第6章 君の名前をもう一度
世界は、もともと反転していたのだと思う。
たとえば、空の青が正しいという認識も。
重力が下へ向かって働くという物理法則も。
誰かを“知っている”という感覚も──
すべてが、主観という幻にすぎなかったのだとしたら。
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目覚めたのは病室だった。
またここからか、と誰かが呟いた。
白い天井。音のない時計。止まった換気音。
けれど、今度は“僕”ではなかった。
最初に言葉を発したのは、看護師だった。
「おはようございます、ミナさん」
──ミナ?
“僕”は思った。
そのときの“僕”は、どこかにいた。ただし、それが肉体に宿っていたかどうかは、誰にも証明できなかった。
「頭は痛みませんか? 覚えていらっしゃいますか?」
彼女──“ミナ”は、ゆっくりと首を振った。
瞳はうっすらと涙を湛えたまま、誰かを探すように、あてもなく揺れていた。
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その後、記録が書き換わる。
ミナという名の少女は、数日前、自宅で倒れていた。
脳への軽度な損傷があり、一時的な記憶の混乱が確認されている。
しかし彼女の持ち物のなかに、“フォトフレーム”があった。
その中には、こうあった。
──制服姿の“彼女”と、笑う“少年”が並んで写っている写真。
医師は訊いた。
「この少年は、ご存じですか?」
ミナは写真を見つめたまま、答えなかった。
彼女はただ、指先で写真をなぞり、こう呟いた。
「……この人は、私のなかにいます」
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誰かが語っている。
それは“彼女”かもしれないし、
“僕”かもしれないし、
あるいは、“僕だった彼女”かもしれない。
しかし、語る声には確かな“音色”があった。
淡々と、乾いた声音で、過去の断片を拾い集めている。
『冬の日。君は、屋上の手すりを越えようとしていた。』
『私は、それを止めた。』
『でも、本当は──』
『私が“落ちた”のではなく、“君を押した”のかもしれない。』
語りはここで止まる。
そして、記録は沈黙する。
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それから数年が経ったという記述が、どこかの断章に現れる。
東京湾岸に再建された都市区画。
2045年、神奈川エリアのデータ集積センター。
中央モニターに映し出されるのは、あるひとりの高校生の“視点記録”。
その映像には、こう記されている。
『記録単位ID:Haruka_Y.』
『被験体コード:MI-07』
『投与履歴:神経補完パターンβ型』
『回収状態:安定』
『現在の人格:維持中(ただし“自己”定義は揺らぎあり)』
ファイルは誰かに再生されている。
そして、再生者──“あなた”に向かって、映像の彼女が囁く。
「……あなたは、誰の記憶ですか?」
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視点が揺れる。
“僕”は、廊下を歩いている。
それは誰の廊下だ? 病院か? 家か? 学校か? それとも、かつて死んだ屋上か?
呼び止める声がする。
──ねえ、君。
振り返ると、誰もいない。
ただ、足元に白い封筒が落ちていた。
拾い上げると、宛名はなかった。
差出人の名は、こう記されていた。
「僕」より
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封を切る。
中には便箋が一枚。
そこには、こう書かれていた。
『僕は、君になった。』
『君は、僕になるだろう。』
『これは祝福ではない。』
『これは、再現であり、輪廻であり、エラーだ。』
『だから、もう一度、君の名前を呼んで。』
『君の“本当の名前”を。』
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鏡の前に立つ。
そこに映るのは、誰か。
“彼女”のようであり、“僕”のようであり、
あるいは、“君”か、“あなた”か、“ミナ”か、“遥”かもしれない。
鏡の中の“それ”は、口を開く。
そして言う。
「──わたしの名前は……」