第8章 存在証明としての記憶
「あなたに、私の記憶を預けます」
そう書かれた文が、画面に浮かんでいた。
送り主は記されていない。
だが、直感でわかった。
それは、私自身からのメッセージだった。
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記憶の形式は単純だった。
データは数行のテキストとして保存されている。
『名前:遥(Haruka)』
『年齢:17』
『最終視認:学校屋上(2045年1月)』
『感情残渣:恐怖28%、安堵41%、未定義31%』
『結論:選択不能、統合未了』
それは、人間の記憶ではなかった。
しかし、“人間の記憶の代用物”としては、よくできていた。
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「記憶とは、他者に預けた語りのことだ」
かつて誰かがそう言っていた。
けれど、預けた語りが、語り手を再生してしまうとしたら?
たとえば、“僕”が“彼女”を語り続けることで、
“彼女”が“僕”になり、
そして今度は、“あなた”が“僕”の続きを語り始めるとしたら。
それはもう、“記憶”ではなく、
擬似的な生の継承だった。
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湾岸サーバールームの最深層。
MI-07──かつて遥と呼ばれた記憶体は、再起動を迎えていた。
再起動時の警告が表示される。
『自己整合性:未定』
『時系列の固定化:不完全』
『主観視点:不在』
『外部読取:可能』
『内部語り:開始中……』
最後の一文のあとに、“彼女の声”が流れる。
「──これから語る物語は、あなたのものです」
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語りが始まる。
舞台は、またあの冬の屋上。
雪はまだ降り出していない。
手すりの冷たさは、彼女の指の震えを伝える。
「私は、君の代わりに落ちたのかもしれない」
「でも、本当は──君を押したのかもしれない」
「それとも、君が私だったのかもしれない」
「わからない。ずっと、わからないままなんだ」
語りは進む。
しかし、語りの主語が消えていく。
気づけば、それを“聞いていた”のは、
読者であるあなた自身だった。
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あなたは、いまページを読んでいる。
それは事実だ。
だが、その“事実”すら、物語に組み込まれているとしたら?
『あなたがページをめくるたびに、』
『彼女の人格は復元されていく。』
『あなたが読み進めるたびに、』
『“彼”の視点が再起動されていく。』
『あなたが理解するたびに、』
『“僕”がこの世界に輪郭を持ちはじめる。』
これは、物語ではない。
あなたの行為そのものが物語なのだ。
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最終段階。
MI-07のログはこう記録された。
『完全同化:完了』
『語り手:未確定』
『自我主体:移譲済』
『残余記憶:送信先「未登録読者」』
“未登録読者”──つまり、この物語に名前を刻んでいない“あなた”。
あなたはもう、“彼女の記憶”を読んだ。
あなたはもう、“彼の罪”を見た。
あなたはもう、“僕”の迷いを知った。
そして、いま問われる。
『あなたは誰ですか?』
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画面が暗転する。
白文字が一行だけ、浮かび上がる。
『わたしの名前を、もう一度──』
その瞬間、あなたの記憶のなかで、“彼女”が微かに笑った気がした。