祝福のない旅の始まり 4
朝靄が、ティレ村の家々を静かに包み込んでいた。
夜の名残を帯びた空はまだ淡く、陽は東の山影の向こうで控えめに光を放ちはじめている。
風鳴り亭の二階――古びた木製のベッドに腰かけながら、佑真はぼんやりと窓の外を眺めていた。
夜の対話は、思っていた以上に心を揺さぶっていた。
自分がこの世界にとって「なぜ他の召喚者と違うのか」「なぜ呼ばれたのか」――その問いの重みは、やはり簡単に拭えるものではなかった。
けれど同時に、ノーラと交わした会話が、どこか静かな温もりとして胸に残っている。
(……一歩ずつ、だな)
そう自分に言い聞かせ、佑真は立ち上がると、襟元を整えて扉を開いた。
---
一階の食堂に降りると、すでにノーラとガルヴァインは朝食を終えかけていた。
マルタ婆さんが土鍋に入ったスープの残りをよそってくれる。香草と根菜の香りが、眠気をやさしく払いのけてくれるようだった。
「おはよう、佑真。……よく眠れた?」
ノーラは少し心配そうに尋ねたが、佑真は微笑みを浮かべてうなずいた。
「ああ、ありがとう」
隣でパンを口に運んでいたガルヴァインが、ごく僅かに眉を動かした。
「…… 佑真殿、今朝の顔は、昨日よりもいくらか“生きておる”ように見えますぞ」
少しからかうような口調だったが、そこに悪意はなかった。
ノーラはそれにくすりと笑いながら、湯気の立つカップをそっと佑真の前に差し出す。
「それ、今朝マルタさんが淹れてくれたの。薬草入りの茶よ。少し苦いけど、気分が落ち着くって」
「ありがとう、ノーラ」
その一言に、ノーラの目が少しだけ細くなった。
ほんのささいなやり取りだったが、昨夜の会話を経た今、それは確かなつながりに感じられた。
---
荷をまとめ、三人が風鳴り亭を出ようとしたそのとき。
カウンターの奥からマルタ婆さんが手を振って見送ってくれた。
「気をつけてお行き。……この先、レム砂原までは丘を一つ越えなきゃならん。森と岩場を通るけど、道は一本道さ。魔物と賊には気をつけるんだよ」
「ありがとう、マルタさん。本当にお世話になりました」
ノーラが深々と頭を下げ、ガルヴァインも無言のまま軽く会釈する。
佑真は一歩遅れて立ち止まり、ふと訊ねた。
「……昨夜のあの人。レオンさんって、いつ村を出たんですか?」
マルタ婆さんは少し目を細めて言った。
「ああ、あの貴族さまかい。日の出前には出ていったよ。礼もそこそこにね。……何を生き急いでるんだか」
「……そうですか」
佑真は静かにうなずくと、マルタに礼を言い、風鳴り亭の扉を開いた。
---
外の空気は冷たく澄んでいた。
ティレ村の朝は静かで、けれど確かに、生きている者たちの気配に満ちていた。
三人はゆっくりと、村の中央通りを歩き出す。
その先には、レム砂原へ続く峠道が待っている。
振り返ると、風鳴り亭の煙突からはまだ細く煙が昇っていた。
それは、ささやかながらも確かに温かな場所――この世界の片隅で、彼らを受け入れてくれた数少ない場所のひとつだった。
「……行きましょうか」
佑真がそう言ったとき、ノーラもガルヴァインも、何も言わずに頷いた。
――風は、進む者の背を押す。
そして旅は、再び静かに動き出した。