表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/9

第4章 名前を呼ぶ音がした

 名前が呼ばれた気がした。


 夜だった。部屋の照明は落としていたが、外からの街灯がカーテンの隙間を縫って差し込んでいた。灰色の静けさが、部屋の全体に膜をかけている。音はなかった。だからこそ、聞こえた気がしたのだ。


 ──僕。


 それは、呼びかけというより、確認するような声だった。


 目を開けたまま、僕はしばらく天井を見ていた。


 部屋は、変わっていなかった。昨日と同じ配置、昨日と同じ空気。だが、“違和感がない”という事実そのものが、既に違和感だった。人間の記憶が、こんなにも正確であるはずがない。


 それでも、確信できた。


 何かが、変わってしまっている。



---


 朝、彼女がいなかった。


 どこへ行ったのか、わからない。携帯は置かれたまま、玄関の靴もそのままだった。外出の痕跡はないのに、彼女の気配だけが、部屋から抜け落ちていた。


 僕は、彼女の名前を呼んだ。

 ──ミナ、と。


 けれど、その音は、まるで他人の名前を呼ぶような異物感を伴っていた。


 そのときだった。


 部屋の奥、押し入れの隙間に、“紙”が挟まっているのが見えた。


 引き出してみる。メモ帳の一頁。インクは乾いている。筆跡は、僕のものだった。


 『君の記憶を塗り替えるのは、これが最後になる。これ以上、彼女に会い続けるのは危険だ。君が君でいるためには、「彼女の死」を思い出してはならない。』


 意味が、わからなかった。


 いや、わかっていた。


 わかっていることを、理解したくなかっただけだった。



---


 彼女が帰ってきたのは、午後だった。


 どこにいたのかを訊くと、彼女は少しだけ首をかしげた。


 「少しだけ、戻ってたの」


 「どこに?」


 「……もともとの場所に」


 そう言って、彼女は僕のほうをまっすぐに見た。


 「君に、ひとつだけ、お願いがあるの」


 「なに?」


 「本当の名前、呼んで」


 僕は黙った。


 「ミナ、じゃないんだよ。君は知ってるはず。ずっと知ってた。忘れてたふりをしてるだけ」


 記憶の深い場所が、ざわついた。


 ──君は、知っている。

 ──彼女の名前も、その死の理由も。

 ──すべて、自分の中にある。


 「……わからないよ」


 僕は言った。


 その瞬間、彼女の瞳が、ほんの少しだけ曇った。


 「そっか。じゃあ、もういい」


 そう言って、彼女は振り返った。廊下に向かって、ゆっくりと歩いていく。何も言わず、ただ、靴音だけを残して。


 「待って」


 僕の声に、彼女は立ち止まった。


 その背中越しに、僕は訊いた。


 「──君は、誰なんだ?」


 しばらくの沈黙のあと、彼女は答えた。


 「“君の記憶”だよ」


 そう言って、彼女は笑った。


 やさしく、かなしく。



---


 夜。


 僕は夢を見た。


 学校の屋上。冬の匂い。風の音。手すりに寄りかかって立つ少女がいた。


 制服。髪型。背格好。すべてが、あの頃のままだった。


 僕はその子の名前を──知っていた。


 「……はるか


 彼女は振り返ることなく、風に髪をなびかせながら言った。


 「うれしい。ようやく、思い出してくれたんだね」


 夢が、深くなる。


 僕はそこで、“彼女が死んだ日”を思い出す。


 冬の雨。滑った階段。僕の目の前で転げ落ちていく、制服姿の彼女の背中。悲鳴が上がる前に、静寂が訪れた。


 そのときから、僕は──自分の記憶を封じたのだ。



---


 目が覚めた。


 時計は午前四時。


 あたりはまだ暗い。けれど、部屋の片隅に、彼女──“遥”が座っていた。


 何も言わず、ただ、そこにいた。


 彼女は言った。


 「これが、最後の夜だよ」


 「僕は、また君を……」


 「ううん。違うよ。君が、僕になるの」


 言葉の意味を理解するより早く、彼女の輪郭が揺らいだ。


 その形が、光の粒になって、僕の胸にすうっと染み込んでいく。


 「──またね」


 そう言った声は、もう彼女のものではなかった。


 僕の声だった。


 “誰が誰を語っていたのか”。

 その問いが、ようやく僕の中に立ち上がった瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ