第2章 僕はまだ、君を知らない
目を覚ましたのは、彼女だった。
僕ではない。僕は覚めていた。最初から。目覚めるべきだったのは、彼女の方だ。それなのに、目覚めていた彼女は、どこかでずっと起きていたかのような顔をしていた。
ベッドの上、白いシーツの上に、少女はゆっくりと上体を起こした。
光が差し込んでいた。窓の外は朝になっていた。けれど、僕はその夜を過ごした記憶を持っていなかった。ただひとつ、時間が進んだ事実だけがそこにあった。
彼女は僕を見た。
あの目で。
黒目がちな大きな瞳。眠たげな、けれど焦点の定まった目。まるで、僕の名前を最初から知っている人のような、そんな見方だった。
「おはよう」と、僕は言った。
「おはよう」と、彼女は返した。
会話はそれ以上続かなかった。言葉の数が増えれば増えるほど、僕は彼女の“知りすぎている空気”に触れなければならなかったからだ。たとえば、彼女は病院の構造を知っていた。廊下を出て、どちらに曲がれば何があるかを当然のように認識していた。
医師が来た。名は伏せられたが、昨夜のあの女性だった。
「彼女は記憶の一部を喪失しているようです」と、彼女は僕に言った。「ただし、非常に限定的なものです。名前も、言語も、世界認識も正常です」
それを説明する横で、彼女──少女は静かにベッドの上に腰を下ろしていた。
「──あなたのことは?」と、医師が訊いた。
「知りません」と、彼女は即答した。
僕はそれに対して、疑うことも、安堵することもできなかった。なぜなら、僕自身も、彼女を知っている理由を持っていなかったからだ。
病室を出て、医師に訊いた。
「彼女の名前は?」
医師は短く首を横に振った。
「名札がついていなかった。身分証も、端末もなし。今朝方、看護師が“ポケットに入っていた”という紙切れだけを見せてくれました」
彼女は紙を取り出した。
そこには、こう記されていた。
『 僕が、君を忘れたら。どうか、君が僕を思い出してくれますように。』
ペンのインクはまだ新しかった。破られた紙の端から察するに、ノートの切れ端。筆跡は整っていて、落ち着いた筆圧。それは僕の字だった。
僕はそれを否定できなかった。肯定もできなかった。
ただ一つ、確信があった。この言葉は、“誰か”を傷つけないための言葉だ。それだけは、理解できた。
数日が過ぎた。
彼女は僕に懐いた。と言うより、最初から僕と“知っている距離感”を自然に共有していた。距離が近いことに、まったく違和感がなかった。むしろ、その距離の方が正しいのだと、僕に教え込もうとするかのように。
「名前、つけてくれない?」
その日、彼女はそう言った。紙コップの水を飲みながら、何気ない風に。
「私、名前を忘れちゃってるから。だから、君が呼んでくれる名前が、きっといちばん正しい」
僕はしばらく考えた。
「ミナ」と、僕は答えた。
彼女はそれを聞いて、何も言わずに笑った。
その笑みは、自分の名前を取り戻した人の微笑みだった。
──なら、なぜ訊いた?
──どうして、“僕に選ばせた”?
その夜、眠れなかった。
夢を見た。夢の中で、誰かが僕を呼んでいた。名前を、ではない。“罪”を呼んでいた。耳を塞いでも、その音は頭の内側から響いてくる。
──君が、彼女を殺したんだろう。
──忘れてるのは、“自分が殺したこと”だけなんだろう。
目覚めると、病室に彼女はいなかった。
僕は思わず探しに出た。廊下を走った。夜の病院。照明が落ちた廊下の奥に、誰かが立っている。
白い影──彼女だった。
「どうして、こんなところに?」
「君を、探してたの」
そう言って、彼女は僕に手を伸ばした。
その手が、震えていた。
──この震えは、何を意味する?
「……会いたかった」
その言葉が、どうしてだろう、“台本を読むように”聞こえた。
僕は、笑うことも、言葉を返すこともできず、ただその手を取った。
その手は、あまりにも冷たかった。けれど、それを温めることが、たったひとつ、この世界で僕に課された使命のように思えた。
僕はまだ、君を知らない。
なのに、君のことを知っている気がするのは、いったいどうしてなんだろう。