握る手に、力がこもる。
(なんで一人でだまって行くんだよ)
胸の奥からじわじわと苛立ちが湧いてくる。
そのとき、前方に人影が浮かび上がった。ヘッドライトの光に照らされて、細いシルエットが浮かぶ。
「フィン!!」
後ろのナディアが、思わず身を乗り出して叫ぶ。
立ち尽くしていたフィンが、ようやくこちらに気づき、ゆっくりと振り返った。
「ナディア……」
「良かった、無事だったのね」
ナディアは安堵したように息を吐く。
フィンは眉をひそめ、むすっとした顔のまま、バイクへ歩み寄ってきた。ナディアが飛び降りて駆け寄るより早く、フィンは手に持っていた小さな鞄を、思い切りルカのほうへ投げつける。
ばし、と顔面に直撃した。
「いてっ」
「ちょっとフィン! なにするの!」
ナディアが思わず声を上げる。
フィンは目に涙をためながら叫んだ。
「ノアが行っちゃった! キャンプのやつらと、ルカとナディアのせいだ!」
ルカは顔から鞄を引きはがし、眉をひそめる。
「ノア、二人を見て……ずっと辛そうな顔してた! キャンプに来てから、ずっと!」
フィンの声は、怒りと悲しみで震えていた。
「……ノアが?」
ルカは信じられない、というように目を見開いた。
「フィン、それは……ルカさんは悪くないの」
ナディアが慌てて言いかけるが、フィンは唇を噛んで黙り込む。
ルカはハンドルを握り直した。
「ナディア。フィンを頼む」
それだけを告げると、ナディアはすぐに頷く。
「私のせいでごめんなさい。フィンは大丈夫。……早く行ってあげて」
ルカも小さく頷き、フィンをちらりと見る。
「フィン。ノアと一緒にいてくれて、ありがとな」
短くそう言って、アクセルを一気に捻った。
タイヤが草を滑らせ、バイクは夜の闇の中へ吸い込まれていく。
フィンは俯いたまま、その背中を見送っていた。
「ごめんね、フィン」
ナディアはそっとフィンの頭を撫でる。
「ルカさんを引き止めろって、長に言われてたの。……でも、本当に何もなかったんだ」
「ノアは、そうは思ってないよ。おばさんが、意地悪なこと言ったから」
フィンの言葉に、ナディアは深いため息をついた。
「あのババア」
舌打ちをする。
少し考えてから、フィンの小さな手を握る。
「ねぇ、フィン。このままずっと、あのキャンプにいたい?」
フィンは顔を上げ、ナディアを見つめる。問いかけの意味を測るように、首をかしげた。
「一緒にキャンプ、出ちゃおっか。今夜、こっそり」
フィンはぱちぱちと瞬きをする。
やがて、ゆっくりと考えるように視線を落とし――
それから、にかっと笑った。
――
ノアは再び、闇の中を歩き出していた。
足元の花を踏み潰さないよう、懐中電灯で照らしながら避けて進む。
それだけに意識を集中させていると、ほんの少しだけ気が紛れた。
丘をゆっくりと下っていく。
バイクなら一瞬で過ぎる道も、歩けばひどく長い。
そんな当たり前のことを、ぼんやり考える。
街に滞在した日々を除けば、ここまで六日かけてたどり着いた。
もし最初から歩きだったら、どれくらいかかっただろう。
そもそも、ここまで来られたかどうかさえ怪しい。フィンと出会うこともなかったはずだ。
フィン。ノエルを思い出させてくれる、優しい子。
汚染されてると伝えられてきたはずなのに、拒絶せずに受け入れてくれた。
ちゃんと礼を言って、きちんとお別れしたかった。
自分が馬鹿みたいに取り乱したせいで、それすらできなかった。
移民たちの言う「汚染」が何を指すのか、結局よく分からなかった。けれど、いつか偏見がほどけて、地下と地上が当たり前のようにつながればいい、とふと思う。
そのときは、また会いに来られるかもしれない――。
そこまで考えて、ノアは首を振った。
もう何も考えたくないのに、次々と余計なことばかり浮かんでくる。
頭の中の考えごとを追い出すみたいに、大きく息を吐いた、そのとき。
背後から、エンジンの低い唸りと、草をかき分けるタイヤの音が近づいてきた。
静まり返った草原では、その音がバイクだと、嫌でも分かってしまう。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
「ノア!!」
背中越しに、聞き慣れた声が飛んでくる。
振り返れなかった。
逃げ出したくて、ノアは歩幅を広げる。
バイクが止まる音。続いて、草を踏む足音が追いかけてくる。
「おい、待てって!」
呼ぶ声を無視して、ノアは前だけを見た。
(来ないでくれ)
心のどこかでそう願っているのに、その声に反応するみたいに、足はだんだん遅くなる。
ルカとの距離が、じわじわ詰まっていくのが分かった。
「ナディアとは、何もねぇって」
その言葉に、心臓がまた変な音を立てる。
眉間にぐっと皺がよった。
ルカが、どうしてそんなことを自分に告げるのか分からない。どうして、ここまで追いかけてくるのかも。
胸の中で、黒いもやがぐるぐる渦を巻く。
もう、この感覚に耐えるのにノアは疲れ果てていた。
「……何かあっても、なくても。俺には、関係ない」
ようやくひねり出した声は、情けないほど掠れていた。
ぴたりと、背後からの気配が止まる。
ノアは小さく息を吐き、そのまま歩き出そうとした、その瞬間。
背中から腕が伸びてきて、ぎゅっと抱きしめられた。
息が詰まる。
腕の中に押し込められるようにして、ノアは立ち尽くした。
体がこわばって、指一本動かせない。
思考が追いつかないまま、ただ心臓だけがばくばくと暴れている。
「ルカ」
気づけば、名前を呼んでいた。
「……本当は、一緒にいたい。ずっと」
やめろ、と頭の中で警鐘が鳴るのに、言葉は止まらなかった。
口からこぼれ出たものを、自分自身が一番信じられない。
背中から回された腕に、さらに力がこもる。
「……好きなんだ。ルカのことが」
自分で確認するみたいに、ノアは掠れた声で呟いた。
その言葉を口にした途端、胸の中のもやがすうっと軽くなっていくのが分かる。
ああ、やっぱり”好き”だったのか――と、ノアは心の中でその事実を反芻した。
「はぁ〜……」
耳元で、ルカが盛大にため息をつく。
その音で、ノアは一気に現実へ引き戻された。
拒まれるかもしれない、と考えた瞬間、逃げ出したくなって、腕の中でもがく。
けれどルカの腕はびくともしない。
「俺はさ、お前が海に着くまで、ちゃんと待ってようと思ってたのに」
不満そうな声が、すぐ耳元で響いた。
次の瞬間。
ぐいと体ごと振り向かされ、そのまま唇を塞がれる。
ノアは、石みたいに固まった。
ルカはわずかに唇を離し、目を細めていたずらっぽく笑う。
「俺のほうが先に、好きだった」
*
ノアが動かなくなった。
電池の切れたロボットみたいに、ぴたりと固まる。
「おーい、ノア?」
呼びかけても返事はない。
とりあえず、もう一回くらい味わいたくて、軽くキスを落とした。
その瞬間、ノアが弾け飛ぶみたいに後ろへ下がる。
(絶対、真っ赤になってんだろ)
暗くて見えないのが、ひたすら残念だった。
「え……」
ようやくノアの口から声が漏れる。けれどまた、完全にフリーズしてしまう。
堪えきれず、ルカは吹き出した。
「ほら、とりあえず国道行くぞ」
もう少しからかいたい気持ちをぐっと飲み込み、ノアの手を取ってバイクまでずるずる引きずっていく。
国道までの道のりでも、ノアは一言もしゃべらなかった。
かといって、ルカにもそこまで余裕はない。
(……マジかよ)
まだ実感がわかず、胸のあたりがそわそわする。
ナディアに「断られたらどうするの」って聞かれたとき、“何回でも言う”なんて威勢のいいことを言ったけれど、本当のところ、気持ちが通じ合う自信なんてなかった。
だからさっきのノアの言葉は、本気で心臓が口から飛び出るかと思った。
(まさかなぁ)
そう思うと、口元が勝手にゆるむ。
ルカは頭をぶん、と振った。浮ついた気持ちを、少しでも振り落とすように。
まだ旅は終わっていない。ちゃんと海まで送り届けて、それから街に戻る。
(……って、街に戻ったら、ノアはどうすんだ)
ふとそんなことが頭をよぎり、横目でノアを見る。
やっぱり、微動だにしていなかった。
ルカはそれ以上、何も聞かずに、国道までを無言で走り抜けた。
*
バイクの振動に揺られながら、ノアはじわじわと現実に引き戻されていた。
ルカに抱きしめられて、必死で押し込めていた気持ちが一気に吹き出した。口からこぼれる言葉が止まらず、気がついたらルカの顔が目の前にあって。
(……消えたい)
ノアは片手で顔を覆う。恥ずかしさで、蒸発しそうだった。
やがて、バイクが昨夜フィンたちと泊まった廃墟のそばで止まる。
ノアが無言のままバイクを降りると、
「あ、やっと動いた」
ルカがおもしろがるように言った。
「うるさい」
ぶっきらぼうに返しながら、昨日使わなかった木材を集めて回る。そのあいだにルカがテントを張り始めるが、相変わらず雑な手つきにため息が出た。
「フィンが言ってた。ルカはテント張るの下手だって」
「だから! 寝れりゃいいんだよ!」
昨日と同じ文句が返ってくる。ノアは火を起こしながら、ようやく笑った。笑うのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
考えすぎたせいか、頭がぼんやりしてくる。
「疲れてんだろ。もう寝よ」
火の様子を確認すると、ルカはさっさとテントの寝袋に潜り込んだ。寝袋を広げて、自分の隣をぽん、と叩く。
「一緒に寝る?」
いつもの台詞。ノアは呆れた目でルカを見る。
少しだけ考えてから、
「一緒に寝る」
と言ってみせた。
「えっ」
今度はルカが固まる番だった。
ノアは思わず吹き出す。
「嘘。おやすみ」
そう言って、自分の寝袋に潜り込む。
「なんだよ……」
ほっとしたような、でもどこか残念そうな声が、隣から聞こえてくる。ノアはその声に口元を緩めながらも、ルカより先に眠りへ落ちていった。




