第百八話 岩村城攻防戦 その三
美濃国 恵那郡上村山中 山県三郎兵衛尉昌景
「三郎兵衛尉様!」
「またか。おのれぇ…敵の所在は掴めぬのかぁ!」
「はっ、秋山十郎兵衛殿が配下の忍びに探らせているのですが未だ。襲撃の際に物音一つ無き所より矢が放たれる為、お味方を矢が襲うまでは敵の所在が分からず、襲撃者の後を追おうとするのですが移動の際の鎧が擦れる音一つ無く、足跡を追ってもいつの間にか消えてしまう有様にて…」
「っく。このままでは岩村城に辿り着く前に多くの兵を失う事になりかねぬ。何としても敵の動きを掴むのだ。急げぇ!」
浪合の関所を発ち美濃の国境を越えて一路岩村城へと進む我らが美濃の山中に分け入ると、それを待っていたかのように敵からの襲撃を受ける様になった。
ただ、襲撃と言っても僅かな弓矢による物であったため初めの内はそれほど気にも留めていなかったのだが、それが幾度となく続くと次第に兵たちの間に『次は自分が山中から放たれる矢の餌食になるのではないか』という恐れが広がり見逃せぬ状況となっていた。
儂は伯耆守殿と謀り甲州透破・三ツ者の組頭を務める秋山十郎兵衛に周囲を探るよう命じたのだが、その後も一向に襲撃は止まず由々しき仕儀となっていた。
甲州透破・三ツ者は天文十七年に北信濃を治める村上左近衛少将義清との戦で大敗を喫した御屋形様が、その戦を省みて心血を注いで造り上げられた忍び衆であった。その後、三ツ者の忍び働きにより敵方の動きを事前に掴み、敵に先んじる事で多くの戦に於いて勝ちを収めて来た。
此度の上洛に先立つ美濃攻めに際しても、何組かの三ツ者を預けられていたのだが信濃と美濃の国境を越え岩村城に向けて山中を進むにつれて、偵察のために先行させた三ツ者との連絡が取れなくなり、行軍の随所で少数の手勢による襲撃を受けるようになった。
初めの内は襲撃と言っても行軍中の隊列に十から数十程の矢が放たれると言ったもので、兵の損傷も軽微な物であり、放たれた矢の長さから敵は携帯が容易で山の中でも動きの支障が出ない短弓を用いていると考えられた。矢の長さから考えられる短弓の射程距離から敵の位置を推測したものの、敵は矢を放つと即座に撤退し身を隠してしまうのか、敵兵の姿を捉える事が出来なかったため深追いはせず、そのまま行軍を続けていたのだが、襲撃の回数が増えるにつれて兵共が浮足立ち、思う様な行軍を続けられなくなって来ていた。
勇猛果敢で知られる我が山県隊は足軽から騎馬武者まで鎧を赤一色に統一した“赤備え”。
そんな我が隊であっても足軽が纏う鎧は簡易な物で、此度の襲撃に使われる短弓でも手傷を負い、悪ければ命を落とす者も現れている。何処か分らぬ所から何の前触れもなく飛来する矢の襲撃は勇猛果敢で知られる“赤備え”の兵であっても恐れを抱き、その足の動きが鈍るも致し方なき事であった…。
美濃国 恵那郡上村山中 佐々内蔵助成政
「甲斐の透破を出し抜くとは、流石は美濃の山々を熟知する山の民よ!」
美濃の国境を越え一路岩村城へと向かう武田の軍勢を山中にて、兵庫頭様から送られたという“弩”を用いて襲撃を行い武田方に僅かばかりの損傷を与える柴田左京進様が、傍らに置いた獣の革で作られた衣を身に纏う年の頃は二十の中頃と思しき者に親し気にお声を掛けられた。
そんな左京進様に対し、革衣の者はニヤリと笑みを浮かべると、
「お褒めに預かり光栄でございますが、例え忍びであろうと他国の者に我らが庭ともいうべき美濃の山中にて後れを取っていては玄衛門様から大目玉を喰らう事になりまする。それよりも、我ら山の民が道案内をしているとは遅れることなくこの山の中をついてこられる権六殿が率いる兵たちに驚かされましたぞ。
しかも、いくら山の中を歩き回ることになるとは言え鎧兜を脱ぎ捨てられるとは…。」
と左京進様に親し気に返した。その物言いに思わず声を上げようとしたのだが、そんな某を左京進様は睨み付ける様な視線で制され、
「なぁに、これも兵庫頭様からの御指図よ。山の中では鎧兜を身に纏っていては道案内をする九兵衛殿の動きにはついて行くことは出来ぬ上に、敵の目を掻い潜り襲撃を行う際、鎧を纏っていると鎧が擦れ合う音が襲撃の妨げとなる。それに、此度は敵の損耗を強いることが第一義であり、直接切り結ぶなどは厳に慎む様にとの御言葉があったのだ。ならばその下知に従うが肝要であろう。」
「確かに、流石は茶筅様にござりまするなぁ。しかも、“弩”などという古の武具を持ち出して如何するのかと思いましたが、山中を動き回りながら扱うのならば皆様方が扱われる弓(弓胎弓・重藤弓)よりも持ち運びし易く、扱いも簡易でどの様な者にでも扱えて射程も長いとくれば此度の襲撃にはうってつけと申すもの。更に、用いる矢の長さが短く襲撃を受けた者は“弩”の存在を知らなければ我ら山の民や狩人が扱う短弓と考え、在らぬ場所に襲撃者が潜んでいると誤認する事となり、その間に兵を引かせる事が出来ておりまする。」
「であろう。ただ、通常我らが扱う弓であれば続けざまに射るのだが“弩”ではそれが出来ぬ。その事だけが口惜しいわ。」
「いやいや権六殿、一射二射と射ると敵方に射手の姿を曝すこととなりますぞ。此度は我らの姿を隠しに隠し、敵方に何処から射られているのか悟らせぬことで、敵方の恐れを振れ上がらせ戦意を下げる事も意図しておりましょう。姿を隠して一射の後即座に退くためには一射しか出来ぬ“弩”は理に適っております。」
「‥成る程。言われて見れば九兵衛殿の申す通りじゃな。これは儂が功を焦るあまり目的を見失わぬ様にとの兵庫頭様の深謀やもしれぬのぉ。ぐわっはっはっはっは…」
そう笑い声を上げる左京進様の姿に唖然としてしまった。
左京進様は美濃攻めの折、信長様から墨俣に城を造るようにと命じられ、その際にまだ童であった兵庫頭様に策を授かり、藤吉郎と共に墨俣での築城を成し遂げて以来人が変わられた様に我ら下の者らに対しても心を砕いて下されるようになった。
以前の権六様は生まれや血筋を重要視なされて、威圧的に振舞い圧される事もあったと父兄から聞いていたからだ。
それが今では、墨俣で共に城を造った藤吉郎だけでなく今は亡き権六様の主君であった勘十郎信勝様の忘れ形見で岩村城の城主になられた左衛門尉信澄様からも“親父”と親し気に呼ばれ、下賤の者と蔑まれる山の民である九衛門と親し気に語り合われていたからだ。
藤吉郎と仲が良くお調子者の気がある又左衛門などは、藤吉郎だけでなく左衛門尉様までもが左京進様の事を“親仁殿”と親しく呼んでいる様子を見て、“親仁様”と呼ぶようになり左京進様も満更でもない様子に驚いた。
しかし、今や織田家家中に於いて岩村城の城代でありながら林佐渡守秀貞様、佐久間右衛門尉信盛様に並び重きを置かれている左京進様との縁を結ぶのなら、己も藤吉郎や又左衛門に倣うのが良いのではないかと考えさせられた。
「“親仁様”、この後も九兵衛殿らの手引きに従い武田方への奇襲を続けまするか。それとも頃合いを見計らい岩村城へ下がり籠城の支度を整えるのか…如何なされますか?」
又左衛門に続き某まで“親仁様”と呼ぶようになった事に左京進様は一瞬驚いた様な呆れた様な表情を浮かべられたが、直ぐにクシャリと表情を緩められて笑みを浮かべると、
「左衛門尉様は良しとして藤吉郎だけでなく又左衛門に続き内蔵助にまで“親仁”呼ばわりされるとは‥儂はそれほど老けて見えるのかのぉ、まぁ良いわ。儂はもう暫しの間だけ武田方に出血を強いるつもりじゃが。内蔵助、其の方は郎党を率いてこの書状をある御方達に届けて欲しい。案内は小源太殿にお願いしてある、小源太殿ぉ!」
左京進様の呼び掛ける声に合わせて、頭上に広がる梢から何かが飛び降りて来た。一瞬、猿かと思ったのだが良く見るとそれは山の民の九兵衛殿と同じ革衣を身に纏った一人の男であった。
「小源太殿、この内蔵助に書状を持たせる故この者達を例の御方たちの許に案内して下され。
内蔵助、小源太殿が案内して下さる御方たちにその書状を届け、その後は書状を届けた御方たちの指図に従うが良い。くれぐれも言い置くが、この書状は此度の戦の趨勢を決める事となる内容が書かれておる。小源太殿の案内に従い必ずこの書状を届けるのだ、良いな!」
そう告げられる左京進様の眼力は見据える者の反論を許さぬといった威が込められ、左京進様の言葉に頷くことしか出来なかった。




