こまねいている手が放つ
関係は大有りだが、関係ないと言えば関係のない人の死が、こんなに気分を落ち込ませて来るということは一体何なんだと思う。
かなり弱った。
暗い気持ちになった。
それも気持ちは果てしのなく暗いように思われる。
感情とは勝手なものだ。必ずしもそれは繋ごうとする手ではない。必ずしもそれは繋がろうとする心ではない。こまねいている手。わだかまっている心。出口を見失って、それでも仮に針を通すような一穴を見出だし、細心に通して行ったのだとしても、伝え切られぬという奥底の大きさ、深さ、或いは伝え切られるだけの表現をする力の無さが故に、心にはわだかまっている、差し出した手は途方に暮れている。
何より寂しいのだ。
しかし寂しいということは誤りなのだともまた思われる。
銃弾が撃たれ、二度撃たれた直後に彼は倒れた。現世に忍び寄り、突如浮かび上がった白煙の向こうへ伏した。
一度目を振り向く直前のふと硬直をした姿に、この次に訪れるものが死でなかったのなら、と悔やみ切れない品がある。
血縁でない、友達でもない人の死が何故こうも暗澹たる心をもたらしてしまうのか。
或いは血縁でない、友達でもない人の死へ何故こうも心を暗澹たらしめてしまうのか。
所謂ファン心理のようなものだけでは説明は付かない。何故ならそのような意味での喪失を経験していないのではないからだ。自ずとそれが明白である。であるから何故なのだとする自問はこのように目下されている。
考えるだろう。
考えることで答えは出るのだろう。
死ということが生を完成させるものであるのならば、彼の生はそこに完成を見たのである。だが彼が率い連れて来た生は彼の完成の後にもひき続いて行くのである。彼の完成は生を後押すか、導くかをするかもしれない。しかし死が完成であるのならば、生は未完成なのであろう。彼の完成を付与される人々の生は未完成のものだ。
生が、死に弾みを受ける。
確かに、彼の英雄としての大きな完成をそこに見るのが我々だ。本来、人は人、たとえ大人物とて手製の拳銃に葬られてしまうくらいに英雄は人であった。ところが人は、小に大に、軽に重にと千差万別にして、明らかなる差異があり、その自明感覚的な秤に拠って彼を英雄と見なし、悪魔と見なして来たことは事実である。また且つそうして見なしたいという心のあったことが先ず内的な事実なのだ。
それでも彼は単に人だった。いずれはそこへ留まることは約束のされている未来だ。
その未来へまでは彼の完成の及ばし得る影響を生は、様々に受けて行くのだろう。
何故、暗いのか。
私が感情的に安倍政権を応援していたのだから。言ってしまえば、それだけのことなのか。心の支柱を失ったのか。それだけのことなのか。それだけのことであるのならば、本質的に私は、余りにも不自由である。余りにも私は、内面へ彼らの動向を感じ入らせ過ぎである。それが或る種の均衡を重んじた場合に心をたしなめる反省であろう。
国家とは私ではない。しかしなぞり辿るように国家を心にして、一民間人がそれをわたくしするというドキュメントを、私はこれまでに生きて来た。知っているのである。
元首相の命を奪ったものが、或いは恨み晴らしのちんけな自己実現で、それがあまつさえ誤った思い込みに因る銃弾であったのだとするのならば、これは安易な物語にとっての脅威である。安易な物語を守りたいという登場人物らがいずれ跋扈するだろう。私はむしろ実感としては、現日本に於いて政敵を叩き斬ったり、銃撃したりをする政治的なテロリストが居ると思うよりも、陰謀論のようなものに取り憑かれた孤独さが、わだかまる心と繋がろうとはせぬ手とをして凶行に及んだ、という方が尤もらしく思われる。
銃弾を放った者が私で有り得たかもしれないということを上記で言ったのだ。或いはそれが、と私は思う。つまり、この暗い気持ちには、或いはそうした内なる暗示的共感が働いているのではないか。
いつもトリガーに指をかけている。それを引く時の来るのを心待ちにしているという怠慢な飢え。
感情とは勝手なものだ。
しかしやはりそれは、穿ってしまった考えであろう。ただ単純に、安倍政権を内面化していたという為に私の心は落ち窪んだのだ。落ち窪んだところに、その暗い低さの中で、見出だし得るものを見出だした、というのに違いない。
そうであるのなら不自由であった。しかし不自由であることは望まれた不自由であったのだともまた言い得られよう。
川端は日本の敗戦の折、横光への弔辞の内に、日本の山河を彼の国とした。川端のままにとは思わないが、私も出来ることならば自らへと内面化をする国をそのように設定したい。望みである。私の性質が、時代も、それを許すことはないのかもしれないが。
安倍さん、本当に今までありがとうございました。安倍政権のひたむきなその期間に、僕はとても勇気づけられました。
また、このようなことは思い込みに過ぎないのですが、僕の極個人的な十年はあなた方と一緒になって歩んで来た、日本の十年の確かな一部だったのだと感じています。
そのこと、どうぞお許しください。
そうして、どうか安らかにお眠り下さい。
やはり寂しいです。