量子に就いてを右肩くらいでそう思う、並びに懐妊の可能性
昼過ぎから夕方にかけ、大変、非常に眠ってしまったという日の真夜中に、こうして眼の冴え渡ってしまっているということは必然的なその結果である。にも関わらず、眠りたい気がしてならないのはあらゆる物事にうんざりしてしまったからであろう。
昼間はズッキーニのトマトパスタを作って食べたのだったが、よし今日はズッキーニのトマトパスタを作ってカチョカバロでも上から振りかけてそれを食べよう、と思いの立つ以前、昼前、その起き抜けに何故だか、量子力学に就いてを調べていた。
量子力学。
量子力学と言われてもそれが何のことだか判らないというのが更に以前、前から存在自体は知っていたのだけれど、それがどのような力学をしているものであるのか、全く知らなかったと言って良い。それはつまり、今なら少しは知っている、ということを前文を以て暗に告げているのであるが、それを明示する為の文章が即ち、現行をするまさしくこの一文なのである。
量子力学とは古典力学ではない。こうしてそれが言われるくらいに知ったのであるからして、知ったという以前の知らなかったのその程はここに察せられる。因みに、私がそれを知ったその時、胸へ偲ばれて来たものは、量子の力の働きは古典力学には則らない、という全くの最初期に為された大発見の、いにしえの興奮をであった。これは興奮しただろうと思われる。うっへぇ、マ~ジで?と成った当人らの心中を映じてしまう我が心中が、映じてしまったマ~ジデの、もうその一切を疑わないという怠慢に蕩けている。或いは当人らの心中にあったであろうと思わしいその興奮は、実に私自身でかつてはし得た興奮のイメージ的な仮託であったかもしれない。いずれにせよ、なるほど、である。即ち、量子の力の働きは古典力学には則らない、という点へとするそれは、なるほど、なのである。
量子の世界はマジ魔法。
つまり魔法。かんぜんに魔法でしょ?という世界が量子の世界であるのだという理解が私のものである。私は昔、「この世の真理というものを本当に得たそのときに人は、真理の空前絶後なその凄まじき在り方によって過度に充てられ、それは耐え難く、従って忽ちに大爆発しておれは死ぬ」と考えている友人を持っていたが、私もまた、「そうだそうだ!」と言ってこれに追随する賛同者であった。(或いは私こそが先んじてそれを言い、彼の方がその賛同者であった。どちらでも良い)そのことを思い出す。
そのことを思い出しているということはそのことの思い出されるだけの因果関係を求めることで、そのことのいずこかにそれを見出だすことの出来るはずである。見出だした。然るに私は、知るということの限度に就いて何をか感じるところのあったのだと思う。
友人の言った真理が、それを得た者へと充てるものが過度である。友人、或いは私、乃至は、友人並びに私はそれ故、この身の爆発し去って死ぬのだと思った。それはつまり、知るということに耐久し得ない人の脆さを感じ取った上での感想ということである。これは真実が辛いものであるので、だから人はそれに耐えられない、ということを言っているのではない。そうではなく、辛さも楽しさも全てが一緒くたになって雪崩れ込んで来るような真実の、その空前絶後さに耐えられないと言っているのである。何せよ空前絶後であるということ、それ故に爆死をするのであるからそこに探求のピリオドを見るということである。探求のピリオドに死すと言うのならば、反って生きているということは探求そのものである。それなら私たちは知識に終わりはないということを反って言ったのであり、空前絶後の真理、究極のその殺人は決して起こり得ないのだともまた反ってそう言ったのだ。しかし私たちはまた一方で、究極の殺人を働くはずの真理が、まさしくその執行条件であるところの空前絶後さを必ず有しているのだとする願望を抱いていたのには違いあるまい。つまり私たちは、そのようなものが在るのだとしてその為に死にたい、その為に爆発して木っ端微塵になって死にたい、という空想的なロマンを互いに分かち合っていたのだともまた言える。
色々と言える。しかし先ず以て、これが思い出されて来たその理由は、知るということへの限度、耐久限界に就いて感じるところのあったからだった。
早い話が私は、それが些か、或いは些かという副詞をして飾る宛ても見当違いな方向なのかもしれぬのだから、それを仮に修正出来たのだとして些かに、僅かに、遠いところでふと、または身体を以て喩えて言うのなら右肩くらいの一部分で、本当に、こんな量子のこととかを人類は発見して、それを知ってほんとうに良かったのかな、と疑問を抱いたという訳である。
それを知って良かった理由が、各家庭に凡そ配備せられていよう電子機器の多くによって得られている便利、過ごし易さであり為し易さであるところの快適さ、である。従って右肩以外の全てを以て、人類は量子力学を得て良かったのに違いないと私は思おう。頭は無論、対である左肩でも腹でも背でも、おちんちんでもそう思おう。お尻のアヌスであるところのアナルであるせせこましい酸っぱい穴で以てもそう思おう。然るに右肩以外の全身を以て私はそう思って良いのだと信じてそう思うのである、が右肩くらいはそうは思わないで居て良いのだと信じてそうは思わないでおこうというその配分でこれはある訳だ。
私はそうしてここに、殊更なる感想をするのである。而して、物質的存在としての私を観測することの出来ない者は、私の為したはずのその現象だけを知るのである、と。
量子力学に就いては以上を以て了。読了ならぬ、述べ了。述了。
さて、知り合いがプレグナントした。ようである。私は、コンセプションした、コンセプションしたんか、と言ったが、懐妊を言うのにはコンセプションよりもプレグナントの方が適切であるようだ。医者に掛かって見て貰うと、確実ではないが90%おそらく、というほどの確率でそれはプレグナントであるそうだ。おめでとう、ということである。未だ確実でないのだからそうはっきりと言い得はしないのだったが、90%で確率があるのだからその場の雰囲気は既に先回ってコングラッチュレイションを醸し出しかけた。良いではないか。国や文化、宗教をそれぞれに違えていても、人情とはときに等しくそういうものである。
プレグナントしたようである当人は、喜びよりも不安の方が勝っているように見えた。未だ若く、プレグナントであった場合に当人は初妊婦である。日本で産むのだろうか。日本で産むのなら私は、宗教上の問題はそこにないのかと尋ねたかったが、それが伝わりそうにもないのでまた別の国の人にそう尋ねてみて欲しいと願った。問題はない、とのことだった。
しかし時折当人の見せている表情は確かに周りの人の観察していた通りに、生への不安の影をふと青く差さしているように見える力のなさだ。私は不安という語をそのときエンザイエティと翻訳することの出来なかったので何も言われなかった。私というものは、即時適応的にウォリィとも言われない性能をしているのである。それだから、とにかく何も言われないのだが、ただ見ていた。
するとはたまた別の国の人がやって来て、その人の腕には非常に大きなホクロが現れている。それはホクロ以外の、また別の名で呼ばれるべき何か、であるのではないかと私には思われるのだったが、しかしそれにしても悪い意味ではない。確かにそれは非常に大きいのではあるのだ。
するとプレグナントしたらしい当人は一瞥し、彼のホクロがとてもスケアリーだと言った。私は驚いた。私は驚いて、そんなこと言わんで、と言いながら人差し指を唇に押し当てるジェスチャーをした。当人は、ちがうの、彼のホクロについてを私は言ったの、とこちらの思惑に対して訂正をした。私は、そうだよ、それがあんまり言わないでも良いことだよ、とそう思ったのだったが、今になって思い返してみると、彼のホクロをではなく彼自体をスケアリーであるのだと私が勘違いしたのだと思って、それで当人は訂正をしたのではないかと思われる。
また、そうなのだとしても或いは当人の暗く不安げな内なるところの只中へ、もっと近接しているらしいスケアリーが、そうしてふと彼のホクロを見る内につい、それがそのものの象徴印であるかのように心根から現れ出てしまったという、思いがけない裸の言葉でそれはあったのではないか。
と、そのようにもまた思われる。
実に一たびそうと思われてしまうと私は、もうそれだけだと決め打ってしまいかねないような人間で、悪い。きらいがあるという言い方はこのような傾向を差して言うのに適当であろう。しかし誰に迷惑を掛けることのないというその以上は、慎むつもりもない我が傾向である。
悪い。が、悪しからず。
本当のことを追い求めても、その為に嘘しか判らないのだ。自らの絶望的な性能を、本当の絶望をする為にも是非一つ、繊細に、執拗に疑って掛かってみるべきだろう。或る態度さえ、一朝一夕にしては成り難いものだ。