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第1章 夜に最も近い場所

 雨が降っていた。濡れそぼった舗装路が、街灯に照らされてぎらついていた。空は色をなくしたキャンバスのように、灰色という名の透明に染まっている。僕はそのなかを歩いていた。左手に、少女を抱えて。


 少女は小さく、柔らかく、そしてあまりにも軽かった。眠っているのではない。意識を失っているのでもない。死んでいるのかどうかさえ、僕にはわからなかった。ただその体温だけが、僅かに僕の腕のなかにあった。


 救急車を呼ぶという発想はなかった。スマートフォンは所持していた。電波も立っていた。けれど、あの瞬間、僕の頭の中にあったのは“彼女を運ばねばならない”という、理由のわからない焦燥と確信だけだった。


 視界の隅で、夜がひとつ息をついた。


 午後八時。街は既に人影を沈めていた。光があるのに、人の姿がないという事実は、ただそれだけで静かなる不安を呼び起こす。人工の照明がここまで冷たく感じるのは、たぶん、夜が優しさを拒んでいるからだ。


 僕はどこへ向かっていたのか、自分でも理解していなかった。


 いや、正確に言えば、「理解していなかったことを理解していた」。


 歩くというより、彷徨うという感覚が近かった。道に迷っていたわけではない。迷うという行為には“目標地点”が前提にあるけれど、僕にはそれが欠けていた。目的地のない歩行は、ただの動作だ。僕はただ、動いていた。しかも、後ろへ向かって。


 まるで、過去へと向かって歩いているようだった。


 少女の顔はよく見えなかった。目元にかかる髪と、薄い唇。額には浅い裂傷が一本。その血の色だけが、視界の灰色を裏切っていた。


 小さな声で僕は言った。


 「大丈夫だよ。君はまだ……生きている」


 声は風に攫われることもなく、耳の中で閉じた。その言葉が誰に向けて発せられたのか、僕にはわからなかった。彼女に向けて言ったのか、自分自身にそう言い聞かせたのか、あるいはもっと別の、名前を持たない“何か”に対してだったのか。


 その瞬間、僕の記憶が、ひとつ“後退”した。


 ──なぜ、僕はこの少女を知っている?


 ──いつから、この世界に僕はいた?


 気づいたとき、病院の門が見えた。古びていて、だがまだ機能しているらしい照明の中に、「市立南月なんげつ診療所」という文字が浮かんでいた。


 僕は少女を抱えたまま、門扉を押し開けた。


 扉は音を立てなかった。開くべき場所ではなかったのかもしれない。それでも開いたということは、ここに入るべき“僕たち”の姿が、もうあらかじめ決められていたからかもしれない。


 受付には誰もいなかった。灯りは点いていた。壁にかけられた時計の針は、八時四十四分を指していた。


 けれど──あまりに静かだった。


 無音ではない。“音が意図的に存在を消されている”ような静けさ。空間に薄膜がかかったような、何かが歪んでいると感じさせる静寂。


 そして。


 「……あの、患者を──」


 声を発したと同時に、足音がひとつ、廊下の奥から返ってきた。


 白衣をまとった女性。年齢は四十代後半。黒縁の眼鏡に整った口元。彼女は静かに、まるでこの瞬間が訪れることをあらかじめ知っていたかのように、僕を見た。


 「その子を、ここへ」


 僕は頷くより先に、体が動いていた。彼女の指示で簡易ベッドに少女を寝かせ、医療スタッフが数名、どこからともなく現れて処置を始めた。会話は必要最小限で、専門用語だけが飛び交った。


 僕は、待機室へ案内された。


 誰もいない、白い部屋。窓の外は闇で満ちていた。時計は進まない。音もしない。なのに、何かが始まっているという確信だけが、部屋の中にあった。


 そこで僕は、ひとつの記憶を失った。


 いつ、どこで、どうやってあの少女に出会ったのか。


 いや、違う。正しくは、「彼女が僕を知っている理由」を忘れていた。


 どこかで、きっと、僕たちは出会っていた。彼女が倒れていたとき、僕はすでにその名を呼んでいたはずだ。その名が、今、僕の中から失われている。彼女の名が、記憶からそっくり消えている。


 壁にかけられたカレンダーに目をやる。


 そこには、見たことのない日付が書かれていた。


 ──2099年10月13日(金)


 息を止めた。


 今が、何年か。僕の記憶が告げる現在は──2045年10月13日(金)。


 五十四年分の“時間”が、ここに入り込んでいた。


 僕は、自分の持っていたスマートフォンを見た。


 画面は黒い。点かない。鏡のように、僕の顔だけが映っている。


 その鏡面に、ふいに別の顔が重なった。


 ──それは、死んだはずの僕だった。

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