審美的にも意味のない疣のある或る文章
モンゴル人の彼は未だ十八歳である。面白いことが大好きで、口を開けば冗談ばかりを言っている。
その口は非常に大きい。所謂一つのビッグマウスである。が、所謂一つのビッグマウスと言えば自ずと想起をせられるような、イケイケのヤンチャのドキュンという訳では彼はない。彼は夢想家である。それも非常に俗っぽいような成り上がりの夢想を、人へ続々開陳して行くような彼である。
曰く、私はいずれビリオネアです。
曰く、私のIQはアインシュタインより上です。
曰く、私は私の国をいつか作ります。
曰く、私、お金持ちになったらKさんを食事に誘います。
「お金持ちになったらなのかよ」
「車も買ってあげます。ランボルギーニで良いですか」
私は免許を持っていないので固く辞す。
しかし彼は時に曰く、疣、
「死にたいです」
「なんでだよ」
理由はこうである。
日本へ来てビザを取得し続ける為には当面学生で居続けなければならない。だが学費が高い。その支払いの為にこつこつと貯蓄をせねばならないという生活は、ただそれを送るだけのことにも金がかかる。働ける時間は週に二十八時間以内。それもコロナ禍下で、状況は不安定だ。学費なんてとてもではないが払えるものではない。生活でさえ怪しい。それに、ここが大事なのであるが、彼はそもそも、全然、何にも働きたくなんてないという、夢想家としての健全な夢想家なのである。当事者ではない私にしても、それだけの条件を言に並べ立てられれば酷薄で、頑丈に響いて来るその音に心をして聞いてしまうのだ。ひしひしと、胸には感じられて来るものがある。即ち、彼は確かに死にたいのに違いない。
ともなれば、このような疑問のさし挟まる余地はそこに必ずあるだろう。
何故、そうした苦労と未来先行きの見通しの悪さとを受難して居りながら、しかし、それでも日本に留まろうと彼らはするのであろうか。疣疣。
例えば私はベトナムの人へとそれを訊き、バングラデシュの人へとそれを訊き、ネパールの人へとそれを訊いた。
答えは金である。円安、円安と言われているが、円が現在、世界の主要通貨であるという事実には変わりのない。経済的に貧しい国からすると、一万円だけあればそれだけで一ヶ月ものあいだ、王族のような暮らしをそこに営むことが出来るのだと言う。それだから彼らの多くは、日本へとやって来ているのだ。従って、日本へとやって来ている彼らの多くは、日本のことが好きだから、それでやって来ているという訳ではない彼らなのである。ここで敢えてそう言い得るままにして言うのであるのなら、彼らとは金のことが好きな彼らのことである。
生存の有無や、その有り様へ直結をして行く金銭というものが、人の求める中での中心存在であるというこの事実は、人類にとって已むを得ぬ偏重である。また彼ら自身の各々単一の、個の生活へと働きかけるその為だけに、彼らに金銭が必要なのだとは限らない。つまり家族が在るので、それで金を必要としているという場合も屡々ある。無論、それがないという場合もまた疣々あるが、そこは一様ならず皆は様々であって、そうして様々である以上、様々なる彼らのことで一つ金銭というそこのところを私は、彼らの呈する同様態と見なしている訳である。
「なんでさぁ、そんだけ大変な思いをしてまで日本に居ようとするのよ」
「だめですか。Kさん、悪い人ですね」
「いや、だめなんて一言だって言ってないから、俺ぁ」
「いいえ。私を日本から追い出そうとしているナショナリストだから、悪い人ですね。殺します」
「おお、怖」
私を殺そうと思えば簡単にそれが出来そうな図体を彼はしている。
「まあ、でもいずれは君はビリオネアで、アインシュタインよりも時間は止まっていて、とうとう独立国家の元首にまで成るという未来が確定している人間な訳でしょう。それだけ有望な人材なら故郷の為に尽くそうという考え方が君にあってみたって良いんじゃないかと思うのだけど」
「ダメですね」
「なにがダメ」
「スリランカと同じですね」
私は先日、フリックし、スクロールをして行くスマホの画面に、スリランカに就いての最新のニュースだか何だかを見たような覚えがあり、即ち、そのことがフリックし、スクロールをして行くスマホの画面のようにふと思い出されては瞬時に消えた。
(な、なんだっけ。何かあったな)
「あのぅ、あれか。中国絡みか」
「そうですね」
はあ、モンゴルもそうなのか、と私は感想をしながら、金とは本当に困ったものだな、とまた更にはそのようにも感想をしたかはよく知れない。多分、したのだろう。
モンゴルの彼は、彼其の一と彼其の二とで二人居るのであるが、述べて来たのは彼其の一の彼である。彼其の二の彼は、夢想的ではなく働き者で、吃音の癖があり、非常に好青年である。私のことをハンサムだと言った。そのことから判るのは、人の顔面に対する彼の審美の正確さである。審美というものは得てして大衆習慣に流されて、その窮まるところは、個別様態様々にそれはあるという怠慢な結論へと靡きがちである。そんなはずはない。取り立てて美というものの明らかに様々なる審美を掻い潜った一等、高等、疣級という位置を有している概念であることへは言も鏡も俟ちはしない。其の二の彼は、この審美の誠実な実行者であって、然るに彼へ絶大な信頼を寄せるに足るその有益さは、私自身のハンサムな顔面が何よりもそれを証立てている。つまり互いは良い相互関係である。疣。
「⚪⚪知ってますか」
「知らない」
「⚪⚪は観てますか」
「知らない。あれだろ、ジャパニメーションでしょう」
「はい」
だが私は何も知らない。アニメを何も見ない。最後にしっかりと見たアニメは恐らく、機動武闘伝Gガンダムである。私はこれの最終回で、うぐふふぅっと泣いた。デビルガンダムの懐内に於いてようやく心の真に結ばれたドモンとレインと疣。果たして石破ラブラブ天驚拳を放つその際に、ぶるはっと飛び出して行く衝撃波と一になって、何故か大ゼウス神のような初代キングオブハートのそこに顕現をして来るという突拍子のなさに、私はまさしく天驚とも言っちゃえる迫力を感じたものだ。このような迫力が実は私の知る限り、∀ガンダムにも存在して居り、ギム・ギンガナム操るターンXへと突撃をして行くハリー・オードが何故だか、ユニバース、と叫び、対してその直線進行を迎え撃つ宙空の疣・ギンガナムが、月光蝶である、と猛々しい大宣言をするシーンがそれだ。月光疣がぶおん、となる。私は天驚してしまってすかさず停止疣ボタンを押した。それから三べんはそこだけを繰り返して観た。そうして私は、このような意味の消失する迫力を創造物に志すのが一番良いのだ、と個人的な創作指針の一つの先達例としてその感動を脳裏へ焼き付けて来た。それを今まで忘れていて、だからそれを今、思い出したのだけど、ではあるのだが。
とにかく最近のものは何も観ていない。連れて、アニメに限らず最近のものを何も観ていない。そのことにふと気が付いた。かなりダメじゃんねぇ、と思われる。従って観ようと思う。
「アニメ、観ないですか」
「全然観ないよ」
彼との会話もそれきりで終わってしまうのだ。
疣疣疣疣疣疣。
モンゴルの人である彼其の一の彼は或るときに言った。
「私とKさんで国を作ります」
「なに。俺を巻き込むのか」
「Kさんと私、結婚しますね」
冗談と知っては居るものの、それでも私はもしやともまた思われ、するとみぞおちを打たれたように驚いてしまって、
「あ、あ、あ、あ、アイム、ノットLGBTQ
。しかしバット、あ、あ、あ、アイ、さ、サポー、ポー」
「support?」
「知ってるわ。サポート、イット」
それから彼は私の隣を指差して言った。
「あなたは奴隷にします」
おいおい。彼女はその言葉を理解したような理解していないような、表情の静かな、しかし完全な停止を見せた。
「あのねぇ、こいつはねぇ、マジでバカだから。信じられないようなことを平然と言う、ステップ地帯の遥かなるバカだから」
「嘘です嘘です」
嘘の気持ちで適当なことを言うのでもなければ、怒りなどとうに通り越して恐ろしさを覚えるほどのことである。従ってこれで激怒をされたのだとしても甘んじてそれを受け入れるのでなければ彼は自らの挑戦の結果を少しも弁えていないということになる。若い十八歳が、弁えられるだけの分別の力量を持っているはずがない。そもそも弁えているのであれば、このような無意味な冗談による挑戦で、人間界隈におぞましい謎を吹き込むような、こんな愚かな真似など決して為し得はしない。
彼にとって幸運だったのは彼女が穏やかなサイコロジストで、彼の心理を見抜き、あまつさえ彼がバカなことを言うような性質の持ち主である、即ちバカであるのだ、と端から知っていたことである。彼女は怒り疣はしなかった。私がもう少し、人倫の大義に目を覚ましている人間であり且つ、軽口を許さぬという性質をしていて、更に非情操であったのならば、その時点で私の方が激怒をしていただろう。しかしその場は収束を見た。彼にとって、延いては我々全体にとって、それが良かったかどうかはまことに疣知れぬ。
ところがこれで収束を見たというその直後にまた弾け出して来るのが奴の口角飛沫である。
「LGBTQについて、Kさん、どう思いますか」
「どう思うって、何か思うようなことはそれほど」
「すごいバカですね。あの人たちはすごいバカです」
「おいおい。そんなことは」
「いえ、すごいバカです。あの人たちはすごいバカで、すごいうるさいですね」
私はちらりと隣を見た。確か彼女は共産主義に良心的エンパシーで、然るにLGBTQへも自ずと連続して良心的エンパシーで、なのでは、とそう思われてした、ちら見である。
(怒っている塊ではないか)
ちらりとした見方がちらりとし過ぎて、まともに見られていないのだから、怒っている熱を放った塊としてだけで、左肩ほどに彼女を感じるというばかりであった。右肩には彼のビッグマウスの口角飛沫が盛んにして、今度はその対象を女性とし、攻撃のため弾け飛んでいる。
「育ったら男は身体強いですね。女は弱いです。それなのに女はうるさいです」
つまり彼は、彼の知的程度を日本言語に換言することの出来ない為にそれに相応しいほどの言葉では言われないのだが、だいたい私は理解した。私は取り敢えず、ソサエティ、と唱え、またすかさず、シヴィラ疣ゼイション、とも唱えた。すると少なくとも彼の勢いだけは減退をした。
「うるさい。うるさいです、女性は」
そのように言われる意見そのものがただ英単語を唱えるだけで覆るというはずはない。しかし社会だとか文明だとかの名を、それで止まれと念じる思いをして詠唱してみることで確かに勢いは減じたのであるから、私の言いたいことの僅かにでも彼へとは伝わったのではないかと思われた。(勿論、念だけが伝達をしてしまったという可能性も大いにあるのだ)
私はふと、今度は真っ向して左肩の彼女を見たのであるが、彼女は微笑んでいた。私は時折、お母さん、と思って彼女の笑みをよく見るものだが、実際に彼女は夫子ある家庭の人である。微笑んでいた。サイコロジストは私とは別のものを彼に見ていたのだろう。
私は思うのであるが、思われるものはカマキリである。カマキリは雌の方が大きく、雄の交尾は命懸けである。人間はおおよそそうではない。少なくとも男性が女性に首を引き千切られたその上でむしゃむしゃとそれを食べられてしまうというようなことは殆んど起こり得ない。人間がそうではないということが国や地域、文化に因って変わるということが余りにもないという点で我々は本当に同種であると思われる。疣。女性の方が身体的に筋肉の発達を見て、男性を軽々と持ち上げる、というようなことの一般化しているような人間の種族を我々人類は確かに有していない。だから国や文化を違えていても同質の問題系統が延び上がって来るのである。
つまり高説は男女平等を述べるが、動物としての自然な条件下に人のある以上、それも行き届かぬところへとは眼をくれてやらぬという不作為が疣生ずる。これが文明の下にあればこそ、文明と人類普遍の原理に歯向かうというような身体との二項対立のその内に、吹き荒んでいる風が障壁となって、我々人類の前方を立ちはだかっているのである。
彼其の一の彼が言っていることとはつまり、私たちは何せよ人という動物だ、ということである。人という動物であるということが自ずとそうである、ということの意味を体現するものが姿形であるのだから彼は、我々のありのままの姿をその眼に見よ、と訴え、唱えたのである。これに少しくも真実味というものを味覚し得ない者は、それを感じるまいとして感じなかった者に過ぎない。そうしてありのままの姿をして既に文明の脚下にある我々が、その動物であるという事実の酷さに心痛めて取り組んで来たはずの文明を、その良心の為に放棄することなどは決して出来ない。謂わば動物であるという自覚へ帰れという良心の指摘が、文明の良心を妨げて、痛め付けている。そうしてどちらのものも、良心などは引きこもった奥へ僅かに見られるというだけで、最前線は擦り付け合う憎しみの応酬へと変じてしまっている。
姿には意味がない。姿はただ姿であるというだけであるのならば、その姿を以てそれへ自己言及的に意味を見出だして来た意思こそが文明の端緒ではないか。私には正しいのだと信じることは何もないのだ。フェアを言うなら左と右のターン制にすれば良いと思うだけである。