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Day 10-2. ルカ



――少し前。


 ルカは案内されたテントの中へ入った。


 派手な紋様の布が壁一面に垂れ下がり、床には毛並みのいい毛皮が敷き詰められている。客用なのだろう。外観からは想像できないほど、豪華なつくりのテントだった。


 さっき、焚き火の向こうに見えたノアの横顔が頭をよぎる。どこか強張っていて、いつものノアらしくなかった。


(……なんか、あったよな)


 あとでノアのテントを聞いて、様子を見にいこう。

 そう決めて、ルカは毛皮の上にどさりと腰を下ろした。


 このキャンプに着いてから、ほとんどノアと話せていない。

 フィンにずっと取られてる気がして、思わず苦笑いがこぼれる。

 

「子どもに嫉妬するとか、やべぇな。俺」

 

 ひとりごとのように呟いた、そのとき。


「ルカさん」

 

 テントの外から、ナディアの声がした。


「ナディア? どうした」

 

「入ってもいいですか?」

 

「え? あぁ、構わねぇけど……」


 返事をすると、布がめくれ、ナディアが中へ入ってくる。丁寧に入口の布を閉めると、こちらへ歩み寄ってきた。どこか表情が固い。


「なんかあったのか?」


 問いかけると、ナディアはルカの前に正座するように座り込み、黙ったまま視線を落とした。


「……?」


 ルカが首を傾げた次の瞬間、ナディアは肩からガウンを滑らせた。布がはらりと落ち、下着姿の白い肌が露わになる。


「は!? お、おい、何してんだよ!」


 ルカはギョッとして、反射的に顔をそむける。

 ナディアは気にした様子もなく、そのまま深く頭を下げた。


「今夜、もし私を気に入ってくださったなら……ここに残って、私と一緒になってもらえませんか」


 伏せられたままの声は、不思議なほど温度がなかった。


 若い男がほとんどいないこの移民キャンプにとって、自分のような男が貴重なのだろう――と、ルカはすぐに理解してしまう。


「……」


 しばし黙ったあと、ルカはそっとナディアのそばへ膝を寄せ、落ちたガウンを拾い上げた。


 その肩に、そっと掛けなおす。

 

 ナディアがはっとして顔を上げる。


「悪い」

 

 ルカは頬をかきながら、正面からその瞳を見る。

 

「俺はもうさ、誰とどう生きるかは、自分で決めてるから」


 まっすぐに告げると、ナディアは俯いたまま、しばらく動かなかった。

 

 やがて、大きく息を吐く。


「……はぁ。よかった」

 

「え?」


 きょとんとするルカに、ナディアはガウンを胸元まで引き寄せ、げんなりした顔で続けた。


「長に言われたの。『あの男をなんとしても引き止めろ』って。いつもそう。若い男がキャンプに来ると、若い女がこうやって差し出されるの」


 顔を上げる。疲れ切った目をしていた。

 

「マジで、うんざり」


 その変化に、ルカは思わず眉を上げる。


「でも、すぐ出ていくと失敗したってバレて怒られるから……少しのあいだ、ここにいてもいい?」


「あぁ、それくらいならいくらでも」


 ルカが肩をすくめると、ナディアはほっとしたように微笑み、ガウンを着直して膝を抱え込んだ。


「大変なんだな、このキャンプも」

 

「嫌になるよね。女は若い男を留めさせるための道具なんだもん」

 

 ナディアは深いため息をつく。諦めに近いような表情だった。


「……ねぇ、“誰とどう生きるか決めてる”ってさ」

 

 ナディアが、じっとルカを見る。

 

「ノアさんのこと、でしょ?」


 ルカは、ばつが悪そうに眉を下げた。


「……そうだけどさ。前の街でも速攻バレたんだけど、そんなに俺、分かりやすい?」


 後頭部をがしがし掻くと、ナディアはふふ、と小さく笑う。


「うーん、ルカさんのせいっていうよりは、あの人がやたらと綺麗で。二人の雰囲気的にも、もしかしてそうなのかな、って」

 

「綺麗、か……」

 

 ルカは、ノアと出会った日のことを思い出す。


「あいつさ、最初ガスマスク付けてたんだよ。ごっついやつ」

 

「マスク?」

 

「毒がないって伝えたら、それ外してさ」


 ノアが重たいマスクを外した瞬間。

 汗で額に張りついた髪の隙間から、宝石みたいな瞳があらわになる。その青い目が、初めて見る地上の空を、真っ直ぐに見上げた。


「なんか、雷に打たれたみたいに、動けなくなった」

 

 照れくさそうに呟くと、ナディアはにやりと笑う。

 

「ビビッときたってやつ?」


 ルカは小さくうなずいた。

 

「まぁ、そんな感じ。マジで運命かも、って思った」

 

「いいなぁ。一目惚れかぁ」

 

 ナディアが膝を抱えなおし、ぽつりとこぼす。

 

「このキャンプ、なかなか良い出会いなんてないからね。相手も勝手に決められちゃうし」

 

「出てみねぇの? キャンプ」

 

「うーん……フィンを置いていけないしね。出たとしても、どこに行けばいいかも分からない」


 困ったように眉を下げるナディアに、ルカは腕を組み、少し考える。


「二人で都市に行けよ。近くにいい街がある」

 

「まさか、あの”汚染されたフェンスの街”?」

 

 ナディアが嫌そうに顔をしかめる。


「はは。フィンも言ってたな、それ。でも実際行ったけどさ、汚染なんてないし、いい人ばっかだったぜ。あの辺を仕切ってるやつも優しいやつで」

 

「えっ……あそこに行ったの?」

 

「行った。ウルフに噛まれたのを、あの街で助けてもらったんだ」

 

 そう言ってブルゾンをずらし、肩の傷を見せる。生々しい傷跡に、ナディアは息を呑んだ。


「みんな、助け合いながら自分で仕事探して、自由に生きてる、そんな感じの街だった。少し治安は悪ぃけどな」

 

 ゾランの仕切るフェンスの街。

 自分はほとんど寝ていたが、あの街で、ノアは少し変わった気がする。

 

 新しい環境や出会いが、人をどんどん変えていく。


「俺のいたところも、小さい街でさ。若い連中もそんな多くなくて、そこで暮らしながら”多分このまま、ここで一生過ごすんだろうな”って、なんとなく思ってたんだよ」


 ルカが続けると、ナディアは静かに耳を傾けた。


「でもノアと出会って、一緒に旅することになって、景色見たり、ピンチを一緒に乗り越えたりしてるうちにさ。どこでどう生きるか、っていうより、“誰とどう生きるか”のほうが、俺には大事なんだなって思うようになって」


「誰とどう生きるか……」

 

 ナディアが、その言葉をゆっくり復唱する。


 ルカは小さく笑って、うなずいた。


 旅を通して、ノアの固まっていた感情が、少しずつ解けていくのを見てきた。

 笑顔だけじゃなく、不貞腐れた顔や、困った顔や、どうしようもないほど悲しそうな顔も。

 

 そんな姿を見ているうち、途中までじゃなくて、海までちゃんと送り届けてやりたい、そう思うようになった。


 でも、自分の気持ちが決定的になったのは、トンネルの所だったんだろうな、とルカは思う。

 

 一人でトンネルに向かうノアの背中を見て、“ここで離れたら、もう二度と会えないかもしれない”――そんな考えが胸をよぎった。

 そんな未来は、どうしても嫌だと思った。離れたくない。

 そう思って、気づいたらもう瓦礫をぶち破って進んでいた。

 

「……だからさ。ナディアも、自分でちゃんと決めたほうがいいと思う。どう生きるか」


 ナディアの瞳が、わずかに揺れる。

 

「そうだね。ちゃんと決めなきゃ。……二人みたいに」

 

 膝で組んでた手を強く握りしめた。

 

「あー、二人っつっても」

 

 ルカは「まだノアにはなんも言ってねぇけどな」と、からりと笑って頭を掻く。

 

「ノアの中で決着がつくまでは、待つって決めてるから。まだ告白もしてねぇし」


「えっ」

 

 ギョッとしたように、ナディアの目が見開かれる。


「まだ、何も伝えてないの!?」

 

「まだ」

 

「もし断られたらどうするの?」

 

「うーーん。何回でも言う!」


 ナディアが堪えきれずに吹き出す。


「あははは! なにそれ!」

 

 膝を抱えたまま、声を上げて笑う。高い笑い声が、布の天井に跳ね返った。


「いいんだよ! なんとかなる。……多分」

 

 ルカがムスッとしながら言うと、ナディアはさらに肩を震わせた。


「一緒に生きるって決め切ってるから、てっきりもう恋人なのかと思ってた」

 

 笑いながらナディアは目尻の涙をぬぐう。

 

 ルカは「笑うなよ」と渋い顔をする。耳が熱くなった。


 ナディアは一通り笑い終わると、「はぁ、」と息を吐く。

 

 ふとルカを見て、首を傾げた。

 

「ところで、ノアさんの決着って、何?」

 

「……亡くなった弟の灰を、海に持っていく事、かな」

 

「えっ」とナディアが口に手を当てる。

 

「そんな」

 

「すげぇ良いお兄ちゃんなんだよ。ほら、フィンも懐いてるだろ?」

 

「確かに。あの子、あまりああやって懐かないのに」

 

 ナディアはぎゅ、と眉を寄せた。

 

「ルカさん、ノアさんの決着がついたら、ちゃんと気持ち伝えてね。あの人のこと、大事にしてあげて」

 

「もちろん」

 

 ルカは、当然だと言わんばかりに肩をすくめた。


 それから、ナディアはキャンプの暮らしのことや、フィンのことを少し話してくれた。

 ナディアは親がおらず、フィンの母親によく面倒を見てもらっていたが、フィンが幼い頃に病気で亡くなったという。

 そこからフィンの面倒をナディアが見るようになった。

 

「そういえばさ。ルカさんは”内陸の街”ってわかったけど、ノアさんはどこから来たの? マスクつけてたってことは、もっと奥のほう?」


「あー……」


 ルカは天井を見上げてから、ナディアに視線を戻した。


「あいつ、地下から来たんだ」

 

「……地下!?」


 ナディアが目を見開く。

 

「言ってなかったっけ? あ、フィンにしか話してねぇや」

 

「だから……灰なのね」

 

 そう呟いた次の瞬間、ナディアの顔色がさっと変わる。

 顔を勢いよく上げた。


「って、ノアさんが地下から来たって、みんなにバレたら大変だよ!」

 

「え、なんで」

 

「このキャンプでは、“地下は汚染されてる”って教えられてるの。だから、地下のものが多いフェンスの街も”汚染された街”って呼んでる。地下から来たなんて分かったら……追い出されちゃう」


 ルカの表情が固くなる。

 ぎゅっと拳を握りしめ、立ち上がる。


「汚染とか……ふざけんなよ」


「ちょっと待って。フィンに様子を聞いてくる!」


 ナディアが慌ててテントを飛び出していく。

 ルカは拳を握ったまま、その背中を見送るしかなかった。


 ほどなくして、ナディアが息を切らして戻ってくる。


「大変! ノアさんとフィン、ずいぶん前に出て行ったって……!!」

 

「クソッ」


 奥歯をきしませた次の瞬間には、ルカの体はもう走り出していた。


 テントを出ると、焚き火の周りに残っていた男たちが何か声を掛けてくるが、すべて無視する。

 

 入口のそばに停めてあった自分のバイクに飛び乗った。


「ルカさん、私も連れて行って! フィンが心配!」

 

 ナディアが駆け寄り、後部座席によじ登る。


 ルカは短くうなずき、ナディアがしっかりと腰を落ち着けたのを確認してから、エンジンをかけた。

 


――


 

 ノアは、バイクで走ってきた道をなぞるように、暗闇の中をひたすら早足で進んでいた。


 集落はもうずっと遠く、周囲を照らすのはかすかな月明かりだけだ。

 不思議と恐怖はなかった。ただ、胸の奥から這い出してくる気持ちの悪い感覚を押さえつけたくて、手の中の革袋をぎゅっと握りしめる。


 ノエルがいればいい。

 ノエルを連れて行けさえすれば、それでいい。


 息が上がるほどの速さで、ただ前だけを見て歩き続けた。


 足がようやく止まったのは、緩やかな丘を登りきったときだ。さすがに呼吸が荒くなり、丘の上に立つ木の根元へ、どさりと腰を下ろす。


 座って息を整えた途端、考えまいとしていたことが、ぐるぐると頭を回りだした。


 本当は、ルカと一緒に海へ行きたかった。

 ゾランの街で、ルカが怪我した時にも願ったこと。

 

 あの場で、テントに向かって声をかければよかったのだろうか。

 でも、そんな勇気なんてない。

 ルカにとって自分は、地下から来た、珍しい目の色をした男にすぎない。

 

 自分がルカに対して抱いてしまった、この感情そのものが、おこがましい気がした。


 ここまで一緒に来てくれた。何度も助けてくれた。それだけで、本当は十分なはずなのに。

 それにここで別れても、ルカはきっと、ノアとノエルのことを、どこかで少しは覚えていてくれるだろう。


「……いいだろ。それだけで」


 自分に言い聞かせるように呟き、ノアは立ち上がる。息を整え、一歩踏み出したところで、木の根に足を取られて躓いた。


 手から、革袋が転がり落ちる。


 ノアは慌てて荷物から懐中電灯を取り出し、周囲を必死に照らして探した。

 赤いコスモスのそばに、ぽつんと革袋が落ちているのを見つけて、ほっと息を吐く。その場にまた座り込み、革袋を拾い上げた。


 顔を上げると、夜空いっぱいに星が瞬いている。

 星はなぜだか、ノエルを思い出させる。


『兄貴は意外と寂しがり屋だからなぁ。一人にしておくの心配だぜ』


 大学の合宿で、ノエルが二週間家を離れる前の夜の記憶。


『お前に心配されるとはな』


 呆れたように返しながらも、内心では少し寂しいと思っていたことを、今さらながら思い出す。


『ホロ・メッセンジャー、ちゃんと見ろよ! 通話もするから。ちゃんと飯食えよ』


 出発ギリギリまで、ノエルはそんなことを言っていた。


『わかったよ。いってらっしゃい、ママ』

 

『いい子にしてるのよ』

 

 そういって、ニヤリといたずらっぽく笑う顔を思い出す。

 

 くだらなくて、懐かしくて、愛しい会話だった。


 ノアは革袋を握りしめる。指先に、革のかすかなざらつきと、そこに眠るノエルの重みを感じる。


 寂しい。

 ノエルがいなくなってから、ずっと。


 ――そして今は、ルカもいなくて。


 


 

 真夜中の草原を、一台のバイクが疾走していた。


 ノアが海を目指すなら、ひとまず国道へ戻るはず。そう踏んで、ルカは来た道をなぞるようにアクセルを開ける。


 ハンドルを握る手に、力がこもる。

 

(なんで一人でだまって行くんだよ)

 

 胸の奥からじわじわと苛立ちが湧いてくる。


 そのとき、前方に人影が浮かび上がった。ヘッドライトの光に照らされて、細いシルエットが浮かぶ。


「フィン!!」


 後ろのナディアが、思わず身を乗り出して叫ぶ。


 立ち尽くしていたフィンが、ようやくこちらに気づき、ゆっくりと振り返った。


「ナディア……」

 

「良かった、無事だったのね」


 ナディアは安堵したように息を吐く。


 フィンは眉をひそめ、むすっとした顔のまま、バイクへ歩み寄ってきた。ナディアが飛び降りて駆け寄るより早く、フィンは手に持っていた小さな鞄を、思い切りルカのほうへ投げつける。


 ばし、と顔面に直撃した。


「いてっ」

 

「ちょっとフィン! なにするの!」


 ナディアが思わず声を上げる。


 フィンは目に涙をためながら叫んだ。

 

「ノアが行っちゃった! キャンプのやつらと、ルカとナディアのせいだ!」


 ルカは顔から鞄を引きはがし、眉をひそめる。

 

「ノア、二人を見て……ずっと辛そうな顔してた! キャンプに来てから、ずっと!」

 

 フィンの声は、怒りと悲しみで震えていた。


「……ノアが?」

 

 ルカは信じられない、というように目を見開いた。


「フィン、それは……ルカさんは悪くないの」

 

 ナディアが慌てて言いかけるが、フィンは唇を噛んで黙り込む。


 ルカはハンドルを握り直した。

 

「ナディア。フィンを頼む」


 それだけを告げると、ナディアはすぐに頷く。

 

「私のせいでごめんなさい。フィンは大丈夫。……早く行ってあげて」


 ルカも小さく頷き、フィンをちらりと見る。

 

「フィン。ノアと一緒にいてくれて、ありがとな」


 短くそう言って、アクセルを一気に捻った。


 タイヤが草を滑らせ、バイクは夜の闇の中へ吸い込まれていく。


 フィンは俯いたまま、その背中を見送っていた。


「ごめんね、フィン」

 

 ナディアはそっとフィンの頭を撫でる。


「ルカさんを引き止めろって、長に言われてたの。……でも、本当に何もなかったんだ」

 

「ノアは、そうは思ってないよ。おばさんが、意地悪なこと言ったから」


 フィンの言葉に、ナディアは深いため息をついた。

 

「あのババア」

 

 舌打ちをする。

 

 少し考えてから、フィンの小さな手を握る。


「ねぇ、フィン。このままずっと、あのキャンプにいたい?」


 フィンは顔を上げ、ナディアを見つめる。問いかけの意味を測るように、首をかしげた。


「一緒にキャンプ、出ちゃおっか。今夜、こっそり」


 フィンはぱちぱちと瞬きをする。

 やがて、ゆっくりと考えるように視線を落とし――


 それから、にかっと笑った。


 

――


 

 ノアは再び、闇の中を歩き出していた。

 

 足元の花を踏み潰さないよう、懐中電灯で照らしながら避けて進む。


 それだけに意識を集中させていると、ほんの少しだけ気が紛れた。


 丘をゆっくりと下っていく。

 バイクなら一瞬で過ぎる道も、歩けばひどく長い。

 そんな当たり前のことを、ぼんやり考える。


 街に滞在した日々を除けば、ここまで六日かけてたどり着いた。

 もし最初から歩きだったら、どれくらいかかっただろう。

 そもそも、ここまで来られたかどうかさえ怪しい。フィンと出会うこともなかったはずだ。


 フィン。ノエルを思い出させてくれる、優しい子。

 汚染されてると伝えられてきたはずなのに、拒絶せずに受け入れてくれた。


 ちゃんと礼を言って、きちんとお別れしたかった。

 自分が馬鹿みたいに取り乱したせいで、それすらできなかった。


 移民たちの言う「汚染」が何を指すのか、結局よく分からなかった。けれど、いつか偏見がほどけて、地下と地上が当たり前のようにつながればいい、とふと思う。


 そのときは、また会いに来られるかもしれない――。


 そこまで考えて、ノアは首を振った。

 もう何も考えたくないのに、次々と余計なことばかり浮かんでくる。


 頭の中の考えごとを追い出すみたいに、大きく息を吐いた、そのとき。


 背後から、エンジンの低い唸りと、草をかき分けるタイヤの音が近づいてきた。


 静まり返った草原では、その音がバイクだと、嫌でも分かってしまう。


 ドクン、と心臓が大きく跳ねた。


「ノア!!」

 

 背中越しに、聞き慣れた声が飛んでくる。


 振り返れなかった。

 逃げ出したくて、ノアは歩幅を広げる。


 バイクが止まる音。続いて、草を踏む足音が追いかけてくる。


「おい、待てって!」

 

 呼ぶ声を無視して、ノアは前だけを見た。


(来ないでくれ)


 心のどこかでそう願っているのに、その声に反応するみたいに、足はだんだん遅くなる。


 ルカとの距離が、じわじわ詰まっていくのが分かった。


「ナディアとは、何もねぇって」

 

 その言葉に、心臓がまた変な音を立てる。

 眉間にぐっと皺がよった。


 ルカが、どうしてそんなことを自分に告げるのか分からない。どうして、ここまで追いかけてくるのかも。


 胸の中で、黒いもやがぐるぐる渦を巻く。

 もう、この感覚に耐えるのにノアは疲れ果てていた。


「……何かあっても、なくても。俺には、関係ない」

 

 ようやくひねり出した声は、情けないほど掠れていた。


 ぴたりと、背後からの気配が止まる。


 ノアは小さく息を吐き、そのまま歩き出そうとした、その瞬間。


 背中から腕が伸びてきて、ぎゅっと抱きしめられた。


 息が詰まる。


 腕の中に押し込められるようにして、ノアは立ち尽くした。

 

 体がこわばって、指一本動かせない。

 思考が追いつかないまま、ただ心臓だけがばくばくと暴れている。


「ルカ」

 

 気づけば、名前を呼んでいた。


「……本当は、一緒にいたい。ずっと」

 

 やめろ、と頭の中で警鐘が鳴るのに、言葉は止まらなかった。

 

 口からこぼれ出たものを、自分自身が一番信じられない。


 背中から回された腕に、さらに力がこもる。


「……好きなんだ。ルカのことが」

 

 自分で確認するみたいに、ノアは掠れた声で呟いた。


 その言葉を口にした途端、胸の中のもやがすうっと軽くなっていくのが分かる。

 ああ、やっぱり”好き”だったのか――と、ノアは心の中でその事実を反芻した。


「はぁ〜……」

 

 耳元で、ルカが盛大にため息をつく。


 その音で、ノアは一気に現実へ引き戻された。


 拒まれるかもしれない、と考えた瞬間、逃げ出したくなって、腕の中でもがく。

 けれどルカの腕はびくともしない。


「俺はさ、お前が海に着くまで、ちゃんと待ってようと思ってたのに」

 

 不満そうな声が、すぐ耳元で響いた。


 次の瞬間。

 ぐいと体ごと振り向かされ、そのまま唇を塞がれる。


 ノアは、石みたいに固まった。


 ルカはわずかに唇を離し、目を細めていたずらっぽく笑う。


「俺のほうが先に、好きだった」


 


 

 ノアが動かなくなった。

 電池の切れたロボットみたいに、ぴたりと固まる。


「おーい、ノア?」


 呼びかけても返事はない。

 とりあえず、もう一回くらい味わいたくて、軽くキスを落とした。


 その瞬間、ノアが弾け飛ぶみたいに後ろへ下がる。


(絶対、真っ赤になってんだろ)

 

 暗くて見えないのが、ひたすら残念だった。


「え……」

 

 ようやくノアの口から声が漏れる。けれどまた、完全にフリーズしてしまう。


 堪えきれず、ルカは吹き出した。


「ほら、とりあえず国道行くぞ」

 

 もう少しからかいたい気持ちをぐっと飲み込み、ノアの手を取ってバイクまでずるずる引きずっていく。


 国道までの道のりでも、ノアは一言もしゃべらなかった。

 

 かといって、ルカにもそこまで余裕はない。


(……マジかよ)

 

 まだ実感がわかず、胸のあたりがそわそわする。


 ナディアに「断られたらどうするの」って聞かれたとき、“何回でも言う”なんて威勢のいいことを言ったけれど、本当のところ、気持ちが通じ合う自信なんてなかった。


 だからさっきのノアの言葉は、本気で心臓が口から飛び出るかと思った。


(まさかなぁ)

 

 そう思うと、口元が勝手にゆるむ。


 ルカは頭をぶん、と振った。浮ついた気持ちを、少しでも振り落とすように。


 まだ旅は終わっていない。ちゃんと海まで送り届けて、それから街に戻る。


(……って、街に戻ったら、ノアはどうすんだ)


 ふとそんなことが頭をよぎり、横目でノアを見る。

 やっぱり、微動だにしていなかった。


 ルカはそれ以上、何も聞かずに、国道までを無言で走り抜けた。

 



 

 バイクの振動に揺られながら、ノアはじわじわと現実に引き戻されていた。


 ルカに抱きしめられて、必死で押し込めていた気持ちが一気に吹き出した。口からこぼれる言葉が止まらず、気がついたらルカの顔が目の前にあって。


(……消えたい)

 

 ノアは片手で顔を覆う。恥ずかしさで、蒸発しそうだった。


 やがて、バイクが昨夜フィンたちと泊まった廃墟のそばで止まる。


 ノアが無言のままバイクを降りると、


「あ、やっと動いた」

 

 ルカがおもしろがるように言った。


「うるさい」

 

 ぶっきらぼうに返しながら、昨日使わなかった木材を集めて回る。そのあいだにルカがテントを張り始めるが、相変わらず雑な手つきにため息が出た。


「フィンが言ってた。ルカはテント張るの下手だって」

 

「だから! 寝れりゃいいんだよ!」


 昨日と同じ文句が返ってくる。ノアは火を起こしながら、ようやく笑った。笑うのは、ずいぶん久しぶりな気がした。


 考えすぎたせいか、頭がぼんやりしてくる。


「疲れてんだろ。もう寝よ」

 

 火の様子を確認すると、ルカはさっさとテントの寝袋に潜り込んだ。寝袋を広げて、自分の隣をぽん、と叩く。


「一緒に寝る?」

 

 いつもの台詞。ノアは呆れた目でルカを見る。


 少しだけ考えてから、


「一緒に寝る」

 

 と言ってみせた。


「えっ」

 

 今度はルカが固まる番だった。


 ノアは思わず吹き出す。


「嘘。おやすみ」

 そう言って、自分の寝袋に潜り込む。


「なんだよ……」

 

 ほっとしたような、でもどこか残念そうな声が、隣から聞こえてくる。ノアはその声に口元を緩めながらも、ルカより先に眠りへ落ちていった。

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