第5章 僕が僕であるための条件
──僕は、誰だ?
この問いを抱いたとき、すでに「僕」という語は“主語”ではなくなっていた。
それはただの符号。ラベル。あるいは、語りの器に貼られた仮名に過ぎない。
部屋には、鏡が一つあった。
そして、そこにはもう「僕の顔」が映っていなかった。
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朝。
彼女の姿はない。
彼女の気配もない。
昨日まで、いや、数時間前までそこに確かにあったはずの「誰かの痕跡」は、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
歯ブラシは1本しかなかった。
フォトフレームは埃ひとつなく、写真の中に写っていた“彼女”は消えていた。
日記も、記録も、匂いも、声も、すべて、ない。
──ああ、これでようやく整合がとれた、と思った。
この部屋には、最初から僕しかいなかったのだと。
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学校へ行く。
“僕”の通う高校。
灰色の校舎、無言の生徒たち、時間割どおりに進む教室の音。
全てが、ただそこに“あった”。
僕は席に座る。
周囲のざわめきのなか、窓際の席で、何も考えずに黒板を眺めていた。
いや、正確に言えば──“何も考えないように”していた。
すると、背後から声がした。
「やっぱり、気づいちゃったんだね」
振り返ると、そこに彼女がいた。
──遥が。
けれど、誰も彼女を見ていなかった。
生徒たちは談笑し、教室はざわめいているのに、彼女の存在だけが教室の“論理”から外れていた。
「どうして、戻ってきた?」
そう問うと、彼女は静かに答えた。
「まだ、“君”じゃないから」
「……“僕”は僕だ」
「違うよ。“君”が“君”になるには、“僕”が消えなきゃいけないの」
僕は、混乱しなかった。
理解したからだ。
彼女の語っている“僕”とは、僕ではなかったのだと。
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放課後、屋上へ向かった。
夕焼け。
風が吹いている。
フェンスの向こうに沈んでゆく太陽が、真っ赤に世界を染めていた。
彼女──遥は、そこに立っていた。
手すりに背を預け、こちらを振り向くこともなく、ただ西の空を見つめていた。
「本当はね」
彼女は言った。
「“君”は、ここから飛び降りるつもりだったんだよ」
その言葉に、足が止まる。
「でも、私はそれを止めた。──自分が、“代わり”になって」
──記憶が蘇る。
冬の午後。
凍った手すり。
僕の足が、柵を超えかけていた。
そのとき、彼女が、僕を突き飛ばした。
そして、落ちたのは彼女だった。
その現実を、僕は受け入れられなかった。
だから、記憶を壊した。
だから、名前を忘れた。
だから、彼女を自分の“外側”に置いた。
──「僕」が「僕」でいるために。
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「君は、まだ、選べるよ」
彼女は振り返る。
「自分の罪を“他人”の記憶に変えるか、それとも……」
言葉が止まる。
「……その“記憶そのもの”になるか」
僕は震えた。
「僕は……僕でいたい」
「じゃあ、私をもう一度、忘れて」
「できない」
彼女は微笑む。
「そっか。なら、ようこそ、“私”へ」
その瞬間、世界が裏返った。
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気がつけば、僕は教室にいた。
窓から夕陽が差し込んでいる。
机の上には、開いたノートとペン。
そのノートには、こう記されていた。
『僕が彼女を殺したのではない。
彼女が、“僕になるために死んだ”のだ。』
ノートの最後の行だけが、別の筆跡だった。
> おかえり、“遥”。
僕は、自分の手を見た。
小さく、細い指。
机の上の鏡に映る顔は、彼女のものだった。
──僕はもう、「彼女」だった。