わたしの日常が奪われた日
わたし――茅森桃――は昨日買った新品のオーブンで、グラタンを焼くのに挑戦していた。と言っても、おかあさんが前に作っていたのを冷蔵庫から出して温めるだけだけど。
グラタンをオーブンの真ん中に置いた。そっと扉を閉める。
「おかあさん、次どのボタン?」
おかあさんは皿を洗いながら優しく答えてくれる。
「『スタート』って書いてあるボタンよ。それを押して5分ぐらい待ったら、桃のグラタン出来上がり!」
「やったー! わたしのグラタン!」
わたしはオーブンの前に陣取り、うっとりと眺めた。一瞬だって目を離さないんだから。
小学校生活がスタートしたのが1ヶ月前。友だちはたくさんできた。今は100人作るのを目標にしている。
最初に話しかけた友だちは鈴音ちゃんだった。髪にパーマがかかっていて、メガネを掛けている。とっても賢そうな女の子。
そんな鈴音ちゃんが昨日、
「初めてハンバーグを作ったの。自分で作ったら、すごくおいしかったよ」
って言ったんだ。
わたしは家事を手伝ったことなんてなかった。おかあさんは全部一人で頑張ってるのに。
おとうさんはおかあさんを捨てて逃げちゃったみたい。こういうの、シングルマザーって言うんだって。
わたしも変わらなきゃ。鈴音ちゃんのおかげでそう思えた。
そのことをおかあさんに話したら、
「じゃあグラタンを作ってくれる?」
と嬉しそうに微笑んでくれた。わたしのやることは温めることだけだったけど、十分嬉しかった。
今か今かと待つこと5分。チーンという音がしてオーブンの中が暗くなった。完成したみたいだ。
扉を開けると、ほんのりと香ばしい薫りが漂った。今にもよだれが出てきそうだった。
「おかあさん、出していい?」
「まだ熱いからダメよ。これをつけなさい」
おかあさんがわたしに手渡したのは大きな手袋だった。
「なーにこれ?」
「キッチンミトンよ。熱いお料理を持つときに使うの」
はめてみると、本当なら指が4本入るはずのところに指が5本とも入ってしまった。
「おかあさん、つかめない」
「あらあら、じゃあ運ぶのはおかあさんがやるわね」
わたしは激しく首を振った。
「イヤ。いつもおかあさんに任せっきりなんだから、これぐらい自分でやりたい」
おかあさんは目を丸くしたけど、すぐに朗らかな顔に戻った。
「じゃあグラタンをお盆に載せるのはおかあさんがやるから、桃はお盆を運んでくれる?」
わたしの言うことを聞いてくれた。嬉しい!
「うん!」
おかあさんが食器棚から四角いお盆を持ってくる。それからキッチンミトンをつけて、グラタンをお盆に載せた。
今度はわたしの番だ。そーっとお盆を持ち上げて、食卓のほうへと運ぶ。お盆は持っても熱くなかった。
ひっくり返さないように慎重にテーブルに置く。するとすぐ、わたしは我慢できなくなった。
「おかあさん! もう食べていい?」
キッチンミトンを外したおかあさんは、わたしの頭をなでた。
「もちろんよ。これは桃のグラタンなんだから。よくできたわね」
「ありがとう!」
早速口をつける。
「――あーっつ!」
舌をやけどして涙目になる。慌ててフウフウ吹いた。でも我慢できないからもう一回一口。
「おいしいー」
「良かった。桃はきっと立派なお母さんになれるわ」
「おかあさんみたいには絶対なれないよ」
「そんなことないわ」
そう言ってから、おかあさんは壁に掛かっている時計を見た。
「もう出る時間じゃない?」
時計を見ると、午前7時30分を指していた。学校が始まるのが8時。そろそろ出なきゃ。
わたしは部屋に戻り、ランドセルの中身を確認する。時間割、異常なし。
ランドセルを背負って部屋を出た。
「行ってきまーす!」
「いってらっしゃーい」
おかあさんの声がダイニングから聞こえた。玄関まで見送りには来なかった。皿洗いで手が離せないみたい。
グラタン作ったこと、鈴音ちゃんに自慢しよ。褒めてくれるかな。
そんなことを考えながらわたしは家を出た。
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学校では一生懸命勉強して、友だちと楽しく遊んだ。
家に着いて、玄関を開けた。
「ただいまー!」
家に帰ったら「ただいま」。助けてもらったときは「ありがとう」。お昼に誰かと会ったときは「こんにちは」。
大きな声で挨拶したらみんな気分がいいんだっておかあさんが教えてくれた。
でも――いつもの「桃、お帰りー」が聞こえてこない。どうしちゃったんだろう?
靴を脱いで廊下を進む。
「おかあさん……?」
今日はお仕事はお休みのはず。電気もついているから、どこかにいるはずなんだけど……。
廊下の突き当たりのドアを開け、ダイニングに入る。食卓の近くにはいなさそうだった。キッチンに回りこんでみる。
するとそこに、おかあさんが泡を吹いて倒れていた。
「おかあさん!」
わたしが駆け寄っても反応がない。
「ねえ! どうしたのおかあさん! ねえ!」
おかあさんの目は静かに閉じていた。肩を揺すっても、何も答えてくれない。
「おかあさん……ねえ、どうしたの……」
おかあさんのおでこを見ると、大きなタンコブができていた。血もちょっと出ていた。
「おかあさん! おかあさん!」
泣きながら名前を呼んでも、おかあさんは石ころみたいに動かなかった。
誰かに助けてもらわなきゃ。
おかあさんは「困ったときは大人に頼りなさい。自分だけで何でもやろうと思っちゃダメ」といつも言ってた。おかあさんは逃げたおとうさんの分まで何でもやろうとしてるのに。
でも、おかあさんの言うことは守らないと。言う通りにせずに後悔したことはいっぱいあるけど、言う通りにして後悔したことは一度もない。
わたしは家を駆け出した。
向かいには、いつもニコニコ笑ってる富山さんというおじいさんが住んでいる。登校するときに会ったらいつも挨拶するようにしているし、富山さんもわたしに負けない声で返してくれる。
インターホンを連打した。インターホンにはカメラっぽいのが付いているから、たぶん向こうからはこっちが見える。
インターホンから声がした。
「桃ちゃんか? どうかしたかい?」
わたしは必死に胸の鼓動を押さえながら話す。
「うん、あのね、おかあさんが、おかあさんが、倒れてて、それで、動かないの。おでこにタンコブができてて、だから、富山さん助けて」
「なんだって!」
富山さんの家からドタバタと音が聞こえたかと思うと、彼はパジャマのまま飛び出してきた。
「私が確認しよう。家に入れてくれるかい?」
「うん」
玄関を開ける。富山さんがわたしを引き寄せた。
「私の後ろについてきなさい。絶対離れないように」
「どうして?」
「……誰かが中にいるかもしれないから」
わたしの頭の中で、おかあさんがどうなっちゃうのか分からない不安と、誰かが隠れているかもしれない恐怖とがぶつかった。
富山さんのズボンの裾をギュッとつかむ。
「お母さんが倒れていたのはどこだい?」
「キッチン。ここからまっすぐ行ったら、一番奥にあるの」
「分かった」
富山さんはゆっくりと前進し、わたしもおそるおそるついていく。
キッチンに着くと、おかあさんがさっきと同じ姿で倒れていた。
「おかあさんが……おかあさんが……」
「落ち着いて。ちょっと待ってね」
富山さんは、おかあさんの手首に自分の指を押し当てた。ハッとしたように、今度はおかあさんの口元に手をやる。
富山さんは呟いた。
「これは……まずいかもしれない」
ポケットから携帯電話を取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。数分後、救急車とパトカーのサイレンが聞こえてきた。