かつて日記として書かれ始めたところのものが何故だか日記としての体を成さなくなってしまったその結果として発現し得たところのものの1
エルデンリングおもしろくてやめられないよ
ふと思うことが有り。然るにそうしてふと思われたことが下記に書かれり。果たして書かれり、の語の用法の当か不当かをば、不問に付されり。その所以を述ぶるとすれば、クソめんどくさいからだ。
小説家になろう、という名称のウェブサイトにこうして、このように文章を公開しているその以上、そこに上がった文章には先ずその内の要素として小説的なものの薄くとも、小説家になろう、というLet'sに乗り掛かった書き手に因るそれらに就いては常に、小説の風というものが影のようにして付きまとって来るのではないかと思われる。
⚪⚪家という場合には、その⚪⚪に拠って当人は一つ家を成している。そう考える以上、一つ家を成さしめなばそれをしても⚪⚪家とは一般に呼び得ぬものであろう。然るに私は小説家ではない。あくまでも私は小説家になろうとしている小説家ではない何者かなのであって、これだけうっとうしい呼称にしても、それは私の現状というものを表現するには充分である。
而して私は小説家になりたいものかどうかを自ら問わば、いや私はそうでもないんだこれが、と言ってしまえばそれこそ本心に敵っているのだ。が、果たして、小説家になろう、という名称のサイトに投稿をし続けている以上、そのような本心には、それが本心とは到底思われぬような風というものの影、即ち欺瞞の存在していることを、人は直ちに感じ取ってしまうより外、法はあるまい。そうであるなら私は自身、小説家になりたい人間であるのだということを、無理にも丸呑んでしまうより仕方がない状況下にある。
ところで、なりたい、という欲望はbeの欲望である。幼少の頃の私は、バルセロナオリンピックになりたい、と幼稚園の卒文に書いたことがあったが、これはbeの欲望である。しかし、当たり前だが欲望にはdoもある。バルセロナオリンピックとして私はバルセロナで夏季開催をせられたい、という場合にdoである、いや、実際にはこれはbe doであって、然るに誤りだ。即ち、
「バルセロナオリンピックとしての俺はスペインのバルセロナで夏季俺を催したい」
と宣った場合にdoの欲望である。尤も、バルセロナオリンピックとしての俺、の現状いずこにも存在をしていない以上は先ず前提として、バルセロナオリンピックになった俺、をゴールテープである当該doに向けたスタートラインとして必要とする為に、スターティングブロックbeは必ず踏み切られねばならないという順序である。
バルセロナオリンピックに就いてみるならそうであろう。しかし、小説はどうか。小説は小説家のみならず、小説を専業とはし得ぬ何者かに因っても現に書かれているものだ。まさしくそれこそdoの欲望というものだけに頼って、頻りにこれを書いているという人も少なくはない。何であれば、beするつもりは無かったけれども頻繁にdoしていたらついついbeしちゃったんだ、という事情を持った小説家も中にはあるだろう。(この場合は小説家に限って言われることも、実際には広く様々な職業に対してこのような過程は言い得られるのであって、その内にある小説家もまた然りという互いの関係である)
果たしてこの、ついついbe、こそは垂涎の成り行きである、とそう思われる者も中にはあるに違いない。そう思われた場合にはやはり、正面切っては現れぬbeの欲望が、その背中にびたりと貼り付いているというのが真実である。
然るに私はこう言いたい。そうした背中のけだものを取り払ってただ、己れの正面に現れて来るdoの欲望へとひたむきであるべきだ、と。学術技芸のようなものを志すのならば先ず以てそれと並走するべきだ、と。そう言いたいという欲望はdoである。そう言いたい人になってみたいはずなど私にはない。そう言いたい人になってみたいが、そう言うつもりが無いのであれば、これは自然法則に対して非合法である。やはりそう言いたくて実際にそう言ったのであるから、そうやって言った人にこれは自ずと成ってしまうというのが至極合法だ。この意見が全ての根元である。
しかし一方でこのようにも思われる。
欲望doは良し、だが自らの欲望doを充たす要件をば自己の持ち得ぬ場合には如何であるか。
要件とは即ち自己自身のことを指す。例えばクッソうんこしたい。それなのにも関わらず自身の人体の臀部の肉に挟まった奥深い局所にケツのあ、いや、間違えた。
要件とは即ち自己自身のことを指すのであるが、例えば鉄棒でクッソ逆上がりがしたいのに出来ない。無論、逆上がりをクッソしたいような人間のこの世にそんなに多く居るとは思われないがしかし仮にそういう欲望doを抱いている人のいずこかに在ったとして、ところがそれが出来ないという場合。その場合に当人は、逆上がりをクッソすることが出来るという鉄棒技術、を先ずはその身に付け加えることで要件を充たさねばならぬ。これは、逆上がりが出来るように"成らなければ"仕方がない、ということだ。
然るにこの文章に於いては成る=beであるのだから謂わば、必要beである。そうして当人の心にするところの曰くは、クッソそれがしたい、のであるのだから、逆上がりが出来る人間に俺はなりたい、という欲望beへと彼の流れて行くことも自然であろう。つまり、欲望doがcanでない、という条件の下に欲望beが、人の表裏満面へと現れ出すのだ。
(豆乳で割った珈琲をここで一口。Lionのフレーバーコーヒー、ヴァニラマカダミアの香りだけが甘い。舌は薄口のコーヒーの苦みを味わうのである。従って、香りだけが甘いのだ。しかし何故、味蕾のない鼻が甘さを知ることの出来るのだろう)
では欲望doがcanである場合に欲望beは発動しないかというと、そうではない。漫画を描きたいと誰かが思う。描くことが出来た。それも欲望doに込められたより以上の漫画を彼はものにすることが出来た。すれば欲望doに対する不満としての=欲望beは発動し得ぬが、しかしその場合、<欲望beは当人の内を発動し得るのである。(=は等しいという意味のイコールである。<はより大きい、高いという意味で用いている記号であるが本来、式の上でのみ使用されるのであろう<は左と右との関係を比べるものであるのだから逆転しており、その読みは、小なり、である。それを大なりとここでは読みたい。計算式と同様に用いるのなら欲望be>と表記をする方がbetterに良いのかもしれない。しかしそうすると、よくぼうびぃだいなり、という読みになってしまう。なってしまう、と言うのは、それだとなんかいまいちな名付けじゃんねぇ、という私の感性に拠る拒みが為にである。つまり、だいなりよくぼうびぃ、の方が読みとしてカッコいいじゃんねぇ、と私は感じているのである)
漫画を上手く描けたのだから当人は、漫画を上手く描くことの出来る彼自身を思って更に上へと欲望をすることがcanである。そうして<欲望beが発動し、すると累乗根的な根源欲望doに紛れる形で、<欲望be達成へと向けた新たな必要doというものが生まれて来るのである。漫画であるなら絵が上手い、構成も(よくは知りませんけど巧みだとか巧みでないとかの判別をする上で)巧みである。しかしストーリーがやや面白みにかけるのだ、といった風に自身にでも他者にでもそう思われた、そう評した、そう評せられたその場合に、ではストーリーを、という眼の向け方から、何をするものかは知れぬ、他者の漫画を読み漁るだとか自身の作物を以上の観点から精査するだとか、<欲望be達成へと向けたタスク、即ち必要doが実施されて行くのである。
果たして<欲望beが達成せられたその時に、欲望doはとうとうその要件を充たし、遂には現実へと、どばばっと発動されて来る。この時には無論、<欲望beは霧散の如く解消されている。しかし新たな高みにある欲望doは、それでも未だ昇られるだけの上部空間を肌で感じ取ってしまうのかもしれない。するとまた彼次第では、更なる<欲望beがその内を発現し得るのである。
このように欲望doと欲望beとで或る種の欲望を、それら二つに分かちた場合に、上り詰めて行こうとする自身の跳躍を助けるそれらは、互いに面した三角跳びの壁のようである。まるで自身はパルクール走者である。尤も実際には、何処まで高く行かれるか、ということには個人差があるのだし、一時上りはしたが少しの油断で忽ちに落っこちてしまった、という場合も当然あるだろう。仮に落っこちてしまったにせよ、ある程度のところで身を休ませることの出来る足場のようなものだってあるのかもしれない。いずれにせよ以上に見る欲望doと欲望beとの関係の上では、人は落ちて行かれぬピンボールである。
この営みに哀れさを見ることも可能であろう。私自身も、当人は一生懸命上っていて大変そうでかわいそうだなぁ、と思いました。
然る上で、私が欲望doの方をば、大事にする理由というものが無くなってしまったようである。何故なら欲望doと欲望beとは高低の段段に互いの掴み所を位置させながら、しかし自己を上げやる壁としては等価のものとして対面しているのであるから。そもそもことは、欲望doからのみ始まらなければならないという訳ではない。むしろ現実は逆で、例えばバルセロナオリンピックになりたい、という幼少の仄かな思いから、他者からの注目を浴びようとして目立ちたがるという必要doを人は、ゆくゆく欲望doへと変化せしめたりもするものである。幼少の頃に抱く欲望は累乗根である。それはその名の通り根源なのである。今はもう他者からの注目をなどそう浴びたいものではない、と思っているはずの大人のただのdoが、良しにつけ悪しにつけ事実人から妙に眼をつけられてしまうという場合には、自身の内なる秘された欲望、根源dobeを疑ってみた方が良いだろう。反対に、どうあがいてみても俺は他者からの注目を集められない生まれながらの忍びの者だ、という場合にも同様である。その場合、当人は幼少期に、バルセロナオリンピック放送の裏番組か何かになりたかったのであろう。それか或いはバルセロナオリンピックに父や母の視線を独占せられて、ちくしょうこっち見ろや、という思いからカセットテープにマラソン実況をして吹き込み、彼らへと聞かせてやったという経験が当人に無いのだ。
しかし、このように考えてみることで、生きて行く上でのとてもではないが生きては行かれぬ辛さというもののもし仮に手前へと立ち塞がって来るものならば、このように考えてみるという必要は一切無い。何事も、私に言い表し尽くせぬものを、私の言い表し得る限りに於いて、私が言い表しているだけである。
やや脱線。イタリア語で言うのをカタカナで表記したもので言えば、ややデラリアメイント。実際にはデラ"グ"リアメイントっぽいが、"グ"は微弱にしか発声されておらず、尚且つそうして微弱なグの後へ直ちに続いて来る"リ"がアルファベットのLであり、これもまた強烈な発声をされていて、他国の語の日本語カタカナ変換の限界ということを思わされる。
さて、欲望doと欲望beとを等価なものとした私がそれ以前に、欲望doを重視して、欲望beを軽視したその理由というものがあるはずである。そこに就いて考えたい。
欲望doと欲望beとを等価とした場合の欲望とは何であるのか。漫画を描きたいという欲望doと=であるものは、漫画を描く人に成りたいという欲望beである。これは両欲望の直ちに充たされる例である。何故ならその漫画の出来不出来は全く問われていないからだ。描きさえすれば良い。
しかし描いてみたところ、出来不出来というものはそれが行為の成果物であってみれば必ず発生をしてしまう結果である。然るに不出来であれば出来を良くしたい。これは新たな欲望doの発生である。そうしてそれに伴い新たな欲望doを充たす為の<欲望beが発生をし、いくつかの必要doが欲望doへと紛れ込んで来る。そのように眼前へと現れたタスクをこなして行くことに因って<欲望beはやがては充足し、すると新たな欲望doはcanになる。事態はこの繰り返しである。謂わば事態は漫画の巧拙の為に、一つの高みへと向けた修行のような欲望のパルクールが行われているという事態である。
さてこうした高さへの希求の内に、漫画家になりたいと思わぬ者はそうは居ないであろう。思わぬでもない者も少なくはないであろう。と持って回った言い回しと、例を漫画を描く人に取ったふいの無意識の忌避とに既に現れ出でているのであろう、この欲望のパルクール反復の内に、⚪⚪家に成る、という欲望beを私は関係させていない。何故なら、
「どれだけこの欲望のパルクール反復を続けて行ったとても、⚪⚪家には普通、成り得ないからである」
これである。私はつまり修行のような欲望のパルクール反復を一つの欲望doとして見、それとはまた別のものとして、⚪⚪家に成る、ということを一つの欲望beとして見ていたのだ。そうして、つまり肩書きとしての⚪⚪家の内実に、彼の血肉であるはずの欲望のパルクール反復が伴わないというのならば、それは本当に、当人は単なる肩書きだけの存在として破れ去ってしまっている、と考えていたのである。
私は、それ自体は間違った考えではないと今にせよそう考えるものである。しかし、⚪⚪家に成ることと、⚪⚪をすることとは本当に互いに関係をしないものなのか。そんな訳はないだろう。むしろこれもまたその逆である。
私は欲望のパルクール反復それ自体を一つの欲望doだと言った。しかしよくよく考えてみると、それ自体の内にもdo欲とbe欲とは互いに働き合っているという風に思われ出した。そうして私は今再び、dobeの共に働き合う欲望のパルクール反復をば一つの欲望doとしてまた考え、その内に見出だした働き合いの方を今度はそれと、⚪⚪家に成る、という欲望beとの関係に当て嵌めようとするのである。
(Interlude。今は4時。明日は大雪。デューク・ジョーダンのHere's That Rainy Dayを聴いている。コペンハーゲンでの録音のものだ……と思って調べたらデンマークだった。と言うかアルバムタイトルが『フライト・トゥ・デンマーク』じゃないですか。それならコペンハーゲンは一体どこから来たのだろう……と思って調べたらコペンハーゲンはデンマークの首都だった。おいおいおいおい、当ってんだか間違ってんだか、ぜんぜん判らんわ。じゃあデンマークのコペンハーゲン録音なのかな、と思ってまた調べるとレーベルのスティープルチェイスがデンマークはコペンハーゲンに本拠地を持っていたらしい。まあ、それならコペンハーゲン録音のものである可能性が高いだろう。しかし記憶というものは色々と侮り難いものである。色々と)
而して、⚪⚪家におれは成る、という欲望beの特性の何ものかを問わば、先ず先に求められた欲望のパルクール反復内欲望beにこれを比すことで、答えることが出来るであろう。即ち、或る累乗根源の欲望に就いて謂わば、小説でもサッカーでも、野球、漫画、格闘ゲーム、日曜大工でもそれは構わない、日々己れの欲望に則りこれを実施して行くに列れ高度の増して行くパルクール進行は、その範囲を個人的な習熟、私的な達成に限っていた。例えばバスケットボールをプレイするに、レイアップシュートを玉入れへと決め込むその巧みさは、磨かれれば磨かれるほどに巧みに、華麗に成って行くだろう。それが個人の習熟であり、レイアップシュートを巧みにしたい、と思って目的とし続けて来たそれが結果であるならば、とうとう巧みに為されたそのレイアップシュートは私的な達成なのである。
そうした積み重ねの結果としてバスケットボールのプロ選手に成られるという機会が当人に訪れたのだとする。このとき当人にはプロ選手への欲望beが働いているものと仮定をする。すれば欲望beのcanしている絶好のこの機会を、まさかみすみす見逃すはずなど彼には無い。然るに当人は成る。するとやはり、個人的な欲望beの達成こそがここにまた遂げられたのだ、と我々はそう言い得るであろう。それは実に、事実そうに違いないことなのではあるのだが、しかし一方プロ選手に成るということには、レイアップシュートが出来るように成ったという、成る、など訳もないほどに、社会へと向けられた自己の敷衍が伴って来る。即ちこの場合、欲望した結果として社会化された新たな自己存在が自身にもたらされることになるのだ。
私は然るように社会の周知を伴う欲望beのことを公化欲望beと今名付けた。名付けた理由は詰まるところが私の言いたいこととは即ち、公私の別について、をだ。従って欲望のパルクール反復内欲望beをば私的欲望beと呼び、それとの差別化を図りたいというのが私の望みである。が、しかし先述したように、⚪⚪家に成りたい、という欲望beが私的欲望で無いはずが無い。それは余りにも無いはずが無いのであって、すると現時点での整理としては私的欲望be《包括》公化欲望beということに事態は成っている。
ここで私はふと我が来し方の思い返しをしてみるのだったが、幼児の頃にバルセロナオリンピックに成りたかったという私はそれから幾年月を経て行く内にもうバルセロナオリンピックになどは成りたくはなくなって行ったのだという事実を先ずは思い出す。そうしてそこから小学校三年生くらいの或る児童としての私はその頃天文学者に成りたくなって居たのだという事実に行き着くのである。
天文学者に成る為に、或いは天文学者で在るのだという風に人々から認められる為に必要なこととは、果たして如何なることであろうか。ネットには、大学院に入り天文学を専攻すること、とある。これでは何も判らないのであるが、つまり大学院に入れば天文学者と名乗り得られる実際的な道のりを当人は歩いて行かれるということであろう。しかし再びになるが、先ず以て具体的なdoというものがそこからは見えて来ない。即ち欲望beの為にする必要doのその仔細が判らない訳である。が、翻ってみるとこの公化欲望be発動条件であると目されるところの私的欲望doに就いては判らぬものでもないだろう。
夜空に浮かぶ星を見るのが好きだという当人が、親にねだって天体望遠鏡を買ってもらう。そうして夜空へと向けた円筒に眼を凝らして、あれが月であれがアンタレスで、と肉眼よりももっと間近にその姿形を見るというような経験が彼にとってはとても喜ばしいものである。しかし喜びだけがその下に訪れる感情ではないだろう。例えば彼は、何故あんな丸いものが何もない空間の中にあって微動だにもせずただただ浮かんでいるということが出来るのだろう、と不安を抱きまた共に疑問も抱くはずである。そうして彼は、そもそも空間は何故あんなにして真っ暗なんだ、とも思いまた更に、いや昼は青くね、と気付き、じゃあ何で夜は黒くて昼は青いねん空間は、と腹立たしくも思われついには、これつまり太陽とか水星とか全部動いてんじゃねぇの、と天動説の私的発明などをし、父親に言い、父親は、天が動いてんじゃなくて地が動いてんだよ、と昨日の晩に母親と子作りした居間の真ん中に敷いた毛羽毛羽しいカーペットへ指をさし下ろして答えるのである。当人は然るに、マジかよ動いてんのは地球の方かよ、と自然界の成り立ちのその絶大な神秘に驚きながら立ち尽くして暫しは静まったその後に、いや今気にしてみたけどやっぱりなんにも動いては無くね、と、動いているものに乗っているという実感としては如何にしても乏しきに帰す経験からしてまたしても彼は、断固として天動説、とそう頑なに思い込んでしまうのである等々、様々に繰り広がって行くその内に果たして、母は懐妊し、この宇宙の下にいずれ彼女は生誕せしめ、そうして定めし生誕を待つ受精卵は、母の胎内にて当人であるところの兄を持った妹なのであるのだから、反って受精卵であるところの妹を得るであろう兄であるところの者であると呼ばれ得る当人は、このガチ神秘の全てをおれは解明したくて仕方がねぇ=欲望do、を彼の表裏満面へと大発現させるのである。
或る個人が、天文学者におれは成る、という目的を設える為には先ずはこのような欲望doがその動機として個人の累乗根源に在ってみたのだとしても不自然ではない。然るに私自身が如何様であったものかを言うとするなら、私自身は全く以てこの通りではなかったのである。天文学者に欲望beする私自身は或る日の昼休み、図書室のテーブル上にいくつもの本を捲り広げていた友達たちが二人揃って、天文学者におれたちは成る、と言っているのを眼にしてなるほど、それなら天文学者にはおれもが成る、と宣言をし、同卓につき、捲り広げられた本の一つをこの手に取った。そこから始まったのである。
天文学者に私は成らなかった。宇宙をそれほど好きには成らなかったのだし、それ故にも欲望のパルクール反復は自身の内を起こり得なかった。簡単に言えばまるで本気ではなかったのである。しかし簡単に言った本気ではないということが即ちパルクール反復を自身へとさせ得なかったということであるならば、にも関わらず公化欲望beをばこの時自身に設定し得ていた、という事実に就いては如何様にして考えるべきなのか。即ち私的欲望と公化欲望beとの距離的な乖離に就いてである。
先に私的欲望be《包括》公化欲望beと考えたのだった。しかし以上のケースを以て累乗根源からパルクール跳躍の始まる私的欲望とは乖離をする形で、公化欲望beが設定され得る、されてしまう、ということをギリギリ提示出来たのではないかと思う。
私はここで憧憬ということを持ち出さねばならない。公化欲望beは憧憬を起点としても立ち上がって来得るパルクール壁である。即ち私は殆んど佐藤健と同一の鋭いイケ顔面をしているのであるが、それが不満で、それよりもっと平面っぽい目鼻立ちで、歯なんてヤニ付いて黄ばんでいるどころではない、ふだん煙管を用いているが為に、殆んどグロ画像と言えるほど黒ばんでいる歯の一部が黒ばんでいるというような魚面、おまけに額からどんどんと禿げて行っているというようなどうしようもない青髭面へと憧憬を抱いているのだが、実際には佐藤健なのだから仕方がない、無い物ねだりである。このような現実と憧れとの乖離が即ち、高さへと向けた欲望についても同様に指摘し得るのである。
建築家を目指してみたものの何か違う、医療を志したがつまらない、俳優をしてみても他人の描いた居りもせぬ赤の他人の台詞を自分のものとして発話するという必然性など自身に無い。欲望dobeの関わり合いにそれらを照らし合わせてみるとするなら、そうした失敗は全てこの距離的乖離が故である。人というものは不思議なもので、自らの欲望に見合わぬものにも私的に執着し、要請せられる必要dobeを頑張ってしまうものである。これが所謂失敗の一つの正体であり、また不幸の一つの痛切な形であろう。パルクールの活動様相に準えて言うなれば、把握せねばならぬ壁と壁との距離的乖離が故に、当人は前代未聞の大跳躍をして行ってどうにかこうにかそこを昇って行かねばならなくなるという苦行を自らに誂えてしまう訳だ。現実と理想との違いである。若者はこうして自分探しの旅に出るのだが、それはつまり自らの欲望のパルクール地点をついに見失ってしまったということだ。
無駄に長くなってしまったことがここに詫びられる。
果たして詫びられたのだった。
さて、それでも公化欲望beは私的欲望beに属しているとは言い得るだろう。何故ならば、仮に途方もない距離的乖離を持った公化欲望beにせよ、それが叶えられた時に私的欲望の叶った喜びが発動せぬ訳が無いからである。しかし恐らく喜びは決して、憧憬の憧憬をすること自体に因る喜びに勝るものでは無いだろう。それは何故なら、欲望の累乗根源に公化欲望beの数値的属性が関連をしないからである。(私は説明もなくして数値属性と言ったが、つまり乗数的な欲望の根源が乗数的であるのだからこそ、2だとか3だとかの数値を言い得るのであって即ち、その思い付きにこれを準えるならば距離的乖離とは、対面する欲望のパルクール壁へと予め設定のされている数値が互いに関連をしないことを言うのだろう。例えば2の数値を持った根源に相対する公化欲望beのパルクール壁が16、だと2の4乗で関連するので無しなので、仮に15の数値を持っていたのだとすると、2の何乗でも15は導き出されぬ数値であるのだから関連しない。それが壁と壁との距離として現れる。いや、しかしこれは或いは、社会化される欲望のパルクール反復を妨げるものは距離的な乖離だけではない、ということを示唆するものなのかもしれない。距離はパルクール反復に能う距離でも数値の関連性の無さが昇行の阻害を生むのではないか。2と15とが如何に近距離であってみても、数値の非関連が故に昇り行く為の把握し得るきっかけが互いにあべこべに成ってしまうという事態。いやそもそも欲望の根源を累乗置きしているのは私自身であってこれは眉唾であるというかそれを言うなら全体が眉唾であるのかもしれないのだがとまれ何か占術の数理的な構造に全体が近付いて行っているような気もして来て私の頭の中もとっ散らかって来たのだ)
ともあれ、私的欲望beに属するものではあれども公化欲望beは、私的欲望dobeの自然なパルクール反復からのみ天辺へと向けて生え出でて行くという訳ではない、それは憧憬に因ってもふいに立ち現れて来る謎めきなのである。謂わば累乗根源からパルクール反復を経て屹立をし出す公的beの壁は、一つの種子から生え育った別の新たな幹なのだ。一方で憧憬を元に立ち上がって来るそれとは謂わばイリュージョン、地道なるものではなく俄然とした幻影なのである。そうして各人に経験のある多くの場合に於いて、地道なるものとしての私的欲望doパルクール壁と公化欲望beパルクール壁との邂逅は、それが余りに自然のままに喚起せられるものとて、当人には見過ごされやすいものであろうか、私は実に見過ごされやすいものなのではないのであろうかと考えているのである。と言うのももし地道なる私的欲望doと公化欲望beとの対向関係が一般に自然なものとして人々の内を凡的常態するものであるのならば、この世に自己実現的な不幸は存在し得ない。人は謂わば彼の道行きに天才の生を送るのみである。しかし当然、そのような欲望の幸福の下に生きられる人は、ごく少数人であるというのが現実なのだ。
そこから言い得られることとは如何様なことであろうか。私の気付かぬ内にも様々なことがそこから言い得られるのであろうか。目下のところ私自身の言い得られることとは、或る種の不幸の在処である。欲望beのcanでないが故に当人の不本意なそこへと置き留められてしまう欲望be未然。これが不幸の元である。即ち欲望be未然という名の不幸である。
仮にbeの一方である欲望do未然の場合の不幸に就いてを考えてみる。例えばバナナの実が食べたいのだがそこに(卓の上か卓の上に据え置かれた間食用の小さなバスケットの中に)バナナの実が無い。バナナの実の生っている草(木じゃなくて草なんだってさ)も近くには無い。従って当人はコンビニか何かの食品売り場へと出向いて行く訳だが何故だかバナナが売っていない。と言うかそもそもバナナを買う金すらおれには無かった。然る場合に、バナナを食べたい、という欲望doは未然である。これは確かに不幸な状態ではあろう。が、その不幸の大元には、バナナを食べることの出来る自身で在られない、というそのままでは恒久的にバナナを食べることの不可能な状態が前提されている。その上で、どうしてもバナナを食べたいという欲望doを達成しようとするならば当人は、バナナを食べることが出来る状態、へと自身を在らしめ直さねばならない。而して或る状態に在るものを別の状態へと在らしめ直す変化をbeと呼ぶならば、この際に彼は、必要be乃至は欲望beを自身の内に発動させねばならなく成っているのだ。即ち即座的に欲望do未達は欲望be未達へと還元をされてしまうのである。
バナナを食べたいのであるのならば、バナナを購入出来るだけの金を持った人に成らなければならないのだし、或いはバナナの実の生ったバナナの草の生えるパプアニューギニアなどに当人は自身を存在せしめることで東南アジア熱帯地帯に在る人と成らなければならない。それか、バナナの売っているスーパーまで自転車を漕いで行けば良いと思う。が、何れにせよそうしたところで彼はオオゼキで買い物をしている人へと結果的に成るのである。しかし。でもしかしバナナを買う金も無いのだから当人はそこで仮にドールのバナナを見つけたのだとしてもそれを手に入れることは絶対に不可能であるのだから先ずは金である、いや、金など払わずともそこにバナナがあるのならばむんずとそれをその手に取ってみて後は剥き剥き食べれば良い、すれば欲望doは達成せられる、ところが当然、前文すればをすればその後彼は窃盗犯へとやむを得ぬbeしてしまうのであるからしてこれは社会秩序的な観点からの不幸を自身へと迂闊に招く自殺行為に違いない。なるほど、欲望doをば突き詰めて行くことで人々の秩序ある社会生活との衝突が生じ得てしまうというこれは一つの例になるのであろうが、先ず以ては欲望beのそれが達成され得ぬ限りに於いて続く不幸が常に欲望doの未達成裏を暗殺者のようにして近接しているという事実へと眼を向けて行くことが先決である。簡単に言えば、do出来ないことは欲求不満を呼ぶ。欲求不満も一つの不幸ではあるものの、もし当人がdo出来るようにbe出来るのであれば、それは確実に解消される。しかしbe出来ない場合。その場合に不幸は切実なものとなって当人へと暗い影を落とすことになるのである。
現在の日本に於いてバナナを手に入れることは容易い。バナナを手に入れることが容易いという外部状況がある中で、それを実際に手に入れる為に整える必要のあるものとはも早自己事情だけである。従って事実このような不幸は長続きするものではない。が、欲望beの達成され得ぬ限りに於いて続いて行ってしまう不幸が然るように存在をするのであるのならば、達成のされ難い欲望beこそはその難さに尚増して堪え難いはずの大不幸である。
以上の考察から私は私自身がこのようにして考察をして来たその根因の一つを導き出したようである。つまり私が公化欲望beを欲望のパルクール反復の内から無意識に切り離して考えていた、その心理的な理由はこうであろう。
「その手のbe意欲は抱くと自分の不幸をめっちゃ自覚して生きて行かないといけない。それもたぶん、ずっと長い間」
いやだなぁ、こわいなぁ、である。がんばりたくないなぁ、である。そういう人間に掛けてやるべき言葉は一つだろう。私はこの場合にはその当人である可能性が高い為に、掛けてやるべき言葉を敢えて言明する必要はない。いやだなぁ、こわいなぁ、がんばりたくないなぁ、でこれからも生きて行く可能性はある。それも結局は選択し得ない人の選択した生活の送り方なのであり、人生の過ごし方なのである。尊ばれはしない、しかし重くは受け取られるであろう。実際、そういう選択は重いものである。何せよ時を過ごす上で人は必ず、堕し行くやむを得ぬbeという未来の可能性に晒され続けて行くからだ。
この心理がどうだという個人的な事情をば脇に差し置いた上でも尚、公化欲望beに就いては考えてみる価値があるのだろうか。と言うよりも先ず、欲望のパルクール反復壁と公化欲望be壁との関係に就いて考えると述べておきながら、全くそれに就いてを考えて来なかったことに、今更ながらようやく当人は気が付いたのではないか。と言うかここまで何をどのように書いて来たものかも当人は完全に忘れ去ってしまっているという濃厚な疑いがある。整理しよう。
先ず欲望doと欲望beとに欲望を、二つに分けた場合にそれぞれは、高さを求めるパルクールの宛先としての壁である。この向上の働きを欲望のパルクール反復と呼んだ。
欲望のパルクール反復は私的領域に限り用いられている概念である。従って、公的領域に自身を踏み込ませる公化欲望be(たとえば小説を書いている人から、小説家、に成り変わりたいという欲望)から成り立って来るであろう壁に対してそれは、独立しているものと考えられる。
しかし、欲望はそもそも私的なものであるのだから、公化欲望be自体もまた私的欲望beに属するのである。そうしてあくまでも私的欲望beに根差した公化欲望beとは距離にして近接な、地道なるものである。
一方で私的な欲望のパルクール反復壁からはほど遠くしても拠立し得る公化欲望be壁もが発見された。それは憧憬に因って成り立つものである。
この二つのあいだにある距離的乖離には不幸が認められる。この不幸は距離的乖離が故に訪れる不幸である。
そうしてそもそも未達の欲望beという状態そのものにも不幸は存在する。また未達の欲望doは忽ちに未達の欲望beへと回収されてしまうのである……
(interlude。あした、おれ、エルデンリングかホライゾンか、どっちか買う。どっち買うか迷う。いま、おしっこがまんしてる。トイレ、直ぐそこなのに。ていうかあした、ゴミの日。出せ、おれ、ぜったいに。溜まった可燃物らを。ていうかもう出す。ついでにトイレ行く。一石二鳥)
今日、昨日には明日と呼んだその日がとうとう目前へと立ち現れ、私はエルデンリングを買ってしまったのでまた次回だ。
と思ったのだったが、如何せんエルデンリングは難しいゲームなのであって展開の進行し難く、ただ頻りに同一エネミーへと対してはエストック+3を振り続けるという平面性質、即ち高さを求めるパルクール反復をしない反復、乃至は、出来ない反復、それをばし続けて行かねばならぬ我が無能、そのもたらし来るところの時の虚しさというものに私も実際倦ねて来たのだ。従って文章の続きは斯様に意味のない私的な背景を宿命として持ち得ながら、ただもしかしたら意味のある答えをそこから導き出すことのワンチャン出来るのかもしれない、という一縷の希望を引き掛かけることでやはり、ありとあらゆる私淑の師にとっては不肖であるところの私に因ってこれは未だ増して延べ行くのである。
但しやっぱり次回だ。エルデンリングがちょっとやっぱ美し過ぎるので。へいへへい!
ホライゾンは買わないと決めた