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完全にこれはつまる所のいわゆる日記  作者: サケ・ノメナイ
8/11

きけわとサルベーション

 高校生活は最悪であった。最悪であった高校生活のことを未だに夢に見続けて居るほどに高校生活は最悪だった。

 最悪と言うのなら、最も悪い、ということである。最も、と言うのなら、それはこれまでの生活の全時間域から選ばれて、最も、なのである。高校生活は最悪であった。少なくとも、今になってこれほどに夢にそれを見るという学校生活は他にない。芝居を学んで居た時期も大概、酷い有り様、醜態であったはずだが、不思議なことにそれは夢に見ない。不思議である。

 夢の内容が眠れる心根を表し得るということの俗説かどうかは知れないことだ。しかし私はそう信じている。従って私は最悪であった頃の高校生活をばかり未だ夢に見続けているということの意味を知りたい。

 心理を学ぶほどに繊細で、柔らかな心を持し、その繊細さや柔らかさに堪えかねているという心理を学ぶ者は、がさつに笑う。サイコロジストを二人、身近に知った上でのこれは私見である。その内の一人に私は、私一人切りでしばしばと宵に見るのであるその夢の内容を打ち明けた。

「診て欲しいのです」

「どうされました。急に何です」

「夢を見るのです。いつも同じ夢です。高校生活の、後期。三年生で、私はもうとうの昔に卒業をしているというのに、夢の中でまた最後の一週間余りを繰り返しているようなのです。それは或いは卒業式の日なのであり、或いは三学期も始まったばかりか、それくらいの頃。今、働いていますが、或いは働いているという現在の私が、そのままあの頃へと編入し、また再び学校生活を送らなければならなくなるというのでもある、ただ一つの、多種多様な夢……」

「それは苦痛なのですね」

「苦痛です。朝、自転車を漕ぎ出して、一時間弱の道のりをまたもや行かねばならないという朝、億劫で、閉鎖的で、未だ未だ学校に囚われているという、嫌で嫌で、堪らないのだ。苦痛です。眼が覚めると、そうした義務は自分にはもう無いのだとふと気付き、またつまらない現実でもその夢よりは数段とマシであるのだと寝床の上で我に返って、救われるのです。それはそれだけに、苦痛である。見たくもない夢です。しかし逃すまいとして度々私を訪れて来るそれは執念深い夢なのです。私は今や、本当にあったはずのかつての高校生活を過ごしていたあの頃の私よりも、随分と学校生活というものが嫌いになっています。或いは私は今になって気付いて居るのです。選択の余地の無い、あの自分でそれと判るはずのないような、子供の身分へかかる健康な不自由というものを、今になって気付いて、それを憎んでいる。嫌悪している。あんな環境は今の私ではとても許されない代物だ。不自由を不自由と、自らで承知をすることすら出来なかった頃の環境へ、今の私が捩じ込まれてしまっているという事態がこの上なく不快なのです。見たくもない夢だ。しかし音もなく眠りへと浸って来るそれは、謂わばスムースクリミナルな床上浸水です。私の横たわった身体は眠りこけている。それ故に眠りから逃れられぬままの私はそうした悪夢にさえも入り浸る。或いは私は、起きろ、と自ら念じてこれを排したいという気持ちを込め、何らかの抵抗を試みることもあります。いつぞやは、この夢を悪夢だと見抜いて私は教壇へ登り、皆にこう言いました。どうして俺たちは未だ学校に居るんだ。どうして知りたいと心から思いをしたり、学ばねばならぬという必要を感じながら、その為にすすんで選び取って行くという行為を自ら棄却しているのだ。未だこのような夢の中に守られて居なければならないその理由とは何だ。これが私自身の悪夢に過ぎないのだとして、君たちにしてもまんまとこの憂鬱な朝に囚われているではないか。一人とて幻から抜け出ださない思い出の君らと私は思うほど身の程知らずではないはずだ。つまり私の思い出の中でそうであるというだけの君たち以上の、もっと新鮮で素晴らしい君たちを私が、在り得るものとして想定していないはずなどない。だから今ここで立ち上がって、炎で燃やしてしまうことだって、この眠りのオーナーである私にならその手助けなど容易いことだ。立ち上がってくれたまえよ。皆で現実に戻ろうではないか。さもなければ喜劇のような面をしたまま悲劇を演ずるまでだろう。それを飲み込んで来て、今があるという私たちの今ならばこの夢に対して反抗可能なのである……そのようなことを私は言いました。しかし明晰夢というものにも深浅の程度はあるのだから、私はこの時、それも半ばというくらいの浅さか深さかに自意識を据えていた。それだから現実にとって奇妙なことを言っていたのです。私が今、彼らと呼ぼうとして呼んでいる彼らが実際に思い出の内に在る同級生らであったのならば、彼らにけしかけることで自らの悪夢を打開しようという私は、余りに他力本願です。無論、彼らはも早私の一部分なのであるとそう考えてみることも可能です。すると私は私自身に居残っているかつての外部に対して煽動をしようとしたのだ。思い出の中に在るという以上、彼らは私自身にある外部としての内部に過ぎません。つまり私は私自身にある外部としての内部という簡単な心理の構造を利用して私自身をひっぱたいたのです。ですが、いつでも上手く行くことはない。眠りはいずれ覚めます。夢も一緒になって消えてくれる。しかし、眠りはまた是非とも必要なものだから避け得がたく人へと訪れて来るものです。するとあの夢もがまた連れ立ってやって来る。そう、まさしく、そのことに私は重要な傷を見る気がするのですよ。一度きりふと見たというだけの夢ではこれはないというそんな夢が、一人の人の何ものかを代筆しているはずなのです。それを解き明かしてやりたいのだ」

「その学校生活の頃がお辛かったのではないですか」

「辛かったと言えば嘘にはなり得ません」

「は」

「すなわち辛かった、そう辛かった」

「その頃を後悔して、やり直したいという気持ちがずっとあるのでは」

「ところが私はやり直したいとは思っていないようなのだ。これは先ず一直線に繋がって行く答えという決着点のはずなのだが、事実そうでない。そう思ってはいない。どころか繰り返したくはない夢だと思われることからも判るように、二度とごめんなのです。やり直す機会を仮に与えられたのだとしても私は唾を吐きかけてやります。その機会と、何らかの人知に勝る力をしてそれを与えた者とにです。終わったことなのだ。過ぎ去ったそれはかつての日々なのだ。もう忌々しくとも拭い去ることは出来ない、私の個人史です。むしろ貴重なことである。一個の体として経験して来たことは必ず、その一個の体でなければ経験し得なかったことなのだから普く独特です。ユニークということはつまり貴重とニアイコールの関係である。逆に言えば稀少性とはたかだかその程度のことであるとも言えますが、だいたいが目視に頼ることで空間に行為をする私たちは、ぱっと見て珍しく思われる事物をばかり有り難がってしまうものです。事実、私もそんなことを有り難がって生きているその内の一人である訳です。が、それは今は措きましょう。とにかく現状、私の或る種の観はそのようなものなのである。それだからこそ奇妙なことに、いつまでも拘泥しているというような具合に見続けてしまうこの夢が、何か特別な意味を持っているように思われてしまいます。つまり或いは、学校生活の云々ということ自体が、私を取り巻く現状の何ものかへとする、暗喩的表象なのではあるまいか。そうも考えるのです。ところがすると、どうしても私は現状の何ものかというところのものである暗喩の対象を、自力に見出だすことが出来ません。いや、実際には私は勘付いていて、つまりこの悪夢は必ず私の存在する今を無関連そうに象った暗喩などでは無いのだと、心底ではそう感覚し得ているのではないのか。現実に私は眼を背けまいとして四方八方に目配せをするのだが、そうして居る内に僅かな期間、当たりを引き当てて居ることもあるという可能性だけにかまけてしまって、本当には真実を掴み得ないという自縛行為にふけっているのに違いない。そうであるのならやはり、私は、あの学生時代にやり切れなかったという思いを、心底からは棄てきれずに居ることで、そうした悪夢を無意識裏に自らで誘い出しているのかもしれない。或いは」

「はい」

「はい」

「……ええ」

「或いは、あの頃に感じていた閉塞感を私は今や解決しているのかもしれない。そうとも感じます。つまり、私はあの頃というものを嫌悪する余りにそれから逃れようとする邁進を、ただ頻りに一路行く努力として綿々に続行をして来たはずなのです。あれが切っ掛けなのだ。あれが放たれた銃弾としての私の意思を今も尚撃ち続けるトリガーなのである。謂わば私は、自身見舞われた或る不幸から望ましい生活者というものを学習し、それをひたむきに実践し続けている。それが実践され続けなければならぬものだとする生命の、かかる価値観が私にあの夢を見せ続けている無意識的な意思なのだ。つまり私は今の私が意識的に宿らせているはずの心理的状況を無意識にも是として、継続させて行きたいという望みを確かに持っている。それはきっと心臓の近くに持っているのだ。これが現実の対としての夢の世界に地獄を再現して見せて、私へと常々忘れるべからずと言って、思い出させて居るのに違いない」

「そうとも考えるのだと」

「そうともです」

「それだけ色々と考えているのだったら、今のが一番あなたにとって良い結論だと思うので、それで良いのではないですか」

「と、言うと」

「と、言うと、って言うか、可能性は色々とあるのだとは思いますが、あなたの言う通りに全て、それが正しいのだか間違っているのだかは判らない、判りようがない、のだからあなたにとって一番良いと思われる解釈こそがあなたが生きて行くことにとって最良なのだと思います。でも、それなら夢の苦痛は、より良く生きる為にそれをあなたが必要としなくなるまでの間、どうしても味わって行くしかないものなんでしょうね」

「真実が知りたいのです。或いは、或いは、と考え連ねて行く先に、それをそうさせて来る鼻先の人参のような、私のこの夢に就いての真実、というものがあるのではないかと、そう思われてならない」

「でも判りませんよ。決して判明しないのではありませんか。夢ですから」

 夢に過ぎぬものをあれこれと考えてみても結局は無駄であろう、ということを彼女は言ったのだった。しかし、夢に過ぎぬものを度々見ているこの人間が、或る時ぱたりとそれを見ることの失った彼へと変成をした時、その人間の質が以前と同じであるという気は決してしない。

 幼い頃は一面の花叢を埋め尽くして行く土砂の夢を見てよく怯えていたものだ。それは本当は、たった一度きり見た夢なのかもしれない。だがよく覚えている。その意味はつまり、たった一度きり眠りの内に見た夢を、起きて、現実にも度々思い起こしてはまた覚醒の内にそれを見ているのであるから、よく見ていた夢なのである。怯えていたのは一度きりだったろうか。花叢は母であり、土砂は父であった。幼い頃に既にそのように感じられた。母を花叢と感じ、父を土砂と感じて居たということだ。或いは花叢に母の柔らかな抱擁を感じ、それを塗り潰して行く土砂という現象に託して父への畏怖が表されたのだ。この夢をまた再び、私が見るということはもう無いだろう。母への印象も、父への印象も、それとは全く別のものに今は変わって居るからだ。

 父方の祖父が亡くなった時、私は発熱していた。それか発熱をしていたかのように、茹だる緑色の、潰れて滲んだような蔦の夢を私は見ていた。寝苦しい、一枚画の夢だった。私を起こした母が、私へ覆い被さるようだった。暗がりに母を見上げたそのことまでもが夢のようである。おじいちゃんが亡くなったから。これが人生に於いて、人の死を告げられた第一声であった。その声のただならぬ様子に、私は一息に目覚めてしまったようだった。が、実際には眠りの内にも既にして、その寝苦しさの只中で覚醒も今やというほどに浅い意識は保たれたままだった。この夢が祖父の死に先んじたお触れか、予知であったのだというようなことは流石に言われない。しかしあの日を思い出す時に列れて、必ず思い出される夢である。その夢も、一度きりのものだった。

「夢の内容が度重なること自体に意味があると私が思っているのならば、実は他にもしばしばと眼にする夢があるのですよ。それを聞いてもらえますか」

「なんです」

「実は非常に言い辛い」

 えっ、と彼女は嫌そうな顔をした。

「その反応は正しいと思います。が、あなたが思っているようなことでは全くない。それでも先ず反応としてはそれで正しいのです」

「なんです」

「とても恥ずかしい話なんですが」

 ええっ、と彼女は本当に嫌そうな顔をした。

「あなた、思っていることを改めないままの反応じゃそりゃありませんか。だから違うのですよ。むしろ逆だと言っても良い。つまりこれを言うことで仄めかされて来ることはあなたが予期しているような事態を或いは益々と嫌悪させるようなことであるのかも知れない。従って私があなたの思っているようなことをいたずらに言うことでそちらへ近接しようとする下心があるのならば、絶対にそれは言うべきではないというようなことを私は今から言おうとしているのです。ですから言い辛い、と言うのもこれでお判りでしょう。私は私に対してあなたの心の何処かしらでしているのには違いない評価点を、自ら鷲掴みにして地の底へと叩き付けようとしているのです」

「なんなんです」

「実は」

 私は言った。

「かなりの長い期間、私は⚪⚪を△△して居らずに過ごして来て、するといい加減に先方も業を煮やし、⚪⚪を△△せねばならぬという事態に陥りました。それで私は実のところ⚪⚪を△△する為にずっと、⚪⚪の為だけにする◻️◻️を//しまくって居たので、いざ△△するという段に至ると、これは実にスムースクリミナルの反対といった具合に⚪⚪は大量にぶちこまれました。瞬く間にです。それだけ//はパンパンに膨れ上がって居たのです。ただ、この時の為だけに◻️◻️は、はち切れんばかりのその様相をチャックの内側に秘めていた。果たして、先方もこれで私の為に長く患った熱病を冷ましてくれるのではないかと思われたのです。無論、そこに冷めやらぬものの一切は、避け得がたい☆☆として残り続けて行く訳なのですが。ところで、私は実にこの一件のこと、自ら卑劣で不甲斐のないと思われながらに生きて来たというその心理、これがままに夢へと反映されて来るという恐ろしい事態に私は見舞われます。悪夢です。私はこの夢をも度々見るのですよ。夜、扉が開くのです。ひとりでに扉の開くという恐怖の音がする。恐らくは彼女は、私を◇◇する為に私の眠っているその時を狙い定めて、揺さぶるのです。私は驚いて、何より今この眠りの時だけは死守せねばならぬと頑なになるのも無理はない。何せよ、私をくるんでいる毛布は真に私というより他に言い様のないものをくるんでいる毛布であるのだから、そこから引き摺り出されてはその時私は真にHENTAIです。それだから私は金縛りの苦しい心地の内に、起きよ起きよと自ら奮い立たせるのだが、すればするほど窓の外では敷地へと、ざわざわと侵入をして来る子どもらの猛然とした様子が繰り広がって行く。窓ガラスから彼らは私のことを窺って居るのだ。私を馬鹿にしているのだ。彼らが何を手にしているものか、知れたものではない。きっと簡単に肉を裂いてしまわれるような器物で、だんだん、だんだん、と窓を打ち続けたのです。次第に床が割れます。私は水浸しになりながら彼女が⚪⚪を△△するよりももっと大切なことがあったはずだと私に問い詰めるのを音に聞きます。私は彼女が怖いのだ。逃れたいのだ。しかし、許されざる者の自らをして自らであるのだと信じ切っているこの心の病理が、私自身を見逃してくれるはずなどないではありませんか。実際を言えば⚪⚪を△△せねばならぬという義務は解決したのである。それはタスクであった。タスクである以上綿々としてこれのふと生じるのならば、今後ともに私は卒然とそのタスクを解決し続けて行くのである。それが受け入れてくれていたはずの彼女へと唯一される報いであるのだと、そう取り決めをしたのは彼女なのだった。そうではありませんか。しかし心の不味いと思って突き出した私の舌先、実は彼女を嘲る為にそうしているというそれが喪色の干からびた性根と時に自らで判じてしまうのである私が、今更誰か他人のせいにそれをするということなど全く出来ない相談なのですよ。だから、私は夢を見る。ついにこの悪夢に就いては私も、ひとりでにして深まった確信からそれと断言をすることが出来るのです。明らかに、罪悪感とそれを持したままであるという不安とを根に熱源として、私はこの夢を走らせているのだ」

「はあ」

「そうなのです」

「何と言えば良いのか判らないのですが、まずあなたはやっぱり微妙にこちらへと近接しようとしていたのではないかと感じるのですが」

「この話を以てあなたへ近接しようとするほど私は、不器用でも愚かでもないのだという自認です」

「内容は確かにそうですが、言い方が。言い表し方が」

「実にぃぃぃっっ」

 私がそうして叫ぶと、彼女は吹っ飛びそうになった。

「実にそれこそが私のあなたへの慮りであったのだと、それを言い得ます者はこの世にただ一人、私だけなのでありましょう。以上の内容を以て且つそれをくるんだ卑猥そうなレトリックを以てしたという全体が、私の下卑た、品性下劣な、卑劣さを際立たせたのではありませんか。近接するか、しないかというのは距離の問題です。私はこのように表現をすることで酒臭い息のようにあなたの鼻先を掠めるほどだった。しかしそれを嫌ったあなたが一目散に退くことを無論見込んでのこれは陳情だったのです。今や我々の距離というものはひた伸ばしにした手に手を取り合うことをもしかねるような遠さをしています。つまり、私は約束通りにあなたへとは近接をしなかった。その証明はあなたご自身の心がしてくれますでしょうし、あなたの心を象った今のあなたの表情が既に、私へそのことを証してくれているのです。そうして嫌がって居られます歪んだ唇に、への字曲がりの眉の垂れ込み方に、私は益々と自らの卑劣さ張りの奥深くに秘して達成のされた義理堅さというものへと、いぶし銀な満足感を覚えるのですよ。ハイヨォ、シルバーッてね!?」

 であるのならば。やはり学校生活全般を選りすぐって、一番に苦い思い出としてのそれを未だ夢に見ているということこそが悪夢の正体なのであろうか。たとえそうなのだったとしても、私が気に病むのではなく気に掛けるというくらいの心情をして済んでいるこのいい加減な元気さは、日々をただ生きて行くという逞しさへ目掛け、着々と処して来たここ数年来の送り方の故にである。それは有難いことなのだ。私は知っている。悪夢は悪夢である。悪夢は悪夢に過ぎぬものだ。そうして須く悪夢というものは過ぎ去り行くものである。日々の覚醒と共に反ってそれは去る。目覚めてしまえば日々がある。その日々が悪夢ほどではない。それが有難いことだ。

 私は知っている。悪夢とて過ぎ去らないで居てくれた方が良いという日々のことを知っている。そうした日々こそが、今にも夢に見ているような日々であったのだと、判っている。眠る内に人知れず見る夢から目覚めるだろう。そうして重苦しい現実に圧迫をされている頼りなさがまた、危うくも夢に追い縋って居るだろう。全ての神経を以て現実を拒むという生理が、私の夢と現実とを引っくり返したいと望んで居たのだった。その頃を今は悪夢としている。そうであるのなら私の生理は確かにその望みを遂げたのである。

「ハイヨォ、シルバー!」

「ハイヨォ、シルバー!」

「おや、あなたもノリノリですね」

「シルバー、シルバー!」

 そうはしゃぎ回っているサイコロジストのきけわさんが、がさつに笑っている。こちらへ何か話し掛ける時など無闇に舌巻いているようでもある。実に勢いばかりのヤンキーだと思われた。私は少しずつ、さて、どうしよう、とそう思うと、次第に興醒めて来た。

「きけわさん」

「シルバー、シルバー!」

「きけわさんって」

「ハイヨォ、ハイヨォ!」

「ちょっと、危ないですよ」

 手をぶんぶんと振り回す彼女が自らで何を口にしているものかを理解しているとは思わない。

「シルバーって何です」

「何ですって、え、何」

「シルバーは馬です」

 するときけわさんは少しばかり黙った後にまた手をぶんぶんと振り回して、

「ハイヨォ、シルバー!」

 と馬に跨がるような真似をし出した。これは突然に彼女の中で上昇してしまった何ものかが、或る種の臨界点へとまで達してしまったその結果なのであろう。彼女という物質がその股ぐらの空白にシルバーという馬を想定し始めたことは、尻であるそこの接触面に、気化でも液化でもない想像的転移を感触としてもたらしているはずなのだ。

 そうと思って見ていると、次第に馬は見えて来た。きけわさんが鞭を打つ、きけわさんの乗りこなせるくらいの、暴れ回っている小さなお馬が。ぽからっ、ぽからっ、と跳ねている。それが見えると益々思われて来たその拍子には、反ってきけわさんの尻が見えなくなった。それから小気味の良い自由なお馬は誰をもその背に乗せては居ない。猫じゃらしにじゃらせられた猫のようなポニーである。

 私は、しかしこのような全体夢の顛末とする為にもきけわさんを、とうとう現実存在とはさせ得なかった、彼女を、己れの外部的内部として遇するというその処し方を、許されざる非人倫的行為であるのだと感想する。きけわさんは確かに存在していない。今、目の前でキューカンバーの上を橋渡るお馬のほどに存在して居ない。しかし、彼女の元となった女性は確実に存在しているのである。であるのだから、手前勝手の感傷の為、人一人を言葉の観念の下に消し去ってしまうという暴力は許し得ない。

 消えるのは私である。無論、言葉のここに尽きるという観念の下に、私もが尽きるということだ。


「ハイヨォ、シルバー!」

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