前編
ここ聖フィストリア王国は、約500年前に女神が興した国であるという伝説が残っている。
伝説によると女神は彼女が愛した人間、今の王家の祖先となる人物にこの国を譲ったそうだ。女神は自らが祝福を与えるこの国を譲る条件として、王家の祖先に一つだけ守るように言いつけたことがあった。
それは女神の名代として生まれる女神の愛し子を大切にすることだった。
女神の愛し子はみな女性で、10歳になると瞳が女神と同じ黄金の色となり、左手の甲にこの国の紋章にも描かれているユリの模様が浮かんでくるとされている。これまでに4回誕生したと言われている女神の愛し子をその時代の王家の人間はそれは丁重に扱ってきたそうだ。そして女神から与えられた能力でその時代の問題を解決した彼女たちを、王家は王妃や聖女として迎えたとの逸話が残っている。
しかし平和な時代が続き、最後に女神の愛し子が誕生してからかなりの年月が過ぎた現在では、女神との約束はおとぎ話のような扱いとなり、その信憑性を風化させつつあった。
そんなこの国において、10歳の誕生日に私、男爵令嬢のアンナ・フォスターは見事言い伝え通り瞳の色が金に変わり、手にユリの紋章が現れた。
誕生日の朝、いつも通り侍女のメアリに起こされた私は起きてすぐ彼女の悲鳴を浴びることになった。昨夜「早く寝ない子は女神の愛し子にはなれませんよ!」なんて冗談のように言っていたのに、翌日私の目がなんの変哲もないこげ茶から金に変わっていたのだ。そりゃメアリだって悲鳴を上げるだろう。
彼女の悲鳴を聞きつけて私の部屋にやってきた両親は、変わってしまった私の姿に父は言葉を失い、母は卒倒しかけた。家庭教師の先生には「この子は呑み込みが早くて見込みがありますよ」とは言われていたが、私はただの男爵令嬢に過ぎなかった。その私に愛し子の印が表れたのだ。それも無理のないことだった。
そこから我が家は大騒ぎとなり、家族でこぢんまりとした誕生日会をする予定がそれも中止となってしまった。数少ない使用人まで総出となって医者を呼んで私の目を診たり、手の紋章を洗って消えないか確認したりした。しかし私の身に起きた変化はどうやっても戻らず、その日の夜には家中の皆が「これは本当に愛し子として選ばれてしまったのかもしれない」と思うようになった。誕生日会は中止になったがケーキだけにはありつけた私は、イチゴの甘酸っぱさを堪能しながらもこれは大変なことになったのだろうなと、どこか他人事のように思っていた。
翌日、父に連れられ私は領地内で一番大きな教会へと向かった。そこでも私の姿を見てまたひと騒ぎあり、教会の一番偉い人から王都の総本部へと連絡が行くこととなった。そこから私の存在は王家にまで伝えられるようになった。
そこからは誕生日など穏やかであったなと思えるほど、事態は急展開していった。王家に私のことが伝わるや否や、我が家に四頭立ての見たこともないぐらい豪華な馬車がやってきて、私と両親をお城へ連れていった。訳も分からぬまま我々は身綺麗にさせられ、先代国王を始めとする王族の前に座らされてしまった。
座るにしても床ならまだよかった。下座とはいえ、我々は王族と同じテーブルに座らされていた。父は緊張しすぎてもはや顔色が青を通り越して白になっていたし、母の口元を隠していた扇は最後まで震えが止まることはなかった。
一方、当の私は緊張は多少あったが、それよりもこれからきっと自分の扱いのことを自分で決めることはできないのだろうなという諦めが脳内を占めていた。女神の愛し子はその時代を救うために女神からもたらされる存在であるとされている。きっと私は王家の手元に置かれることになるんだろうなと、半分覚悟をしながら思っていた。
その予感は悲しいぐらい的中した。その後すぐに手続きが行われ、私は生まれ育った家に帰ることなくそのまま王宮預かりの身となった。そして私の愛し子としての才能はどのようなものなのかを調べるため、教養、魔法、剣術と様々な能力を測られることとなった。それぞれの専門家に色々なテストをされた結果、どうやら私は勉強、中でも政治や経済の方面に才能があることが発覚した。
そこからは元々知識を得るのが好きだったのもあり、王宮で最高の環境を整えてもらったことで私の才能はぐんぐんと伸びた。そして13歳になるころにはこの国の学術研究の最高峰である知識の塔に出入りすることを許されるようになった。
『知識の塔』
あらゆる分野の天才が集められているこの国最高の研究機関。そこで私はさらに才能を伸ばすよう求められた。
知識の塔は文字通り煉瓦造りの塔で、その中に様々な分野の研究室が置かれ、研究者たちが日夜自分のテーマの研究を行っていた。王城のはずれにあるその塔は一見普通の塔に見えるが、近づくと普通の建物ではないことがすぐに分かるものであった。
なぜならその塔には窓はあるが入り口がなかったのだ。
全周煉瓦で閉ざされた塔の前で立つ私に手渡されたのは鍵となる指輪であった。それに自分の魔力を通すと、目の前にそれまでなかったはずのドアが出現した。「国家機密や他国に渡せない技術がここには多くあるのでこうして関係者以外は立ち入りできないようにしているんですよ」と私を案内してくれていたこの塔の代表であるシュレイズ様が教えてくださった。
そこからシュレイズ代表に建物内部の主要な施設を一通り案内してもらい、最後に私が所属することとなる政治・経済の研究を行う研究室へと連れて行ってもらった。
それまでに見かけた他分野の研究室では、草花がうっそうと生い茂っていたり、怪しい色の薬品たちがずらりと並べられていたり、壁一面にネズミを飼うケージが並んでいたりとなかなか個性的な部屋が多くあったが、私の所属する研究室は至って普通の、例えるなら大きな図書館のような部屋であった。
ちょっと薄暗くて、紙の匂いに満ちたその部屋には、参考文献となる論文や関連する書籍が並べられた本棚がたくさんあり、部屋の奥におまけのようにいくつかの机と簡単な応接セット、小さな台所が設置されていた。
「改めて我が研究室へようこそ」
そんな部屋の中をまじまじと見つめていると、ここまで案内してくれたシュレイズ代表が改めて私に挨拶をしてくれた。
「こちらこそよろしくお願いいたします、シュレイズ代表」
そう返した私に、シュレイズ代表は苦笑しながらこう言った。
「代表というのはやめてほしいな。私はまだ18歳の若輩者だし、塔の代表と言っても比較的実家の地位が高いからと押し付けられたただの名ばかりの役職だからね。ここの人たちは研究者としては一流だけど社交となると苦手な人が多くてね。役人との折衝や交流が必要な代表って肩書を『家柄が云々』とか適当な理由で私に押し付けただけのものなんだ。
あとここは学問の前では平等という理念がある。遠慮せず私のことはリカルドと名で呼んでほしい。私たちも君をアンナ嬢と呼ばせてもらうよ」
「分かりましたリカルド様」
「ここでの生活で分からないことがあったら基本的には私に聞いてくれればいい。男の私に聞きづらいことは城の侍女を通してくれれば、副代表の女性に話が行くことになっている」
「はい」
「何か質問はあるかな?」
「まずはリカルド様が去年かかれた論文のことでいくつかお聞きしたいことがあります」
私がそう言うとそれまで穏やかな表情を保っていたリカルド様が噴き出すように笑い出した。突然のことに驚く私に何とか笑いを押し込めたリカルド様は目に薄く涙を浮かべたままごめんと言いながらこう言った。
「この塔に最年少で入る女神の愛し子ってどんなスマートな天才かと思っていたけど、最初に出てくる質問が論文のこととはね。君、この塔の住人たちときっと気が合うよ」
リカルド様は私のどこを見てそう思ったのだろうと疑問に思ったのは最初の数日だけであった。類は友を呼ぶではないが、知識の塔に招かれた私は彼らと同じ、自分の知りたいことについついのめり込んでしまう研究バカだった。今まではそんな態度をとっていると仮にも愛し子に選ばれた子供なのにはしたないとか色々お小言を言われたが、ここでは誰もそんなことは気にしなかった。いや、むしろ私より重症な人がうじゃうじゃいた。
リカルド様のその言葉通り、私はすぐ知識の塔になじんだ。
塔の人たちは確かにリカルド様のおっしゃっていた通り社交性は高いとは言いづらい人が多かった。しかしいったん自分の研究分野の話となると挨拶のときの蚊の鳴くような声は何だったのだろうと思うぐらいの熱量を持って、目を輝かせて話し出す人が多かった。理念の通り子供と言っても差し支えなかった私に対しても変に手を抜いたりせず、全力で討論をしてくれた。様々な人たちと切磋琢磨することで私は更に才能を伸ばすことができた。
そんな日々の中、塔での生活は学問の面でも私生活の面でも、リカルド様にお世話になりっぱなしだった。特に私生活の面では、私を含め集中しだすと寝食をすぐ忘れそうになる人間たちに、彼は昼食を取らせたり、切りのいいところで宿舎に帰るよう促したりしてくれていた。リカルド様がいなければきっと一人や二人室内で行き倒れになっていただろう。
リカルド様は研究者としてとても優秀なだけではなく、視野が広く周囲の人々をよく観察し、よく理解してくれていた。何か問題が起きそうなときも、いつの間にか根回しを終えて周囲の人々が円満に活動できるよう調整をしてくれていることもしばしばあった。
塔で半年も生活すると、なるほどリカルド様ほど代表にふさわしい人はいないなと私も納得するようになった。
そんな風に塔での研究の日々は順調であったが、15歳になったその日、私の生活にあまり歓迎しづらい変化が起こることとなった。
その日、私は珍しく王城の一室へと呼び出されていた。今までもここで誕生日を何度か迎えていたが、塔の皆やお城の親しい侍女やメイドたちの中にはお菓子をくれたり、おめでとうと声をかけてくれたりする人はいたが、王家の人に何か祝われたりしたことは一度もなかった。別に彼らは私の家族でもないし、私の家族はちゃんとプレゼントを贈ってくれていたし、そんなことは気にしていなかったのだが、準成人となる今年になっていきなり呼び出されるということに、私はあまりいい予感がしていなかった。
「女神の愛し子のアンナよ、そなたには我が息子スペンサーの婚約者となってもらいたい」
大きな謁見室に現れた国王は、前置きもそこそこに私にいきなりそう告げた。スペンサー殿下。私と同い年の第二王子だ。女神の愛し子と認定されたときからこんな日がくるのではないかと恐れていたが、それが現実となってしまった。
第二王子とは何度かお会いしたことはあった。見た目は寵妃として名高い側妃様譲りの文句のない眉目秀麗さで、一般の民たちからは穏やかで優秀な理想的な王子様だと思われている。しかし彼が王城にいるには本来釣り合わない身分である私に彼が向ける視線は中々に冷ややかなものであった。『穏やかな王子様』というのは外向きの顔のようで、私に対しては面と向かって「みすぼらしい」だの「野暮ったい」だの言ってくることも多々あった。
そんな彼が私との婚約を望むとは思えなかった。この婚約は今後この時代に利益をもたらすとされる女神の愛し子である私を王家から逃さないための政略結婚だろう。
スペンサー殿下の私を見るあの顔を思い出すとこんな話すっぱり断りたかった。しかし向けられる周囲からの視線、陛下からの圧力は厳しく、そして私は愛し子の肩書があるとはいえ今のところ実績もない男爵令嬢でしかなかった。
「身に余る栄誉です。謹んでお受けいたします」
それ以外に答えられる言葉は見当たらなかった。
そうして私は王子様の婚約者となった。
王子様の婚約者となった私を待っていたのは、研究の時間をごりごりと削ってくる王子妃教育だった。『貴族の令嬢としての基本的なマナーから総ざらいします』という台詞と共に始まった王子妃教育は非常に辛いものであった。
学ぶこと自体は嫌いではないので、教えられる内容を覚えることはそんなに苦にはならなかった。辛かったのはその環境だった。
スペンサー殿下と私の婚約をよく思わない人間が多くいるのか、城内では私たちの婚約のことはいつの間にか『女神の愛し子の娘がその肩書きを盾に殿下に婚約を無理に迫った』という話になっていた。
そのためマナー講師を始め、王子妃教育の講師たちの私に対する態度はとても冷ややかなものであった。小さなミスをあげつらい、いかに私が殿下の婚約者として相応しくないかをネチネチと聞かせ、更には理不尽な課題を沢山突きつけてきた。『このマナー本を全て写してきなさい』など、やったところで意味があるかも怪しい課題を多く出された。
さらに『日常生活のマナーから徹底的にチェックします』と言われ、顔馴染みの侍女たちのいる自分の部屋には帰してもらえず、講師や意地悪な侍女たちに監視されながら生活をすることになってしまった。
起きて寝るまで些細なことを注意された。理不尽な課題もたくさん課されたため、塔で研究する時間も中々取れなくなった。逃げることのできない閉塞的な部屋の中で繰り返される理不尽な仕打ちに、私は日々元気がなくなり、しなしなと萎びていった。そりゃ勉強の才能は多少あるのかもしれないけど、元々男爵家の娘として私は育てられていたのだ。こんな悪意にさらされ続けたときにどうしたらいいかなんて知らなかった。
食欲も失せ、よく眠れなくなり、そうすると肌つやが悪くなりまた自己管理がなってないと怒られた。そこまで気に食わないなら婚約者の座から下ろしてくれと思ったが、『まだ殿下の前に出るマナーもできていません』と、スペンサー殿下と顔を合わせる機会すらもらえなかった。
もう限界かもしれない、そんな思いが毎日のように頭をよぎるようになっていたある日、私の前に一ヶ月ぶりにリカルド様が現れた。
前にリカルド様に会えたのは、そうだ、研究のことで私にしか分からない資料がある、機密資料なので二人で話をしたいと意地悪な侍女を部屋から追い出して、資料を囲みながら少しだけお話をしたときだった。そんなことをぼんやりとした頭で考えていると急に声をかけられた。
「久しぶり、アンナ嬢。さぁ塔に行こうか」
開口一番にそう言ったリカルド様の言葉を理解しきれず、私はしばらくただぱちぱちと瞬きを繰り返していた。そんな私の背を、こちらも久しぶりに会った顔馴染みの侍女がそっと押して、私を勉強のために閉じ込められていた部屋から出してくれた。
講師たちは?王子妃教育は?そう思ったし、声にも出して尋ねたが二人とも何も言わず私をまっすぐ知識の塔に連れていった。
いつぶりか正確に思い出せないほど久々に訪れた知識の塔の、私たちの研究室でリカルド様は私をあの部屋から連れ出してくれたカラクリを説明してくれた。
「一ヶ月前に会ったときに王子妃教育の内容に興味があるからと言って、過去のテキストや課題を貸してもらったことがあっただろう?
あのとき実はそのテキストや課題をこの塔にいるそれぞれの分野の研究者に見てもらったんだ。ここには外国語や王国史の専門家もいるからね。彼らに講師たちが君に指摘した以上の細かなダメ出しをしてもらったんだ。
そしてそれを持って講師たちに面会をして、彼らにこう伝えたんだ。
『未来の王子妃にこんな間違いを教えていると陛下に知られたら、貴方たちの講師としての資質をどう思われるだろうか。
さらに貴方たちは彼女にひどい態度を取り、こんな無茶な課題も突きつけているそうですね。彼女は既にスペンサー殿下の婚約者から外してほしいと陛下に申し出ようか悩んでいるそうですよ。そうなるとその理由を陛下に説明しなければならなくなります。もちろん、貴方たちはそういうことが陛下に伝わると理解しながらこんなことをしていらっしゃるんですよね』と。
もちろん君の考えの部分ははったりだったけど、そう告げたら彼らはとても慌てていたよ。王城内の雰囲気がああだから、自分達も同じことをして許されると思っていたんだろうね。名指しで陛下に報告されるかもと聞いて今更ながらあれこれ言い訳を言おうとしていたよ。
そんな彼らに私はこう提案したんだ。マナー以外の専門授業は塔の各分野の研究者たちが請け負うのはどうだろうと。アンナ嬢は優秀なため、より高度な教育を施すべきと進言してほしいと伝えたんだ。もちろん君の生活の場も元の部屋に戻すよう伝えたよ。
そしたら彼らは自身の保身のために私の提案にすぐ頷き、手を回してくれたよ。そしてその案が正式に許可されたので、今日こうしてやっと君を迎えにいけたんだ。遅くなってすまなかったね」
久々に向けられる優しい声に耳を傾けながら、私はまだぼんやりと上手く働かない頭で何とかその内容を飲み込んだ。
「つまり私は部屋に帰れるし、ここにも来れるってことですか?」
「そうだよ。その代わり教育の内容は濃くなるだろうけど、それは勘弁してくれるかい?彼らは自分の研究分野を語ることが好きだからね」
そう言って笑いかけてくれたリカルド様に、私は「むしろ楽しみです。ありがとうございます」と涙声で返事をした。
そこからの私の生活は一変した。
マナー講師は相変わらず私に優しくはなかったが、顔を突き合わせる時間が減ったおかげで私も上手く受け流せるようになった。
マナー以外の勉強は講師以上の専門家が先生になってくれたので内容の難しさは跳ね上がったが、ただ年表を暗記させられたり、外国語の単語を繰り返しノートに書くだけより断然楽しかった。
何より部屋に帰れば、お帰りなさいと微笑みかけてくれる顔馴染みの侍女がいた。勉強ははかどってる?と声をかけてくれる塔のみんながいた。お昼は抜いちゃダメだよと気にかけてくれるリカルド様がいた。
やっと自分の生活を取り戻した私はそこからそれまでの遅れを取り戻すかのように勉強に励み、16歳の誕生日までには王子妃教育を全て終わらせた。
王子様の婚約者としての義務はそこで終わりかと思っていたのに、教育を終えてからは月に二回、スペンサー殿下とお茶を共にすることが新たな義務として追加をされることとなった。
殿下の御前に出るのだからと慣れぬドレスやヒールで着飾られ、窮屈な格好で向かわされたのはこれまた窮屈な空間だった。
『不本意』ということを隠しもしない殿下との義務の二時間。ひたすら嫌みを言われることもあれば、こちらを一瞥もせずひたすら本を読んでいることもあった。二時間もあれば資料をどれだけまとめられるか、なんて無駄な時間なんだと考えたのは初めだけで、途中からは割りきって申し訳なさそうな表情だけ保ちながら、脳内で研究の考察をまとめるようにしていた。
嫌みを言っても無視をしても特に代わり映えもない反応しか返さない私にそうすることすら飽きたのか、しばらくするとスペンサー殿下はお茶会をサボるようになった。始めに顔だけ出し、『私はここにいたことにしろ』と部屋にいる侍女や私に命令をして帰っていった。
さらにしばらくすると殿下は顔を出すことすらしなくなり、彼の侍従などが『殿下はここに来たことにするように』と伝言を持ってくるようになった。
殿下は来なくなったが、私は『ここでお茶会が行われた』という方便を成り立たせるために毎回無駄に着飾りお茶会の場には来なければならなかった。面倒なのは変わらなかったが、殿下が来なくなったことでこの場を見張る人もいなくなったので、私は堂々と本や論文を机に広げて読み、お茶だけ飲んで帰るということを淡々と続けていた。
そんな日々を重ね、何もスペンサー殿下との進展もないまま私は18歳となった。私たちの関係はそんな良くて顔見知り程度のままであったが、今年スペンサー殿下が通っている貴族の学園を卒業すると結婚の話が具体的になるとは聞いていた。ただ今のところ特に女神の愛し子の力で国のピンチを救ったわけでもなく、その可能性があるため囲われているだけの私は権力的なものを基本持っていないため、不安に思うところはあったができることはなかった。そのため結局変わらない日々を過ごしていた。
そんな中、ある日王宮の役人が塔にやってきて私にスペンサー殿下の通う学園に編入するよう伝えに来た。
一応の名目としては貴族令嬢なのだから貴族の子女が通う学園の卒業資格を取っておいてほしいとのことだったが、言葉の端々から殿下と少しはマシなコミュニケーションを取るようにという圧力を感じた。そんなこと私ではなく殿下の方に言ってくれと思ったが、外からだと塔からほぼ出てこない私にも問題があるようにも見られているようだった。
そのため私は渋々ではあったが、学園に編入することとなった。
編入するとは言っても、ハイレベル王子妃教育も終えた私が学園で学ぶことはほぼなかった。王宮の役人も私に学園で勉学することは別に望んでいなかったので、私は殿下と交流を取れるマナーやダンスの実践を行う授業だけを受けることとなった。一週間に二回、その授業のある日の午後だけ登校し、授業後は卒業資格を取るための試験を詰め込んで受けることとなった。
スペンサー殿下との交流は向こうの態度があれだし期待はしていなかったけど、私は学園生活というものには少しだけ期待していた。知識の塔の皆はいい人が多いが、如何せん年上の人ばかりであった。一番年齢の近いリカルド様ですら五歳年上だった。10歳から王城という閉鎖的な空間で育ってきた私は同い年のお友だちにちょっとした憧れがあったのだ。
そのため私は物理的にはまだまだこれから成長するはずの胸を期待に膨らませながら学園に登校した。
しかしそんな私を待っていたのは、残酷にも王城の環境の縮小版のような世界であった。
登校した私を待ち受けていたのは、王子妃教育の講師たちが私に向けていたような視線だった。隠す気もないのか周りが冷たい視線と共に大声で語る内容を聞くに、ここでも私は女神の愛し子の肩書きを盾に王子様に結婚を迫ったはしたない男爵令嬢であるようだった。彼らが言うには私は性格が悪く傲慢で、ワガママを言い殿下を振り回す女であるらしかった。
その時点でも事実無根であったが、それに加えてこの学園では私は『真実の愛を害する醜悪な女』と言うことになっていた。
『真実の愛』とは一体何なのか。身に覚えもなさすぎる単語を脳内で反芻したのは初めての授業を受けるまでの短い間だけだった。
お茶会での振る舞いを確認する授業に初めて参加したとき、私はその言葉の意味をまざまざと理解した。
役人たちがスペンサー殿下とのコミュニケーションを望んだためか、私は殿下と同じ授業に出るように調整されていた。そのためお茶会のセットが用意された教室にはもちろん殿下がいた。
殿下がいらっしゃることには問題はない。殿下がいなければコミュニケーションも始まらない。当然のことだろう。
しかしその場にいた殿下は一人ではなかった。
殿下の側には、ぴったりと寄り添うように美しいご令嬢がいたのだった。
貴族の名前と特徴を全て覚えている私はすぐ彼女が誰か把握することができた。彼女は侯爵令嬢のジュリエッタ様だった。
スペンサー殿下とジュリエッタ様はどう贔屓目に見ても異性の友人とは言えないような距離で接していた。もう少し正確に言うと、ジュリエッタ様は適切な距離を取ろうとしているが、スペンサー殿下がそれを詰めるようにぐいぐいと押しているような感じであった。
それを示すようにスペンサー殿下のジュリエッタ様を見る目はとろけるように甘く優しかった。そして、それを受けるジュリエッタ様も遠慮がちではあったが、頬をほんのり赤らめながら殿下の目を見つめ返していた。
そんな甘い恋人同士のような二人を周囲もそれを当然のものとして受け止めていた。皆、寄り添う二人に温かい眼差しを向け、そして振り返り私に冷たい視線を向けた。
なるほど、あの二人が『真実の愛』なのか。ここでの私は相思相愛の二人を害する悪女という立場であるようだと私は理解した。
楽しみにしていた学園生活であったが、フタを開けるとそれは誰もが私を悪く言い、冷たくあしらうものであった。現実は甘くないなと少しばかりはへこんだけど、噂を広めたのは私より高位の貴族たちだし、何より王族である殿下がその噂を全く否定してくれなかった。もうどうにもならないものなんだろうと私は諦めるしかなかった。
もちろん傷付かなかった訳ではない。でもその頃の私は諦めることに多分慣れてしまっていた。
それに歓迎されない環境ではあったが週二回だけの話だったし、学園の話を聞かれたらちょっと困った顔をする私に周囲の皆もその環境を推し量ってくれたのか色々アドバイスをくれた。お城の侍女はカフェのあのケーキはおいしかったですよと教えてくれたし、塔の皆はオススメのサボりスポットを教えてくれた。リカルド様に至っては「学園なら圧をかける方法がいくつかあるよ?いつでも言ってね」とまで言ってくれた。私を受け入れてくれる人たちに支えられながら私は学園へと通い続けていた。
周囲に無視され、身に覚えのない噂にさらされ、悪意を向けられるばかりの学園生活であった。時にはつまらないいじめのようなものも受けた。味方は誰もいない学園生活であったが、一人だけ私に話しかけてくれた人がいた。
それは意外にもスペンサー殿下の想い人のジュリエッタ様だった。
「テキストをお貸ししましょうか?」
持ってきたテキストをカバンごと水浸しにされ、どうしようかと半ば投げやりに思っていたとき、私にそう声をかけてくれたのがジュリエッタ様だった。
「よければ私のをお使いください。私は隣のクラスにいる従姉妹に借りましたので」
そう言って白く、美しい手でテキストを差し出してくれたジュリエッタ様を私は思わずポカンと見つめてしまった。
「……どうして?」
思わず疑問がポロリと口からこぼれた私に、ジュリエッタ様は申し訳なさそうな顔をしながらこう言ってくれた。
「アンナ様にとって私は不愉快な存在であることは理解しております。けれどもクラスメートとして見過ごせなかったのです」
確かに立場だけで言えば、私はスペンサー殿下の婚約者、彼女は殿下の寵愛を受ける女性だ。中々に複雑な関係ではあるかもしれない。しかし私は殿下に好意は抱いていないし、この学園で私にこんな優しさを示してくれる人を無下にする気は全くなかった。
「不愉快だなんてとんでもない。お気遣い嬉しく思います。テキスト、お言葉に甘えてお借りしてもいいでしょうか?」
私がそう答えると、ジュリエッタ様は恐縮したような表情のままであったがテキストを渡してくれた。
「ありがとうございます」
敵意がないことが伝わりますようにと思いながら、私は精一杯にこやかにジュリエッタ様にお礼を言った。すると少しぎこちないままであったが、ジュリエッタ様も微かに微笑みを返してくれた。
更にジュリエッタ様はテキストを貸してくださっただけでなく、濡れたテキストを乾かしてくれるとまで言ってくれた。さすがに申し訳ないし遠慮しようとしたが、アンナ様がこんな待遇を受けていることに私も関わっているのですからせめてもの償いをさせてくださいと涙を浮かべながら訴えられたので、断ることもできなくなってしまった。結局、私は彼女に押しきられカバンごと荷物を預けることになってしまった。
そこからもジュリエッタ様は筆記用具を隠された私にペンを貸してくださったり、水をかけられた私にハンカチを貸してくださったりした。身だしなみのマナーの授業で髪飾りを用意する必要があることを伝えてもらえなかった私に、高価そうな髪飾りを貸してくださったりもした。
ジュリエッタ様とは友人とまではいかなかったが、時折二、三言葉を交わすぐらいの関係にはなれた。
美しく、教養もあって、私に対しても気遣いをしてくれる。スペンサー殿下に対しては全く好意はないままであったが、殿下の女性を見る目は悪くなかったのねなんて私は呑気に考えていた。
そんな稀に鶴のいる掃き溜めのような学園での生活を三ヶ月ほど過ごすと、学園はほどなく長期休暇を迎える時期となった。
この学園の慣例で、長期休暇の前には優秀生徒の成果発表と表彰を行う行事がある。元々父兄たちも参加する行事だが、今年は最終学年にスペンサー殿下がいるため王族も臨席することから成果表彰を見に来る父兄がぐっと増えていた。
生徒は全員参加の義務があると言われ、私は表彰対象ではないがその成果表彰の会に参加していた。大勢の生徒、父兄で混み合う大講堂の隅でぼんやりと表彰される生徒を眺めていると、壇上にスペンサー殿下の姿が見えた。スペンサー殿下も今年の優秀生徒に選ばれていたのだった。
優秀生徒の成果は校内で公表されるため殿下の提出していたレポートも見てみたが、正直内容は可もなく不可もなくというところだった。そういうところ王族パワーよねなんて思いながらも、見た目だけは壇上のきらびやかな照明を受けるのが似合う殿下を眺めていると、表彰を終えた殿下とバチっと目が合った。
偶然かと思ったが、スペンサー殿下はその目を逸らすことがなかった。いや、むしろ目に力を込め、睨み付けるようにこちらを見ていた。
もしや『王族パワー』とか失礼なことを考えていたのが声や顔に出てたのだろうかと思っていたら、壇上にいたスペンサー殿下が急にこちらに向かって大声を張り上げた。
「アンナ・フォスター!前に出てこい!」
殿下の視線を追って、周囲の人々が私を振り返って見てきた。折角目立たないよう会場の隅にいたのに、今や私は会場中の人々の視線を一身に受けていた。
「あれが例の男爵令嬢……」「噂通り冴えない小娘ね」「卑しさが顔に出てるわ」など、いつもの嘲笑にさらされながら、私は呼ばれるままに殿下の前まで歩み出た。
「お呼びでしょうか、スペンサー殿下」
「呼ぶ必要がなければお前の名を口にもしたくはない」
そう吐き捨ててから殿下は聴衆に向かって大きな声でこう宣言した。
「私はこのアンナ・フォスターとの婚約をこの場をもって破棄する!!理由は未だ国家の役にも立たずただ税金を食らう立場でありながら私の婚約者という地位に執着するばかりでなく、人間としての品位も疑うような行動を重ねているからだ!!」
突然の宣言に私は思わず固まってしまった。
いや婚約を命じたのは貴方のお父様ですよ、とか色々突っ込むところはあったが、とりあえず私は一番気になったことを殿下にうかがうことにした。
「スペンサー殿下、お言葉にありました『人間としての品位も疑うような行動』とは何でしょうか?私には身に覚えがございません」
「白々しい!!あれだけのことをジュリエッタにしておきながら、そんな風にしらを切れると思っているのか!!」
「ジュリエッタ様に……?何かご迷惑をおかけしていたのでしょうか?」
「いい加減にしろ!!お前が美しく聡明なジュリエッタに醜く嫉妬し、彼女のテキストを水浸しにしたり、ハンカチやペンを取り上げたり、彼女が大事にしていた真珠の髪飾りを奪い、破壊したことは分かっているんだぞ!!」
テキスト、ハンカチ、ペン、髪飾り……確かに私とジュリエッタ様の間でやり取りの合ったもののことを殿下はおっしゃっていた。しかし内容に誤解がありすぎるためどう説明したものかと考えていると、人垣をかき分け、ジュリエッタ様が私の前に姿を現した。
私の言葉では聞いてもらえなくとも、ジュリエッタ様に説明してもらえば誤解は解けると思い、すがるような気持ちでジュリエッタ様に視線を向けた。
すると、いつもはにこやかに笑って応えてくれていたジュリエッタ様は大きく体を震わせ、涙を流しながらこう言い出した。
「申し訳ございません愛し子様。高貴な貴女様のご身分をきちんと理解せず、愛し子様の婚約者であるスペンサー殿下のお気持ちを卑しくもいただいてしまった私が全て悪いのです。けれど、こんな仕打ち……もうお許しください……」
長い睫を涙に濡らし、その目を伏せながらはらはらと涙を流す彼女は本来の美貌もありそれは美しく、儚げであった。
彼女の言葉が嘘であると知っている私ですらそう思うのだから、周囲の人たちはもっとそう思っているだろう。そのことを示すかのように、始めから好意的ではなかった周囲からの視線が輪をかけて厳しくなった。
壇上から降りてきたスペンサー殿下は、未だ涙を流すジュリエッタ様をそっと抱き締め、守るように立ちながら私にこう言った。
「言い逃れをしようにも証言も物的証拠も揃っている。陛下にもその証拠をもって婚約破棄の許可をいただいている。お前にできることはその頭を地面に付けてその罪を認めることだけだ!!」
そこまで言われて、私は確かにジュリエッタ様が私に何かを貸してくれるときも、それを返すときも周囲に人がいない場所であったことを思い出した。単に評判のよくない私にそのように接すると周囲がうるさいためこっそり対応してくれていると私は思っていた。でも、貸し借りをする場を誰にも見せず、それでいて私が明らかにジュリエッタ様の物を持っているところだけを周囲に見せれば、私に物を無理に奪われたように見せることは可能だ。
髪飾りも私が返した後に破壊し、壊されたと訴えれば目撃者も物的証拠も用意できる。
でもジュリエッタ様が本当にそんなことを……信じられない思いで目の前に立つ二人を見ると、絶望した私の顔を見て二人は、ほんの一瞬であったがほの暗く嗤った。その瞬間、私は自分の予想が外れていないことを確信させられた。
呑気な男爵令嬢である私は、貴族は顔と腹の中で考えることは別であるとは知りつつも、ジュリエッタ様の優しさを本物であると信じ、彼女に感謝すらしていた。悲しさ、己の甘さに対する悔しさで私が顔を伏せると、それを見たスペンサー殿下が畳み掛けるようにこう言ってきた。
「さっさと罪を認め、平伏してジュリエッタに謝罪しろ。まぁしたところで貴様を許しはしないがな」
「さっさと土下座しろ」「愛し子っていうのも嘘なんじゃないの」「あんなひどい娘、刑罰を与えるべきよ」
殿下の言葉に呼応するかのように、そんな罵声が次々私に投げつけられた。そんな周囲の声を浴びながら、私は諦めたように体の中から息を吐き出した。
そして最後の確認のために陛下に視線を送ると、「期待していたのに残念だ」と冷たい声で言い放たれた。
なるほど、ここには誰も私の味方はいない。そう改めて確信した私は諦めたように制服の左胸のポケットの辺りをぎゅっと握りしめた。
そしてそこに着けていたブローチのスイッチをカチリと押した。
『まぁアンナ様、今日のマナーの授業に髪飾りをお持ちでないのですか?みんながそれを必要なことを伝えてくれなかったのですね。みんなひどいわ。
この髪飾り、私の物ですがよかったら使ってください』
『お気遣いありがとうございますジュリエッタ様。でもこんな高価なものお借りできません。お気持ちだけいただきます』
『これは今のアンナ様の状況を引き起こした私の罪滅ぼしのようなものなんです。どうぞ受け取っていただけませんか?』
『……分かりました。では、ご厚意に甘えさせてください』
『はい、喜んで。アンナ様』
『ジュリエッタ様、髪飾りありがとうございました。気を付けたつもりですがキズとか付けてしまってませんか?』
『問題ありませんよ。アンナ様は丁寧に扱ってくださいましたもの。キズ一つ付いておりませんわ』
大講堂に響き渡ったのはありし日のジュリエッタ様と私の会話だった。私はブローチ型の記憶装置を外しながらこう続けた。
「こちらは知識の塔の魔道具部門が作った音の記憶装置の試作品です。この機関部から音を集積して、知識の塔にある本体にその記憶を送る仕組みになっています。そして本体が記憶した音声をそこから取り寄せ、再生する機能も持っております。外の他の魔道具が動く環境でテストしてほしいと預かったものになります。
今お聞きいただいたのはこれで再生した、その壊されたという髪飾りをお借りしたときの私とジュリエッタ様の会話です」
私がこんな反撃をするとは思っていなかったのか、突然の出来事に周囲はしんと静まり返っていた。
いち早く我に返ったのはスペンサー殿下で、怒りで顔を赤くしながら私にこう怒鳴ってきた。
「ね、捏造だ!!さらに嘘まで重ねるのか見苦しいぞ!!」
「殿下、お言葉ですが今の技術でいうと記録より捏造する方が恐らく難しいと思われます。あとこれが正式な知識の塔の試作機であることは王城でお確かめいただけると思います。試作機の試験には王城からの許可をいただいておりますので。もちろん陛下もご存知のはずです」
そう言って陛下に目を向けると、思い当たるところがあったのか目を合わせられることはなかった。
「どうやら思い違いがあったようですが、それで間違いないでしょうか殿下。それとももっとジュリエッタ様との会話を再生した方がよろしいでしょうか?」
「黙れ!!女神の愛し子か何か知らないが男爵令嬢ごときが王子たる俺に歯向かうな!お前は黙って頭を垂れ、婚約破棄を受け入れ罪を認めろ!!」
「罪が認められるかは裁判に委ねます。ただ婚約の件は承知いたしました。陛下と殿下のお言葉に従います」
そこまで言って私はその場を辞そうとした。ジュリエッタ様を害していない証拠ならリカルド様から預かったこの試作機のおかげで沢山ある。その点については心配はしていない。けれども信じた優しさに裏切られ、多くの悪意、冷たい視線にさらされて私は疲弊しきってしまっていた。
話はついたのだから早くここから去りたいと足早に動こうとしたのがいけなかったのか、足がもつれ、私は転けそうになってしまった。
ああ、また醜態を笑われる、そう覚悟した瞬間に私は誰かの腕に優しく受け止められることとなった。
驚きながらも私を支えてくれる人をそっと見やると、そこにはスペンサー殿下の一つ年下の第三王子のジャックス様がいた。
ジャックス様は正妃様のご子息で、スペンサー殿下が金髪が眩しい誰もが思い浮かべる王子様なら、ジャックス殿下は紺の髪に切れ長の同色の瞳が美しく、成績も王族贔屓をなしにしても優秀な知的な王子様だった。
そんなジャックス殿下と私の間にこれまで特に接点はなかった。しかし殿下は優しく私を受け止めながら、柔らかく私に微笑んでくださった。
そして私を支えたまま、スペンサー殿下に向かってこう告げた。
「これ以上嘘を重ねてアンナ嬢に冤罪を被せようとするのはお止めください兄上。私は学園でのアンナ嬢をときおり見ておりましたが、授業とテストに忙しくしておりジュリエッタ嬢を害しているような時間はありませんでしたよ。
陛下も兄上の言葉を鵜呑みにし、証拠を精査されなかったのではありませんか?彼女の人となりを少しでも知っていればそんな話を鵜呑みにはされなかったと思います」
二人に向かってそう言った後、ジャックス殿下は私の左手を取り、跪いて私を見上げながらこう言ってきた。
「アンナ嬢、小さい頃から懸命に努力を続ける貴女の姿に惹かれておりました。しかし貴女は兄上の婚約者であったため、私はその想いをずっと押し込めてきました。しかし今、貴女は兄上の婚約者ではなくなった。
この気持ちを抑える必要はなくなりました。ああ、どうか貴女に焦がれるこの私を、貴女の婚約者にしてもらえないでしょうか?」
その言葉にそれまで静かだった周囲が一気に騒がしくなった。正妃の息子で第二王子よりもずば抜けて優秀で、王太子の座にも近いと言われているジャックス殿下の突然のプロポーズにご令嬢からは悲鳴が上がっていた。
「どうかアンナ嬢、考えてはもらえませんか?」
そんな懇願とともにジャックス殿下が私の左手の甲に唇を落としたそのときだった。
大講堂は突然眩い光に包まれた。
突然の強い光が落ち着くと、大講堂にいた人々は安全を確認するため周囲を見回した。生徒や父兄など多くの人間がその場にいたが、彼らの視線は一点で縫い止められることとなった。
ジャックス殿下が手を取っていたアンナ・フォスターの髪がありふれたブラウンから白金に変わり、彼女の周囲を先程の強い光の残滓のようなキラキラした輝きが覆っていた。金の瞳はその色を増し、左手の紋章も淡い光を発していた。
先程まで見えていたどこにでもいるような平凡な少女であるアンナ・フォスターはそこにはいなかった。彼女は一言もしゃべってすらいなかったが、その身から放たれるオーラが全く違っていた。
誰もが心に浮かべた言葉を、アンナの手を取っていたジャックスが呆然と呟いた。
「……女神様……」
その言葉を肯定するかのように、アンナの顔をしたその女はゆっくりと優雅に微笑んだ。