Day 10. 移民キャンプ
目を開けると、四つの瞳が見下ろしていた。
ルカと、フィンだ。
ノアはギョッとして、反射的に寝袋に潜り込んだ。
「な、なんなんだ、朝から……」
寝袋の中から、抗議の声を上げる。
寝袋越しに、くぐもった会話が聞こえた。
「ルカ、本当だ」
「な? 言ったろ?」
「ノアの目、明るいとこで見ると、ルカの言う通り宝石みたいだね」
フィンが嬉しそうに言う。
ノアは寝袋から手だけ出して、しっしっと二人を追い払った。笑い声が遠ざかっていく。
気配がなくなってから、ノアはもぞりと寝袋から這い出る。
『目がさ、綺麗だと思ってたんだよ』
初めてルカに会った日、至近距離で覗き込まれ、言われた言葉が蘇る。顔が熱くなり、ノアは寝袋を必要以上にバサバサ振って畳んだ。
(ルカは、たまにああいうことを平気で言う)
瓦礫の中で見つけたペンダントトップを、ナオミにあげようと嬉しそうに拾い上げていたルカの姿が、ふと浮かぶ。
胸の奥が、もやっと重くなった。気持ちが重くなったことに、さらに落ち込む。
(……“天然タラシ”って、テッサも言ってたもんな)
ルカは誰にでもそういう事を言う――それだけのことだ、と寝袋と一緒に、その気持ちも無理やり畳んで押し込めた。
「ノア、これ」
テントから出ると、フィンが何かをぽいっと投げてよこした。慌てて両手で受け止める。
手のひらサイズの黄緑の実。ずんぐりとしていて、皮は薄い。
「これは?」
「ポーポーだよ」
フィンは自分の持っている実を真ん中から割って見せる。
「甘くておいしいんだ」
「俺もう二個食べた」
ルカが得意げに言う。
ノアはフィンの真似をして、両手で実を割る。ぱかりと、綺麗に二つに割れた。
「手で掬って食べるんだ。中の種は取ってね」
言われた通り、指ですくって少しなめてみる。
「……甘い」
「でしょ」
フィンが胸を張る。
「ルカとさっきちょっと散歩したら見つかったんだ。珍しい果物だから、ラッキーだね」
「起こしてくれたら、早く出発できたのに」
ノアが少しだけ眉を下げると、フィンは首を振った。
「俺が早く起きすぎちゃったんだよ。そしたらルカも起きちゃって」
「起きてやったんだよ!」
ルカがフィンを後ろから羽交い締めにする。すっかり仲が良さそうだった。
ポーポーを食べ終え、三人でテントを片づける。
荷物を括り付け終え、ルカが顔を上げた。
「よし。さっそく探しに行くか。どっちのほうに行ったか、わかるか?」
フィンが、国道から外れた草原の奥を指さす。
「馬を連れてるから、多分あっち。餌食べさせながら移動するから」
ルカが頷き、バイクに跨る。
「ほら、乗れよ」
ぽん、と後部座席を叩く。
フィンが、不安そうにバイクを見る。
「それで行くの?」
「バイク、初めてか?」
ノアはフィンを抱き上げ、後部座席へそっと乗せる。そのさらに後ろに自分も跨り、抱き込むように腕を回した。
「大丈夫。俺が支えるから落ちない。それでも怖かったら、ルカに掴まってろ」
フィンはノアを見上げてから、小さく頷き、ルカのブルゾンをぎゅっと掴む。ノアは片手で荷台を押さえ、もう片方の手でフィンの身体をしっかり支えた。
小さな体と、高い体温が懐かしくて、思わず口元がほころぶ。
ぼふっとエンジンがかかり、バイクが滑り出す。フィンの体が緊張で強張るのが、背中越しに伝わってきた。
「移民は、ずっと移動してるのか?」
気を紛らわせるように、ノアは問いかける。
「ずっとじゃないよ。水場がある良い場所を見つけたら、そこでしばらく暮らすんだ」
「何人くらいいるんだ?」
「うーん、今は若い男の人が減っちゃって、二十人くらい」
「減っちゃった?」
フィンがノアを見上げる。
「アッシュ・ベアが襲ってきて、それでみんなやられちゃったんだ」
ノアは眉をひそめた。
「……そうか」
フィンは小さく肩をすくめる。
「野生の動物は仕方ないよ。でも、そのおかげでベアとウルフ避けのお守りができたから」
「お守り?」
「アッシュ・ベアの皮と骨で作るんだ。それをキャンプの柵のとこにいくつか置いとくと、匂いで野生動物が寄ってこないの」
「ほー……」
前から感心したような声が飛んでくる。
「移民の知恵だな。俺の街でも、帰ったら真似しよう」
“帰ったら”
そのひと言に、ノアの胸がずしりと重くなる。
昨日ずるりと引きずり出されたものが、どんどん大きくなっている気がした。
(フィンがいてくれて、良かったな)
ちらっとそう思った。
バイクは草原をひた走る。
短い草に覆われた地面に、ぽつぽつと木が立ち、遠くには大きな家が倒壊したような跡も見えた。
「この辺は、農家だったのかな」
フィンが周りを見回しはじめる。すっかり緊張も解けて、景色を楽しめる余裕が出てきたようだ。
「かもな。地図だと、丘を越えたあたりで水場が見えてくるはずだから、その辺にいるといいんだが……」
ルカは畳んだ地図をちらちらと確認しながら、ハンドルを切る。
「ルカとノアは、なんでバイクで旅してるの? ルカの家ってどこにあるの?」
フィンがルカのブルゾンをつんつん引っ張って尋ねる。
「内陸のほうだ。海を目指して来たんだ」
「海かぁ。通ったことあるけど、塩水で飲めないから寄らなかった。内陸のほうからってことは、あのフェンスの街を通ってきたの?」
「通ってきた。いい所だったぞ」
ノアが答えると、フィンが少しだけ眉をひそめる。
「長たちは、“汚染された街”って呼んでる。だから街の近くは通らないように、いつも迂回してたんだ」
ルカが、ふっと笑った。
「まあ、俺も噂じゃやべぇ街って聞いてたけどな。でも実際に住んでるやつらは、みんないいやつだったよ。汚染っつっても、毒もなんもないしな」
「そうなんだ……」
赤と黄色の小さな花が咲き乱れる丘を、ゆっくりと登っていく。膝丈ほどの草のあいだから、名も知らない花が顔を出している。
タイヤのあとを追うみたいに、花びらがぱらぱらと揺れ、風が、土と草と花の匂いをいっぺんに運んでくる。
「あれはコスモスだよ。よく染め物に使う」
フィンが花を指さして教えてくれる。
「初めて見た」
ノアは感心しながら、花をじっくりと眺めた。
「初めて……?」
ふと、フィンがノアを見上げる。
「ノアは、どこから来たの?」
「俺は、地下から来たんだ」
「えっ」
フィンの目がまん丸になる。
ガバッと後ろを向こうとして、ノアは慌ててその体を両手で支えた。
「地下から来たの!? え、でも……」
フィンは慌てたように自分の体を確かめ始めた。
ノアはその挙動に片眉を上げた。
やがてフィンは、ふーっと大きく息を吐き、また前を向いてルカのブルゾンをぎゅっと掴む。ちらりとノアを振り返る。
「……聞くのと、見るのって、違うことだらけなんだね」
ノアは意味が掴みきれず、首を傾げる。フィンは、少し考えるように言葉を探した。
「長たちが――」
言いかけた、そのとき。
「あ、人がいる」
ルカが前方を指さす。
「え!?」
フィンが身を乗り出して前を見る。
少し離れた丘の下に、数人の初老の男たちがいた。
「あ! みんなだ!」
フィンの声に、男たちが顔を上げる。
「フィン!」
「無事だったのか!!」
手を振る人影がいくつも見えた。
バイクがスピードを落として近づくや否や、フィンは飛び降りて男たちのもとへ駆け寄る。
「どこにいたんだ、フィン! みんな心配して探し回ってたんだぞ!」
「ごめん、長。国道のところで気ぃ失って寝ちゃってたんだ」
「国道……!? あんなとこで逸れたのか!」
男たちは一斉に仰天する。
フィンがこくりと頷き、ルカとノアを振り返る。
「偶然通ったルカとノアが、一緒に探してくれたんだ」
「あんたたちが」
長と呼ばれた初老の男が、バイクのほうを向き、深々と頭を下げた。
「いやはや、なんとお礼を申し上げればいいか……」
「いやいや、全然っす」
ルカが照れくさそうに頭を掻く。
フィンが駆け戻ってくる。
「会えたよ! 本当にありがとう!」
ノアはその小さな頭をぽんと撫でた。
「良かったな、フィン」
フィンは照れながらも、満面の笑みで頷いた。
「じゃ、俺たちは行くわ」
ルカがそう言ってハンドルを切ろうとしたとき、長が慌てたように手を上げた。
「お待ちくだされ! キャンプに寄って行かれませんか? ぜひお礼をさせてほしい」
ルカはノアを振り返る。
「寄って行ってよ!」
フィンが嬉しそうにノアの手を取る。
ノアは肩をすくめて、少し笑った。
「……じゃあ少しだけ、お邪魔するか」
――
丘を下ると、川沿いに円錐形のテントが点在していた。
五つ、六つ。
木の骨組みに革を張った造りで、てっぺんの穴から細い煙がまっすぐ空へ昇っている。
人の数は、多くはない。
焚き火のそばで老婆が大鍋をかき回し、少し離れたところでは女たちが革をなめしていた。
煮込みの匂いと川の水音、革を擦るきしきしという音が、静かな空き地の中で混じり合っている。
テントとテントのあいだには、妙に広い隙間がある。
以前はもっと、たくさんのテントが並んでいたのかもしれない。柵に吊るされた骨のお守りが、風に揺れてからからと鳴っていた。
長とフィンに促され、ルカがバイクを柵の中に停める。
「立派な集落みてぇだな」
感心したようにキャンプを見回した。
「フィン! どこ行ってたの!」
若い女が駆け寄ってきた。黒髪の、美しい娘だ。
「心配したのよ」
「ごめん」
フィンが申し訳なさそうに顔をしかめる。
「この人が、ナディア?」
ルカが尋ねると、フィンが頷いた。
「ナディア、この人がルカ。あっちが、ノア。助けてくれたの」
フィンが指差しながら紹介していく。
「フィンを助けてくれて、本当にありがとうございます」
ナディアは丁寧に頭を下げた。
「いいんだ。フィンがポーポーの実見つけてくれて、振る舞ってくれたからな」
ルカがにこりと笑って答える。
「ポーポー見つけたの? すごい! おいしかったでしょ?」
「甘くてうまかったけど、二個食ったらちょっと胸焼けしたな」
ルカが苦い顔をする。ナディアはくすりと笑った。
ルカとナディアが並ぶと、妙に絵になって見えた。
その光景を見た瞬間、ノアの胸の奥で、また何かがずるりと嫌な音を立てる。
咄嗟に視線を落としたところで、小さな手がノアの指をつかんだ。
「ノア、あっち見に行こう」
フィンが、放牧された馬の方を指差す。
少しほっとしながら、ノアは頷いた。
フィンに連れられて、集落の中を見て回る。
放牧されている馬、羊。どれも地下にもいるが、ここまで間近に見るのは初めてだった。
近くには池があり、初老の女性が桶に水を汲み、洗濯をしている。
「なんか、もうずっとここに住んでるみたいだな」
「みんな、手慣れてるからね」
「テント作るの、上手いわけだ」
「ルカは、テント作るのが下手」
肩をすくめながらフィンが言う。
二人で顔を見合わせてくすりと笑った。
テントのほうへと足を向ける。
木の骨組みに、装飾品のようなものがたくさん吊るされている。フィンは、それで”誰のテントか”を示しているのだと教えてくれた。
しばらくキャンプを見て回ったあと、二人は端の方にある切り株に腰を下ろした。
中央の大きな焚き火の周りに、女たちが集まり始める。長が何かを指示すると、女たちは散り散りになって食事の準備に取りかかった。
「あ、俺も手伝ってこなきゃ」
フィンが慌てたように立ち上がり、駆けていく。
ノアは木の隙間から空を見上げた。
日はどんどん暮れていく。そう長居をするわけにもいかないと思い、ルカを探した。
少し離れたところで、ナディアがルカに何かを案内しているのが見える。
ルカが楽しそうに笑っている。
咄嗟に目線をそらした。
(邪魔するのも、悪いか)
小さいため息を落とし、ノアは立ち上がる。水辺の方を見ると、何かに苦戦してるフィンの姿があった。
「フィン、何か手伝えるか」
フィンの元へ歩み寄る。
魚を捌くのに手こずっているようだった。
「え、お客さんなんだから、ゆっくり待ってて」
「手伝わせてくれ。魚切るの、うまいんだ」
「え、そうなの? やってみせて! 俺、苦手なんだこれ」
ナイフを渡される。
ノアが手際よく魚をさばいてみせると、フィンが「すごい!」と目を輝かせた。
「ここに斜めにナイフを入れると綺麗に三枚に下ろせる」
「やってみる!」
「中骨まで切るなよ。裏返して、同じようにする」
ナイフを渡し、後ろから少しだけ指示を出す。
フィンは指示通り、器用に魚を切っていく。
「わ、綺麗にとれた!」
振り向き、にっこりと笑った。
その純粋な笑顔に、ノアは少し救われる気がした。
今、自分がどんなひどい顔をしているかなんて、考えたくもなかった。
地下にいた頃も、どれだけ嫌なことがあっても、ノエルがくだらないことで笑っていれば、それだけでどうでもよくなった。そんなことを思い返す。
「ノア!」
ルカの声が聞こえ、はっとして顔を上げる。こちらへ駆け寄ってくるところだった。
「どこにいたんだよ。日が暮れてきたし、そろそろ――」
ルカが言いかけたところで、長がやってくる。
「お二人とも。お食事の前に飲み物をご用意しております。中央まで来てくだされ」
「あちゃー」
ルカが困ったように笑う。
ノアは軽く肩を上げると、何も言わず長のあとについていった。
――
中央の大きな焚き火のまわりに、色とりどりの布が敷かれていた。
「あなたはこちらに」
「あ、はい」
長に促されて、ルカは赤い敷布の上に座る。ノアは反対側に敷かれた黄色の布の上に座るように案内された。
初老の女が、大きめの木のカップを持ってくる。
「ベリーをしぼったジュースよ」
「ありがとうございます」
受け取って、一口飲む。甘酸っぱくて、口当たりのいいジュースだった。
「うま」
焚き火を挟んだ向こう側から、ルカの声が聞こえる。
「ベリーは採れたてだから、新鮮なのよ」
そう言って笑うナディアの声も耳に届いた。
(……早く、出発したい)
ノアは空を見上げる。日はすでに傾きかけていた。
移民のキャンプは、独特の生活感があって素敵だと思う。
フィンみたいにしっかりした子が育つのも、なんとなくわかる気がした。
けれど今は、とにかく一刻も早くここを離れたかった。
ここにいると、どんどんと、自分勝手で、醜い気持ちが顔を出してくる。
そんなものは奥の奥に押し込めて、ただ、ノエルを海に連れていきたいだけなのに。
(……それも十分、自分勝手か)
今日何度目かわからないため息が、ふっと漏れた。
やがて人々が次々と焚き火の周りに集まり、豪華な料理が運ばれてくる。
手伝いを終えたフィンも戻ってきて、ノアの隣にちょこんと座った。
長が少し高い木の椅子に腰掛け、食事が始まる。
その途端、ノアのまわりに人が集まった。
「移民の生活はどうだい?」
「なぜバイクで旅を?」
「どこに行こうとしてたの?」
一気に質問が飛び交い、ノアは目を瞬かせる。
「そんな一気に聞いたら、ノアが困っちゃうよ!」
フィンが笑いながら制してくれる。
ノアは曖昧に答えながら、器を口に運ぶ。どれも地下では味わえない、独特の風味がある味だった。香ばしく、美味しいはずなのに、今はあまり喉を通らなかった。
「美味しくない?」
フィンが心配そうに覗き込む。
「とてもおいしいよ。元々、少食なだけだ」
そのあとも、ぽつぽつと投げかけられる質問に答えているうちに、夜はだいぶ深くなっていた。
焚き火の向こう側では、ルカのほうも何やら盛り上がっていた。あまり耳を澄ませたくなくて、そちらから意識を外す。
「あなた、色白で……青い目をしているのね。目が青い人は、生まれて初めて見たよ」
初老の女が話しかけてきて、ノアはそちらへ顔を向けた。
「ルカにも言われたけど、地上は、青い目の人は少ないんですか? 地下では、わりといますよ」
ノアがそう返した瞬間、
「……あ」
隣でフィンが、小さく声を上げる。
「え?」
ノアがフィンを見ると、フィンは気まずそうに眉を下げた。
「あなた、まさか……地下の人なの?」
初老の女が表情を強ばらせて尋ねてくる。
「……はい。地下の出身ですが」
そう答えた途端、女はわずかに顔を背けた。彼女だけではない。近くで話を聞いていた人々も、そろって視線を逸らし、次々と立ち上がる。
長だけが、険しい表情でノアを見ていた。
嫌な予感が、背筋をひやりと撫でる。
「あの──」
何か言おうとしたとき、長が立ち上がった。
「さてと」
長はまず、ルカのほうを見た。
「もう夜が更けてきました。テントを用意しましたので、今夜はどうぞゆっくりお休みください」
そう言って、大きく立派なひと張りのテントを指さす。木の骨組みに、犬の彫刻のような装飾が掛けられている。
「ルカさんのテントは、あちらになります」
「え……? あ、はい」
ルカが立ち上がる。ようやくこちらと目が合った。
困ったように肩をすくめる。
何か話をする間もなく、ルカは人々に囲まれてテントへと連れていかれた。
「ノアさん」
長がノアのほうへ向き直る。
「先ほど、地下の出身だとおっしゃいましたな。本当ですか?」
「……はい」
「では、今すぐにここから出て行ってもらえますかな」
静かな口調で告げられる。
心臓が嫌な音を立てた。
「え?」
「汚染された地下の人間がいると、キャンプの中まで汚れてしまうからな」
「汚染……」
ノアは戸惑い、言葉を失う。
次の瞬間、数人の男たちが立ち上がり、ノアのまわりを囲んだ。
思わず一歩、後ずさる。
「早く出ていきなさい」
「穢らわしい」
ぽつり、ぽつりと冷たい言葉が飛んでくる。
ノアは眉をひそめる。
言い返そうとして──ふと、ユーリの言葉を思い出した。
『地上は毒が蔓延している』
地下では、そう教えられている。
地上もまた、地下を「汚染された場所」だと信じているのなら──
お互い様なのかもしれない。
そう思ってしまった瞬間、反論する気力がふっと萎えた。
ノアは踵を返し、キャンプの入口の方へ歩き出す。
(ルカに、伝えないと)
どうやって話すかを考えていると、
「ノア!」
小さな声で呼ぶ声がした。
振り返ると、テントの影からフィンが手招きをしている。
ノアはちらりと焚き火のあたりを見やる。もう誰もこちらを気にしていないようだった。
ノアは小走りで、フィンのもとへ向かう。
「みんなが、ごめん。汚染なんて嘘だ。一緒にいても、俺もルカもなんともないじゃないか。それに、ノアはすごく優しいのに」
今にも泣き出しそうな顔。
ノアは小さな頭にそっと手を置き、やさしく撫でた。
「いいんだ。地下でも、地上には毒があるって言われてる。お互い、よく知らないだけだ」
フィンはきゅっと眉を寄せる。
「……俺は、聞いたことより、自分で見たことを信じる」
ぽつりと呟いたあと、ノアの手をぎゅっと握る。
「ルカを呼びに行こう。こっちからなら、ルカのいるテントの裏に回れるから」
そう言って、ノアの手を引いた。
二人でこっそりルカのテントへ近づく。
そのときだった。
テントの裏から壮年の女が現れ、鉢合わせる。
「地下の……早く出てっておくれ!」
鋭い目つきで睨まれる。
ノアは小さく息を吐いた。
「ルカを呼びに来たんだ。すぐに出ていくから」
女は薄く笑う。
「もう一人の子は地上の子だろう? 若いし、“ここにいてもらわない”と」
ノアは意味がわからず、眉を顰める。
「今、ナディアがテントに行ってるよ。二人でお楽しみ中なんだ。邪魔しないでおくれ」
吐き捨てるように言われた瞬間、テントの中から女の楽しそうな笑い声が聞こえた。
犬の装飾がぶら下がるテント──ルカにあてがわれたテントだった。
その一瞬で、ノアの頭の中が真っ白になる。
「おばちゃん! ノアとルカは一緒に旅してるんだぞ!」
フィンの抗議の声が聞こえる。
「子どもは黙ってな!」
女の叱責がかぶさる。
全ての音が、遠くなる。
気がついた時には、ノアは走り出していた。
ルカのバイクのところへ駆け寄り、自分のバックパックだけを乱暴に引き抜く。
柵の扉を勢いよく閉めると、吊るされた骨のお守りが、カランと乾いた音を立てた。
「ノア!! 待って!!」
フィンの叫び声が背中に飛んでくる。
けれど、ノアには届かなかった。
ノアの頭の中には、ただあの、高い女の笑い声だけが、いつまでも反響し続けていた。




