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完全にこれはつまる所のいわゆる日記  作者: サケ・ノメナイ
11/11

散歩

長く散歩をする文章である。

あ、あけましておめでとうございます。

皆様、今年もよろしくお願いいたします。

新年からめんどうくさい文章の贈呈でございます。

相すまぬ。

 うさぎ穴を探し求めて、徘徊して廻った真夜中のことをよく覚えている。早朝のこともよく覚えているし、夕方から夜にかけての頃のことも覚えている。昼へ跨いだ昼前の朝もあった。これら全ての時、私はうさぎ穴を探し求めていた。時には、犬を伴って探し歩いた。今ばかり、思い出される全ての頃は、うさぎ穴を探し求めていた、と自らでする思い出の列なりばかりである。

 うさぎ穴を探し求めている、と思いながら探し求めていたことなどは一度もない。

 一般に、ただに散歩と言われるだけであるものをする者の心の正体は、様々なる謎である。誰の心も眼の届かぬところで謎めいて在ることは一般である。

 しかし私は、殊に主として散歩をするというだけのことの持つ、その時の当人の心理状況に奥行かしいものを感じ取る。

 ただに散歩と称して歩いている者の、実際には何と称することもなくただ辺りを徘徊するというだけのそのことを、それでも是非ともせねばならぬとした彼の心理状況に思い至らしめなば、私は垂涎するに近い。

 何でも身体に因る行為を暗喩的に心へ結び付けようとする考え方は、何処ぞへと傾倒をした信心からのことかもしれないのだ。が、確かに有るものとて自己身体に伴わせているものとは誰しも心である。

 人のプロムナードする時、その心もが又プロムナードする。

 散歩をするのである時には、彼に目的地は定められない。漫ろ歩きの、漫ろ、とは、その漢字の意味通りに満額で、漫然、ということである。漫然足る様は、地点到達意欲を有し得ない。ただ彼は、歩を進める次第に移り行く外界へ、自らを新しく晒し続けるだけである。

 しかし時に心はそうでない。つまり人の漫ろさと合一をする心が、漫ろであるという為にその周縁をなぞり辿らせるに済ましてしまわれる、そのような心ばかりでは時にない。と言うよりも、漫ろさ、というものには常に漫ろであるという心のそこから突破をしたい眠れる意欲が、子宮のようにして有る。行き場のなさから逃れ出たいという、解放への無意識的な指示方向を有している。

 それはでたらめな方向を指すか知れない。

 とまれ、もっと大きく広くに通底をしている彼の心的の状況に全てはよりけりである。

 抽象化のされた言葉は人へ理解を促す言葉ではないだろう。どのような抽象化をされたものとて本来、前抽象の現実的な姿は、誰のものでもその実人生へと表れ出ていたはずである。

 又、実経験に材を得て抽象を小池の鯉のように泳がせているというような取り組みは一人、それをする私だけの理解へと一定程度の深さを与えるものかもしれないが、実際には私こそがそこを泳ぐ鯉に過ぎぬものなのだから、誰となく招致をするその際に、池の水の多少なりともに澄んでいなければ他者の鑑賞もままならぬことである。

 結局、わたくしごとばかりの怠慢に例を引くつもりもなかった、ところが他に材の宛なしとあらば、それでも引かざるを得ぬ。だが心とは実にそのようなものだ。


 とは言え、必ずしも或る特定の時期、そこで孕んでいるような特定の停滞ばかりで、求められたうさぎ穴なのではない。先行き不透明な青春期の苦悶に、晴れ渡った神経に、空想の充実に、それらいずれにも基づいている心は宛のないさ迷いを為し得るものである。

 それが人生に付きものなのだとしても、煩悶、苦悶にばかり焦点を当てることは自身傾向に凭れかかった更なる傾倒であって、本意ではない。だいたい、いつもそれでは飽いてしまう。

 ところが、住まうところの水も淀ますような性行が変えがたく自身であるというような人物からでは、そこから引いて来られる例というものも、彼なりの退廃傾向を有せざるを得ない。

 反復頻りだが、これは心の独自性について逃れようのない問題、限界点であろう。

 一人の人間が彼自身に基づいて語る。つまり常なるただそれだけのことが以下である。


・空想の充実に

 猫は集会する。

 猫の集会する理由は判っていない。

 猫は、夏から秋頃にかけて集会するとされる。

 夕方以降の涼しい時間帯に、とされる。

 二度、私の目撃したのは共に朝方である。

 徹夜とは、何かの徹された夜である、とするのならば、その夜に私の徹していたこととは読書であった。徹された夜を越えて、必然的に迎えた朝には本を閉ざした。一から終いまで、一息に読み終えたのである。中学三年の夏だった。

 読んでいたのは、カントの『純粋理性批判』である。たとえそれが嘘であって、本当はスティーヴン・キングの『キャリー』を読んでいたのだとしても、である。

 この時、読んではいないが『キャリー』はキングのものの中では、特にこちらの琴線に触れて来るというような作品では、私にとっては無かったのだった。

 反って、読んだのである『純粋理性批判』はカントのものの中で、特に有名、代表的な著作であるのだと思う。ネットにそう書いてあるのだからだ。

 とまれ当夜は、俯せた私の身体で余らぬくらいに伸し掛かられた、青いシーツの一夜と共に在る、そのような集中の下に現『純粋理~』とした元来『キャリー』は読み終えられたのであった。

 私は、如何なる読書にも苦痛を覚えないということのない性質、つまり読書が苦痛である、という性質をしているが、だからと言って読書をしない訳ではない。読書でなければそうはならない、という楽しみに就いてを、私はまるで何も知らないというのではない。

 琴線とされるところへと与えるものの余り無くとも、作中、ふんだんに描かれている一つ一つの造形物が先ず、一般論的感覚として読む者へ次第に積み上がって行く、という恰かもな繰り返しを、体内記憶の薄らがないような一夜の連続的行為裏に畳み掛けていた私は、その時、必ず私だけのものである夜との激しい合一をそこに併発させていた。それは全身を流れている血の中に夜通しの汗をかくというような体験である。『キャリー』という作物に表された一々が、私の内部に取り散らかっては消えて行く、その消え行く先に消え切った後から、後から、吹き出て行く汗こそ当夜の生理的読書体験である。

 読み終えてしまうと身体が重いのだった。私だけではないようなその重さは、謂わば夕方の訪れる度毎に食す夕食の腹に溜まったようなもの、いずれ私となり、私ではないものとして捻り出される他物のように、それはただに一つだけである肉体へと加重をする。

 重くなると反って浮き上がって来るようなところがある。それが、ありとあらゆる鑑賞物の結末部に、音もなくたなびいているような余韻というものの感覚である。

 浸られる余韻へ私は浸りたいだけだ。

 或いは青年期の以降には、ありとあらゆる創作物の尻を靡いている余韻というものへの疑いを、私も一度は持つべきなのかもしれない。が、未だに疑わざる感性に従うのでしかない自身が以前に、そうではなかったはずがない。

 余韻は基本的に、人のコミュニケーション欲求を奪う傾向にある。余韻を感じる心自体が、と言った方が良いかもしれない。余韻というものは確かに作物の力に因って鑑賞者へと与えられるものである。鑑賞者は現今的に非鑑賞者と成りながら、作物のその力の影響の下に在り続ける。

 余韻というものを残すよう努められた作品というものがあるだろう。努めずともに残らざるを得ぬ余韻を、そうして残してしまわれる作品というものもあるだろう。余韻も何も目されることのなかったが故に、世間的鑑賞眼に拠って、余韻なし、とされるような作品も中には存在するであろう。だが、余韻とは何も、或る表現のされた創作物にだけに付いて回るものなのではない。

 努めずともに残らざるを得ぬ余韻を、そうして残してしまわれる行為があるだろう。

 即ち、行為の余韻というものがある。

 早朝のランニング後、吹いて来る風に打たせてベンチに休まる肌を目映い陽射しが包み込んでいる、とした時。

 取り散らかった書棚の整理を小一時間かけてし、そうして整頓のされた四角い全貌を束の間俯瞰する、とした時。

 生まれて初めて徹夜をしながら、本を一冊読み終える、とした時。

 流れ行く血に粒やかな汗をかく。その血と汗との混ざり合った循環に、人は余韻というものを知るのである。

 愛し合う者同士の思いの籠った性的な交歓が、その行為後に彼らへ余韻を呼び付けないはずはないだろう。

 だが一方で、ありとあらゆる全ての行為に余韻が残されるのではない。

 生活日常的な所作の一々に余韻が付きまとうものならば、当人の人生的な時間は彼の精神に収まりの付かぬくらい遠大なものとなるであろう。

 多くの場合、或る目的へ目指された行為の達成が余韻の発現条件である。そうして、その行為へ伴った汗として流れ落ちて行くものの、完全に乾いてしまうまでの束の間が、余韻の影響期間である。

 然るに、行為の余韻とは汗である。

 その朝、本を読み終えた私は、血の中へしとどにかいた汗を洗い流すような心をして散歩を始めたか知れない。だが、或いはそれが明らかに、うさぎ穴、そのものであるのでしかない物語の、フィクションの世界から、如何にしても去り難いというふうに保たれたままの気持ちこそが、私へとそうさせたか知れない。

 答えのいずれかでなければならないのであれば答えはいずれかである。しかし誰もそのような制限を、誰へとでも加えたりなどは本来し得ないのである。心のことは彼や彼女だけの真実として、常に一つと打ち定められるようなものではない。無理に定めるのなら、時にそれは、反って偽である。

 その朝私は、つまりどちらでもあると言われるような精神渦中の混濁したこの身の熱っぽさに、朝の冷気をくれてやりたかったのだとしよう。

 夏の朝、涼しさなどたかが知れている。

 だがそれでも未だ、明け初めに夜の消えかかった名残りは青く薄らいでいて空無だ。それが涼しげでないとは誰にも思われない。殊に私自身によってそれが思われないのである限り、冷たさに休まりたいこの精神は外気空間を好んで享受する。

 涼しさとは熱にとって相対的に希薄な存在価値をしているものである。熱を帯びれば帯びるほどに、熱というその点へ価値価格を求めるそうした熱自体は、彼より熱量の低いものへと希薄さを感じるより他にない。

 私にとって外気空間は空無にほど近く、それ故私自身の熱を格別なものとして在らしめてくれているそこを、私は好ましく思っている。内容のないところを歩く内容のあるものとは今朝方私だけである。そんな中高生的なナルシシズムの直感的発露を見逃すことの出来ないというような衆目監視の眼などというものもそこにはない。この文章自体によってそれが呼び覚まされようとも、この文章で表したる内容時点に於いては、衆目監視の眼も彼の胸へは刺さりようのないことだ。何せよ彼は、周辺環境に於いて自分だけが内容を持っている、などと吹聴をして回りながら、右へ折れ、左へ折れをし、数件先のオガシンの家を通りすがったりをなどしなかったのだからである。

 仮に当時、他は無し、我だけの有る、という中高生的なナルシシズムへの、他者からの嫌悪の表明が為されていたのだとて、それで根幹の自ずと揺るがせになるほどに弱いのではないその自己肯定感は、やはり或る一定の強度を保ったままであっただろう。

 汗交じりの充血と熱となれば、歩く男根のようなものである。中高生的なナルシシズムとは、実に単に、そうである。彼らは歩きのこなれた初々しい男根に過ぎない。喋ることは出来ても話すことは満足に出来ない。それが彼らの内容の、殆んど全てである。

 放熱は緩やかに、独特の臭気を持って彼へ纏わり付いている。古びた自転車屋の軒には古びているだけあってシャッターも降りてはいない。ガラス張りのがた付いた引き戸が柔そうに施錠をされているだけである。私はかつてこの店の主に囲碁を習ったことがある。

 私はかつてこの自転車屋の目の前で自動車との接触事故を起こしたことがある。私は三輪車に乗っていた。

 書き付けている今ばかりに思い出されるのであることを、そうして書き付けることで表したこの時ばかりは、今ばかりとしたのであるその通りに、思い出されて居はしない。

 私は、目前の横断歩道に備わった信号の青へ変わるのを待っているそのことに馬鹿げたものを感じ出して、赤、の表示へひょいと足を踏み出だすまでのその間、信号の青へ変わることを徒然と待っていた。これだけの早朝に、車の通りは少なかった。今、思えば一台とてこの道を通る車は無かった。阻むもののない車道に、阻まれる者は馬鹿であると私は感じたのだったろう。

 赤の表示へひょいと足を踏み出だして、渡るさ中に、キャリーの催した生理を思った。映画版を先んじて観ていたのである為に、小説は小説の内にそれならではの描写こそあれ私に思い浮かばれるキャリーの面立ちは、シシー・スペイセクのそれだった。鼻の上向いた美人である。すると熱量の増し出して、私は颯爽とし始めた。

 ただ歩いているという内に生きた心地はそこには無いのだ。歩いているというだけのことが彼へ強いる負担は目眩くただの足さばきである。左手に、急角度の道路で切り入れられた三角州のような空き地が雑草群を生え伸ばしている。秋のトンボはよく、ロープに繋がったそこの囲いの細い杭打ちに、ぴたりと止まっていた。

 虐められて、弱り果てた女の子を守ってあげたい。優しさと勇敢なハートに酔った彼の目眩く足さばきは、左手の茂みを次々に裁断して行くハサミのようである。

 しかし位置関係からしても、足の機能的な点からしても、どうでも目眩く足さばきなどに因って切られ散らばる野草はない。彼は道路上に足早なのである。まるで切り進んでいるかのようなハサミとしての彼の足の活動に集中をして、少年の欺瞞の表れをそこに見て取ることが今、我々には許されてもいる。彼は謂わば青みを残した朝の底で空無を切り進めているだけなのである。

 本当は、何ものをも切って進む、心の準備も出来てはいない。誰かを守るという具体的なことも彼は依然、現実に為し得はしない。

 取り巻きの幻想の血を吸うように、すぼませた彼の生きた心地は、そのあわいでだけで呼吸をしている。だが実際には、すぼませたそれが実はすぼんでしまって居るのであるというその根因に、退屈と彼で思う現実への無関心と不感症とが認められるであろう。

 度重なる充血にひくついている童貞の男根は、そうして頻りに歩くのである。切られた時に、本当に血の吹き出すのは自らだけである、と暗に思われているそのことで、人並みに、と頑なに、と成りながらにである。

 ブロック塀の列なりを沿って進み行くに列れ、幾度か訪れる十字路のどれを曲がるか、右へか左へか、全て、自由と言えば自由である。散歩なのだから目的地は取り決められていない。従って、散歩なのだからどちらへ進もうと進むまいと、正解はなく、不正解もがない。解がない。求めてはいないのだからだ。

 即ち、目的のない行為に達成の無い、ということからして、行為遂行の道順、し方に正解は有り得ない、ということである。無論、散歩である以上、散歩、という行為それ自体へと掛かる目的は宛がわれたその為に、健常の足持てば二歩、三歩、と歩みを進めるその度毎に、目的は常に達成をされている、達成をされつつある、ということである。

 ところがこれは、多少なりとも欺瞞を含んだ物言いである。右でも左でも曲がるのは良い、且つ、曲がらずとも良い、直進するので良いなら又後退するのでも良いのである散歩の実施者である私は、右へ折れたい、とそう思い、初めの十字路をそうして右へと曲がって行った。何故ならそれは、かつて行き慣れた小学校への通学路だったからである。そうして私はふと目的地を小学校の辺りまで、と心の内に決めた。謂わば身体の記憶の慣性から次第に、心をまで目的意識への狭小偏向せしめるように加わって来る力がこの時に働いていたのである。

 当時は未だあった用水路の道沿いには、錆び付いたような佇まいのアパートが建っていた。ここにも一人、住んでいた。今思えば裕福な暮らしではなかったのだろう。所謂ハーフの子で、特別仲の良かった訳ではない彼のことをいつだか私が、他国の別名で呼んだのである。私は彼が所謂ハーフであるということを知らずに居た為に、それを知って、その又の名を知って、それから興奮を来した。休み時間に手を振りながら、おーい、⚪⚪、と呼んだ。すると、遠く真向かいを立っていたはずの彼は私のまばたきをするなりにもう目前である。拳がいくつも飛んで来た。いくつもいくつも飛んで来た。私は背で自分のことを庇いながら、いつかの時に反省心となるはずの空白呆然とした種を、未だ納得行かれぬ若い心へと植え付けることになった。

 私はアパートを一瞥する。用水路を横断する道を渡り行きながら私は、彼のことを影一つ思い出すことはない。反省の種はこの時には未だ芽吹いてはいなかった。

 アパートを見てそれで当時に思い出した可能性のあることとは、そのアパートの古びているだけにそれと同様、古めかしいのである備え付けのエレベーター、のことである。

 何とも言えず、味のある昇降をして、未だに私の一番好きなエレベーターと言えばこれであり、二番は無い。タイプライターのような階層択、並びにドア開閉のボタンも良かった。私はどうやら本当に好きで、アパートに用もないのにエレベーターには乗る、ということも数回したことがある。

 有り体に言えば、今にも壊れそうなエレベーターだったのである。

 不安のエレベーターである。当時の私はそんなことで気を取られずに済んでいた。ただに運んでくれている、その不器用な、それが人力であるかのような架空の一生懸命さを心に思って、柔らかに感じ入られるという性質を持した私という者が、偶々そこに居たのであった。

 だが、密かなファンは私だけではなかったのではないか、と少しばかり私は、特別な根拠も無くそう思う。

 アパートを右手に、少し歩いて大通り沿いの左手には、販売店が二軒並んで在った。もう記憶も定かではないが、一軒不二家であったというふうに記憶している。或いは小僧寿し。その二つのいずれかと富士フィルムか何かとの並び、であるか、富士フィルムなどはそもそも無くしてそれら二軒の並び、若しくは富士フィルムとそれらとの三軒の並び、であるか、まるで定かでない記憶に基づいて或いは、或いは、と空想上のそこへと慌ただしい再配置は音もなく繰り返されている。

 それら何れかであり、つつ、それらの何れでもない、ものとして表象は部分的欠落をしたような姿をさせて、今しも私の脳裏に去来をしているものであろうか。否ましい。

 起きていることは欠落というより寧ろ、より広範に代替可能であるイメージへの代替、なのであって欠落なのではない。

 左手には、不二家か小僧寿しか、富士フィルムか、それらの何れとしても有り得ている販売店が、二軒か、三軒か、それらの数の何れとしても有り得ている列びを以て、存在している。このように存在することは、人の脳裏や胸裏にだけ存在するのである時に可能である。謂わば、定かでない記憶やイメージの人裏に存在をする場合のこれは存在し方である。

 左手のその先にはカラオケ屋があった。これはありありと存在している。

 だが、どちらにもせよ散歩のさ中にある私にとって、左手に見られるものへは一切の興味がない。私は大通り前に佇んで、歩行者ボタンを一つ押し、信号の青へ変わるの待ちつつ、そこから斜向かいの幼稚園を眺めた。

 私の通っていた幼稚園である。

 食べられる粘土をこねくりまわして、飽いたらそれを食べた。幼稚園の思い出の、数々の内の一つである。

 女の子に告白をされたこともある。参観日の日、母の手を握りながら帰ろうというその際に、年中組のガラス戸が正々堂々と開かれた。それを開いた彼女が大きな声で、⚪⚪ちゃん大好き、と言ってくれたのだと記憶している。彼女の名前はおろか、姿をさえ上手くは思い出せないのだ。

 時は進む。歳月は経つ。私は私へと積み上げながら、積み上げ損ねたものを辺りへと散らばらせている。中学三年から身長はまるで伸びていない。三十七歳の私とて、信号の青に変わるのを待つその時に、待っているのであるそうした存在としての質量はまるで変わらない。

 質量は、信号の青に移り変わると、路面表示用塗料を焼き付けた白色ボーダーの上を渡り歩いて行く。エンジンを唸らしめるけだもののような自動車の一台や二台、走行ルール上に則った停止をして、私を舐めずるように見送ったか知れない。今朝、呆然足る内に空想をばかり敷き詰めたような不注意そうである存在を、鉄塊の下に牽き潰すことは余りにも容易かった。赤でも良い、反って歩行者の側の青へ安心し切って渡る者、それも自らを外界から遮断して、精神的閉鎖のその奥へ籠らせ置いて居るという、死することを定めとするかのような野性的油断に充ちたその者、その質量を、不意打ちすることで破裂させてしまうことなどは造作もない。

 そう思ったか知れない私は、ふいに少しばかり足早となったか知れない。

 そうして渡り切ったところで思い出されることは、彼にはない。同質量である私にはそれがあるだろう。

 同質量は以前、タクヤと一緒に就いた帰路の途上で、彼と言い合いになった。よく喧嘩をしては互いに譲り合えないという均衡の仲でありながら、同質量と彼とはそれでも屡々その仲を友らしく良くした。

 丁度今、反対側から通りすがったこの横断歩道を反って下校時に渡るのである時、丁度赤で、我々は言い合いしながら青を待った。何事かを中心として言い合うのである喧嘩のそもそもの、何事か、の何であったか、私はもうそんなことは忘れた。思い出すことも二度とない。必ずそれは、つまらないことだった。

 つまらないことでも言い合いをする内に、相対するそれぞれへ募らせて行く感情は謂わば、相互のあわいに昂らせ合うのである殆んど一個の怒りである。そんな人間の質的な均衡に脱兎の如く駆け出して、抜け駆けしたいという欲望は、それを実際現実へ為し得んとする精神修養の一因と成るのではあろう。小学生には不可能だ。特に同質量である彼には不可能だったのだし、タクヤにもそれは出来なかったが、事実実際を言うのならば、どのような性質を持した者であったのだとしても人の弱みの均衡を見ない絶対に取り囲まれた個性などというものは得てしてないようだ。感情を捨て去るようにして一段と高い精神性に逃げ込む者の目論見に就いては、彼自身を謂わば仙人のようなものへと仕立て上げようというのがその概要である。俗流の下にそれは堕落であろう。同質量は高徳を軽んじはしない。だが、精神、知性に於いて他に秀でる独り勝ちを以て、世上のつまらぬ勝敗を厭うような心性にも、その邪悪の存在を突き止めることは可能である。実際には、意識しようとするまいと、大小の一つ一つに紛うことのない勝敗は必ず決着をし続けるのである。そのような面も他者との交流には付きものだ。

 同質量の彼はタクヤとの言い合いの果てに、あなたは⚪⚪だ、と言い放った。

 あなた、と同質量は言い放った。⚪⚪はどうでも良い。あなた、と呼ばわったそのことの意味である。感情的、内訳である。それを問題視しているのは、現今に在る同質量の私だけなのではなく、その私に先駆けたタクヤもである。何せよ、タクヤの気に障ったことは、あなた、とふいに呼ばわった私の不器用そうな激昂の為にであった。

 あなた、あなたって、とタクヤは鼻で笑いながらあしらうのだった。

 お前、と、あなた、とでは、趣の違うものだ。如何せん、あなた、と呼ばわるより、お前、と呼ぶ方が余程同質量にとっては自然な言葉の選択であったはずである。少なくともタクヤはそう思ったのに違いない。非同質量であるタクヤの内心に就いては憶測でものを語ることをしか私はし得ないが、彼の後を追うようにして今しがた、そう思うのである私の内心に就いては確言をされて良い。お前、とでも呼びやる方が、余程自然だったのである。

 しかしながら、然乍、然は然りとても、気の昂りの果てに、あなた、と叫んだ当時の私の内心ということ、激情に伴った言葉の不自然な選択、その由縁に就いては、判明するところの何一つとて無い。私は単に、不思議とそのように言ってしまったのである。

 そこで、或いは、とて考えられよう独り勝ちの高邁精神に、その理由を求め得るかとて挟み込ませたそれが、私にさえ確信のされ得ぬ試みの解であった。

 もう一つ、思い出はある。

 再び下校時。一、二年生の頃である。信号待ちの折、偶々そこで一緒になった女子にふざけて、私は彼女を手で押した。すると女子は、あ、胸さわった、えっち!と言った。

 何言ってんだ、と当時の私は思った。

 現今の私は、即ちこうして文筆をする内に思い返すことをして、しかし全然、えっちなんかの意図こっち無かったわ、と確信をしている。

 女性に、女児ではあるが彼女に、私のそれを性的な接触と思われる、という初めての経験として、馬鹿げていながらもこびりついてしまっているのである印象的な思い出、なのであろう。

 果たしてそれら全ては散歩のさ中に思い出されることの決して無かった思い出である。

 私は、頭の内をシシー・スペイセクのなりしたキャリーで充たしてあるだけだ。あとはそれで歩いているのである。

 とば口を探しているのかも知れない。歩み進める一歩一歩というその先々で、私というものは未だ。此の度の読書に因る非現実世界への入り浸りは、私自身を一本、異世界へ向けて剥き出しにした男根として、求めさ迷う充血をもたらしているのであろう。

 慎みのない口から言えば、とば口とはうさぎ穴であり、うさぎ穴とは女性のとば口である。女性のとば口とは即ち女陰である。異世界とは男性である私にとって女性である、ということを私はつまり言っている。成り行きから、そう言うことの私に出来てしまったのだからだ。

 この文章もが又散歩である。つれづれなるままに、という文言はままに、纏まった一繋がりの文章に於いてそれがどのようにして繋がり合うか、という成り行きそのものの一例である。

 この文章に於いて私は確かに、既に、うさぎ穴を発見している。それは、性的で無いのにもせよ或る空想で充たされた感動の充血は男根そのものなのであり、彼の余韻に引き摺られるようにして歩まれるさ迷いは、彼が男根である限りに於いて、性的で無いのにもせよ女陰であるより他にはないという異世界へのとば口へと向けられている、という発見である。

 それは当初に目されては居なかった発見であるのだから、我が男根は確かに予期せられぬ出口を持った予期せられぬ入り口、即ちうさぎ穴へと潜り込むことをしたのである。

 そこで身籠らしめる結果とは、太古からの陰陽関係に基づくような、型に嵌まった男女観に過ぎないとは言えよう。或いは男性性に目的遂行的意思を仮託することで、女性性にはそれの対であるような偶発性を仮託したというだけのことかもしれない。いずれにせよ私は私が男であるという限界を或る種の反省からそう感じるのであり且つ、そのようにして反省するより他ないという紛れもない事実こそが、男性性の有し得ない女性性を、うさぎ穴からもたらされる異世界とて又強く感得せしめるものとして、男性性の境界を巡る循環的構造に私はさすらい続けるのである。

 が、しかしどうあれこの散歩の決着を以上に見ることは尚早である。

 この文章の終幕に訪れるものは、先刻既に提示をされているものである。即ち、猫の集会である。

 散歩をする男根とうさぎ穴である女陰、が現今に於ける私のうさぎ穴、であったのならば、同質量であるかつての私である彼にとってのうさぎ穴とは、猫の集会であった。

 猫の集会とはいえども、この時に彼の目撃したものとは猫の集会後、の離散であった。

 小学校の敷地内を高く囲い込むものは緑色のフェンスである。私である彼は駄菓子屋の傍を通り過ぎた。ガチャポンが置いてある。彼がもっと子供の頃には、即ち彼が彼とて当時その瞬間には思い出されはしなかったはずの小学校時代には、必ずこの駄菓子屋に二、三台のガチャポンは置いてあった。

 よく回したものである。ポケモンの、切手ほどのサイズをした小さなカードがかつてはあった。それをよく回して、キラカードをいくつも集めては人に自慢をしていたっけ。

 ガチャポンは今や電子の世界にさえ存在している。

 このような子供の遊びに取り掛かる大人の大勢で、今やガチャと言えばそれは、大枚叩く豪華で贅沢な買い物であるかのようにも感じられる。

 人が未来の次第に合理性へと向かって行くというような議論の影で、蔓延るものは合理も何もない運試しへの欲求である。

 運、や、運命、と言ってしまえば簡単だ。それで未知なる自己の無限大そうな先行きというものの大概は、彼の理解の手に掴まえてしまっている。おおらかなことである。皮肉ではない。

 しかし、私は駄菓子屋からは眼を反らそうではないか。そうである。

 事実を言えば明らかに、この道なりを散歩している者とはかつての私である彼、なのではない。私である。私がかつてあった散歩の道のりを辿ることで、今なりにそれをし直しているのである。但し、あくまでも寝そべった身体が、頭だけを回転せしめてする散歩にこれは過ぎない。

 紫色の薄い靄がアスファルトから立ち込めているような気がする。匂いは実に朝の匂いである。高い緑色のフェンスへへばり付くような木々の影が、小学校の敷地内に立ち並んでいる。風はない。静かであるというだけの朝から経過をして今しも朝はただ静かであるというだけのそれだ。それでも経過は経過である。数分前の私は、ここに位置しては居なかったのだから。

 私は呼び掛ける。そろそろ出ておいで。そうして彼へ見せてやって欲しい。

 それが単に驚きと、不思議にふくよかな感動とを与えるという以外に、彼へもたらすものは何もない。私にとってさえそうだ。おそらくは誰にとってもそうであろう。

 それなら彼の為だけに、一目散に離散をする猫々の疾走は有れば良いのである。彼はそこに、しかし、思いも寄らぬ別世界の在り方というものをごく微かな気付きとして得られるであろう。ただそれだけのことである。

 アスファルトから紫色の靄が?

 そんな訳はあるまい。


・猫の集会/其れの二

 よくアスファルトを見てみたとて、紫色の靄などはそこに出てはいなかった。紫色がかるものの有るのだとすれば、それは時折、踏みしめられる痛みの涙のように、アスファルトへ零れている油分の反映であろうか。いずれにせよ、それは靄ではない。

 上京して一年足らずの程に、殆んどすぼみ切って、小さく縮こまってしまった心を抱えていながら、私はただただ漠然と過ごした。

 大井町の線路沿いである。アパートは物々小高い建物に囲まれて谷底のようになったそこに潜んでいる。私は朝方、部屋から穴ぐらよろしく這い出ると、欠伸も出されない神経の緊張から不眠の夜を明かしたその孤独さに堪えず、どうにも身体を動かさないではやり切れない、という気持ちになっていた。

 そうか、どうか、全く知れないことだ。

 私は又再び、思い出しているのである、というだけのことである。

 線路沿いから旧阪急館へと続いて行く道のりにはよく牛蛙が出た。私は、上京して初めて見るのであるその牛蛙の驚くべき大きさに対して驚いた。そのまま素直に驚いて良いという大きさをしているそれであるのだと私には思われた。出身地にこのような大きさの蛙を見ることは一度足りとも無かった。反って田舎へ越したような気持ちになったものだ。

 牛蛙は、雨上がりの真夜中に、濡れ通したアスファルトのその街灯の反映の中で、くたびれて死んで行く赤子の手のような前肢を、極めてゆっくりと伸ばしやった。

 白んだ朝だった。少し先の踏み切りを渡ったその更に先には、ディスカウントショップがあった。商店の真っ黄色い全体のそこへとマッハで辿り着いたような黒文字の屋号が、安っぽく斜になっている。まるで巨大な洗濯用洗剤の箱である。屋号のその名は忘れてしまったが、たとえばそれが、部屋干しトップであったり、花王アタックバイオパワー、と掲げてあったのだとしても、私には凡そ違和感のないことである。

 夜にはペット用品が外棚に陳列をされていた。

 或いはディスカウントショップなのではなかったのかも知れないが、そこが実際どうであったのであれ、今ばかりは何もかも関係のないことである。

 沿い伝った線路を又、反対側の脇から沿い伝って戻るようなことをした。ここから左方向へ入り込んで行くと、町に遠ざかった辺りは住居住宅の密集したスリープタウン一帯となって来る。

 知り合いの住んでいるアパートがこの先に在ったのだと思う。

 又更にそこから反って駅町の側には、並木道を行くその途上に一軒、知り合いの越して来たばかりのアパートが在った。

 前者の部屋にも、後者の部屋にも、私は立ち入ったことがある。とは言え、私は私一人彼らと差し向かいとなる形でそれらの部屋に立ち入ったのでは無かった。

 二つとも物の少ない広い部屋であったように思い出される。前者は男性で、物の少ないなりに片付かない部屋だった。後者は女性で敷きっ放しの布団の上に、数名で訪問をした内の一人がこれ見よがしに、無遠慮に、尻をよいしょと落ち着けた。皆その時、不穏な気持ちに駆られたものである。が、一方でそれは何処か滑稽な空気をさせていたのでもあった。

 私の部屋にも数名招いた。私はその頃、読書となれば軒並み勉強と信ずるその成果を、万年床である布団の縁側へ平積みにして置いて、砦の垣のようにずらりと並べていた。

 数名の内の一人が狭い部屋の中で体育座りをしながら、眠る時に、そうして眠る私のことを居守するかのような砦柵の形へふと足を伸ばして、蹴った。崩れた。

 おい、止めてよ、と私はかなりの程度気分を害して言った。彼女はまるで、そうしたいたぶりを加えることの正当な理由に守られているかのように、澄ました顔をしたままですんと足を戻した。

 いたずらやいたぶりに、それを為す正当性を見出だすことの出来る心的見識の深さというものが、或いは彼女には本当にあったのかも知れない。私は未だ、その行為の謎には顔をしかめるばかりである。

 或る頃、食事の後、並木道を歩いて帰る二人の夜は、ほとほとに沈んだ色をしていた。⚪⚪さん、お茶でも飲んで行かない?と又別の女性は訊ねた。私は少し考えた。更けた夜の底で彼女の声は、心のその裏側を告げる糸の緊迫を湛えて、殺人者のように平坦だった。私は、これは私次第でお茶だけでは済まないのだ、と思った。

 お茶だけでは済まない、ということは、と私は考えた。勿論、考える必要のないことを考える訳もないのだからこれは嘘である。しかしながら嘘に則っては、決して、ならないという規則を私はこの文章上に定めてはいない。

 のであるからして、ということは、と私は嘘でもそう考えた。ということは、お茶だけではこれは済まないのだ、という訳とは即ち言うと、

 せ、せ、せ、せ、せせセセ、セーックス!

 と私は頭の内に閃かした。すると私はそれから直ちに、経験し行くものとしての人間の奥深くに鎮座せしめた己れの純潔へ、心の内の手を差し伸ばした。

 有るものは有るものだとて、純潔や童貞など有るものだと言い切られるほどに有り得るものかは疑わしい。飢えているような心が結ばれないのである以上、それがどれほど良いものであったのだとしてもセックスの効き目は長くはない。だが、それと知るはずもない頃に、それをそれと知る端緒となり得るような具体的な機会を目前にしているのかも知れなかったその時、私の感じたことは、ただ全面的な忌避であった。その為、私は、いや良いです、とだけ言って帰ろうとした。すると呼び止められた。彼女の殺人者のような声音の緩まって、一転、普段の通りとなった。

 いや、マジで良いです。大丈夫です。

 私はそう言って踵を返そうとしたが、それでも呼び止められたので、大丈夫です大丈夫です。それからとうとう呼び止められることもなくなって、私は一人帰路に就いた。

 二年間のほど、住んだ土地である。アパートは京浜東北線の線路の近くにあったから、住まう部屋によく響いて来る電車の音には聴き慣れた、はずである、が、不思議と電車の音をそこに居て聴いたという記憶はない。

 私は向かい側の、自らの住まいの方を方向の標として確認しながら、線路沿いを伝い歩いた。何処かで左折だ、と予期しながら歩いているこの度の散歩である。そうしてもう随分とアパートを行き過ぎた地点で、右手に狭小な踏切を見つけた。

 ここで思い出されることが二つある。この二つは互いに相反する事実を示している。

 私はこの踏切を渡ったのである。白塗りの狭く急な階段を昇り、向かいの側へと線路を横断した。それは間違いのない。

 私は必ず向かい側にではない、進行方向から左の住宅群に潜り、そこで小さな社を見つけた。猫の集会はそこで行われていたのである。

 これら二つを合するのならば、私は踏切を渡ることで、踏切を渡ることをしたのならば決して行かれない反対方向に社を見つけ、そうして猫の集会へと参加した、ということになる。つまりそれは、右に曲がったら左に曲がった、ということである。

 私は右に曲がったら左に曲がった。無論、右に曲がってそれから三軒先を左に曲がった等、ここに云わんとするのではない。私は右と左とを完全に、同時に曲がったのである。

 住居住宅群のスリープタウンと言ったが、だいたい一戸建てというものよりはアパートの類いが周辺に軒並みである。白々しい朝の射しているそれを、朝なりに初々しく照り返しているのであろう建物の、しかし一方経年から掠れたような落ち方をした白い外壁色ばかりが眼に映り込んで来る。ところがそれらは映り込んで来るという、見ること、の仕組み上、そうと言われるばかりのその裏で、まるで希薄な幻影のようにして風景の存在そのものは私の鼻先ほどで如何ともし難く滑り落ちてしまう。

 熱を感じ得ぬ。ここも人の詰まった所とは到底思われぬ。

 スリープタウンに眠るものはただ建物群であるというだけ。であるのならばそこは、本来ゴーストタウンと呼ばれるべき場所であろう。

 しかしながらそのような言葉に列れて想い描かれる町並みは現今のようではない。そこには手入れがあるのだからだ。命から希薄そうな辺りにそれでも植わったくどい色の緑樹や霞ませた光を照り返す鋼製ポスト、駐車スペースを占めるスカイカラーのホンダ車等、所謂生活の営みがそこに無いのでは無い、全く反対に、それは有るのである。なれば評して言い差すに、辺り一帯はゴーストタウンなどではやはり無いのである。

 希薄なものとは私自身である。

 この時期、私は外界から自らを閉ざすに及ぶ精神の閉塞を来しては居なかった。私はなるべくならばとて、開かれているという心を自身へ常に望んだ。口も謂わば若造である者の口の尤もらしい在り方として、思ったことは遠慮をせず、ずけずけと言った。集団に於いてされる或る種の思考への傾向付けを、自然に在るがままに思うことへの妨げと感じては、自ら浮かべるこれ見よがしの表情にそれへの懐疑と反発とを託し続けた。

 私はひどく人の顔を見た。ひどく眼を見て話した。それは自らに正直である者の特権である。

 現近の私は、それが余程近しい者でもない限りは上手く人の顔を見ることが出来ない。辛うじて巧みに、辛うじて逞しく生きようとするのである私の術が、私自身からその代償として信を奪い去ったのである。或いは、

 或いは、そうではないのかも知れない、又別に理由はあるのかも知れない、が、いずれにせよ私は人の眼を見ることの出来ない現状を持っていて、その正体は大変な嘘つきである。

 若造は大概愚か者である。が、その為に彼は自らを信じるより他にない。知識も知恵も足りないからだ。それ故に若造は愚か者である。しかしそれ故に彼らの眼差しは真っ直ぐとしている。

 私は時折、自らをポルフィーリィだと思うようになった。物語の中、それも舞台はかつてのロシアであるのだとて、今の自分自身の身分境遇から準える対象として選ぶもののポルフィーリィでは過大であろう。むしろ身分境遇からだけで言うのなら、私は犯罪に手を染めず、ソーニャにもキリストにも出会うことの無かった、依然としてのラスコーリニコフである。

 私は時折、自らをラスコーリニコフだと思うようにもなっている。二つを対と仮に為さしめなば、それもそうだと思われるような互いの人物像である。当然、何れもドストエフスキーという一人の実在人物から立ち上がって来た彼の影姿である。

 罪から言い逃れようとする真っ直ぐな瞳へと教え諭す本当の嘘つきは、彼の罪を突き止めることだけはした。しかし、若造を本当に救った者はソーニャであり、キリストであった。ステパン先生も同様、彼の死の間際に付き添う者は、彼の愛したワルワーラ夫人なのであり、痩せ細った病身の胸に抱く聖書なのであり、そうしてそれらと共にする終生の告解であった。

 私はどちらを読んでも、終幕にキリストの神の全てを解決するかのようなその結末に、首を捻ることをした。俄然、突き放されたような気のしたものである。

 或いは、より根源的にはそのような人物にこそ信心は必要とされているのかも知れないのだが。我とて我非ずというような自己の希薄さに宛がって、信心はそのような心の状態を肯定したかも知れない。

 だが、かつての私は今しもそうであるように、当然キリストの声を聞かず、ソーニャのような人物を傍に見出だすということもしなかった。

 殊に単に、ソーニャやワルワーラ夫人という存在をただ、愛の向く先としてだけで捉えることで二人を同列に並べるのであれば、私のつくづく欲していたこととは、只一人の人を愛し、愛される、という単純な相互関係だけであった。

 それが即ち若造の故に、肉感的な愛欲であるだけのものへも、皆が総じて愛であるという経験的な無知から、私はそれが破れ去るというその時に堕する地獄の底で、無意味に、敬虔に悶えて来たのである。

 彼は未だそのさ中である。愛し、愛されたいと願うのである一方で、その愛欲の正体に勘づいてのことか、互いに惹かれ合っているという感性的な事実をさえ、自らの疑獄の炎に焼べ続けている。

 そうした後にあるものは、焼け爛れた剥き出しの心に痛みを知るその時だけ、互いの恋情を知らせ合うという刺激のみだ。それは本当はもう機能をし得ないという死したる身体へと電流を流し通すようなことである。

 いずれ、彼はそのような全てに堪えずしてスヴィドリガイロフとなる。だがそれは今の彼ではない。今、私の一筆書に、殆んど表情も持たせずに描こうとしている彼ではない。話は未だ先である。

 そもそも彼は『罪と罰』をこの時点では読んでいない。読んだものはせいぜい『地下室の手記』であり、しかも彼はその作品をただ激しく暗い嫌な心境のものとしてだけで読み捉えて、それで終わりにしたはずである。

 いずれにせよ彼は、愛し、愛される、という心からの望みに裏切られることで、或いは自らそれを裏切ることで、痛ましく過剰な、神経ばかりの人間へと成り変わっている。

 あの日見た猫の集会の離散から後、おそらくは四年ほどの経過で彼は、ものの見事に自らを失った。

 彼が自らと彼の信じているところのものを彼は失った。彼はそう信じている。

 彼は希薄な町の入り組んだ道に歩みを進めるその次第に、セックス、セックス、性、性、性、と砂利踏むような草履履きの音を鳴り散らかしている。

 どうしても彼のセックスをしたかったという理由は、周りに出遅れたという実感からである。セックスをしたいというだけの理由であるのなら、彼は男根を持していた、ということのみに足る。どうしても、ならでは、周りのことの常に、その意識裏には忍んであったのだった。

 彼は例えば好いている人であれ、肉感的な誘いを持った人であれ、彼女らの傍に居て軽やかに欲情する、というような経験を殆んどしなかった。本当の欲情をする、或いは、勃起をするというような身体変化の起こる以前に、セックス、という観念は彼へ重くのし掛かって来ていた。

 その為に彼の性的興奮は、裸の相手を前にしてさえ多大なる観念への集中を要した。

 彼はオナニーを日々欠かさずに行なっていたが、全ての彼の夢は残虐な色に充たされていた。

 今の私はとまれ性処理とはそのようなものである、と考えるより他ないがしかし、性の嗜好に不思議なほどの千差万別があるのだとすれば、異論はいくらでも噴き出でよう。

 残虐の夢が彼の性的欲望を起点として彼自身を取り包むものであるのなら、観念でない物的の人に、物、を感じ得ないその理由は別に有る。その別のところから抑え込まれた欲望の暗いものなのであればこそ、彼は謂わばその別のところのものを理性として用いて暗黒を胸にひどく封じ込めているのである。

 そうしたものを封印しながら、うそぶくこととは無論、人は物ではない、ということである。物のように人を取り扱ってはならないということである。この場合、女性を物のようには扱えない、ということである。それが正しくないとは誰にも言われないであろう。

 だが彼の欲望は、明らかに、女性を物とする夢に暗く塗られてしまっているのである。

 欲望からすれば、このような欲望に似つかわしいのではない別のところのものこそ障碍である。別のところのものからすれば、このような欲望こそは常に胸中に打ち倒しておかねばならない敵である。所謂、相克のような状態に陥っている彼はしかし、この時点に於いては、それほどこの類いの考えを押し進めては居ない。ただに思われることは一つ、性的な経験の具体的に有り得る、というような年頃になってから後、人生はガチで暗くなった、ということである。

 よろしい、確かに彼には信仰が必要なのである。それも是非とも必要なのである。

 セックス、セックス、性、性、性。

 たとえ夜を徹した末の朝とて、初々しい若気の充満したその身体に疲れは報い得ない。彼の足は留まるところを知らず、未だ昇られぬ性の段階を目前にして、足踏みをばかり繰り返す。

 彼は誰も彼へ到達し得ないという豊かな孤独を一心に抱きしめるその一方で、そうしている彼から遠く漂泊をしてしまった解離的自己、即ち今しも彼にこれを書かしめる私、という存在をこのとき既に感覚し始めている。

 彼はどのようになぶり、なぶられる人生の苦痛に見舞われたのだとしても、私だけはいずれ彼へと報いてくれるはずだ、と信じ始めている。

 そうならないのなら、彼の計画は全ておじゃんだ。おじゃん。良い言葉である。

 ところで私は実のところ、先述した知り合いのアパートまでを一応の目標として、この度の散歩をしているのだった。

 右と左とを同時に曲がることをして私は恰かもうさぎ穴、そこへと急速に落ち延びて行ったかのように書かれた先の部分は、事実に則して言うのであれば完全に嘘である。

 事実に則して言うのであれば、私は大井町の地理的なことを余り覚えては居らず又、グーグルストリートビューを見てみてもまるで判然とはせず、従って恐ろしく曖昧な記憶からだけでこれを書いている。

 社があったのだ。神社が。おそらくは稲荷神社であったのだとは思うのだが。

 小高い丘の縁側に設えられた階段を昇って行くと、そこにベンチと公衆便所とが設置されてあったのだと思う。そうして昇り切って直ぐの向かいに、小さな社が何ものかを奉っていた。記憶に拠ればそうである。しかし、やはりこれもグーグル検索とて、それらしいものの発見をすることが私には出来なかった。

 おそらく土地は、社を喪失したのである。理由は判らない。十数年と前に在りしものは在りし日にだけ在るものだった。

 もちろん、人は間違いを犯す。犯すと言うほどのことでなくとも、間違いは起きる。起こすのである。それも記憶違いと、検索能力の程度と、幾重にも間違いは折り重なって現状の不透明さを招いているのやも知れぬ。たとえば、当の社は数件の候補から実は、正しく検索をされており、私もそれを幾度か眼に触れさせてはいるものの記憶違いの為にそれと断定することの出来ない、ということが事の真相なのかも判らない。判らない。

 私には何も判らないのである。

 判らないのであるのならば、どうでも退屈な、あら探しのようなファクトチェック的厳密さに自身の記憶を支えさせようとすることは如何にも徒労である。

 それに、私の曖昧である記憶、というファクトをおざなりにすることが人間を表すに際して正しいのだとする見解を、人は文学上に決して見ることはない。事実は逆であるのだからだ。

 従って、私は右と左とを同時に曲がった。それで良いのである。

 従って、私は白浜の白のような色をした集合住宅のあわいを、幾重にも枝分かれをするか細い、青年期の神経のような痛ましい道のりをさ迷い歩いた。その途上、牛蛙は、雨上がりの真夜中に、濡れ通したアスファルトのその街灯の反映の中で、くたびれて死んで行く赤子の手のような前肢を、極めてゆっくりと伸ばしやった。

 それで良いのである。追いすがる小さな手にはもう届かれない一つの位置で、彼の性はみすみす入り組んだ。充血は町である。も早彼はそこを充ちた神経のような血管を辿っているだけなのだ。茫然自失をしながらに。それで良いのである、と彼に自然と思われるような暗喩裏の心理状態ではそれは無論、なかったのだとしても。

 セックス、セックス、性、性、性。

 今では信じ難いことではあるが、彼は自死する衝動に駆られたことさえあった。

 性っセックス~、という音、極めてぞくっとしてしまわれるその音がふいに、彼の頭でそうと聞くばかりに鳴り止まぬ観念の音から零れ落ち、そうして足元に、本当に鳴った、と彼は俄に感じ取ると、界隈の吹き出物のような牛蛙をつい踏み潰してしまったような気がし始めて、嘘だ、とぎょっと後退ったその心を血痕のように見開かした。

 こんもりと盛り上がった丘である。

 コンクリートの階段が備わっている。

 道路はロータリーのようにこの丘を取り囲んでいる。一見するとそこは現実味の薄く、ただに想像上のものとして造られたミニチュアモデルのようにも感じられる。

 彼の踏んだものは砂利だった。玉砂利と呼ばれるものである。どうにかして上部から零落した数片ずつの、そうして日々を重ねる内に、ロータリーの縁へと涙のように滲んで来たというそれは、聖俗を別つ輪郭の曖昧な境界線である。

 彼は見上げた。日の光でも真っ向に射し込んでいようものなら、彼は眼に映るものの全てをそこに白まして見たであろう。だが日は何ぞ彼へ透き通って来ることはない。日など何処にもない。きっと、丘の奥に建ったひょろ長い建物の更に奥にそれはあるのだ。

 だが異様に白いと思われた。たとえば白さの限界へまで微視をして見るマイクロスコープの眼に拠れば、そうして見るのである一つ一つの白さの粒子的なものに、彼のみならぬ我々とて仄かに発せられる形の穏やかな光暈を眺めることになるであろう。

 ここは或いは生きている。彼はそう思ったか知れない。おそらく、そのようには思わなかった。しかし代わりに彼のどのように思うのであっても、道々漫ろと歩いて来たというだけの者へ、それが狭所とて誰彼と構わずただに開け広がって受け入れてくれそうなのであるその神性の場所が、疲れを癒す束の間の憩いを授与しないはずは無いものと私は感じるのだ。だから彼はそこへ、ふと、足を踏み出したのである。未だ彼はそこに社があるのだとは知りもせずに。

 セックス、セックス、聖、聖、聖。

 コンクリの階段にも、玉砂利は吹き零れている。もう見えている。神社である。おそらく神社、だが、とても小さな社だ。とても小さなその社の内側は、ひょこりと覗ける彼のかさついた頭から次第に、全貌を顕とするその痛ましい若さをただただ見たであろう。彼も眼を離しはしなかった。それだから始め、彼は足下を集る柔らかな群れのことには気付かなかった。

 猫が居る。猫が余りにも居る。昇り切った先で彼は硬直をした。猫の為にである。彼は普段から特別好いているという訳でもない猫のことを、それでも可愛いとは思っていた。果たして、こうして猫ばかりの集いについ出没してしまった自身がどうにも、これに対応の出来ないという緊張を覚えてしまう、その裏で、彼はやはり可愛いのであると感じる猫のことをどうにかして可愛がってあげたいというような気もした。だが、身体が動かないのだ。動いてはいけないのだ。彼はそう感じた。猫は、彼にどうされたいという訳でも無いのだろうからと彼は思う。それが理由だ。

 散在する猫は、様々である。皆違う猫であるという点で一様である猫らはしかし、皆猫であるという点で一様である、が皆違う。白いものも居れば黒いものも居り、白地に黒ぶちのものも居れば、三毛猫も居る。キジトラに、トラ白も又その場に居たであろう。皆、付かず離れずの微妙さを保ちながら、自然とその距離を車座の形に成さしめている。

 そのような自然と、無関心そうな集いの只中に出没をしてみて、彼はふと、いつかした散歩の朝を思い出した。

 小学校の脇から大量の猫が飛び出して来た日のことである。

 彼は行く宛もない散歩の末にそれを見た。緑色のフェンスから、皆、飛び出して来るものが一様に猫である。茶トラに白に、黒も居た。道路もその時ばかりは猫の川である。川として一様となった猫らは瞬く間に目前を流れて行った。

 彼は呆気に取られながら、しかし、見るものを見た、という気がした。ただ彼はそこで見るものを見た、とだけ思い、それを不思議な力で信じた。彼にとって珍しいものでそれがあったというだけのことなのである。だが珍しいものを見た、と彼のするその時に、彼の散歩はそこで終わった。それも又、本当に訳もなく始まったものを訳もなく終わらしめるという、不思議な、肯定的の力である。

 彼はそれを思い出した。今は、離散する猫らの集会を目撃したのではない。真っ只中に彼は居るのだ、まるでそこに出没をした彼もが又、時に互いの身体を嘗め合うような集いの参加者であるかのようにして、と、

 彼の身体は急速に強張った。警戒するかのようなその身体的反応はまさしく彼にとって心外なのである。何故ならそろそろと、小さなとても、とても可愛らしい小さな猫が、彼の方へ歩み寄って来たのだからだ。

 このようなことは無い、まるで無い、滅多に無い、と彼は感じた。ところがそう感じられた矢先に更に、もっと無い、これ以上のことは絶対に無い、決して、金輪際、無い過ぎる、と又尚される新鮮な驚きと共に今度は強く思いをすることもした。

 小さな白い猫は、彼の足首へ頭を擦り付け始めた。その感触はこうだ。弱々しい、軽い頭が、精一杯に愛情表現をして、それが無性に儚いという、恥ずかしい感触。彼は本当に硬直をしてしまって、彼の存在全てが喜劇的アニメーション作画であったのなら、彼は手にした荷物をぱさりと落として、身体をわなわなと震わせながら、顔面を真っ青にさせて居たことだろう。

 真っ青である。真っ赤ではない。何せよピンクという訳ではない。これが不幸だ。彼は真っ青だったのである、可愛らしい、とても可愛らしいとしか言い様の無いものに、こんなにも積極的な愛情表現を受けていながら、そうあって欲しいと望んでいる、最大の機会を片方から授与されながら、そうして真っ青になって硬直をし、事実上これを拒んでいるかのようなのである。

 愛されている、と彼は感じた。

 いつか、愛したいと思っている人との埒明かれぬ恋情の空中戦に、たった一度だけ、見かねた相手が私へ、至極積極的に話しかけて来てくれたことがあった。それはもう見違えるほどに、彼女は明るく、元気良く、懸命に私へと話しかけてくれていた。

 私は、そのような得難い機会に見えたさ中で、恐ろしく愚鈍に、恐ろしく平常心を偽りながら、恐ろしくただに体面を保つという努力をだけ懸命にして、何故だか田山花袋の話をしていた。

 私は恐ろしかった。我々では乗り越えられないと既に私のそう信じていたのかも知れない背の高い垣根を彼女はいとも容易く乗り越えて来た。それが実は、彼女が愛欲という重しを捨て去って、身も心も軽くなってしまったのだからだ、と私にはふと思われた。だがしかし私は、何より疑わしいことに心を常に縛り付けられているという呪いを、この時にも自らへ唱えていた。言外を表れる恋情の細かな仕草を私は信じることが出来ないのだ。彼女は私を愛しているだろうか、そう感じているのだ。彼女は私を欲しがっているだろうか、そう感じているのだ。しかし、このような感覚上のことには何一つの根拠も無いのである。彼女は私を、愛している、と口に出して示したか。いいや、そうではない。明言のされていないこと、何の実証性も無い、他者の心の妖しい蠢きをどうして私がそれと知ることの出来るのだろう。全てがまやかしで紛い物であって、全てが私の勘違いに違いないのである。恐ろしいことだ。彼女が私を欲望している、愛している、そんなはずはない、こんなに惨めな、不細工で、どうしようもなく生きる力もない私のことを、どうしてだ。

 何より恐ろしいことは、そのように勘違いをしてしまうことで保たれなくなる体面である。

 私は後退った。そうして後にも先にもこれ切りのこととて、金輪際、決して彼女から訴えかけてくれることは無い過ぎた。

 後引くものは更に異様に沈黙を交わし合う中で擦り切れて行くような、苦しみのあの時間だけであった。それもしかし、彼女の方が余程に賢く私の前から身を引いたのである。

 猫はずっと頭を擦り付けて居る。私は硬直をしたまま佇んでいる。

 腰を落としたいと思った。手で触れたいと思った。頭を撫でたかった。だが、それでも撫でてやりたいとまでは思われないのだ。私の好意というものが、何故に、どのような理屈を以て、他者の好意と結び付いてくれるというのだろう。私は硬直をしている。

 私は猫をすら可愛がる勇気が無いのだ。

 然るに、彼は硬直をしている。だがやがて彼は、ごめんね、と言った。

 ごめんね、何か食べるものとか何にも持ってないんだ俺、ごめんね。

 そうして彼は忍び足をするかのように、足を持ち上げ、そのまま後退った。猫は追い縋るようなことはしなかった。或いは心得ているのである。授与することの出来ぬものから得られるものは何も、何一つも無いのだと。

 下り行く性の階段の途上で、彼は颯爽と流れ出して来る猫の川に、自身浚われ始めたのを感じた。白も黒も、三毛も居る。茶トラもぶちも、もしかしたらロシアン、ベンガル、何だって。猫猫の川下りだ。私は流れ行くばかりである猫の川のその束の間さに安堵をする。ただに柔らかである波へ身を横たえて居さえすれば良い。誰も彼もひどく愛する必要のない気安さに、心を休めて。

 孤独は向こう何年も続くのである。

まあ、ふつうに好きな人と喋るの緊張しちゃうじゃんねぇ。

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