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完全にこれはつまる所のいわゆる日記  作者: サケ・ノメナイ
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パンの夢と歯科医院、そこで削り取られた歯石片、血、それらに就いて

 上記のタイトルを前提に、そんなことに就いても仕方がないのだが、書きたい気分であるからただ書かれるという文章が下記である。



 しばしば思われる。つまり、私はしばしば思う。夢の内容を思い出すことと、現実の内容を記憶の内に思い出すことと。それらに因って実際に思い出されて来る画というものは、画として差分のないものであると。夢は記憶の混成であろうから、それは無理のない話である。  

 しかし今しも思い出している画が、夢で見たものか、現実で在ったものかの分別は付く。何故なら、夢を見るということはつまり、うつつでは眠っている。その眠っているといううつつに、夢で見た、と思い出される分別の根拠がある。  

 夢ばかりではない。小説もそうだ。小説を読むときに人は普通、なにがしかの叙述から画を想起する。これは、小説を読んでいる、という現実の状態が分別の根拠となっている。  

 人の語る話からも画は想起され、その場合、人の語る話を聞いている、という現実の状態が仮想との分別を自ずとする。自ずとするのである。自ずとするものの何かを更に問わば、それは身体であろうと私は(にわかに養老孟司のように)答える。


 ところで夢が夢を見る者に与える幻の感覚は視覚だけではない。私はパンを買うために入り組んだ街並みをさまよっていた。パンをたらふく食べるつもりだった。そのせいで糖質が気になってしまい、パンおいしいけどいっぱい食べたら太っちゃうなぁ、いやだな怖いなぁ、と罪悪感を抱いていた。目一杯食べたいのだが、同時に気が引けてもいる。食べるは確定で、それも死ぬほど食ったんねん、と欲望しながら、いやしかし君、肥えるで、と立ち止まらせたい抑制もが働いた。そうした私の気の迷いに応えるかのように、狭苦しく高低差の激しい街並みは非常に入り組んでいて、私はそこをさまよい続けるしかなかった。このとき私は浮いていた。  

 浮いていたのは身体である。さまよう身体が浮いていた。浮いていると感覚した。私は現実にはからだを浮かせたことなどない。にも関わらず身体がわずかに浮いているというその感覚を夢で実際に味わった。これは一体どういうことだろう。  


 不思議ですねぇ。   


 不思議ですが、おそらく身体には、あらかじめ未知の状態への想定があるのではないかと思われる。そうして、その想定範囲が、実際に起こって来る未知の状態への適応範囲とその速度とに関わるのではないかと思われる。  

 想定ということがあって果たして現実に見舞われたとき、想定をしていた人の適応速度はそれで早まるだろうか。これは往々にして逆で、むしろ遅くなるだろう。何故なら人は、未来をそれほど上手くは想定出来ないからである。つまり街をさまようとはいえ、自らの意思に因り前進することの出来る身体の浮遊という魔法のような不可能が、うつつに於いて可能となったそのときにもたらされる実際の身体感覚は、夢に感じたものとは全く別のものとなるのではあるまいか。しかし人は、宇宙へ飛び立ったりなどをして無重力を身体へと知らしめたその以上、浮遊の状態は既知ではあるが、だが何か装置を取り付けたりなどもせずして、浮いたまま、ただ前へと進みたい意思で身体をそうして進行させるというような魔法の領域へは、現実では決して至り得ない。  

 私はここで、急に翻して思うのである。現実には決して起こり得ないそれが、決して起こり得ないという100%の否定をむしろ必要な前提としながらしかし現実にはそれがそれでも起こってしまったという場合に、夢の感覚はついに正しいものとして私に抱かれるのだろうと。  


 怖いですねぇ。  


 怖いですが、怖いというのは、色々と怖いのだろうという察知が自ずとあって、そう言うのである。 


 これで昨晩見た夢には就き終え、この段は従って終わる。この段に於いて私が言いたかった可能性のあることは、人は、それが叶おうが叶うまいが、未来を希求するものだ、ということである。パンを食べたい、は欲望である。夢を見ないくらいに深く眠りたいということも欲望である。す、スぇ、セーーックスっ、も欲望である。凡そ三大欲求として全面に出張って来るそれらは大事かもしれないが、人間それだけではないだろう。人間それだけでは、余りにもないだろう。つまり私は、動物的な人間の身体もが公に資する未来を希求する、かもしれないということを言いたかった可能性が、マジで信じられないのだが、以上の文章に僅かにもあったのか?信じられないことである!!

 


 上記のような夢から覚めて9時。  

 10時に歯医者である。  

 本日は歯石を取るということで、歯石を取る動画を私はあらかじめにYouTubeで見ていた。それは今年一番に見なければ良かったものの一つとなった。

 それは今年一番にしなければ良かった予習であった。予習と言っても歯石を削り取るのは歯科医の方である。私の方はされるがままだ。だから予習と言うのは不当であるが、自分の口の中がそれをして実際どういう状況になるものかを知るということ、それ事態は一つの学習と言っても差し支えはないと思う。差し支えがあるとすれば、語義的にあらかじめの"予"にそれがある。しかし、あらかじめ、と私は確かにそう思いつつそれを見た。そうして見たことを後悔した。何故なら、思った以上に血で真っ赤だったからである。 

 歯石で幅取られた歯茎の肉が内側の湿ったところを露にしているのが無性に痛々しい。本当に見るべきでなかったと思いながら、私は全裸になった。私はそのまま外に出て、歯医者へと向かっていない。寒いからだ。服を脱いだのはシャワーを浴びるためである。

 シャワーを終えて、それから外へ出た。ぬぐいそびれた小さな水の玉が、風に吹かれて太股や尻をつぅと撫でていない。服を着てから、外へ出たからだ。服を着て、寒いから更にコートを着たのだし、禿げているからニット帽だって被ったのだ。それから外へ出たのである。9時50分。  


 世田谷はゴミの日である。カラスがそぞろ気を装って、青いネットの被さったゴミ袋に狙いを定めている。   


 歯医者の待合室には、正面置きの雑誌棚がある。その内に、コロナは概念、のようなタイトルをした漫画が置かれていて、私はそれを以前の診療の際に手に取って読んでみたことがある。一連のコロナ騒ぎを揶揄するような内容の漫画である。四コマ漫画である。風刺的な笑いの漫画という訳だ。私はしかし笑いの裏にこれを発刊せざるを得ない心の音の叫びを聞く。また、これを棚に置いているという事情から先ず歯科医院の心の音にも同様の叫びを聞いている。考えてみれば、歯科医院のように患者の口を馬鹿みたいに開かせないといけないような場所では、コロナ禍など堪ったものではないだろう。  

 9時54分。診察台に座るとき、正面に据え置かれたCDプレイヤーの表示にいつも見る時間である。10時の予約であるから当然だ。はじめますよ、と言われ、メガネを外し、マスクを剥ぎ取り、ズボンを脱ぐと診察台が倒れて行かない。そうして施術が始まらない。ズボンをまで脱いでしまった場合にはそうなるであろう。実際には診察台は倒れ、施術は始まったのだから、ズボンは脱がれていない。  

 あらかじめに述べた通り、私は歯石取りの動画をあらかじめに見ていたので、あらかじめに期していたのは超音波による施術であった。超音波て、超絶な音の波でどないして歯石が取れるねん、と私は感想したものだった。が、天仰ぐ私の視界に映って来たものは、釣り針のような原始的な器具だった。


(見たことないやつ!俺のあからじめがここへ来て完全に無意味!つまり死ぬっ)


 と私は全身にじわりと滲む嫌な汗を感じながら、身を硬直させた。釣り針が歯の隙間に引っ掛かって来る。かりかり、くっ、となって、こりっとなった。次いでかりかり、更にかりかりとする内に、ずちゅっ


(はい出血)  


 痛みと共に歯茎が少し濡れたのが判る。しかし私もその端くれに居りながら漢というものではある、とふと思われ出したのだ。ボギー、おれも漢だ、というくらいの痛みに堪える辛抱が、自らの性の男性であるということを拠り所ともせねば堪え得られぬ弱さをむしろ証しているものか。いや、マジでどうでも良い。  

 くっ、きっきっ、ぺっ、というふうに、どうやら歯石は取れている。しかし未だ下の前歯でだけですり減りそうな耐久神経に、呼応をするかのような口全体は微弱に閉ざしかかっている。なにくそ、なにくそだよ、ボギー即ちカサブランカでのハンフリー・ボガート、乃至はキー・ラーゴでのハンフリー・ボガート。でも黄金だとかアフリカの女王だとかでのボギーであったら、いてててっ、ってふつうに痛覚反応しちゃうんじゃないかなぁ、などとさまざまに思いをこそすれ、錐のような持ち手をして釣り針のような先端を持った器具は、私の心を知らずとばかりに繰り返し歯の隙間を目掛け、歯石に埋まったそこを歯間本来的な隙間とする善意のためにもずっと、かりかり、こりこり、くっ、ぺっぺっ、とほじくりやり通すその内には、いずれ、ずちゅっ、と肉の隙間へ鋭利なその先端を潜り込ませて来るという次第である。つまり全身は痛い、怖い、ということだけが胸に募って硬直をした惨めさで、逃げ出したいのに逃げ出せない。だから私はここは発想の転換で、むしろもっと歯肉をぷちぷちにいたぶってくれというマゾヒズムを胸に偽り、痛みと恐怖とをそうして喜びに変えてしまおうとさえしたのである。  


 ちょっと泣いちゃった。  


 釣り針が終わると、そこで超音波であった。しかし大方の戦果は釣り針に因って上がったのである。超音波は各歯間地帯を居残るごく一部の歯石残党へと掃討戦を開始した。それも程なくして終え、あとは歯間ブラシに因る掃滅確認の作業、次いでようやく何か癒し的な薬の塗布が行われ、診察台が持ち上がって来た。頭上に待ち構えていた医師は言う。舌で触ってみてごらんなさい、今は違和感を覚えるかもしれないが、本来歯間というものはそれだけ互いとに距離を持っているものなのです、と。


「もう二度ごめんだね」  


 仮に私はそう言った。


「たとえゴミみたいなものでも、歯同士が時ともに積み上げてきた親密の営みを、おれは台無しにしたんだ。誰が歯と歯との個別で、接触的な、オフラインの友情を引き裂きたいものだろうか。国家とは何かね。大衆衛生が、それの為にどぶ臭くも肩組み合った歯々に勝るとでも言うつもりか。コロナになって、会うことのなくなってしまった人がおれにだってある。彼らとの間に堆積し続けさして来たゴミのようなやり取りはそれでもおれたちだけの固有な友情だった。それを引き裂いて来る社会的距離の社会とは、一体誰のための社会なのかね。衛生だけが価値なのか。違うだろう。おれは歯の人たちに謝りたいよ。今はただただそういう気持ちでいる」  


 と、私は続けてそう仮に言ったのだった。すると仮に歯科医は、そうだそうだ、と言って、器具を置く台上に散らばった私の血まみれの歯石片と掴み取る。すると様子を一変せしめ、それならこれでも食らえ、と仮に激昂すると、私の口の中へとそれを突っ込もうとした。仮に私は、つい日頃の習い性から、歯科医が私の口へと目掛けて来る以上は閉ざしているべき口などない、と直ちに思われ、はいっどぞっ、とばかりにそこを開かしてしまったのだ。ずんも。  

 そうして仮に舞い戻って来る歯石片どもは、何故か、もう昔の歯石片などではない。あの親しみ合った彼らではもうない。別たれ、ばらばらとなった挙げ句、も早互いが互いに他人であるというだけの寂しい涼しさ。それが歯間を吹いて行く私の生の温かな息吹きによってのみ感覚せられる寂寞なのだった。  

 仮にそうだった。しかし実際には私は、もう二度ごめんだ、とは言っていない。従って、その言葉以降に連なる全ては無論のこと仮であり、偽であり、真でない。歯間の違和感のことを言われて、実際には私は、


「いやぁ、そうっすよねw毎回やってもらうたびにどんだけ空いてんだって思うんでwいや、でも、これが通常なんですよねぇ」  


 と、どんだけ空いてんだ、がちょっと否定のニュアンスが強く出ちゃったかな、と気にして、でもこれが通常云々と、しまいにフォローをするようなことをまで言った。これが真である。  


 代金の支払い時には、歯みがき粉をついでに購入した。行き掛けに丁度、歯みがき粉を実際に切らしていたので、これは歯みがき粉を補充するために買ったのだと言える。しかし一方で、何か一つ、と思わないでもない心が私にそうさせた。  

 歯石取りは、歯周病予防のためにされるものである。私はそのように知っている。歯の健康を怠って来たその痛切な結果を私は以前、思い知らされた。歯石取りも、歯石がどうしても付くようならやっておいた方が良いと思う。人の苦しみのさまざまにある中、歯に因る苦しみには死に瀕するようなものも存在している。そんな経験を人はあまりしないだろうか。私には他人の苦しみを直に知る由もないが、個人的な経験に則して言えば、歯の不健康で死に瀕する苦しみはこの世に、ぜったいに、存在している。だから私は歯を蔑ろにはせず、是非とも人は歯医者に掛かって、その健康を保つように努力をすべきだと言いたい。それというのも罪悪感からであろう、何せよ仮として言ったことにした偽である言葉は、腹の底では仮でも偽でもない、真に思われたことであったのだから。


 10時30分。歯科医院を出て最初の裏通り。浅く掛けられたネットを取り除いて、カラスが既に一頻り漁ったゴミを、もっと小さな鳥が啄んでいる。 


(百舌鳥だ)


 と思って今、調べてみたが色がやや違うようである。頭部ももっと小さかったような気がする。従って、


(百舌鳥っぽい何かだ)


 とあのとき思っていれば、鳥の種を思うのに正確性としては妥当だったように感じる。

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