一昨昨昨昨昨昨日から
久々にスパイスカレーを作ったのが一昨日のことであるからそれは帰郷の折にである。
ふるまうというほどのことはないが、従ってふるまうというほどのことはないふるまいで、両親に食べてもらった。両親は取り敢えず、旨い、と言ってくれたので、それは両親に対して成功しているということで良いと思うのだ。だが自分自身としては、二時間掛けた割には余りにふつうのカレーになっちゃった、という反省が口の中でもぐもぐとされたので、その原因に就いて考えたのがもぐもぐとしているその最中、即ち一昨日の夕方頃であった。
原因は簡単である。クミンとコリアンダーと、あとはターメリックとというだけでスパイスを済ませたのがその原因である。クローブやカルダモンをも投入して、香りをもっと様々にすべきだったのだと思う。だいたい三人前を作るとなると、その為に消費せねばならない玉ねぎは即ち、温かなフライパンの上で飴色になるまで炒めねばならなかった玉ねぎなのであるからそれは大変なのだ。
腕が大変。冷房の効きの悪くて、暑さも大変。玉ねぎは大量であるのだから時間も大変にかかる。
従って大変。とにかく大変だった。
そうして大変だったというその割には出来上がったカレーが如何にもふつうの出来栄えであったのがつまらない。それで少し不満を覚えたというのが一昨日の夕方頃のことである。帰郷の折、思い出してみるとそれは今週の水曜日、であるのだと判明をしたのであるのだからするとスパイスカレーを作ったのは一昨日の夕方頃のことではない、一昨昨昨日の夕方頃のことだった。しかし、いずれにせよ帰郷の折にである。
然したる用もなく故郷へ帰ったのは久々のことだった。実に冠婚葬祭の引き続き、去年はその為にする帰郷であるばかりで、それだから心休まるということが余り無かったのである。その意味するところは今回、用もなく五日間ほど帰ってみて、すると心休まったのだということに外ならない。
心休まった。休まった心が在るということだ。それなら休まることのない雑然とした心が先ずは在ったということである。
私は自然に触れて心休まる、乃至は心安らぐといった感性を必ずしも持してはいない自分であるのだと思うのだ。しかし、ワンチャンそれを持して居るのだとして考えを進めてみるに、どうやら幼い頃から住んで、住み慣れた家というものは、自然物に近しいようである。或いは、住み慣れた、ということだけではなくそれが、幼い頃から、という条件の下にも、私的な安らぎは成就を見ているのかもしれない。と言うのも、誰でも幼い頃というものはそのとき自身、最も自然に近しい存在として過ごす時期であるのだから。
水田のタニシを掘り出したり。
ザリガニを指で捕まえたり。
ホウネンエビを新種の生物か何かと思い込んで、テレビ番組へ送り付けようとしたり。
送り付けようとしたのは私ではなくて友人であったが、友人の送り付けようとした正にその週、当のテレビ番組で、ホウネンエビが紹介されていた。ホウネンエビはシーモンキーとして紹介されていた。だからそこでその名を知った私たちにとって、捕まえたホウネンエビはシーモンキーであった。それは今日この時にまでシーモンキーであり続けた。調べたのである。調べるとあのシーモンキーは正しくはホウネンエビであったのだと知れたのだ。しかし、それならばむしろ思い出の中のあのホウネンエビは、正しくはシーモンキーであると言った方がより正しいのではないか。何せよ三十年弱もの間、あの微細な生物はシーモンキーという名を持った存在として私に記憶をされていたのであるのだから。
先を越されてしまった友人はそれでもテレビ番組に応募したのだと言う。電話をすると番組ロケで馴染みのアナウンサーが出て、それではそのシーモンキーに芸を仕込んで下さい、と言われたのだと言う。だから断念したのだと言った。明らかな嘘である。私は今になって思い出してみるまで、それを殆んど信じていたのだと思うが。
三十年弱もの間、長く信じられていたことは本当に嘘でも嘘のように本当で良いのだろう。何せよ嘘でも本当でも、それはどちらでも良いという些事に過ぎないのであるのだから。
とにかくそんな風にしてあれやこれやと記憶を辿る内に、記憶は三十年弱もの長い間を帰郷の折の新幹線よろしく急進して来て、忽ち昨日のことのように思い出されている。すると三十年ほど前のことが昨日のことであるのだから、昨日という日に私は小学校一年生だった訳である。それも明らかな嘘である。が、そうした嘘の内に方々繋がって行く心が在りし日へと立ち還って行くそのよすがに休息の居場所を見出だすようである。こうして極私的に心は安らぐのだ。極私的と言うのは心のことを言ったのではない。思い出される幼少期が、現在の心を休ませることの出来るだけの幸福に与っていた、という個人史に対して極私的と言ったのである。
幸せだった、という記憶がまあまあ在るというだけでそれは幸福なことであろう。幸せだった、という評定は現在にされるものなのだとしても、幸せだった、と評定せられるだけの要素が過去にあったのだという事実は動かし難い。当時はそのように思っているはずなどは無いのだ。何せよ友人とタニシを掘り出し合いしながら、おれたちしあわせだ、と掘り出したタニシを互いに掲げ上げる、などということはされ得なかったのである。
幸せなどどうでも良い。それは言い過ぎだが、そう言い過ぎしたい心自体は偽りのないものだ。少し、しあわせ、という言葉は良い言葉に過ぎるのである。眩しい言葉だ。過去という陰りをそれで照らすくらいの役割に私は止めたい。或るときに言葉はそれがそうした言葉であるというだけで、その有するところの意味を異次元的に超え、人へ邪悪に働き掛けてしまうもののように感じられる。私は未だしも、ぽこちん、という言葉の方により幸せという言葉以上にそれの有する意味、即ち幸せを感じ出しかねないほどだ、いや、さすがにそれはないか。
それはない。
用もなく帰ってみると心休まった、ということを書こうとしたのが上記である。
母は音訳をボランティアでしており、父は不登校児童の教室で働いている。いつの間にか、両親はそのようになっている。社会的弱者、と言うと語弊があるのかもしれないが、仕事にせよボランティアにせよ、することで自ずと彼らと向き合い、彼らへと伝えることに従事をしているようである。元々騒がしい家庭ではなかったが、妹が結婚をして出て行ったことで、家はより静かな家となったようである。
雨だ。
静かな家というほどでもないが、二人が仕事で出払った家に一人で居たときに雨が降った。私は黙々と物語ウクライナの歴史を読んでおり、スターリンこわい、と思っていた。
歴史問題は解決を見ないようである。結局は現在の力関係が物を言う。正しい歴史は確かにあるはずだと、誰もが思う。何せよ自ら省みてそうだとする根拠は誰にも否定は出来はすまい。確かにそれは在るのだろうが、実際にはそれは余りに個別に無数に在るものが一つの大きな流れとして見えているのだとも思われる。歴史はスイミー。何を掴まえて表舞台へと引き摺り上げるかで、歴史の堆積物はその姿の印象を変えてしまう。
表舞台へと上がって行くのは英雄である。英雄の個人史は顧みられる。面白いからだ。しかし個人史は英雄にだけに在ったのではない。無数の、知り得ようのない個人史が、恐らく英雄のものほどには面白いのではない個人史が、数限り無く、つまりやはりは無数に埋没しているのである。
時間は墓石の数だけ埋まっている。その全てを知る手立てはない。降り落ちる雨が土の色に染まって行くのを見ながら、私は私が死んだのなら骨は海原へと撒いてくれと願いたい。
そう言うと母は、誰が撒くんだよ、と言って煽り立てて来るのが常である。つまり死後の世話をして貰うことのこのままでは絶対に不可能な寂しい独り身人間がお前、と暗に言うことでこちらの感情を煽り立てて来るのだ。
出立の日の朝には早起きをした。イスラエルとパレスチナの話を父とした。私は不勉強でよく知りもしないのに、取り敢えずパレスチナの肩を持ちながら、敢えてだいたいを賢しらに反論した。もう居直って、そうだよ俺は判官贔屓だよ、と言って、壁と卵の話を持ち出した。父は、壁と卵の話はイスラエルとパレスチナとの関係だけで言っているのではなく、もっと普遍的に村上春樹は言ったのだと主張した。それはそうかもしれないが、と私は続けて、しかし村上春樹はそのように普遍化することで防御柵を張り、その裏側へと逃げ込みながら言いたいことを暗に言ったのだと主張した。
どちらが正しいと思いますか?少なくともこのことだけは僕が正しいんじゃないかと思うんですよね。だってイスラエル行って、そこでわざわざ壁と卵の比喩してんのって絶対にそういうことでしかないだろがよって思いません?
まあ、どうでも良いのである。
何かに触れて私は、中学の卒業アルバムを持ち出すと開き、様々なことを思い出しながら両親へと同級生らに就いての知り得る限りのエピソードを開陳して行った。そうして居るとあの頃が後方彼方よりまた急接近をして来て忽ちに昨日の私は中学生であった。実際問題、中学生の頃くらいの私が一番に手繰り寄せ易い、一番に楽しげな私である。
これで良いや。
この俺で良いやな、として煙草を吸いながら、この俺を東京へ持ち帰るので良いのだと私は信じた。そうしてみると、実に過去を心に遡りながら、反って今現在を新しく生まれ落ちたような気分にもなって来た。
用もなく帰ってみたその内に、このようにしても心は休まって行ったということを書いたのが上記である。
出立の日は金曜日であったのだから昨日のことである。が、今やもう日付を跨いで一昨日のことであるのだから先ほどの水曜日は何と一昨昨昨昨日のこととなったのだ。
その金曜日がかつてない暗い金曜日であった。