第百十二話 岩村城攻防戦 その七
美濃国 恵那郡上村 岩村城城下 秋山伯耆守虎繁
「何事じゃ!?」
岩村城の城下に陣を張って既に十日を過ぎ、その間に二度に渡り城攻めを行ったものの、城方が用いる火縄と弓による攻撃で儂らは後退を余儀なくされた。
これまで火縄を用いる敵方を相手に戦をしたことはあるものの、此処まで数を揃えて運用してくる敵は初めてであった。
これまでの火縄に対する認識は、『甲冑を貫く威力はあるものの初弾を放って後に次弾を放つまで準備に時間が掛かり過ぎて戦場では役に立たぬし、鉛玉と火薬に銭が掛かるため数を揃える事は困難である』と言うものであった。
ところが、岩村城に籠もる織田方は数多くの火縄を用意し、撃ち手が代わる代わる入れ替わる様に間断なく鉛玉を放ち続ける事を可能として見せ、火縄が備える威力を遺憾なく発揮して見せた。
二度の後退により、儂と三郎兵衛尉殿は無策のままで城攻めを敢行する事は兵の損耗を増やすだけで岩村城を落とすことは出来ないとの判断に至り、火縄から放たれる鉛玉を除け兵の損耗を抑える策は無いか探ると、三ツ者の中から織田と六角が伊勢の長野氏と北畠氏を降した戦の中で、長野氏が籠もる安濃津城と対峙する織田と六角に対し背後から北畠が攻め寄せた際に、北畠が放った火縄の鉛玉を除ける為に青竹を縄で纏めて縛り束にした物を用いたとの話があると報せて来た。
青竹を束に纏めたもので鉛玉を除ける事など…と一笑に付しようとした儂に対し、三郎兵衛尉殿は『物は試しにやってみてはどうか?』と言い出した。
仕方なく周囲にある竹林から真竹を切り出し束ねた物に我らが保有する火縄で試してみると、驚いた事に火縄から放たれた鉛玉は竹の束に当たると竹を貫く事無くその表面を滑ってあらぬ方向へと飛び去って行った。
この結果に、儂らは周囲の竹林から多くの真竹を切り出すと、身の丈ほどの長さに切り揃えて人が一人隠れるほどの太さに束ねた物を百余り作った。
竹の束を用意している間に、三ツ者によって国元より報せが届いた。遂に、本願寺が動き越前・長島・加賀そして越中で一向門徒による一揆が起こり、長島が起こした一揆軍は対岸に尾張へと乱入し、織田弾正忠殿の実弟・彦七郎信興が城主を務める小木江城を囲んだという。
この一向門徒の動きに対して織田弾正忠は、尾張・美濃の事は嫡男・勘九郎信重に任せると自身は加賀へ森三左衛門の援軍として飛騨から加賀入りしたという。
本国を任された勘九郎信重は長島から尾張の国境を越えて一向門徒が乱入したとの報に即座に軍を起こし、一向門徒と対峙する小木江城の彦七郎信興の下に進軍したという。
小木江城を囲む一向門徒は先年、同じ様に尾張に乱入した一万を超え一万五千余りと、岩村城を囲む我ら武田方の倍する兵数であった為、小木江城の救援を先にと考えたのやもしれぬ。
されど、この報を岩村城に籠もる者らが耳にしたら如何に思うであろうか?
今はまだ城下に施された防御陣が健在であり、我らと伍して行けると思うておるであろうが、その頼みの綱である防御陣を抜かれて同じ様に虚勢を張れるのか?
いざ、目の前に我ら武田の兵が迫った時、岩村城への援軍は後回しになれたと知れば城に籠もる兵の士気は落ち、降伏へと気持ちが傾くことになるであろうことは容易に想像できた。
城方が頼みとする火縄への対策が整った時にもたらされたその報せで、儂と三郎兵衛尉殿は“時は来た!”と、総掛かりによる城攻めを決したのだ。
城攻めは早朝より先ずは先の二度と同じように矢楯を持つ兵を前に出し城方が馬防柵などで築いた防御陣に迫ると、前回と同じように弓矢が上空より殺到してきた。
城方の矢を矢楯で受けると、素早く竹の束を抱えた兵が矢楯を持つ兵を追い越して防御陣に近付く。その動きに合わせて城方は火縄を放ったが、城方の鉛玉は竹の束を貫く事無く表面を滑っていった。竹の束によって城方の火縄を無効にし、竹の束を抱えた兵は防御陣を構成する馬防柵に肉薄し、次々と柵を引き倒した。
この動きに城方は慌てて後退をはじめ、後方に築いた別の柵へと移動して再び火縄を放ってきたが、我らは百を超える竹の束を用いて城方の鉛玉は除け次々と防御柵を突破し、岩村城がある山の麓にある遠山家の館にまで兵を後退させることに成功したのだ。
僅か一日で、これまで攻めあぐねていた城方の防御陣を抜き、館に迫った事で我らは一時の留飲を下げる事が出来た。
そして、これまで防御陣に詰めていた城方の兵が籠もる遠山家の館へ攻め込む檄をとした正にその時、突然、山の上に築かれた城から火縄の何倍も大きな砲声が轟いたのだ。
その音に思わず声を上げる儂に、周りに居た者達も右往左往するばかりであった。
美濃国 恵那郡上村 佐々内蔵助成政
「来たか。者共、左京進殿からの合図じゃ。一気に押し出せぇ!!」
岩村城から上がる砲声に氏家貫心斉卜全殿が声を上げると、稲葉三位法印一鉄殿、安藤日向守守就殿も配下の兵に対して同様に下知を下し、まるで争うように(否、実際には功名を巡って争っていたのであろう)岩村城の城下に敷かれていた武田方の陣屋を蹂躙し、その勢いのままに岩村城の城下に布陣していた武田勢を背後から急襲した。
武田方は、尾張に乱入した長島の一向門徒が囲む小木江城の援軍に岐阜城の勘九郎様が兵を率いて美濃を離れたとの報せを耳にしている筈であり、岩村城は孤立無援。織田の援軍が来るとすれば小木江城を囲む一向門徒を降して後のことであり、岩村城を援軍が到着する前に降さねばと遮二無二に城へ攻め寄せ、城下に施された防御陣を抜けて遠山家の館まで城方を押し込めたと思っているところで背後からの急襲に完全に浮足立っていた。
しかし、流石は戦国最強と呼声高き武田の武士。将と思われる者の檄に正気を取り戻すと兵の損耗を出しながらも朱色の鎧を纏った“赤備え”の兵たちを中心に体勢を立て直し、氏家殿をはじめとした西美濃の三人衆が率いる兵と互角の攻防を展開し始めた。
もしこれが、対峙した西美濃の兵だけであったならば、武田方も抗しきれたかもしれない。
しかし、西美濃の兵に対して武田方が体制を整えたのを見計らい、親仁様が予め下知された通りに遠山家の館に籠っていた又左衛門率いる織田の兵が打って出て、“再び”武田方の背後を急襲したのだった。
しかも、又左衛門の動きに合わせ岩村城から親仁様率いる岩村城の城兵までもが武田方に襲い掛かったのだった。
美濃国恵那郡上村 岩村館前 山県三郎兵衛尉昌景
「三郎兵衛尉殿!」
岩村城の城下に施された防御陣を抜け、城兵を岩村城の登り口にある遠山家の館まで押し込め、漸く城攻めの目算が就くかに思われた時、山の上に在る岩村城から大きな砲声が轟いたのを合図に何処に身を隠していたのかは分らぬが、織田方の新手約五千が岩村城の城下に姿を現したかと思うと、遠山家の館前に布陣する我らへ押し寄せて来た。
突然現れた新手の敵兵に、僅かの間混乱を来した兵達であったが、日頃からの薫陶を忘れていなかったと見えて儂の一喝で正気を取り戻し、“赤備え”の兵を中心に防戦に当たり何とかこの場に踏み留まる事が出来ていたものの、新たに現れた織田勢の動きに呼応して館まで引いていた城兵が再び息を吹き返し、館から打って出て伯耆守殿の軍に襲い掛かり更に山城に籠もっていた筈の城兵までも山を下り押し寄せて来た。
その動きは明らかに示し合わせていたと思われる動きであり、此処に至り我等は織田方と岩村城の城代・柴田左京進勝家の術中に陥っていたのだと気付くに至った。
御屋形様から軍を預けられ此度の岩村城攻めに参陣したにも拘らず、敵の術中にまんまと嵌まってしまった己の不甲斐なさに歯軋りをする思いでいる儂の名を呼ぶ声に視線を上げると、山から下って来た城兵の猛攻に防戦に当たっている筈の伯耆守殿の姿が其処に在った。
「伯耆守殿、如何され・・丁度良い、このままでは我が方は前後から挟み撃ちによって磨り潰され瓦解するは必定。我が赤備えが血路を開く故、落ち延びて再起を図られよ!」
儂はそう伯耆守殿に策を口にすると伯耆守殿は首を横に振られて、
「落ち延びられるは三郎兵衛尉殿が宜しかろう。此度の岩村城攻めの大将は某にござる。その某が三郎兵衛尉殿を差し置いて落ち延びる事など出来よう筈もござらぬ。もし、その様な事をすれば儂は武田家の武将として面目を欠くこととなり申そう。忝き事ながら、殿は某にお任せいただきたい。」
「し、しかし伯耆守殿は南信濃の要。今、伯耆守殿を失う事になれば南信濃の国人共が蠢動する懸念がござる。伯耆守殿には相済まぬ事ながら、武将の面目よりも南信濃の国人を蠢動させぬ事の方が肝要ではござらぬか?!」
「いや、某がこの地で命を落とそうと南信濃の国人は四郎(勝頼)様が居られる限り蠢動する事はござらぬ。それよりも、今三郎兵衛尉殿を失うが上洛の途に就かれる御屋形様にとっては大きな痛手となりましょう。この場は儂に任せて三郎兵衛尉殿は一旦この地を離れ、木曾左馬頭殿と共に信濃から織田方を牽制していただきたい。
間もなく御屋形様は遠江に入られ浜松に居る三河守と相見える事となろう。今ならば岡崎の次郎三郎が援軍として駆け付けようとも、御屋形様なら如何様にでもなりましょう。然れど、織田の兵まで来る様な事になれば幾ら御屋形様でも危うき事になるやもしれませぬ。それだけは何としても防がねばならぬ事は三郎兵衛尉殿ならば御解りの筈。
その為には、儂ではなく木曾左馬頭殿を動かす事が出来る三郎兵衛尉殿でなければならぬのでござる!」
そう告げた伯耆守殿の言葉に儂は何も返す事が出来なかった。
伯耆守殿の申される通り、御一門衆である木曾左馬頭殿を動かすとなると甲斐を離れ長らく南信濃に居られた伯耆守殿よりも、御屋形様の近習を務め山県の名跡を与えられた儂の方が容易いやもしれぬからであった。
その考えが顔に出たのか、伯耆守殿は儂の顔を見て表情を緩めると、
「儂が血路を開く故、三郎兵衛尉殿はその道を一気に抜けよ。後の事はお任せいたす!」
そう言い残し己が軍勢の元に戻られると、即座に檄を飛ばし新たに現れた織田方の軍へ突撃を掛けて囲みを崩し、儂らが岩村の地を離れるまで鬼神の如き武威を振るい甲斐武田の武を見せつけた。
伯耆守殿の御働きにより、儂と“赤備え”の山県隊は千に満たぬ脱落者を出したのみで、岩村の地を離れる事となったが、伯耆守殿の秋山隊三千の内生き延びたのは三百余りであり伯耆守殿も壮絶なる討ち死にを果たしたという。
儂はこの事を既に上洛の途に就かれているであろう御屋形様の下へ報せを走らせると共に、伯耆守殿の遺訓となった木曾左馬頭殿を動かして美濃の国境にて織田勢の牽制に全精力を傾けたのだった。
次回の更新は、確定申告や諸々の事務作業を終えてからになります。
暫し更新をお休みさせていただくことになると思います。お許しください。
予告。
次回は閑話を挟み、三河遠江(三方ヶ原の戦い)へ移って行きたいと思っています。




