ヒグラシ以外は本当に見たのだけどヒグラシ以外は本当には居なかったのだと諭されて/それだからといってヒグラシの存在を揺るがせにしてはならない
この夜半に、たった一瞬だけ、遠くで鳴いたセミの声を聞いたので、これを書いている。書くと言ってもそのセミの声に就いてを書くのではない。それをしてふと思い出されたという、また別の或る夏に聞いた、また別の或るセミの声に就いてを書くのである。
或る夏は数年前の初夏だった。明け方。未だ光の薄い白んだ朝を歩いていると、たった一匹鳴いて来た。私は、ぎょっとして立ち止まった。
見上げてみると寺である。
見上げてみないでも寺である
何せよ住み慣れたアパートから出でて二十秒くらいのところに在る寺である。寺がそこに在るということは見上げてみないでも私には判る。しかし、伏し目がちに歩いていれば音のした方向の高さへと注意を払うその場合に、やはり見上げてみるという動作に反応はどうしてもなって来る。
従って、見上げてみると寺である。
寺を見ないでも判るが、見てみるとそれはとても寺である。
植木に並んで白い塀が敷地を囲っている。夏場はよくこの塀に、やもりが一匹張り付いている。毎夏の度に同じ場所を張り付いているので、そのやもりは不死身のやもりなのではないかと疑わしいやもりである。ああ、居る居ると、見る度ごとに私は思うが、この時には未だ居ない。やもりが人をぎょっとさせるような音量をさせて鳴く、というような話も私は聞いたことがない。だから、無論、鳴いたものはやもりではない。
(とー、とっ、と、鳥か)
と私は、始めは思った。しかし直ぐまた思い直して、こんなの鳥じゃないじゃんねぇと撤回した。
(そうだよもちろんセミじゃんねぇ)
セミだ、と思い直した。セミだと思うとそれが感覚の上で違和のなく、ただしっくりと来るだけだったので、やっぱりセミに違いないのだと私は重ねて確信した。が、それが端からセミのものだとは思われなかった理由はそれを端からセミのものだとは思わなかったという事実の在るその以上、有る訳だ。然るに言うとすると、聞いたことのない鳴き声でそれはあったからである。私はぎょっとしてしまった。その一番の理由も実際にこれであった。
(でもセミ……じゃんねぇ)
思う内に信の揺らぎ、定かではなくなる。私は外に出でただけの用を済ましてアパートへ戻ると、検索をかけた。その頃には、表の裏と思っていたがやっぱり裏の裏でほんとうは鳥なのか、とも思われて来ていた。しかし鳥だとしたら、何の鳥だ。ウグイス、ほーほけきょう。ハトは、ぽぉぽぉっぽぽー。カッコウ、かっこう。であるのだと思うと然るに件の鳴き声は、
きっきっきっきっきぃ。
こんな鳴き声の鳥があるか。少なくとも私は知らないのである。
従ってセミだろう。おそらくそれも、
(あの有名な、いわゆる一つのヒグラシなのでは)
私はそう思ったのである。先ずは、とそうして検索をしてみるとこれがバチこんヒットであって、そうだ、ヒグラシである。
蜩と書く。日暮とも書く。
蜩はキモ過ぎる。日暮は風情のままに現れた詩的漢字運用であるが、日の暮れというその名に生態は無論のこと限られず、実際にはヒグラシは明け方にも鳴く。私がそれを実際に聞いたのだから、謂わば目撃者のようなものとして私は、ヒグラシが明け方にも鳴くことを或る種の強度を持って言われるのである。然るに、
「日暮は明け方にも鳴くのでっっ!!日暮れ時にだけ鳴く訳ではないのでっっ!!」
しかし或る種の強度とは斯様なエクスクラメーション強調のことを言ったのではなく、そうした事実の重みがおれの内には在るのだろう、という鎮まった強さのことを私は言ったのだったが、しかしそれはどうでも良いのだろう、どうでも良いと確かに思っているはずなのに、自分で止まれず書き続けてしまっては、困る。
ヒグラシであった。あの、美しい引き笑いがヒグラシのものであった。
美しい引き笑い、と先ずは表現のされたあの音だ。
それに列れて思われるのが、何故だか鹿威し。
ししおどし。斜に切られた竹が水流で、ぽんっ、となる機構のものである。その仕組みを簡単に述べるとすると、竹筒の空洞を水が充ちれば、その重みに耐えかねた竹筒が首を垂れる。そうして内に充たした水を吐き出すと、元に戻った竹筒の尻が据え置かれた石にぶつかる。すると、ぽんっ、か又は、こんっ、と鳴るのである。そもそもは害獣を寄せ付けぬ為に作られたとされているが、今となってはその存在意義は、直ちに日本の風流物であるというだけであろう。
日本の風流物ということは判る。感覚として判る。それでは世界はどうか。そう思って調べてみるがしかし、世界に類例のない鹿威しであるようだ、検索をしても、ヒットのバチこんを全くしない。私は疑わしく思う。必ずこの世の何処かには、このような機構物に類似するものの存在しているはずだと疑う。だけれどバチこんとしたヒットを私の検索行為が達し得ぬのであれば、この文章上に於いてはそれまでの話である。従ってししおどしは、正しく純然たる日本の風情ということに今成った。
そうしてその日本の風情というものが、鳴る、鳴った、その時に伴って鳴っているのがヒグラシの音である、というイメージが先ず私に有った訳だった。
《流水の音》貯まり行く水に竹は、
《きっきっきっきっきっきぃ》
耐えかね、《ぽんっ(乃至は、こんっ)》
このような順序に思われる。
このような順序がイメージとして、全くの独りでに思われるということは恐らくない。いつの日か何処かで、テレビか、映画か何かで見たものが作用をもたらす、それも如何にも日本の風情を代表し、それを表現する為に再構成された虚構物として、一となった鹿威しとヒグラシとの連奏は、今の私へ強く、長く作用をし続けているのではないかと思う。
そうであれ、どうであれ。いずれにせよ先ずはそのようなイメージを持った私だ。
次いでその私というものは品格ということを感じた。しかしそれを言う為には、その時に整っていた条件を幾分、念押すように説明せねばならないはずである。何せよ、ヒグラシの音をそれと直ちには判ぜられぬくらいの知識量で私があったその上だ、東京の住宅地の真ん中で、それの聞かれることは先ずはない、といった希少性がそこにあり、その故にも鳴いていたヒグラシは、その時たった一匹切りであった、それも私の間近にそれは鳴いたのだという事実、これを強調したい。何故ならば、遠くに、大量に居るであろうヒグラシの所謂蝉しぐれのような音を試しに聞いてみたのだとしても、あの時のように品格ということを私は感じ得ないからである。
きっきっきっきっきぃ。
という音はそのとき独奏であった。
私はこのヒグラシが、恐らくどうにかして迷い込んでしまったのに違いない、この場に於ける絶対の孤独な種が、それでも強く、美しく引き笑うその哀感にこそ、孤独であるにも関わらずその生の寂れぬというような品格を見出だし得たのだ。
孤独な生の寂れぬ品格……孤独な、生の……生の、寂れぬ、品格……品格。
上記に於いて、繰り返し、ディレイ処理をさえして繰り返すことで強調せしめた私の意図するところのものとは虚無である。即ち私は何ものも意図していない。単にかっこいいと思ったので繰り返しただけである。
参いで。これは一先ず、さんいで、と私は読む。従ってこれを読んでいる人は、さんいで、と強制的に読まされ得る。意味は三つ目という意味である。即ち、一つ目=先ず、二つ目=次いで、であるのならば、三つ目=何か、であるのに違いないのだが、その何かが判らない、知らないというところにふと仮定をされて来たものが、参いで、である。その為に、四つ目のあった場合には、四いで、又は肆いで、と私は書くであろう。馬鹿にしてはいけない、と言っても良い。馬鹿にされるようなことをしている、という自覚がないのではない。それなら、一つ目=一いで、であろうと考えてみることなど私はしない。どうでも良いからだ。
参いで、私の内に、侘び寂び、ということの充足があった。
侘びとは、欠性に充たされる心である。寂びとは、欠性に因る美である。
私はこれを胸に充たすに、やはり日本の風情という知的程度の大分類でそれを感じたのに過ぎぬのであるから、後追いにこれへと当時の感性を以て当て嵌めて行くことなどは些か不当なふるまいであるのかもしれない。しかし知識の精度如何は、無知でも強か当人へと当たる純粋な感性へは及びも付かぬ程度の些細さでもそれは有り得よう。
然るに侘びであったものが私の心なのである。寂びであったものが一匹で鳴くヒグラシなのである。
今からそう宛がってみるところに苦しさはそれほどではない。何せよ日本の風情といえば必ずしも、侘び寂び、のみを喚起し出すという訳ではないからだ。日本の賑々しいあらゆる祭が、その賑々しさの故に、侘び寂び、の通らぬ道をみんなで練り歩く。しかしそれが日本の風情では無いと、誰にも言われない。従って斯様な例外の少なからず有るその内に、訳を知らねどもに胸を殺到した、侘び寂び、は必ず、当人を差し貫いている半解の意味である。それは未だ解かれ切ってはいない。
私は例えばこのように思っておいても良いのだとそう信じて、このように思う。日本は衰退の一途を辿っているのだと、世に言われる。それが言われて久しいと言い得るほどに以前から世にそう言われている。様々な試みが、その一途を辿る下り坂からまた別の道を見出だそうとして政経界隈に行われて来た、又は行われようとして来た、乃至は行うとだけは言って来た、のである。私は日本であっても何処であっても、貧しくない、で在ってくれ、その方が良いだろう、と絶対に思っているが、一方で、行うとだけ言って行われない、又は行おうとしたが行い切れない、乃至は行ったのだが成果がない、というようなことが続くのであれば、刻一刻と全体は衰微をして行くばかりである。貧しさの引き寄せて来るものへ思いを至らしめれば、絶対に、マジでガチで、とその一念の高まるだけとはいえども、やはりその一方で、悪戦苦闘をする物品の影に控えて、侘び寂び、という感性に見る貧しさへの、孤独への、美事な精神に、衰微した人間らのそれでも逞しく生きる品格を、全体の着地として用意しておかなければならないのではないか。私は例えばそのように思っておいても良いのだとそう信じて、そのように思うのである。
四いで、これが侘び寂びから後に、ヒグラシのそうして独りで鳴いている、私のところからでは見られない、その姿から率直に感じ入ったことが即ち、日本の衰退という一途の暗路であったのだ、という訳では全然ない。書いている内に思い付いただけである。
伍いで、まあ、ヒグラシって良い声をして鳴きますよね。形はセミ過ぎる。もしヒグラシの形がセミだったのだとしても、それが固形墨みたいに硯にごしごし擦って墨汁が出来上がるという生態仕様だったら、結構良い書が書けるんじゃないかなぁって思います。
しかしいくらヒグラシが良い声で鳴くのだとしても、その形がセミ過ぎるというところが如何にも私にとっては頂けないところであるということには言語を俟たない。ううぅひえぇっ、だけで良い。それだから私はむしろあの朝に聞いたあの音がヒグラシのものでは無かったのだ、鳥のものだったのだという可能性を今になって追いかけている。
結論から言うと、ヒグラシのように鳴く鳥は私の知る限り居ない。東京、という条件下でそれを検索しても、辛うじてイソヒヨドリの音が稀にそれらしく聞こえるかもしれないという程度である。従ってあの時に出会した音の正体はどうしてもヒグラシであった、という結論からは、如何にしても逃れられないようである。
して、そのようではあるがふと、鳥ということで、それを東京という条件下で検索をする内に、思い出したのが夜の海だ。しかし夜の海が忽ちに割れて、今は幼稚園バスに乗車している。
未だ年少なので、何を見ても覚束ないという事実は私にとって殆んど意味のない事実である。
朝の日向がバスの窓から温めて、私はその眩しさに、内部の肉の定まり切っていない柔らかな全顔面を火照らせている。通りすがるいつもの道路の向こう側、あとは右折をすれば直ぐに幼稚園だ、という進行の最後に、私は低い白木の列なった仕切りの奥側から、大きな、ふさふさとした獣がひょいと首を出したのを目撃した。
(白クマだ!)
そうしてバスは右折する。何事もなかったかのようにタイヤがみちみちと回る。
回るものはタイヤだけではない。それから時計の針も、園児らも、運動場に放逸し、思い思いにぷりぷり回る。
帰りのバスに乗って帰って来ると、送迎場所にはいつもの面々である。誰それの母、また別の誰それの母、しんちゃんの母、そうして私の母である。
「あのねえ、お母さん」
降りてしまうなり、私は言った。もちろん話の成り行き、その構造上、次いで私は、実は尻の穴からうんこという奴が勝手に出て来たんだ、しかもそいつはなんと今もパンツの中で存在しているんだよ、というような類いの罪の告白をここでしたのではない。白い大きな犬が居たのだというようなことも言いはしない。居たのは白クマである。それを言った。
「(何も特色のない、すげない否定の言葉)」
「ほんとうだよ」
「(何も特色のない、すげない否定の言葉)」
「ほんとうに見たんだもん」
私は自分の見たもののスペシャリティを自分なりに知っていたので、それを見たときに嬉しかったのだと思う。だから、このように否定し去られることは、目撃したものの正否は元より、目撃したものを目撃したその時の私の心の嬉しさをまで両断されたようなものだった。私は、しんちゃんの母へも、白クマの地方都市民家に於けるその実在を訴えたのだったが、無下にされるようなものだ、しんちゃんの母にせよ、私の母にせよ、
「(大人のつまらない、否定の言葉)」
と繰り返すばかりで、白クマの実在を頭から信じないという態度を一貫して守り抜いている。居たわ、ボケっ!でないならこの感動は何なんだ。これは白クマを見たという感動以外の何ものでもないんだぞ!
さて割れた暗い海が両脇から漫ろに近付いて行って戻り、二つがまたぴたりと寄せ合ったその瞬間、円状の僅かな波紋が立った。
隣を見ると異国の友人が、舗装のされた一帯から綿密にして探し当てた手頃な石を、海へと投げ込んでいた。する度に鳴る音の、ぽとん、という無力さが、見透せられぬ海の底を恐ろしく思わせた。
「(異国の言葉)」
石を投げ込むなよ、と私は思って言った。
「これは《名前》のお⚪⚪こだ」
「なに言ってんだ」
「この海が全部そうだ」
暗く、底知れない海に怯え、それを女性器と見なす敗退が実に彼だけのものではない、と異国の友人はそう信じている。
「今日も夢に見たよ」
「どうだった」
「怒られたんだ」
「そんなことをばかりしてるからじゃない」
「私に忘れさせないつもりなんだ」
夢の中で好いた女性を見ることが、夢が彼の中でだけで見られるものであるというその為に、恋の偽りの充足を彼に与えてしまったのだ。そうして彼はそれが偽りであるのだと知っているのだからこそ、今しもの現実に夢で見た充足を求めて飢えている。
「おお、待って、手元に感じる」
「ほんとう」
「今、ぴくんて」
「貸して」
私は手放し彼へと渡した。
「いないよ」
「でも、ぴくんとしたぜ」
「風だよ」
確かに冬の風の吹き止まぬ埠頭だ。女でないなら冷静である彼だった。しかし私は未だこの手元に、ぴくん、とあったはずの幻の反応を求めて、釣竿を未だ握り締めている。それはあったはずだ、とずっと思われた。
食事に行ったのだ、と彼は言った。私は彼を見て訊ねた。それで、どうした。
「二人で行くと思ったら、もう一人連れて来た。財布を忘れたと言うから、全部わたしが払った」
私はそこに痛ましさだけは感じまいとして眼を反らす。その眼を追跡して来る彼が、
「男の人を信用出来ないと言っていましたね。昔、ひどいことをされたと言うから」
「そうか」
「かわいそうですね」
そうだ、と私は思った。
「だから君のもその情熱は伝わっているはずだから、それが危険に見えるんじゃない。昔、男にひどいことされたのだから、警戒するんでないと。子供が居るんだよ」
「子供なんかどうでも良いね」
「なに」
「どうでも良いよ」
私は海と繋がる手綱のようにして両の手にしていた竿をふと和らげると、
「そういうこと言ったのか」
「(無言)」
「言ってないにせよ、何かそういうのは思いと一緒になって伝わるかもしれんぞ。もしお前、それが正気で、本心としてそう言っているのなら絶対に無理だな」
「なんで」
なんで、と問われたことに私は驚いた。なんで。しかしなんでも何も、あったものではないではないか。
「《名前》さん、ご家族を大切にしていると言っていたし、これで大切にしなかったらお子さんだってまともに育てられないよ。母親一人だぜ。その中で彼女が稼いで、頑張っているんだからね」
「私はそう思わない」
彼は沈着として暗い海へ、その頑迷な気を投げかけているばかりであった。手すりに半身を凭れて、何ものも明らかとはせぬ暗い海へ。
私は、それなら彼とは実らない方が良いに決まっているのだ、と思われた。私は、実りということが彼へともたらされることを、少なからぬ気持ちで応援していたのに、しかしこれでは絶対にだめだ、とそう信じるより他なくなった。ところが私は、彼が結局のところそのような気ままな人間であるのだということなどは、この出会いの初めから率直にそう感じ取って、知っていたのである。であるのなら私の抱いた第一印象の通りの彼であったのだとこの場で現に知れたその以上、少なからぬ気持ちを以てしてでさえ応援しようとしていたそのこと自体が予め罪悪だったのだとそう思わざるを得ない。
であるのなら?そうではない。であるのなら、私は、その出会いの初めから率直にそう感じ取って、知っていたということが、それでもそれに蓋をするように、素知らぬふりをし続けて、彼を応援するよう仕向けていたということこそが、
「Kさんはどうする」
「なにが」
「なにが、じゃないね」
私はどうするのか。私はリールを巻いて糸を引き寄せ、そうして針の全身を貫いているより他は全く無事な釣り餌を確認してしまうと、また海へとそれを放り投げることをする。
今度はあの浮島のような建造物の影を私は目掛けたのだ。そこに、そういう些細な縁側に、びっしりとした魚影のあることを想像して居りながら。
釣り針と重りとは、浮島に乗っかった。
「巻いても取れん」
「なにしてるんだよ」
彼は私から釣竿をひったくると、怖いくらいに引っ張り始めた。これは切れるな、と私には思われた。が、そうなった未来は然もありなん、そこを目掛けた訳ではないけれど、すれすれで結局は陸地へと投げ入れてしまった自分が全て悪い。彼はぐいぐいと引っ張るのだから早晩切れる。早晩も何も、持ってあと五秒といったくらいに張り詰めている糸のテンションが、私の眼には刺激的な毒物なのだった。私はそっぽを向いた。
そうして、手すりに沿わせて滑って行った視線である。それが、ふと止まった。
鳥だ。それも大きな鳥である。大きな白い鳥が、向こうの手すりに止まっている。
(ペリカンだ!)
私は思った。思ったのに違いない。確かに私はそのように思ったはずである。手すりの上部に足指を絡ませた、白い、大きな鳥がそこで直線に静まっている。ペリカンだ。
「ねえねえ」
「なに」
「見なよ」
「ああ」
異国の彼には存外、驚きがない。
「あれ、鳥だよ」
「そりゃそうでしょ」
「いや、鳥は鳥でもあの鳥は、たしか、そんなに普通には、見られないような鳥だと思うんだが。大きいし」
そう言いながら、まじまじとその鳥を見る不躾さをふいに私は感じ出し、君がそこに居る、単に居るんだ、というような薄い気持ちにこれを変じて、時折、それをちらりと見てみたり、見てみなかったりといったような案配へと自分自身を設え直した。動物は敏感であると思うから、私が居るように君も居るよう、君が居るように私も居てみよう、という自然な同化を内心で試みたのである。私はペリカンに、飛び立って行って欲しくはなかった。
「ねえ、Kさん、これ切っちゃうよ」
「うむ」
「切っちゃったら、もう今日は出来ないね」
「うむ」
私はこのままもて余すだけで終えるに違いのないクーラーボックスを指差すと、まあ、未だ仕掛けの予備はそこにあるんだ、と言った。
「釣れるまでやろうじゃないか」
「もう良いよ、寒いよ」
苦笑いである。一本の釣竿で、私が投げ込むのを見ているだけの彼であるから、それが何も面白くないというのは当然のことだ。それにもう散々に歩き回って、二駅分は湾岸沿いを移動して来た二人であった。歩みと共に熱を持った身体も、それだから余計に冷え込んで来ている。寒いといえば確かに寒い。仕掛けをあれこれとし、投げ込んだり巻き取ったりを自発的にしていた私は、それでも現状この寒さには未だ鈍感であった。それならきちんと彼の現況というものを、無事である私の方がその気で掬い取らねばならない。
「じゃあ、終わりにするかい」
「うん」
「切っちゃって」
「何も釣れなかったね、Kさん」
「当たりは合ったよ」
「当たりって、なに」
私は手に持ってはいない釣竿を手にし、ぴくんと動かす真似をして見せた。すると彼は首を振りながら、
「風だよ」
と言ってまた苦笑した。
きぃ、きっきっきっき。
私はいよいよ引っ張り始める彼を背にして別れを告げたいつもりでまたペリカンのことを見つめ出した。未だそこに居る。私は予めに望み、企図していた何ものもこの手にすることは出来なかったのだ。が、実は端から魚など釣れるはずがないとも思っていた。ただ魚を釣ろうとして糸を垂らしているというその行為自体を密かな目的として、私はお台場にまで彼と来たのだと思った。そうして彼もまた、魚のことなどどうでも良かったのに違いない。彼は夢に追われ続けている彼自身を独りぼっちにしたくはなかったのである。
そうして彼は話したいことを話し、暗い海の、海ながらの詩情の抱擁にその身を投げ出すようにして、下品な言葉の裏に隠した。或いは、あからさまにした。しかし私は、本当は隠したな、と今は疑っている。過分に、彼は下品な言葉を使って"見せた"のだ。
きっきっきっきっきぃ。
私はペリカンを見ていた。ペリカンの実物とはこういうものかと思われる。鳥の姿を以てそれを肢体というのなら、そのペリカンは美しい肢体をしていた。白い全身に、恐らくは折り畳んだ翼の縁か何処かに、黒い色を撚り合わせている。東京のペリカンとはこういうものか。東京。そこに生息をする野鳥を検索してみてもペリカンの姿はない。
それならあれは何だろう。ペリカン自体を調べてみると、やはりはそれだと思われる。が、よくよく見ればペリカンの足先は余りにもダック、その意味はつまり、ダックのような水掻きのぺたんとした足をペリカンがしているということだ。そうであるのならば今、どのようにして手すりへとその足指は掴まって、あのように美しい直線形に立ち止まっているのだ。なるほど、不思議である。
(白クマだ)
私には思われた。それもそうだ。あれは私の白クマに過ぎぬのだ。更に調べて行くともう、出掛かりで塞き止められていた答えはダイサギのように手すりへと飛び移って来そうだった。
きっきっきっきっきぃぃぃぃっ。
糸の引き張って緊まる下に、もう弛み切ってしまった私の近くで、ヒグラシはそう鳴いたのかもしれぬが。
「現実はつまらんよ」
私は急激に寒さを覚え始めた。腹も痛い。
「そうだね。もう切れるよ」
「こんなに現実を生きているのに、充足するものは夢ばかりか。つまらん」
「そうだよ。切れる」
「なあ」
私は海のように黒ずんで来ている友人へと掴まりたい気がして言った。
「でもヒグラシはさすがに居たよな」
見ると、糸はもう切れていた。糸の切れる音というものはしなかった。切れる時、それは呆気のないものなのである。異国の友人はそうして軽くなった釣竿の先を震わして遊んだ。
「それで、ヒグラシも何も、過去のものは全て、あなたの心の中にだけは今も居ますね。これを垂らせばわかるんじゃない」
私は彼から釣竿を受け取るとまた、その軽やかな糸先を暗い女性器の内側へと投げ込んだ。すると、手すりに掴まったペリカンも、仕切りの奥側から優しげな顔を覗かせる白クマも、ヒグラシの音を立てる固形墨も、全てが判然と見えて来出した。そうして、くつくつ、と手に持つ竿の僅かな震えが、それを持つ手の内へと伝わって来るのだ。
私は待った。ありとあらゆる視線が、竿の一本にだけに集中をしているようだ。
くつくつ、がふと、
(あっ)
とそう思う時、
「今だっ」
と声を荒げたのは、異国の彼である。
するとバチこんヒットだ。
私は力一杯に引き込んだ。
暗い海が山のように持ち上がって来る。やがておおらかに隆盛する海水が中央から剥がれ落ちて行くと、その内よりびしょびしょになって姿を現すものが、彼女に違いない。
そうである。
憎しみに、宛のない復讐心の波状に揺らめく、大きな瞳がしかし、哀しみを潤ませたその彼女がである。
そうであるべきなのだ。
だが、波のはだけ切ったそれは、ひっくり返っている我々を映す、この一連の文章であるのに過ぎなかった。オブジェクト、と私は思う。未だ少しは濡れているそれが、しかし胸にそうして在るというだけのオブジェクトに過ぎなくなった。
あの痛みである現在からすればそれは信じがたい未来である。