表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

112/147

第百十一話 岩村城攻防戦 その六


美濃国恵那郡上村 岩村城 柴田左京進勝家


「申し上げます!佐々内蔵助殿より報せが届きましてござります!!」


「申せぇ!」


「「準備万端整い、後は親仁様からの合図をお待ち申し上げる。」との事にござりまする。」


「相分かった!下がって休むが良い、大儀であったぁ!!」


「はっ!!」


武田方が城に攻め入ろうと城下の防御陣に迫ってより既に十日が過ぎていた。

この十日の間に、武田方は二度にわたって攻め寄せて来たものの、又左衛門の指揮の下に施された右衛門尉殿直伝と言う馬防柵などによって構築された防御陣は武田方を寄せ付けず、弓矢と火縄による間断ない攻撃によって武田方に多くの出血を強いて二度とも後退に追い込んだ。

その後は武田方も闇雲に防御陣に対する様な事はせず、何かしらの対抗策を準備しているのか、将又何かしらの動きがあるのを待っているのか防御陣から半里程離れた場所に陣を敷き、鳴りを潜めていた。

もっとも、武田方が何を待っているのかなどは先刻承知ではあるのだが。

何せ、武田方が城下に姿を現した頃には第一報が既に儂の下に届いていたのだから…。


『一向門徒、動く!』。

兵庫頭様配下の伊賀衆が探り出した報せは山の民(小源太・九兵衛)によって届けられていた。

報せに寄れば、越前・長島に続き加賀でも一向門徒が本願寺の坊主どもに唆されて一揆を起こしたとの事であった。

この動きは事前に兵庫頭様から警告を受けていた為、越前では朝倉家の加勢に浅井備前守様が既に動いており、加賀では森三左衛門殿の加勢に弾正忠(信長)様御自ら配下の母衣衆を従えて加賀入りされておられた。

しかし、加賀での一向門徒の動きは極少数であったようだ。これには加賀を任された三左衛門殿の働きによるものであった様だ。

三左衛門殿は真宗(浄土真宗)を信心されており、越前の朝倉家に対して一揆を起こし越前の吉田御坊跡に留まる一向門徒を除き越前に住む門徒は勿論の事、加賀の尾山御坊に籠もり信長様に反抗した一向門徒に対しても苛烈な仕置きを科すことはせず。統治に当たり武具の放棄は迫ったものの改宗・棄教を求める事も無く、納める事を求められた年貢も驚くほど少なかったことで加賀の民衆の間では『本願寺のお坊様よりも織田家の三左衛門様に治めていただいた方が・・・』という考えが広がり、本願寺の呼び掛けで一揆を起こそうと動いた者は少なかった。

結果、一揆の軍を起こした者は本願寺派の僧侶が大半であり鎮圧するのは雑作もなく、あまりにも簡単に事を収められたことで弾正忠様は苦笑されておられたほどだという。

この加賀での動きに驚いたのは加賀へ軍を率いられた弾正忠様だけではなく、越前で一揆を起こした一向門徒たちの方が大きかったらしい。

先に起こした一揆によって越前の吉崎御坊跡に新たな拠点を確保した一向門徒たちであったが、本願寺からの指示で再び一揆を起こしたものの当てにしていた加賀からの増援は全く見込めず、堅田に在った本福寺を叩き潰した事で自領での一揆の心配が無くなった浅井備前守殿が兵を率いて朝倉家への加勢に入った為に、劣勢に追いやられる事となった。

しかも、先の一揆で吉崎御坊跡に拠点を築くことを朝倉家から引き出し講和を結んでおきながら、一方的に一揆を起こしたために朝倉左衛門督殿の怒りは大きく、吉崎御坊跡に籠もる一向門徒の根切り(皆殺し)も辞さぬと息巻いているとのことであった。

蛇足ながら、加賀で本願寺派の寺院の坊主どもが一揆を起こすのと前後して、越中でも一揆の動きがあった様だ。その為、弾正忠様と三左衛門殿は加賀での一揆を鎮圧した後は越中で起こった一揆が加賀に乱入してくる事を恐れていたが、この動きは上杉不識庵殿率いる越後勢の動きによって杞憂に終わった。

不識庵殿の動きは弾正忠様が事前に話を通してあった事ではあったが、不識庵殿からは確とした返事があった訳ではなかった様だ。

だが、蓋を開けてみれば越中の一揆勢が加賀へ食指を伸ばす動きを見せた途端、それを待っていたかのように不識庵殿率いる越後勢が一気に南下し、武田徳栄軒殿に唆され一向門徒と通じ不識庵殿に反旗を翻した椎名右衛門大夫康胤の居城・松倉城へと襲い掛かったとの事だ。

 とは言え、岩村城に直接関係のあるものではない北陸の動きは此処までとして、関わりの有る長島の願証寺が起こした一揆の動きであるが、事前に兵庫頭様から警告されていた事もあり、小木江城の彦七郎様と右衛門尉殿による守りの構えは万端整えられており、更に『長島の一向門徒、乱入』の報せを聞いた勘九郎様が丹羽五郎左衛門と池田勝三郎を伴い援軍に向かっているとの事であった。

織田家にとって本貫地である尾張を一向門徒に蹂躙される訳にはいかないとの御考えによるものである事は明々白々。

されど、武田の軍と対峙している者からすれば由々しき事態である。何故なら、いの一番に岩村城の援軍として動いて下さると思われていた勘九郎様が、尾張の小木江城の援軍に向かわれてしまわれたのだから。

今や岩村城が孤立無援の状態。城を攻めあぐねている武田方からすれば、背後から織田の援軍が来る心配をせずに城攻めに注力出来る絶好の好機が到来したと思っておるやもしれぬ。

しかも、織田の援軍が来ない事を城方が知れば士気は下がり、より一層攻略が容易となる。上手くすれば城方は早々に降伏し岩村城がそっくりそのまま手に入る可能性まで…と小躍りしておるやも。

仮に儂が武田方を指揮する者であったならば、此処までお膳立てが整ったのならば、この機を捉えて総攻めを行い目の前の防御陣を抜いて城に迫れば…と考えるであろう。

 織田憎しと本願寺と武田徳栄軒殿を結び付け、武田家の上洛に合わせて一向門徒に各地で一揆を起こさせると言う策を考え付いた事は大いに誇っても良い事であろう。

ただ、その実行においてその策が儂らに筒抜けになるようでは、幾ら上策を思い付こうとも下策へ落とすようなもの。

孫子の言葉に『知り難きこと陰の如く』とある、甲州透破・三ツ者を使う徳栄軒殿であれば重きを置かれているであろうことは間違いないが、残念な事に武田家は組む相手を間違えたとしか言いようがない。

その事をこれから身を以て知る事になるであろう城下に構えられた陣を見ながら儂は敵である筈の武田方に憐憫の情を抱かずにはいられなかった。 


 翌日、城下に布陣していた武田方は三度動き始めた。

これまでは、矢楯を構えた前衛の後方に長柄槍を掲げた足軽隊、騎馬隊が続くのだが、此度は前衛に矢立を構えた兵を配しているのは同じであったが、矢楯を持つ兵に続くのは何処からか刈り取って来た青竹を身の丈ほどの高さに揃えて束にした物、安濃津城攻めの折、織田・六角連合軍の背後から攻め寄せて来た北畠軍と対峙した際に兵庫頭様が用いられた“竹束”を抱えた兵であった。

竹束は安濃津城攻め以降、織田家をはじめ六角家や浅井家などでも戦の際に鉛玉を除ける為に用いられる様になっていたため、何れは他家でも使われる様になるであろうとは思っていたが、この岩村城攻めで武田方が用いてくるとは考えておらなかった。

もっとも、竹束は火縄から放たれる鉛玉除けには効果を発揮するものの、火矢には弱いという欠点があり。織田家家中では火矢にも強い竹束をと、竹の節を抜いて中に泥や粘土を詰めた物を束ねた竹束が考案されているが、武田方の兵が軽々と竹束を持ち運んでいる姿を見るに、そこまでの工夫が重ねられた物ではない事が見て取れた。

とは言え、此度はこちらが思い描く思惑もあるため竹束に対して火矢を用いる指示は出さなかった。


 城下の防御陣に対して矢楯と竹束を用いた武田方は、又左衛門が差配する弓隊と鉄砲隊が放つ矢と鉛玉を除けてジリジリと迫り馬防柵を排除すると後方に控えていた騎馬隊が一気呵成に防御陣へと雪崩れ込んできた。

武田方の動きに対し、又左衛門は敵の出足を鈍らせるために矢と鉛玉で防御陣内に雪崩れ込んできた騎馬隊を攻撃し、兵を後方へと徐々に下げてこちらの兵の損耗を抑えつつ敵の出血を強いた。

それでも、武田方の勢いは凄まじく、防御陣を抜けて城下の町人街にまで入られ又左衛門は遠山家の城下屋敷まで後退した。

それを確認し、儂は使い番に下知した。


「今じゃ!合図を上げよ!!」


「はっ!!」


儂の下知を今か今かと待っていた使い番は、即座に城の一角に向かい火縄よりも大きな砲声を天高く響かせたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ