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Day 1. シャフトの向こう



 ――どれくらい登ったのだろう。


 梯子を掴む手も、身体を支える足も、がくがく震えていた。錆びた桟のささくれが手袋に引っかかるたび、無性に腹が立つ。


 直径三メートルほどのシャフト。広すぎて、落ちたら終わりだと想像できてしまう。


 非常灯だけが、仄かな光を落としていた。


(……あと、どれくらいだ)


 ノアは大きく息を吸って、吐いた。

 

 ガスマスクのせいで、呼吸が余計に重い。自分の息の音が、内側でやけに響く。


 下を見て、距離を確かめたい。

 でも、段の向こうを覗く勇気が出ない。


 五十メートルおきの踊り場を目指して登り、休み、また登る。それだけをひたすら繰り返してきた。


 やがてまた、踊り場に出る。

 よじ登るように床へ転がり、仰向けになった。


 息を整え、腕を持ち上げようとする。

 重い。鉛のようだ。


「休みすぎたら、動けなくなるな」


 自分に言い聞かせて、ゆっくりと身を起こした。


 ふと、コンクリート壁に剥げかけた白い文字が見える。


 -50


「……あと、五十メートル」

 喉がなった。


 腕も膝も震えたままだ。

 身体は悲鳴を上げているのに、その二桁が気持ちだけを急かす。


 次の段へ、手を伸ばす。


「……っ」


 指が滑って、片手が外れる。


 反射で腕に力を入れ、もう片手だけで身体を堪えた。肩が裂けそうになる。


 掴み直す。

 ゆっくり。けれど、止まらずに上へ。


 視界の上に、丸い影が見えてきた。


(……ハッチだ)


 分厚い金属板。

 縁に取り付けられた開閉レバーへ手を伸ばす。


 届いた瞬間、腕が笑った。

 がくがく震え、力が抜ける。


「くそ……っ」


 一度、握り直す。歯を食いしばり、肩から押し上げる。体重もかける。――びくともしない。


 力んだ反動で、全身から力が抜けていく。

 視界が一瞬、白く飛びかけた。


(ダメだ……いったん戻るか。五十メートル下って、少し休んで――)


 そう思い、一段下の桟へ足を掛けた、その時。


 頭上で、何かが軋む音がした。 直後、ゴンと鈍い衝撃が響き、錆の欠片が雨のように降り注ぐ。


 閉ざされていた円形の闇に、鋭利な亀裂が走った。


 ――光だ


 裂け目から射し込んだ白光が眩しくて、ノアは反射的に目を細めた。


(……出口)


 最後の力を振り絞って登ろうとする。

 なのに、身体が言うことをきかない。指が固まって、桟を握り直せない。


 光の中で、影が屈み込む。

 

 伸びてきた手が、ノアのバックパックを掴んだ。


 次の瞬間。

 バックパックごと、ぐい、と引き上げられる。

 思わず梯子を掴もうとした手が、ふいと宙をかいた。


 そのまま強い力に引かれて外に躍り出る。

 

 硬い地面に転がった。

 土埃が舞い、喉の奥がざらつく。


「は……っ、はぁ……」


 仰向けのまま、立ち上がれない。

 首の脈が、どくどく跳ねる。


 視界が光に慣れてきて――空が見えた。


 灰色の膜みたいな靄が、壁のように垂れている。


「……これが、空」

 

 ガスマスクの中に声が響いた。


 耳元で、ザリ、と砂を踏む音。


「おいおい。まさか、あんた――地下から登ってきたのかよ」


 その声に、ノアの呼吸が一瞬止まる。


 跳ね起き、声の方を見る。


 「……ノエル?」

 

 愕然と呟いた。

 

 立っている男は、ついこの間亡くなった弟に、声も、輪郭も、シルエットもよく似ていた。


 ノアは口を開けたまま、まるで時が止まったかのように凍りついていた。


「あ? なんて?」

 

 男が首を傾げる。

 そして、上から下までじろりとノアを見た。


「てかさ。何でそんなマスクしてんの」

 

 ノアは、はた、と瞬いた。


 目の前の男は、ガスマスクなんてしていない。

 地表の空気を、むき出しで吸っている。


 ブルゾンのジャケットに黒いシャツ。

 だぼっとしたズボン。軽装すぎる。


 ――地上には毒が蔓延してる。これを持っていきなさい。


 ガスマスクを渡してくれた、軍人の友の顔が脳裏をよぎる。


「地上には……毒が……」

 

 ようやく、それだけ言えた。


 男は困ったように笑う。


「この辺は、毒なんか……もうとっくに消えてるよ」


「そうなのか」


 呟き、ノアはマスクの縁に指を掛けた。

 ゆっくりと持ち上げる。


 ひんやりした風が、湿った頬を撫でた。

 

 空気が軽い。胸の奥まで入ってくる。


 目を閉じ、息を吸って、吐く。

 知らない匂いが、いくつも混じっていた。


 開けた視界で、周りを見渡す。

 空き地のような場所。

 緑が生い茂り、瓦礫が散らばっている。


 どれも"地下"では見たことないものばかりだった。


 ふと、男を見る。


(……こうして見ると、少し違うか)


 体格と雰囲気は弟に似ている。

 でも髪の色も、目の気配も、わずかに違う。

 男の髪色は赤茶色で、優しく少し垂れた目をしていた。

 弟はノアと同じ、ブルーグレーの髪色だ。


 見つめていると、男もぼうっとノアを見返していた。


 ノアは眉をひそめる。


「あのさ」


 男がはっとして、気まずそうに頷く。


「あ、あぁ」


「あんた、地上に住んでるのか?」


 ――人がいるなんて、思ってもみなかった。

 怪訝な顔のノアに、男は手を差し出す。


「ルカ。生まれも育ちも地上だよ。初めまして、地下の人」


 にこり、と人懐っこく笑う。

 その笑顔にまた弟が重なって、胸の奥がじくりと痛んだ。


 ノアは差し出された手を軽く握り、すぐに目を逸らした。


「ノアだ。……まさか地上に人がいるとはな」


「んー、割といるぜ。あっちの方にみんな住んでる」


 顎で示した先。倒壊して錆びたビル群。木の根が絡みつき、歪な塔みたいに聳えている。


「で」

 

 ルカがノアを見る。

 

「地下の方が快適だろ。何しに地上に来たんだ?」


 はっとしてノアは腰のポーチを確かめる。

 中の革袋に触れて、小さく息を吐く。


「海って、どこにある?」


「……え、海?」


 ルカが瞬く。


「そう。海」


 ルカは頭をがしがし掻いて、困ったように言う。


「ここ内陸だしな。海なんて近くにねぇよ」

 

「方向だけでいい」

 

「方向なら……」


 ルカはノアの左後ろを指差した。


「多分、あっち」


「ありがとう」

 

 踵を返して歩き出す。


「え、おい、待て待て!」

 

 足音が迫る。ノアは振り向き、片眉を上げた。


「これから……しかも歩きで行く気かよ!?」


「近くにはないことは承知の上で来た。大丈夫だ」


 また前を向こうとしたところで、肩を掴まれて止められる。


「マジで言ってんのかよ。……いや、そしたら……ちゃんとした道、地図で調べるから。今日はいったん俺んち来いよ」


 ルカが空を見上げる。


「もうすぐ夜になるし……雨、来るぞこれ」


 肩を軽く叩かれた。


「ここ登ってきて疲れてるだろ。泊まってけ。な?」


 ノアも空を見る。薄灰色の膜が、少しずつ黒く濃くなっていた。


「……そういうなら、お邪魔させてもらう」


 ルカが、ほっとしたみたいに笑った。


「よし。雨降る前に行こうぜ。こっち」

 

 ルカが歩き出す。

 チラリとノアを見た。


「なんつーか……すげぇ色だな。宝石みたいだ」

 

 ルカが不意に足を止め、まじまじと覗き込んでくる。

 その無遠慮な視線に、ノアはたじろいだ。

 

「え」

 

 我に返ったように、ルカがばっと顔を背ける。

 耳の端が僅かに赤い。

 

「いや、なんでもない! 行こうぜ」


 早口で誤魔化し、ルカは逃げるように歩くスピードを上げた。

 

 その背中を追い、廃墟群の方へ向かった。



 ――



 崩れかけたビルが、左右にそびえている。壁を蔦が這い、割れた窓から雑草が垂れていた。

 

 かつては道路だった通りは、ひび割れたアスファルトを緑に突き破られ、形だけが残っている。


 見上げると、ビルとビルの隙間から空が覗いていた。黒く膨らんだ雲が、真上で重なっている。


 やがて、その雲から雫が落ちてきた。


「やべ、降ってきた」


 ルカが走り出そうとする。

 ノアはその場で足を止めた。


 雨がバチバチと音を立てて、亀裂の入った灰色の地面を黒へと塗り替えていく。


 全部が、地下では見たことのない景色だ。

 

 崩壊と、再生。人のいなくなった街を、自然が静かに飲み込んでいる。


「……すごいな。雨、初めてだ」


 雨に打たれながら呟いた声は、自分で思っていたより掠れていた。


 目に水が入り、頬を流れる。

 泣いてる時のようだ、と思った。


 あの日から、乾ききったように涙は出ないのに。


 ルカはその様子に、呆れたように、でも優しく笑う。


「ほら、風邪ひくって」


 そう言ってノアの腕を取り、瓦礫の中を進んだ。


 少し進むと、人の気配が濃くなってきた。

 同じように倒壊しかけたビル。けれど、窓にはガラスがはめ直され、布が掛けられている。


 ビルからビルへ紐が渡され、洗濯物がぶら下がっていた。それを慌てて手繰り寄せる人たちの姿が、ちらほら見える。


 ルカはノアの腕を取ったまま、手前の、小さめの白いビルに駆け込んだ。


「うーわ、びしょ濡れだな、こりゃ」


 水飛沫を飛ばしながらブルゾンを脱ぐ。たくましく日焼けした腕がのぞいた。


 エントランスを抜けると、白い螺旋階段が伸びている。


「ここ」


 階段を上がりきると、狭い廊下。左右に扉が並んでいる。

 ルカが左側の扉に手を掛けたとき、反対側の扉が先に開いた。


「ルカ〜? 帰ったの?」


 顔を出したのは若い女だった。巻いた髪にぱっちりした瞳。へそが見える短いシャツに、短いスカートという軽装。


「ナオミか。今帰ったとこ」


 ルカが視線の端だけで答える。


 ナオミがノアに気づいた。ぱっと目を輝かせる。


「え、誰!? かっこいい!」


「言うと思った……」

 

 ルカがぼそっとこぼす。

 ノアはちらりとルカを見てから、ナオミに向き直った。


「ノアだ。地下から来た」


 その言葉に、ナオミはさらに目を丸くする。


「マジで!? ち、地下!? ちょっと待ってて!」


 弾む声を残し、部屋へ引っ込む。続けて、「マキナばあちゃーん!」という叫び声。


 少しして、中からナオミと老女が顔を出した。


「まぁまぁ、ルカ。おかえり……そっちの人は?」


 優しく、柔らかい声だった。


「マキナばあちゃん、ただいま。こいつはノア。外回りしてたら、たまたま例のシャフトから音がしてさ。開けたら出てきた。地下から来たってさ」


 マキナは少し驚いた顔でノアを見上げる。


「まさか、あのシャフトを登ってきたのかい?」


「シャフトのこと、知ってるんですか」

 

 ノアが思わず聞き返すと、マキナは穏やかに頷いた。


「ええ、よく知ってるよ。私が小さい頃ね、あのシャフトから登ってきた地下の人たちがいたんだよ。この一帯に電気が通ってるのも、水があるのも、その人たちがソーラーパネルを並べたり、川の水を濾過する装置を作ってくれたおかげなの」


 懐かしそうに目を細める。


「私たちが今、お日様を見ながら暮らせるのは、その人たちのおかげ。だから、地下の人はいい人だって、私は知ってるのよ」


「そんな人たちがいたとは……」

 

 ノアは目を瞬かせた。


「地下では、地上は毒が蔓延して住めないって、教えられてます。だから人が普通に暮らしててびっくりしました」


 ナオミが呆れたように肩を上げる。


「この一帯は、毒はとっくに消えてるんだけどねぇ」


 マキナはナオミの肩をぽん、と叩く。その顔は少し寂しげに見えた。


「地上は、地下ほど物資が豊かじゃないものね。みんなで作物を作ったり、ルカみたいな若い子が狩りに出たりしてる。それをわかってるから、地下から出したくないのかもね。でも、地上だってとても良い所なのよ」


 ノアはその言葉に小さく笑って頷いた。


「へっくし!」


 隣でルカが盛大なくしゃみをする。


「おい、マジで風邪ひく。じゃ、またな、二人とも!」


 そう言い残して先に部屋へ駆け込む。

 ノアは軽く頭を下げてから、そのあとに続いた。


 マキナとナオミは、にこにこと二人を見送った。



 ――



 部屋は想像よりずっと整っていた。

 

 簡素なキッチンと小さなテーブル。奥の部屋にはベッドとクローゼット。


 地下の部屋と大差はない。

 違うのは、壁のあちこちに亀裂が走っていることくらいだ。そこも、セメントで埋めて補強されている。


「へぇ……思ったより、いい部屋だな」

 

 ノアが感心したように呟く。


「まぁ、たまにナオミが掃除してくれるしな」


 クローゼットを漁りながら、ルカが答えた。


「あのナオミって人、あんたの彼女か何かか?」


 ノアが何気なく聞くと、ルカが焦ったように顔を上げた。


「幼馴染だよ! 親が俺が八つのとき死んでさ。そっからずっと、マキナばあちゃんが二人まとめて面倒見てくれてんの」


 言いながら、ノアに服を放る。白いシャツと、少しゆるめのボトムだ。


「あんま着てねぇやつだから」

 

「どうも」


 ノアは大きなバックパックを下ろした。

 途端に体が軽く感じる。


「シャワーあるから、先入っていいぞ」


「シャワーって……ほんと普通に暮らしてるんだな……」


 周りを見渡しながら、ノアは思わず眉を上げた。



 ――



 雨脚が少し弱まった頃。

 

 ノアは窓際に立ち、外を眺めていた。


 少し小さくなった雨の粒が、ベランダの錆びた鉄柵に跳ねている。その向こうには、倒壊しかけた建物と瓦礫の列。

 

 ビルとビルの間を縫うように、細長い畑が広がっていた。


(地下とは、まるで違う景色だ)


 ――地下都市。

 昔、地表に住めなくなった人々が作った大型シェルター。

 ドーム状に広がる街並みは、人工の太陽がいつも同じ光を降らせている。作物も肉も植物も、すべてがドームの中で栽培されていた。

 手伝いロボットやドローンが飛び交い、生活を支える。不自由のない社会。それが、ノアのいた地下だった。


「雨は珍しいのか、やっぱり」


 窓にノアよりも少し高い影が映り込む。

 いつの間にかシャワーを終えたルカが、隣に立っていた。


「地下に雨は降らないからな」

 

 ノアは窓の外を見たまま答えた。

 

 ルカはその様子を見て、腕を組む。


「なぁ、なんで海に行きたいんだ?」


「……行かなきゃいけないから」


 ノアはルカの方へ向き直る。

 真っ直ぐに目を見る。


 ルカは少し困ったように眉を寄せ、ふう、と息を吐いた。


 ダイニングに向かうと、机の上に一枚の紙を広げる。


「これ、むかーしの地図な」


 ノアも横から覗き込む。


 地図には、海と書かれた青い帯。けれど、ルカの指はそこから大きく離れた内陸を指した。


「ここが、今俺たちがいるあたり。ざっと、海まで七百キロくらい。……歩いたら、早くても一ヶ月はかかるぜ」


「まぁ、そのくらいはかかるだろうと思ってたからな」


 ノアは平然と言った。


「ゆっくり行くさ」


 ルカは苦い顔をする。


「つっても、これは昔の地図だ。今はあちこち地盤が崩れてて、通れねぇ道も多い。毒がまだ残ってる場所もあるし、野生の動物もいる」


 ノアは肩をすくめた。


「まぁ、死んだら死んだだな」


 ルカは額を押さえ、天井を仰ぐ。


「……はぁ」


 長いため息のあと、眉根を寄せながら腕を組んで考え込む。


 やがて、指で地図の一点をとん、と叩いた。今いる場所と海の、ちょうど中間あたり。


「……そしたらさ。内陸が特にヤベぇんだよ、野生の動物も多いし、毒がある箇所も多い。だから、俺のバイクでこの辺まで送ってやる」


 ノアは目を見開いたまま、しばし言葉を失う。


「……マジか……いや、でも」


 少し視線を落としたところで、コンコン、とノック音。返事を待たずにドアが開く。ナオミだった。


「マキナばあちゃんがさ、二人で食べなーって」


 スープの入った鍋を抱えている。


「お、ラッキー。お礼言っといて、ナオミ」


 ルカが鍋を受け取ろうとするが、ナオミは手を離さない。


「ねぇ」

 

 ナオミがニヤリと笑って、何かをルカに耳打ちする。ルカがぴしっと固まった。


 耳を赤くしながら、無理やり鍋をもぎ取る。ナオミは満足そうに笑いながら廊下へ出ていった。


「あ、ナオミ」

 

「なにー?」

 

「俺、明日からしばらく外出るわ。みんなによろしく。あと掃除もよろしく」


 背中に向かってさらりと言った。


「はぁ!?」

 

 ナオミが勢いよく振り向く。


「頼むって。なんかいいの見つけたら、拾って帰るからさ」

 

 ルカは笑顔を作り、鍋を少し持ち上げる。


 ナオミは呆れたようにため息をついた。


「は〜……もう、好きにしなよ」


 そう言って出ていった。


「よし、決まり」


 ルカがノアの方へ向き直り、にこっと笑う。

 ノアは眉を下げた。


「助かる、けど……なんか悪いな」


 頬をかきながら言う。


 ルカは鍋をキッチンに置き、戻ってくる。


「報酬、もう貰ったし」


 目を細めて、ふっと笑う。

 

「……?」

 

「さっき。近くで見れたから」

 

 意味がわからず眉をひそめると、ルカはノアの目の当たりを指差した。

 

「青い目って、地上じゃ滅多に見ねぇからさ。……宝石みたいで、綺麗だった」


 最後の言葉だけ、独り言のように声が落ちる。 ノアは返す言葉を失う。

 

 ルカは笑って、肩をすくめた。


「あとは、道中で地下の食いもんなんか食わせてよ」

 

「……それが本命か?」

 

「まあね」

 

「それくらいなら、いくらでも」


「やったね」


 ルカは満足そうに笑って、キッチンに向かった。


「よし、飯にするか」

 

 鍋をテーブルに運んでくる。

 マキナのスープは、見た目は素朴なのに、驚くほど旨かった。根菜と豆の煮込み。骨付き肉をほぐした香りが、狭い部屋いっぱいに広がる。


「地上の飯もなかなかうめぇだろ?」


「肉とかも、あるんだな」

 

「俺もだけど、割と若めの連中が狩りやったり、釣りやったりして肉とか魚集めるんだよ」

 

「釣り?」

 

 ノアが首を傾げる。その様子にルカはくすりと笑う。


「通り道に川があるから、釣り教えてやるよ」


「ルカは、歳はいくつだ?」

 

「え? 二十三だけど」

 

 ノアはへぇ、と声を漏らす。

 

「一個下か。なんか、なんでも知ってるから上かと思った。……背もデカいしな」

 

「背は関係なくね?」

 

 言いながら、パンを切ってノアに渡す。


「てか、ノアは地下で何やってたんだ?」

 

「軍関係の仕事だ」

 

「マジかよ! そのナリで!?」

 

「そのナリって、なんだよ」

 

「だって」


 言いかけてやめる。

 嘘だろ、という顔でノアの全身を眺め回す。


「……想像つかねぇな」

 

 ボソリと呟いた。


「軍人って言っても、ドローン専門技師なんだ」

 

「ドローン?」

 

「空飛ぶ小型偵察機。俺はそれの遠隔操作と整備担当」

 

「へぇ〜、なんかすげぇな」

 

「……ただの裏方ってことだ」

 


 二人はマキナのスープをきれいに平らげ、明日に備えて早めに休むことにする。


「一緒に寝る?」


 ルカがベッドをぽんと叩きながら聞いてくるのを無視して、床に借りた寝袋を広げる。


 静かになった部屋には、雨がガラスを叩く音だけが響いていた。



 ――



 ノアはその夜、夢を見た。


 軍隊に合格した日のこと。


 家に帰ると、三つ下の弟のノエルがソファでくつろいでいた。宙に浮かぶホロモニターが、青白い光を部屋に散らしている。


 ノエルはノアの気配に気づいて顔を上げた。


『おかえり』


『ただいま……って、まーたそれ見てんのか』


 ホロに映っているのは、大昔の地上のスポーツ。サーフィンという競技だ。


 ノエルがやっているウェーブボードによく似た動き。ただ、ウェーブボードの人工プールとは違い、画面の中のボードの下には、果てしなく広い水の面が広がっている。


『海、いいよなぁ。こんな広いとこでボード乗ってみてぇ』


 ノエルは目を輝かせながらホロを見つめていた。


 ボンボン、と自分の横を叩く。


『兄貴、兄貴。ほらこっち、来て!』

 

『今帰ってきたばっかだぞ』

 

『一緒に見るぞ!』

 

『飽きるほど見てる』


 言いつつ、こうなったら聞かないのはわかっている。仕方なくノエルの横に腰を下ろした。横目でノアの存在を確認し、ノエルは満足そうにまたホロに目をやる。


『今度この技決めよう』

『ほら今の! もう一回みよ』


 一人でわいわいと盛り上がり、たまにノアを見る。いつもこうだ、付き合わないと、不貞腐れる。いい大人になってきてもそれは変わらない。


 ふと、ノエルが何かを思い出したかのようにノアを見る。


『そういや兄貴、配属、ドローン技師だって? けっこう狭き門じゃん』


 ノアは立ち上がり、キッチンに向かった。壁に浮かぶ操作ホロに指を伸ばす。アイコンに触れると、カウンターの端に湯気の立つカップがひとつ現れる。


『まぁな』

 

 短く返事をし、コーヒーをひと口啜る。


 ノエルは少し眉をひそめる。


『本当にそこは危なくないんだよな?』


『危なくない。前線に出るのは俺じゃなくてドローンだからな』

 

 ノアはニヤリと笑ってみせる。

 

『それより』

 

 カップをテーブルに置く。

 

『次のウェーブボードの大会、いつだっけ?』


 ノエルは一瞬、天井を見上げてから答えた。


『あー……八日後か。なに、見に来てくれんの?』


 ノアは肩をすくめる。


『名門セントラルカレッジのスーパースターを見に行かないわけないだろ』


『兄貴来るとうるせぇんだよな。あの時はああすりゃよかったとかさ』

 

 文句を言いながらも、どこか嬉しそうな声だった。


 ふいに、ノエルの表情が曇る。


『兄貴も、ウェーブボード才能あったのに。俺のために……』


『だから、ちがうって』


 ノアはさえぎるように言った。


『俺は現実主義なんだよ。お前の方が才能がある。さっさとスターになって、俺を楽させてくれ』


 そう言って、コーヒーカップを手に取り、ノエルの方に軽く突き出した。


 ノエルは少し困ったように眉を下げた。


『……いつもありがと、兄貴』


 柔らかく、懐っこい笑顔。

 自分と同じブルーグレーの髪が、ホロの光を受けて揺れた。



 ──そこで、ふっと意識が浮かぶ。


 知らない天井。


 少し高い位置のベッドでは、今日出会ったばかりの男が、静かな寝息を立てていた。


 ノアは寝袋の横に置いた荷物へ手を伸ばす。腰のポーチを引き寄せ、中の革袋を指先で確かめた。


 ちゃんと、そこにある。

 

 もう、声は聞けない。


 ノアはそっとそれを戻し、ポーチの上に手を置いたまま、もう一度目を閉じた。

 

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