洗脳
時には、ちぎっては投げ、時には、ちぎっては投げ。
気になった言葉の語源を辿ると、その言葉の生まれ落ちた歴史的背景に就いてを学ばなければならなくなる、ということが時にはある。
洗脳。
brainwashing。
lavaggio del cervello。
lavage de cerveau。
промывание мозгов。
tẩy não。
グーグル翻訳を駆使することで、様々な国の、洗脳、の語を導き出したその結果が、私の狙い通りの結果であるのだとは限らない。
洗脳、という語の並びに、洗う、と、脳、と、二つに一つ一つそれぞれの独立した意味を持ったこの語が、その並びの故に、脳を洗う、という即物的な意味をだけ指し示しているという可能性も、ないのではない。
従ってグーグルを以て更に、検索的翻訳から導き出されたそれぞれの語から、追って一つずつの画像検索をしてみることでそれらの持つ周辺情報をかねてより獲得している。
消しゴムで消されつつある脳図。
複数名の清掃員が大きな脳へと集っているところ。
脳のほの赤い、唇のような色をシャワーで洗い落としている二名の紳士。
清潔そうなコインランドリーの横置き渦回転式洗濯機の中へと突っ込まれつつある巨大な脳、開かれた円形の投入口から一度噛みつかれたかのようなその血の汚れが表面を伝い落ちている。
人の横顔のサイバーチックな断面図、脳を刺す注射器のシリンジには、蛍光色の液体が入っている。
……イーティーシー。イーティーシー。
然るに、まことにイーティーシー。このような画像の指し示している意味を感じ取られる者は自然な感性をしている。
だから本来、説明の不要であるというような入り口の開かれた空き地へ、私は私の言葉を以て進出しようと試みるその時に、しかし私の言葉それこそが妨げる周囲の垣根となって、語れば語るほどに生い茂る藪の道なき道を私は、漸次進んで行かねばならなくなる。このような悪戦苦闘は、これのあくまでも以下に演じられようとするものである。
以下とはこの一文から、以下の通り。
全ての画像に諧謔の意図を人は認める。諧謔されているものは、洗脳、という主体の行為、又はそれをされている、されつつあるという客体の状態である。
諧謔は、洗脳、という語の伴って持ち得た別の意味に準えて行われている。
即ちただ物理的に、洗う、脳を、という意味に於いてである。
脳を洗う、という、そのままなのであるより外にない絵に表れているものは、脳を洗っているところ、なのであり且つ又、洗われている脳、なのである。
が、しかしその表層裏に最も人へと感取せられたくして忍び込ませてあるものは、洗脳の本来的な意味、と我々の通常捉えているその意味を、である。
人はこれに洗脳という語の、歴史的な若さを嗅ぐわうのでなければならない。
以上であることをこの文に拠って告げる。
先に並べ立てたものは世界各国の洗脳の意の語。万国に足らずとは言えども、万国と言うに足らぬものも日本の、日本にとっての通念的諸外国と言うに足る主要なところを以てこれを万国と言わば、道理のように通らぬものでもない。洗脳の語の研究を、研究者でない者のする徒手空拳の手捌きに於いて目するのなら、万国にその例を求めることは当人にとって過大な請求である。
本来、万国とは世界数多の全ての国を意味する言葉である。即ち、一国とて語の含む内に取り零してはならない。日本の外務省は現在時点に於いて、百九十六ヵ国を国と認めている。これに依拠するのならば残り百九十ヵ国の、洗脳、の意に値する語を抜き出さねばならなくなるという算段である。
magaja(脳) dhōlā'i(洗)《ベンガル語》
Gehirn(脳)wäsche(洗)《ドイツ語》
L̂āng(洗)s̄mxng(脳)《タイ語》
残余百八十七ヵ国……
hersen(脳)spoeling(洗)《オランダ語》
aju(脳)pesu(洗)《エストニア語》
vymývání(洗) mozku(脳)《チェコ語》
dimaag(脳) dhonevaala(洗)《インド語》
beyin(脳) yıkama(洗)《トルコ語》
agy(脳)mosás(洗)《ハンガリー語》
plýsi(洗) enkefálou(脳)《ギリシャ語》
maskaxda(脳) dhaqid(洗)《ソマリ語》
promyvannya(洗) mizkiv(脳)《ウクライナ語》
残余百七十二ヵ国……ではない。
187‐9=172ではない別の何かの数字、だからである。
算段も何も、簡単な算数である引き算をすらまともにやり遂げられぬ者にやり遂げられることなどはたかが知れていよう。それに無意識は常に当人の知れぬところをふと顕れ出でようとする暗に執拗な出力装置である。
見てみたまえ。百八十余国を残す後に列挙をした国の頭文字、その縦並びにこれを為する辛苦が、大学ノートへ滴り落ちる鼻血のように、一字一字を点々と滲み出しているのであるまいか。
《オ、エ、チ、イ、ト、ハ、ギ、ソ、ウ》
換言するに、
《おえ、ちいと、吐ぎそう》
おえぇ、辛すぎて、ちぃっと、俺吐きそうなんだけど、とでも言いたい心がこの世へ紛れに発現をしてしまったという、その瞬間の押し込められたこれは暗号である。嘘ではない。無論、嘘であることもが有るのだとしても、そうしてこんな嘘を付いてまでして自ら楽しもうとするその内に、ただでさえ苦労であるというところへ以て更に余計な苦労を背負い込んでしまったという身体は本当に、おえぇ、これはガチで吐いちゃうじゃん、こんなアホくさい仕掛けなんて止めときゃ良かったんだマジで俺のくそバカ、と成っていたのだからである。即ち、狙って為したのではない、という嘘はしかし、表されたその意味内容へと取り憑くかのような重篤の本心の為に矮小化をされている。従って、矮小化のされた嘘は小さく、よぼよぼで、増長する本心の暗く重い影に隠れて見えなくなってしまって居る、というその点からして嘘というものはこれは一切無かったのだと、そう言い切ってしまっても良いのだ、というところにこの場は丸く収まったのであろう。
人は知れずに踏み潰してしまった蟻のことを思われない。我々の屡々耳にする箴言らしい言葉も、使い古されたそれが時には空疎には響かないものである。
然るに万国の、洗脳、に当たる語を収集するという理想論的目論見は、ここに実現をしない。
又、そもそも抜き書きをしているその内に気付いたのだったが、一つ国在りとて公共に渡る語の一つきりとは決して言われず、一つにいくつものローカル言語を内包しているという国も中にはある訳だった。
更には、反って一つと一つとに拠立する二つの別個の国が、殆んど同様の言語をそれぞれの民族に於いて用いている、というケースもいずこかに有って然るべきである。
例えば、日本国に於いては国家承認のされている、のではない台湾と北朝鮮とは、しかし普通の感覚からすれば彼らの自治を国家のそれではない、と感じる人は殆んど居ないだろう。台湾の人は概ね、母胎としては中国語であるものを話すのであり又、北朝鮮の人は概ね、南北と別たれる以前に統一朝鮮であった頃の言語に基づいたものを話すのである。
そうして、例に上がったこれら二つを以てそれでも別々の国であろう、という風に思われる一般通念は、我らが国家の承認のあろうとも無かろうとも、必ず巷間を渡っているものと思われる。従ってこれは、個別の国同士に通用をし合うそれぞれの公共言語、の例と成り得よう。
しかし、互いの細部に少しの違いも無いのではない。大部分は相互通用するとて、大部分とはそれでもピンからキリまでという、全きの意味では有り得ない。
この線に拠れば、そもそも一国の内にも相互通用のし難い複数の言語も又有るのであって、例えばそれは日本国に於いても又そうである。事実上の公用語に対するそれは方言という扱いになるが、訛りものも古の頃から伝い現在にまで生き残って来たそれというものを一聴しては、そこに一頻りの隔絶を感じ得ぬような一般的な感性の先ずはあるまい。
又、謂わば同じ日本の地にあって歴史上用いられていた古語の、現在に於いて通用するはずもないことは皆に承知をされている。
以上のことから、国家という単位と言語という単位とは統一的ではないのだと言える。国家より以上に言語は様々なのであり、何せよ言語の様々はそれの指し示す意味よりも余程その響き方の方にこそ多様性の根拠を多く持っている。
全て、洗脳、という語に照合をする各言語は無論、そうして照合をされたのであるのだから、洗、であり、脳、であり、この二つの意を合して、洗脳、の意を指し示すのであるが、しかし明らかに各言語の響きは別個で、各言語ごとに固有のものである。
我々が判り合うという為に是非とも必要なのである指し示された意味は、必要である。我々は判り合いをする為にいくつもの意味を積み上げ、互いに生存をして行く。その意味の結果が国家である。そう、仮定をするのなら、そこから吹き零れてしまったかのようである言語の響き、というものを我々は何としようか。
意味の積み上げの先に合理を見ないはずはない。言語統一を図る国家は、それが意味に存在依拠をする共同体の約束事、意味の胎児として、その生育の果てに言語統一を図るのである。何故なら、意味の通用がし得ない空間に於いて共同体の協力体制は敷き得ないのであるのだから。又は、通用し辛いという意味を是非とも通用し易くするのでなければ、それは運営に停滞を生むのであるのだから。
しかしながら指し示された意味とは、必ずしも言語の意味をそうして了解し得る頭脳に拠ってだけ、了解されるものではない。
既知とは忽ちなる判明をもたらすものである。
既知の忽ちなる判明が唯脳的なものであるということに科学的の論は俟たないか。但し唯脳的であるものとは、頭脳それ自体に於いて完結をするばかりの働きに就いて、なのではない。脳を中枢としても全身体は明らかに感覚的なそれ自体である。
既知の忽ちなる判明を、全身体の感覚的なそれ自体こそが請け負うのではないか。
日本人は、r、を発音し得ないというのに、brain、を本当に判るのか。
既知の忽ちなる判明は呼吸に均しい。脳、と言うのだからこの人は、頭の内にあって赤く濡れた皺だらけの柔らかな塊、に就いてを言ったのだ、とするような即的でない、意味確認的な、やたらと用心深い理解の仕方を同言語話者は、脳、に対してしはしない。脳、と聞き、或いは見るというその瞬間に指し示される意味を、一々顧みることは既知ではない。せいぜい半既知である。
我々は明らかに、の、と、う、との響きの組み合わせから、既知なるものを直ちに呼び覚ましている。脳の定義への論理言語的な執念は呼び覚まされはしない。
しかしながら、の、と、う、との響きの連なりから言語は如何にしてもこの場合、脳、という意味をそこへもたらしてしまうものである。響きが純粋に響きであるという為だけに連なるのである場合、それは言語的な意味一般を為し得ない、孤立をして、寒気に晒され続ける独創物でなければならない。又は響きの連なりがただに響きとしてだけのものとして有り得られるものとは明らかに音楽である。
音階は意味を為し得ないか。
確かに音階は、言葉に於けるような意味を持たない。しかしながら音階は、或いは音楽は、その響きの構成の如何に因って、時に楽しげであり時に悲しげである。詩文を持たない音楽のリリシズムの内に言語を催しめるような作用は、換言すれば明らかに意味を持たないものの構成物に充てられて意味を催すという作用のことである。それは言語もが持せりとも、それ以前に音の響きだけの持つ特性である。
ただ音であるだけのもの、のその響きの組み合わせからから一つ、言語的な意味を為さしめて行く過程に、例えば、脳、という語をそう名付け、呼び得た理由を探ろうとするのである時、思われることは大部分、身体に直の感性的な領域に拠ってそれは為されたのだという、当てずっぽうな推測である。
そのように思う者は多いと思う。
即ち、脳、を名付け呼ばわる時に、脳、はのう、っぽいのだから、脳だ、という感性からである。無論、脳、という言葉の事実的な始まり方はまた別の様相を呈するものかもしれないが、例えばそのようにしか始まり得ない最も原始的な語というものも、現在通用する語群には居残り続けているかもしれない。
これは謂わば、詩的情緒を言葉の起源とするような一つの説を取ろうとしているのである。
一方で、言葉の起源は明らかに、呼ばわる対象へとそぐなう詩的情感から名付けたものの敷衍であった、というだけでは済まない。それどころか、有ったのだとしてもそのようなケースは極めて稀であろう。
事実は恐らく、獣の鳴き分けほどのところから始まって居り、例えば最も早速に意味したいはずの自己や、相手を呼ばわる時、あれや、これやを呼ばわるその時に、些細な語頭変化、乃至は語尾変化を以て徐々に、段階的に、いずれは言葉とされるようなその原初の火種はごく小さく灯って行ったのであろう。
火種はやがて延焼をして方々へと渡り拡がる。火はそれが灯り続けるというその為に、灯り先を資としてこれを焼き続ける。火が言葉であるとするのならばそれは意味を焼いているのである。だがしかし、焼かれ続けるものとはやがては焼き尽くされるものである。確かに古代からの伝来語がその形をままに意味をだけ違えて来たという例は日本語にも存在するだろう。面白い、などはそうで、現在我々がそれと聞いて忽ちなる判明を呼び覚ますような意味に於いては古代、面白い、とは用いられて居なかった。
しかしながらこれはまた古語から現代語への変遷にある言語的意味の移ろいの例であるより外ない。反って古語から現代語への変遷それ自体に着目をするのである時、明らかなることとは、真逆に、我々は据え置かれた意味を元に灯る言葉の方が移ろって行ったという例をこそ膨大に見る、という事実である。例えば、なづき、と言って、それが、脳、のことであるのだと、既知故の忽ちなる判明を呼び覚ます者は数少ない。世間との感覚的隔絶の余程為された古語愛好サークルの内にでしか、なづき、を以ては既知故の即的感覚を起こし得はしないだろう。
ところで愛好とは道具的なものに対してされるのである。又、サークルとは或る集団という約束の下、常に閉ざされる円環のことである。
言葉の響きと意味とを異別する試みの内に思われて来たことは、何れにせよ言語内に於いてされるより外にない、というまさしくその条件下に於いての響きの響きだけによる意味を探ろうとすることの困難をである。どのみち意味を積み上げるということにしか言葉の最適な利用法を見ないのであれば、やはり世界の我々が多言語化をしてしまっているという事態は、改善すべき人類の不具合のようにも思われてしまうものだ。
本当に改善をするべきその時の、今しもに差し迫っていると仮に思い込んでみるのなら我々は、一体そのことをどのように感じ取るのであろうか。殊更、我々日本人がどのように思うものかは、我々日本人であるという自己言及的条件を措いても必ず重要である。何故なら我々の内の殆んどが英語をすらまともに喋られないという民族であるのだからだ。つまり、我々は極度に日本語を道具として意味を為さしめる円環に閉じ籠った、辺鄙な日本語愛好サークルの一員なのである。
言葉とは道具である。人はその限られた能力の上で彼の道具を愛好せざるを得ない。この実に愛好ということに根源を持った我々が各人、各集団に特有の響きへ、その能力的限界の為にすがり付く、という成り行きが響きの真の事情であるのならば、それは、もうこれ以上は後退りの出来ない壁際へと背付くほどに追い詰められている、という哀しみをしか現代には呼び覚ませられぬ。意味の世界に於いて、それはまるで悲劇のようである。普遍審理のような面をして徘徊して廻る言語的意味と合理の統一志向的怪物に、響きは、どのような対抗をすることが出来るのであろうか。
私は、たとえそれが煩わしくとも、たとえ技術の進歩で容易くなったのだとは言え依然煩わしいことには変わりない翻訳という一手間を、意味の為に惜しまずにし、しかし響きは必ず互いのルーツとして保持することで、それぞれの生命、その美しさで在り続けるより外にない、というこの現状に人類は踏み止まって欲しいと願う者である。
以上のことから、その内容というよりただに文章という形としてだけで本題への接続はされる。それは以下にされる。
この文章より、以下である。
今日に言われる、洗脳、とは朝鮮戦争時のアメリカに於いて、初めてその巷間を巡り出した言葉である。被洗脳者へと身体的、精神的な圧迫を加えた上で、或る特定の思想を肯定するよう対象へ仕向ける行為、を意味している。
中国に於いても、洗脳、という語はある。中国語版ウィクショナリーの出典に拠れば、"第二次国共革命戦争時に国民党支配地域で初めて利用された"とある。時系列では国共内戦の終戦後、一年も経たぬ内に朝鮮戦争が勃発する、という列びであるが、即ち内戦の先立つ上で、洗脳、という語の初めて現れたのは中国の地であった、ということになるだろう。
"国民党は共産党の宣伝攻勢を恐れ、彼らの国民が赤化プロパガンダへとアクセスすることを許さなかった。マルクス主義理論と共産主義の理想普及を洗脳と呼んだ"と続けて出典にはある。これをままにして考えるのならば、国民党は彼らの支配地域に於いて、共産党側のする地域人民への呼び掛けを何らかの方法で遮断する形にしたのであり、であるのならば、brainwashである彼の意味に於けるような、身体的、精神的な圧迫を加える余地など共産党側には無かったのではないか、と私には考えられる。
そのように考えることで私の言わんとすることとはつまり、中国に於ける、洗脳、とアメリカから起こった、洗脳、という語では、やや意味を違えている、ということである。
例えば、XJAPANの某が、新興宗教の某に因って、日常的な心身圧迫を受け続けながらも、そうして飼い慣らされるようにして彼らの傍に在り続けた、というような顛末を古い情報として記憶している者も居るだろう。これはbrainwashである。
又、例えばテレビニュースの垂れ流しの為に或る特定の思想傾向を人々の帯び出す、というようなことへ警鐘を鳴らす人々が居る。日本に於いては大抵思想的に右派である彼らの言う洗脳とは、洗脑、である。
更に、例えば教育も又洗脳である、と言われることも屡々あるが、これは今や現場に於いて教員の自ずと忌避する体罰を伴うような場合に、米国発のものであるかのようなもの、として呼ばわれ、しかしながら体罰の有ろうと無かろうと社会参入に向けた育成には、対象をその特定の社会機構に巡らせるような一粒一粒の血と成す為にも、或る特定の思想誘導はそこに有りとて、洗脳、と呼ばわれるのである。後者が、中国発のものであるかのようなもの、であるのだと言えよう。
以上が接続のされた本題である。
こうして異別的なものとて二つを並べたのである時、そうして暫く眺めるようにしていると、ふいに更なる違いがそこを思い浮かび上がって来るであろう。
経験と情報とである。
brainwashの側は疑い得ず、心身の経験として当人へ差し向かう洗脳である。
一方で洗脑の側は、プロパガンダであれテレビニュースであれ、拡散的に宛て付けられる情報である。
素人なりにも慎重を期さずしては、私なりにも意味をもたらすことがない。確かに、ブレインウォッシュの側も、塗り込められるものは情報である。しかしその情報に対して、或る特定の思想形態へ行き着く糧とせしめる物事は、当人にとって強制せられる直の経験である。
又、洗脑の側に於いても、撒かれたビラを読むなり、テレビの始終云々するところを見聞きするなり、といった行為は経験である。だがそれはたとえ、街路に敷き詰まったビラの海であれ、人々の余暇の殆んどの時間を呑み込んで来た電磁の波であれ、人々は眼を反らそうと思えばそれが出来る。そうであれば強制せられる経験であるのだとは、この場合には言えないのである。
そんなことはない、作為の下に周囲環境を整えて、恰かも強制性のないかのようにして思想誘導をすることは可能だ、それは実際的に強制だろう、という反論は考えられる。当人の知らず知らず踏み込んでしまうところへ沼のような陥穽を掘り置くのである。確かに強いずに強いるという、促しかのようなやり方は特に賢いとされる人対戦略であろう。だがまさしくその故にこそ当人は強制せられたという経験を直には持ち得ない。そうして又それだからこそ、この恐ろしさは警鐘を鳴らすに足るものとして喧伝をされるのである。
直なる経験とはし得ぬ強制へ目覚める、ということは、意図するところを暴くということと同義である。これへの対処法は風邪の予防と殆んど同じである。直なる経験化のされ得ぬ強制とは、息を吸う口から入って喉を燃やすヴィルス感染と変わりはない。眼には見られぬ、肌には触れられぬ、匂いさえもがない、というところへ以てせられる予防とは、疑心暗鬼な口元のマスクだけである。
例えばここに、例文を取る。
宍戸渚は、少しだけ捲れ上がってしまったラベンダー色のビキニの下を、人差し指でなぞった。
ビールのジョッキ缶の縁に、ぶよぶよとした黒い塊が取り付いていた。それがだんだんキスを迫るかのように、身をきゅっとすぼめて伸び上がって来た。
この二つの文言に因って想起せられるものは、たとえ振り絞られるイメージ喚起の力の一切を動員して、これを思い描いてみたのだとしても、人の直なる経験とは成り得ない。この文章から情報を得る、という直なる経験とは身体的に言えば、文章を読んだ、ということだけである。夢を見ている。しかし彼は本当は眠っているだけなのである。
眠っているだけなのであるのにも関わらず我々は夢を見るのであり、そうして見ている最中にはその内容を自らへと恰かも体験させている。率直に我々は、夢を見ながら眠ったという経験としてだけで、これを語ろうとするのでは屡々ない。夢を見た。それが経験化をされるのであり又、束の間の夢を生きた、それが見た者の実人生の内へ経験として模造されるのである。
世人の見知らぬ物事の無数に晒されている我々は、同時にこれへと相対している。未知なるものは、未知であるというその為に必ず直なる経験なのではない。この文章に於ける言葉に拠れば、言葉の持つ情報が真に直なる経験へと寄り添うのである場合、私はこれを書いている、ので有り且つ、あなたはこれを読んでいる、のでしか有り得ない。情報とは意味の集積である。意味とは言葉の意味である。
しかし直なる経験へと言葉の寄り添う為に随時選ばれるそれが、ただに現在的遂行をされている行為をだけ告げるものであるとするのなら、それは偽りである。確かに、言葉には、直なる経験が存在している。ただに読文という行為の遂行裏に、ただに作文という行為の遂行裏に、我々は響きを見出だす。たとえ言葉に於ける意味とで相反をしようとも、言葉に於ける響きは各人の直なる経験を伝えるのである。
嫌い、という言葉の意味がある場合に反って、好き、であるという転換を為すということは有り得ない。それは、嫌い、の意味が共同体の多数者によって、好き、の意味に用いられることで、一般的使用法として暫定せられたその場合にのみのことである。いずれにせよ当人は、そうなったのならばそうなったで、彼へと、好き、と言伝てるであろう。だが本当の心は嫌いなのだ。無論、現状に於いては、好き、と、嫌い、との意味反転は一般的暫定せられていないところのものである。そうした時、彼女の、或いは彼の、嫌い、を受け止める彼や彼女が、その一言を以て関係を先へ進めるといったような決意を胸にするのであるのならば、それは、嫌い、という語に表れた明らかなる響きの為に、彼らをうち震わした、それ故にのことである。
意味を積み重ねてもそれは本心には成り得ないのだ。心を見せて欲しい、という時に心の一つ一つを丹念に説明してみせたのだとして、それでは何ごとも間に合いはしない。
いずれ又、改めて考え直す時が来るのかもしれない。




