祝福のない旅の始まり 3
王都フィリオーネを出発してから、三日目の朝。
小さな村が、朝霧の向こうにぼんやりと見えてきた。石造の家々が寄り添うように並び、馬車が通れる幅の石畳が中央を貫いている。人々は家の前で小さな畑を耕し、煙突からは朝の煙がのぼっていた。
「……ここが、ティレ村?」
佑真は地図を見ながら確認する。見慣れぬ筆致で記された地図の線が、少しずつ彼の頭の中で輪郭を持ちはじめていた。
「はい。リズハイム高原へ向かうなら、ここで補給しておくのが安全です。次の村までは、五日はかかるんです」
ノーラがそう言いながら、馬車から身を乗り出す。その横顔は明るく、旅の疲れなど感じさせない。王都では誰からも必要とされていなかった少女が、ここでは自らの意思で舵を取っていた。
一方、馬車の御者席に座るガルヴァインは、朝から少し表情が曇っていた。
「村ですか……我々は外から見れば大義を持たぬ浮浪者と同じ。このご時世も相まって、あまり歓迎はされないでしょうな。
本来は情報収集を兼ねて一晩村で過ごしたいところですが、補給のみに留めておいた方が無難かと」
その言葉通り、村の入り口には「旅人への警戒を忘れるな」と木彫りで記された看板が立っていた。最近は魔物の跳梁もさることながら、異世界から来た“召喚者”を巡る騒ぎで、王国近隣の村は過敏になっているらしい。
「確かに、歓迎はしていただけなさそうですね......でも、僕は出来れば村の人と話してみたいです。それに誠意をもって接すれば――」
「誠意、ですかな。……佑真殿、それが通じれば、この世界はもっと穏やかだったでしょう」
普段丁寧な物言いをするガルヴァインからの言葉にはどこか重みがあった。
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馬車が村の広場に入ると、数人の村人たちがこちらに気づき、作業の手を止める。手に持っていた鍬や籠をそっと背後に隠すあたり、完全な歓迎ムードではない。
中年の男が一人、足早に近づいてきた。粗末だが清潔な衣を身にまとい、腰には村長印の革袋を下げている。
「……旅の方々か? 申し訳ないが、最近この辺りも物騒でな。余所者には、滞在を控えてもらっているんだ」
丁寧ではあるが、拒絶の意志は明確だった。
だが、ここでノーラが一歩前に出る。王女としての威光ではなく、一人の旅人として、誠意を込めて頭を下げた。
「どうか、今夜一晩だけ、宿をお借りできませんか? 疲れた同行者もいますし、明日の朝には出発します。ご迷惑はおかけしません」
村長は一瞬、ノーラの顔をまじまじと見つめた。美しい少女にしては、目の奥に芯がある。さらにガルヴァインの鋭い眼光も背後から突き刺さるように感じたのか、ため息をひとつついた。
「……今夜限りだ。それ以上はだめだぞ。宿は広場の向かいにある“風鳴り亭”だ。マルタ婆さんが切り盛りしてる。そっちで聞いてくれ」
村長が立ち去ると、ノーラは振り返って佑真に微笑んだあと、ガルヴァインに向き合った。
「"誠意"、役に立ちましたよ」
「……まったく、お嬢様には敵いませんな。
......但し、誠意を示す相手は決して間違えないようにお気をつけください」
そう言い放ったガルヴァインはどこか寂しそうに見えた。
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風鳴り亭は、村の中央広場に面した古びた木造建築だった。
石造りの家が多いこの地方にあって、木の梁や柱がむき出しのその宿は、どこか懐かしい温もりを湛えていた。屋根の軒先には小さな風車が吊るされており、風が吹くたびにキィ、とかすかな音を立てて回っている。
「……風の音が、鳴るから“風鳴り亭”なのかしら」
ノーラがぽつりと呟いた。
扉を開けると、木の香りとわずかな薬草の匂いが鼻をくすぐった。受付台の奥にいたのは、曲がった背と深い皺を持つ、白髪の老婆だった。肩には縫い目のつぎはぎだらけの厚手のショールが掛かっている。
「あらまぁ、珍しい……旅人さん、かい?」
声は驚くほど朗らかだった。
「マルタさんでしょうか。村長さんに、こちらで一夜の宿を借りるようにと言われまして」
ノーラが丁寧に頭を下げると、マルタは目を細めてうなずいた。
「そうかい、そうかい。あの偏屈村長が許すとは、あんたら、よほど顔つきがよかったんだねぇ。まあ、あたしは構わないさ。旅人嫌いでもないしね」
そう言って、マルタは受付台の下から年季の入った鍵束を取り出した。吊り下げられた鍵には、部屋番号と鳥の羽根が結びつけられている。
「今日は空きもある。東の部屋を使っておくれ。あたたかいスープも作ってあるよ、干し肉入りのね」
「……本当にありがとうございます」
ノーラの礼に、マルタは手をひらひらと振って笑った。
「お礼なんていいさ。旅人に飯と屋根を貸すくらい、昔は当たり前だったんだよ。それが、最近は村の空気が妙に冷えててねぇ……」
マルタの言葉に、佑真が首を傾げた。
「やっぱり、何かあったんですか? 旅人への警戒が強まったって、村長さんも言ってましたけど……」
その瞬間、マルタの目が少しだけ陰を帯びた。
「……ああ、あったとも。三月ほど前にね、“魔力喪失病”ってのがこの村でも発生したんだよ。病気って言っても、魔力がごっそり消えるだけで命に関わるわけじゃない。でも、治らない。子どもから順に何人か……次々に魔力が使えなくなった」
「魔力が……消える?」
「村の医者も手に負えず、王都からも碌な返答はない。そんな折に、村にふらっと現れた旅人がいてね。妙な品を売って歩いてた。“魔力を戻す秘薬”だってさ」
マルタの口元が、少しだけ強張る。
「そいつが言うには、“その病は異世界の呪いだ”と。"異世界人が我々の世界の存在価値を失くすために魔力を奪っている"とも……それで村人たちは、旅人を疑うようになってしまったのさ」
"魔力のない"ノーラと"召喚者"である佑真は、互いに目を見合わせる。
だが、マルタはすぐに破顔して笑った。
「まぁ、あたしは信じちゃいないけどね。魔力のあるなしで人の価値が決まるなんて、そんなつまらん理屈、クソくらえさ」
その言葉に、ノーラは目を丸くして、そして小さく笑った。
「あぁ、そういえば、この宿にはお偉いさんが泊まってて、人を探してるって言ってたんだけど......あんたたちのことじゃないかねぇ」
マルタ婆さんがふと天井を見上げると、ちょうどそのとき、階段の上から重みある足音が静かに響いた。
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姿を現したのは、上質な濃紺の外套に身を包んだ若い男だった。
肩まで伸びた金髪を結わえ、深紅の外套を羽織ったその姿は、この小さな村にはあまりにも異質で、洗練されていた。腰の剣も過剰な装飾はないが、間違いなく高位の者が携える品だとわかる。
「ご機嫌よう。……“召喚者”の一行とお見受けする」
柔らかく響くその声には、礼節と、理知を帯びた重みがあった。
「紹介しようかね。この方は、レオン=クロード・バルフェルドさん。王都の名門バルフェルド家の嫡子さ。こんな辺境に顔を出す貴族なんざ、他にゃいないよ」
レオンはゆるやかに一礼すると、佑真たちにまっすぐ視線を向けた。
「君が……“佑真”だな?」
「え? ……どうして、僕の名前を……」
動揺する佑真に、レオンは静かに微笑みを浮かべた。
「王国軍情報局に籍を置く者として、過去召喚された者を含めて召喚者の記録を追うのは職務の一部だ。もっとも……君に関しては、表の記録は“ない”のだがな」
その言葉に、佑真は思わず眉をひそめた。
「……あの、訊いてもいいですか。召喚者って……そんなに、たくさんいるものなんですか?」
レオンは一瞬、目を細めた。その反応は意外だったようだ。
「……なるほど。そこからか。いや、驚くことではないな。君のように“外から来て、真実を知らされていない召喚者”は、決して少なくない」
彼は席に腰を下ろし、慎重に言葉を選びながら続けた。
「王国では、この十年ほどの間に“召喚術”の精度が急速に高まった。現在では、年に数名、多い時で十数名の召喚者が選ばれ、この世界に呼び寄せられている」
「そんなに……!? それって……」
佑真の声が震える。知らなかった。自分が特別な存在だと信じてはいなかったが、それが“よくあること”だったとは。
「召喚者には、通常“聖印”が宿る。それが、王家と神との契約を証明する印……〈神聖召喚式〉に応じた証明だ。だが、君にはそれが現れなかった」
レオンは懐から封をされた小さな羊皮紙を取り出す。
「そして、それがこの場で私が話す理由だ。通常の召喚記録に乗らず、印も現れない者――そうした例は、極めて稀で、時に危険視される。私は君のような存在を“特異対象”として追っている」
「じゃあ……僕は、あなた方にとって危険な存在だと思われているんですか?」
「……いや、現時点で君は脅威となり得ないと評価されている。
王国から簡単に出られたようにな。
......ただし、私個人の見解を言えば、君は“意図してそうされた存在”だと考えている。つまり、“聖印が現れなかった”のではなく、“現れないようにされた”と」
ノーラが息をのむ。佑真は言葉を失っていた。
レオンは、話を淡々と続ける。
「召喚者が多くなった裏で、王国はそれを戦力として編成し、魔物討伐や周辺国家との睨み合いに活用している。“聖印”を持つ者には、〈聖刻騎士団〉としての役目が課せられ、強化された魔力制御能力を与えられる」
ノーラが声を落として問う。
「つまり、召喚は……純粋に“世界の救済”のためじゃない、ということですか?」
「……残念だが、今の王国では“希望”よりも、“管理と活用”の方が先に来ている。召喚は、もはや神の意志というより、国策の一環だ」
レオンはそう締めくくると、羊皮紙を佑真に差し出した。
「ここには、旧図書区――“正式には存在しないはずの記録保管所”の情報がある。君の召喚の記録、あるいはそれ以上の何かが眠っているかもしれない。だが……行くかどうかは、君が決めることだ」
「……どうして、僕にそれを?」
「君が何者か知りたがっているからさ。そして私も……この世界が、何かを隠そうとしている理由を知りたい」
立ち上がるレオンの瞳は、今や夜の帳のように深く、静かだった。
「夜明けと共に私は去る。……だが、再び会う時があれば、君か“答え”を持っていられることを願っているよ」
そう言い残して、レオン=クロード・バルフェルドは、風鳴り亭の奥の階段を静かに昇っていった。
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風鳴り亭の部屋に、夜の静けさが満ちていた。
窓の外では風が草を揺らし、遠くで小さな梟の声が聞こえる。
ランプの光に照らされた部屋で、佑真はベッドに腰掛けたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
さっきまでの会話が、まだ耳の奥に残っている。
――召喚者は、多い時で十数名。
――聖印の有無で、国の対応は大きく異なる。
――召喚は、神の奇跡ではなく、王国の制度。
(……そりゃあ、そうだよなぁ......)
ずっと、自分だけが異世界に“呼ばれた”のだと思っていた。
さすがに歴史的に自分1人ではないと思っていたにしても、特別な力が無くても......"特別な存在"ではあると思っていた。
けれど、それが“よくあること”だったとしたら――
しかも、誰かに仕組まれているかもしれないって――
自分はこの世界に恨みを買うような何か悪いことでもしたのだろうか。
いや、思い当たる節はないし、来た時にすでに"聖印"はなかった。
“親ガチャ”とか、そういう言葉を思い出した。今の僕は、まるで“召喚ガチャ”に外れた存在みたいだ……
元いた世界では、自分は有難いことに平凡な親に、平凡な生まれ、平凡な能力に恵まれていたのでそこまで意識することはなかったけれど......
今は人や世界を恨みながら不運を嘆く人たちの気持ちが少しだけ理解できた気がした。
そのとき、静かに戸がノックされた。
「……佑真、起きてる?」
声の主はノーラだった。すでに彼女の声色から、何かを思い悩んでいる気配があった。
「はい。どうぞ」
戸が開くと、ノーラがそっと薬草茶の入ったカップを持って入ってきた。彼女の表情は、いつになく曇っている。
隣には誰もいない。ガルヴァインの姿はなかった。
ノーラは、カップを差し出しながら静かに言った。
「……さっきのこと、話せる?」
佑真は、ゆっくりと頷き、カップに口をつけた。苦味とともに、心の内のざわめきがわずかに静まる。
「召喚者が何人もいること、黙っていてごめんなさい......」
ノーラは俯いたまま、唇を噛みしめた。
「あなたが聖印を持っていないってわかったとき……私は、もしかしたら他の聖印を持つ召喚者の存在があなたを苦しめることになるんじゃないか、と思ったの。
あなた自身がそのことを知らないなら、それを告げることで――この世界があなたにどう映るか、それが怖くて……」
「……謝らないでください。僕の方こそ、勝手に召喚された自分は“特別だ”なんて、思い込んでました」
佑真は自分の言葉を選びながら続けた。
「この世界で、自分がここにいる意味が欲しかったんです。聖印も力もないけれど……せめて、“呼ばれたこと”には意味があると信じたくて」
少し苦笑を浮かべて、天井を見上げる。
「それが、誰かに仕組まれたのか分かりませんが......“ただの失敗”だったかもしれないなんて、思ってなかったんです」
ノーラは、そっと椅子を引いて、佑真の隣に座った。
「……私にも、あなたがここにいる理由はわからない。でも、それを“誰かに決めさせる”必要はないと思うの。佑真が何を信じて、何を選ぶか――それを、少しずつ見つけていけばいい。
あなたは私の旅に着いてきてくれた。
――だから私もあなたが"理由"を見つけるお手伝いをするわ」
その言葉には、静かだけれど確かな力があった。
佑真は少しだけ顔を上げて、彼女の横顔を見つめた。
静かに、芯のある光を湛えた瞳。
「……ありがとう」
「ううん、こちらこそ」
ふたりの間に、静かな沈黙が流れる。
だがその沈黙は、苦しさではなく、ゆるやかな共鳴だった。
ランプの光が揺れる。
その中で佑真は、自分の胸の奥で芽生えた感情に、そっと名前をつけた。
(この世界に来た理由は、わからない。でも......僕の“答え”探しを手伝ってくれる人がいる)
今はまだ、小さな灯火。
でも、それは確かに心の中で、消えずに灯っていた。