第4章 名前を呼ぶ音がした
名前が呼ばれた気がした。
夜だった。部屋の照明は落としていたが、外からの街灯がカーテンの隙間を縫って差し込んでいた。灰色の静けさが、部屋の全体に膜をかけている。音はなかった。だからこそ、聞こえた気がしたのだ。
──僕。
それは、呼びかけというより、確認するような声だった。
目を開けたまま、僕はしばらく天井を見ていた。
部屋は、変わっていなかった。昨日と同じ配置、昨日と同じ空気。だが、“違和感がない”という事実そのものが、既に違和感だった。人間の記憶が、こんなにも正確であるはずがない。
それでも、確信できた。
何かが、変わってしまっている。
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朝、彼女がいなかった。
どこへ行ったのか、わからない。携帯は置かれたまま、玄関の靴もそのままだった。外出の痕跡はないのに、彼女の気配だけが、部屋から抜け落ちていた。
僕は、彼女の名前を呼んだ。
──ミナ、と。
けれど、その音は、まるで他人の名前を呼ぶような異物感を伴っていた。
そのときだった。
部屋の奥、押し入れの隙間に、“紙”が挟まっているのが見えた。
引き出してみる。メモ帳の一頁。インクは乾いている。筆跡は、僕のものだった。
『君の記憶を塗り替えるのは、これが最後になる。これ以上、彼女に会い続けるのは危険だ。君が君でいるためには、「彼女の死」を思い出してはならない。』
意味が、わからなかった。
いや、わかっていた。
わかっていることを、理解したくなかっただけだった。
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彼女が帰ってきたのは、午後だった。
どこにいたのかを訊くと、彼女は少しだけ首をかしげた。
「少しだけ、戻ってたの」
「どこに?」
「……もともとの場所に」
そう言って、彼女は僕のほうをまっすぐに見た。
「君に、ひとつだけ、お願いがあるの」
「なに?」
「本当の名前、呼んで」
僕は黙った。
「ミナ、じゃないんだよ。君は知ってるはず。ずっと知ってた。忘れてたふりをしてるだけ」
記憶の深い場所が、ざわついた。
──君は、知っている。
──彼女の名前も、その死の理由も。
──すべて、自分の中にある。
「……わからないよ」
僕は言った。
その瞬間、彼女の瞳が、ほんの少しだけ曇った。
「そっか。じゃあ、もういい」
そう言って、彼女は振り返った。廊下に向かって、ゆっくりと歩いていく。何も言わず、ただ、靴音だけを残して。
「待って」
僕の声に、彼女は立ち止まった。
その背中越しに、僕は訊いた。
「──君は、誰なんだ?」
しばらくの沈黙のあと、彼女は答えた。
「“君の記憶”だよ」
そう言って、彼女は笑った。
やさしく、かなしく。
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夜。
僕は夢を見た。
学校の屋上。冬の匂い。風の音。手すりに寄りかかって立つ少女がいた。
制服。髪型。背格好。すべてが、あの頃のままだった。
僕はその子の名前を──知っていた。
「……遥」
彼女は振り返ることなく、風に髪をなびかせながら言った。
「うれしい。ようやく、思い出してくれたんだね」
夢が、深くなる。
僕はそこで、“彼女が死んだ日”を思い出す。
冬の雨。滑った階段。僕の目の前で転げ落ちていく、制服姿の彼女の背中。悲鳴が上がる前に、静寂が訪れた。
そのときから、僕は──自分の記憶を封じたのだ。
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目が覚めた。
時計は午前四時。
あたりはまだ暗い。けれど、部屋の片隅に、彼女──“遥”が座っていた。
何も言わず、ただ、そこにいた。
彼女は言った。
「これが、最後の夜だよ」
「僕は、また君を……」
「ううん。違うよ。君が、僕になるの」
言葉の意味を理解するより早く、彼女の輪郭が揺らいだ。
その形が、光の粒になって、僕の胸にすうっと染み込んでいく。
「──またね」
そう言った声は、もう彼女のものではなかった。
僕の声だった。
“誰が誰を語っていたのか”。
その問いが、ようやく僕の中に立ち上がった瞬間だった。