アストリアの暗殺者 世界ライトヘビー級王者 ポール・バーレンバッハ(1901-1985)
バーレンバッハは厳密に言えば元聾唖者で、奇跡的な回復後に一流アスリートになったが、耳は聞こえずらかったようで、セコンドの指示が聞き取れないため、モールス信号のようにセコンドがリングサイドで足踏みをすることで指示を伝えていたとも言われる。また、レスリングあがりのせいかフットワークは鈍重だったが、相手の体重の掛け方をリングの浮き沈みから感じ取ることで、防御姿勢も変えていたという。
聾唖者が奇跡的にハンディを克服し、やがては世界チャンピオンになるという、まるでヘレン・ケラーの男性版のような夢物語の主人公が、「アストリアの暗殺者」と恐れられた元世界ライトヘビー級チャンピオン、ポール・バーレンバッハである。
ニューヨークのアストリアにドイツ人の父とフランス人の母の間に生まれたバーレンバッハは、二歳の時に猩紅熱で聴覚を失って以来、十八歳まで音のない世界の住人だった。そんな彼にある日奇跡が起こる。
上げていた凧が電線にからまって困っている子供のために、電信柱によじ登って糸をほどいていたところ、運悪く高圧電線に触れ、失神したまま約四メートルの高さから地上に落下してしまった。幸い大事には至らなかったが、目を覚ましたバーレンバッハは突如異変に気がついた。音が聴こえていたのである。
言語が明瞭に話せるようになるまでにはさらなる治療を要したものの、これまでの視覚と触感、振動にのみ依存した世界から五感がフルに活用出来るようになったことで、アスリートとしての才能が開花し、ニューヨークアスレチッククラブ(通称・NYAC)で始めたフリースタイルレスリングの腕もメキメキ上達していった。
一九二〇年、十九歳の若さでアントワープオリンピック代表に選出されながら、怪我のために本番には間に合わなかったが、二年後の一九二二年度はAAUライトヘビー級チャンピオンになった。
全米アマチュアレスリングの頂点を極めただけでも大したものだが、すでにレスリングと併行してボクシングにも熱中していたバーレンバッハは、同年のAAUボクシングトーナメントにも出場している(予選敗退)。
彼にボクシングを指導したのは、NYACでインストラクターをしていたダン・ヒッキーである。
ボクシング史上初の三冠王、ボブ・フィッシモンズをコーチしたこともあるヒッキーは、指導を始めて間もなくバーレンバッハのボディブローは相手のスタミナを奪うというレベルではなく、一発で相手を仕留めるフィニッシュブローの域に達していることを見抜く。その威力はソーラープレクサスブロー(鳩尾打ち)でヘビー級を征したフィッシモンズに勝るとも劣らなかった。
ボクシングを始めて日が浅く、さしたるテクニックも持たないバーレンバッハがレスリングとの二足のわらじにもかかわらず、アマチュアで十三連続KO勝利を含む十六勝一敗(十三KO)という好成績を残せたのは、フィッシモンズばりのボディブローに拠るところが大きい。
ヘッドギアで頭部は保護されているアマチュアでも、ボディへのパンチのダメージだけは緩和しようがない。しかもバーレンバッハのボディブローは世界チャンピオンクラスの威力ときているから、クリーンヒットしさえすればアマチュアボクサーなどひとたまりもない。アマ五戦目からは八人連続一ラウンドで沈めているように、バーレンバッハの両拳はまさしく一撃必殺の凶器だった。
翌一九二三年、AAUフリースタイルレスリングで二連覇を果たしたところで、同年十月には生活のためにプロボクサーとなる。
二十二歳というやや遅咲きのデビューながら、いきなり十連続KO勝利をマーク。元々知名度があるだけにあっという間にニューヨークきっての人気ボクサーとなった。しかも驚くなかれデビューから一年間で二十二試合にも出場しているのだ。
ボクシングの経験が浅いぶん実戦を数多くこなすことで身をもって技術をマスターしようとしたのかも知れない。以後宿命のライバルとなるジャック・デラニーに四ラウンドTKOで連勝を止められたものの、この間、十八勝一敗(十八KO)二引分け一無判定というのは掛け値なしに一級品である。
唯一の黒星であるデラニー戦にしても、デビューからわずか半年の新人に対し、その四倍以上の試合経験を持つ次期世界チャンピオン候補をぶつけること自体が非常識だったため、一部のファンの間ではアマレスあがりのグリーンボーイの活躍ぶりを妬んだコミッショナーによる謀略説まで囁かれたほどだ。
それにしてもこれだけキャリアの差がありながら、二ラウンドと三ラウンドにはデラニーからダウンを奪い、あわやKO勝ちというシーンもあっただけに、この新人やはりただ者ではなかった。
クールな容貌と戦慄の強打は、往年の『ミシガンの暗殺者』スタンリー・ケッチェルに例えられ、いつしか『アストリアの暗殺者』がバーレンバッハの通り名となった。
デラニー戦以降、連戦連勝のバーレンバッハは、一九二四年十二月二十六日にミドル級トップクラスの黒人サウスポー、ラリー・エストリッジ(三十八勝二敗一引分け・二十五KO)をKOして勢いに乗ると、一九二五年三月十三日には前世界ライトヘビー級チャンピオン、バトリング・シキを十ラウンドにストップし、ついに世界タイトル挑戦権を手に入れた。
ここまでデビューからわずか一年五ヶ月で二十四勝中、二十三KOというから恐るべき強打ぶりである。
五月三十日、ヤンキースタジアムで行われた世界ライトヘビー級タイトルマッチは、地元の声援に後押しされたバーレンバッハが完全にアウェイ状態のチャンピオン、マイク・ミクティーグを一方的に攻め続け、実に十五ラウンド中、十一ラウンドでポイントを稼ぐ圧勝で初挑戦にして世界タイトル奪取に成功した。
デビューから世界王座奪取までの最短期間は、元WBC、J・ウェルター級チャンピオン、センサク・ムアンスリン(タイ)の八ヶ月だが、センサクはムエタイ王者からの転向であることを考えれば、バーレンバッハの一年六ヶ月というのは驚異的なスピード記録といっていいだろう。
ナット・フライシャーが歴代ライトヘビー級チャンピオンの中では最高の強打者の一人と絶賛したバーレンバッハのパワーの源は、アマレスで鍛え上げられた筋肉隆々の肉体にある。ただし、この手の筋肉質なボクサーはえてして身体が堅く、動作が鈍重である。
バーレンバッハにしても、タックルスピードこそ速くとも、レスラーの癖で動きがベタ足気味であるため、より複雑な(あるいは変則的な)ボクシングのフットワークについてゆくのは一苦労だった。にもかかわらずKOを量産出来たのは、彼がアマレス出身だからこそ、前傾姿勢で長時間の攻撃が続けられた点にある。
速い動きに反応出来ず防御が下手でも、クラウチング気味の低い体勢から身体を上下左右に小刻みにゆらしながら接近すれば、アップライト型のボクサーが多い当時としては、そうそうクリーンヒットを浴びることはない。しかも攻撃の的を広いボディに絞り込んで連打を見舞えば、顔面よりも的中率は高くなる。
ショートレンジでの打ち合いになればしめたもので、バーレンバッハは打たれ強く少々のパンチを浴びてもびくともしない代わりに、彼のボディブローは一撃で相手の動きを鈍らせることが出来た。
技巧派のミクティーグは、踏み込みの遅いバーレンバッハの強打を上手くいなしていたが、至近距離でもつれ合うたびに内臓を抉るようなボディ連打を浴び、試合の終盤は戦意喪失気味だった。
一九二五年十二月十一日、新装MSGの記念すべきこけら落としの一戦として挙行されたのが、バーレンバッハ対デラニーの再戦であった。
人気絶頂の「暗殺者」が過去に唯一の黒星を喫した相手とのリベンジマッチに挑むというファンの関心度の高さと「テックス・リカードが建てた家」とまで言われる豪壮な二代目MSGの評判も相まって、この一戦の入場者数は屋内での試合としては史上最高の二万人にも達した。そのうえ、当日は入場出来なかったファンが通りに溢れかえり、警官隊が交通整理に動員される一幕もあった。
これほどの観客を動員出来たのは、MSGには最新の空調システムが完備されているからであり、これによって場内での喫煙も解禁された。現在では考えられないことだが、これ以降一九七〇年代までは紫煙がたなびく中でボクシングやプロレスが興行されていたのだ。
試合は予想に違わぬ素晴らしい打撃戦だった。
前回同様デラニーが先手を取り、四ラウンドに二度のダウンを奪ったが、タフなバーレンバッハはこのピンチを凌ぐと、十二ラウンドにはダウンを奪い返し判定で二度目の防衛に成功した。
三度目の防衛戦(一九二六年五月十日)でヤング・ストリブリングを判定で撃退すると、もはやライトヘビー級には相手がいなくなった。かつて一度引き分けたことのあるストリブリングは、この試合まで三十九連勝中で引退までに史上第二位となる一二五KO勝ちを積み上げた一九二〇年代を代表する強打者である。
将来はヘビー級タイトルも視野に入れているストリブリングからダウンを奪い快勝したことで、バーレンバッハの評価はさらに高まり、いよいよヘビー級の無敵王者、ジャック・デンプシーとの対戦話まで現実味を帯びてきた。
久しぶりの防衛戦を控えたデンプシーの対戦者候補に挙がっていたのは、ハリー・ウィルスとジーン・タニーだったが、ウィルスが黒人であるためタニーが本命と見られていた。
「戦う海兵」として人気があった海軍出身のタニーはスマートなボクサーファイターだが、堅実であるがゆえに危険な打ち合いを避け面白みのない試合に終始する可能性がある。その点、バーレンバッハは積極的に前に出るタイプだけに、KO決着必至のスリリングな打撃戦が期待出来る。
実際、一部の報道では、タニーはスピードがあるだけで、バーレンバッハと戦ってもボディブローの餌食になるのが関の山と見られており、当のデンプシーもまたバーレンバッハとの一戦を強く望んでいた。
結局はプロモーターのリカードやマネージャーのカーンズらの意向でタニーが挑戦者に決定し、ボクシング史にまた新たな一頁を書き加えることになるのだが、本心はバーレンバッハの方が危険な相手だと思ってのことだったのかもしれない。
では、デンプシー対バーレンバッハ戦が実現していたら、果たしてどういう結果になっただろうか。
話題性に関して言えば、デンプシー対カルパンティエ戦以来の世界チャンピオン同士の一戦ということでそれに匹敵する盛り上がりを見せ、ミリオンダラーゲートを記録したことは間違いない。
ただし、試合内容はデンプシーが練習不足で錆びついていたことを考慮したとしても、デンプシーのKO勝ちは揺るがないだろう。というのも、バーレンバッハは二度目の防衛戦の後、ヘビー級では小柄な部類のジョニー・リスコに力負けしているからだ(ノンタイトル十回戦で判定負け)。
リスコは後にミッキー・ウォーカー、ジャック・デラニー、トミー・ラグラン、ジャック・シャーキー、マックス・ベアといった新旧の世界チャンピオンを軒並み打ち破った実力者だが、気まぐれで好不調の波が激しくヘビー級にしては非力だった。そのリスコに手こずるようでは、パワー、スピードとも段違いのデンプシーには歯が立たず、カルパンティエの二の舞になっていたことだろう。
ファン待望のデラニーとのラバーマッチは、ブルックリン・ドジャーズの本拠地エベッツフィールドにおける四度目の防衛戦という形で実現した(一九二六年七月十六日)。
この試合はコミッショナーの計らいで格安チケットのみの販売にしたところ、五万枚に届こうかという記録的な売り上げを示し、入場料収入だけでも四十六万ドルを超えた。これは物価も違う二十数年後のジョー・ルイス対ロッキー・マルシアノ戦を凌ぐものだ。不人気階級と言われるライトヘビー級の試合でこれほどの集客力を誇ったのは、カルパンティエとバーレンバッハくらいのものだろう。
この一戦に勝てば、近い将来、デンプシー、タニーに次ぐミリオンダラーゲイトの実現が確実視されていたバーレンバッハだったが、一度痛い目にあったデラニーが徹底して足を使って打ち合いを避けたため、自慢の強打が不発に終わり判定を落としてしまう。
一九二七年十一月には一階級下のミッキー・ウォーカーに判定負け。その一ヶ月後にはライバルのデラニーとの四度目の対決で三度のダウンを喫した挙句のストップ負けと振るわず、もはや彼の時代が終わったことは誰の目にも明らかだった。
二線級相手であれば難なくKO出来てもビッグネームが相手では自分のボクシングが通用しなくなったことを悟ったバーレンバッハは、一九二九年にプロレスラーに転向するが、長くは続かず、この年限りで一旦アスリート人生にピリオドを打った。
ところが世界恐慌で全財産を喪失してしまい、一九三一年にボクサーとしてカムバックする。
同年は四勝一敗(四KO)とそれなりの成績を残したものの、新聞や雑誌では「不器用で退屈なボクシング」と酷評され、二年後に正式に引退した。
生涯戦績40勝8敗(33KO)3分
引退後の1950年代にはニューヨークでレストランを経営していたというから、ニューヨークではちょっとした名士だったのだろう。マイナー階級にもかかわらず、ボクシング雑誌などの企画で歴代のハードパンチャーを選ぶ際には、必ずといっていいほど彼の名が挙がり、ライトヘビー級に限れば1970年代頃までは最高のハードパンチャーの声も高かった。




