懐かしい匂い
「えっ……」
アリー姉様がおっしゃった危険な目という言葉に、私の脳裏にはあの日の薔薇園での出来事が瞬時によぎりました。
「それは……どういう……」
「そのままの意味よ。危険で危うくて危ない目。普段の生活からはおよそ考えられないような、とても耐え難い酷い出来事が起きたりしたんじゃない? あるいは誰かの強い悪意によってそんな仕打ちを受けたとか……」
気付くと部屋の中の空気はいつの間にか張り詰めていて、アリー姉様の雰囲気もいつもの気怠さは今はすっかりと影を潜めています。
「そっ……それは……」
私はやましい事など何も無いのに、つい口籠ってしまいます。
それにしてもアリー姉様を取り巻く雰囲気が何だかとても怖いです。十年以上の付き合いですがこんなアリー姉様を見るのは初めてで、いつものように気怠そうにしているアリー姉様に一刻も早く戻って欲しいです。
「ーーああ、言いづらければ言わなくてもいいのよ。私は別に内容を聞きたい訳ではないのだから」
アリー姉様は口籠る私を気遣ってくれたのかそんな事を口にします。
「まあ、そうね。仮にそんな出来事があなたの身に起きていたとしましょう。例えば自然災害や事故といった事ならば、その日あなたが被害を受ける運命にあったとしてもその被害を受ける事はなくなる。この場合、事実上何も起きないんだからあなた自身が気付く事はないでしょうね。けれど、あなたの反応を鑑みるに……」
そこまで話してアリー姉様は目を閉じて何やら考えているご様子です。
「しっ……自然現象ではなく人為的な……人為的な悪意によるものの場合は、いったいどうなるのでしょうか……?」
言い知れぬ恐怖心から声がどうしても震えてしまいますが、どうにか口を開きアリー姉様に問いかけます。
アリー姉様は閉じた目をゆっくりと開くと重々しい口調で言葉を紡ぎます。
「ーー人為的な悪意による被害であれば、受けた被害と同等もしくはそれ以上の被害が加害者に反射される。ただーーそれだけよ」
そう、アリー姉様は冷たく突き放すように言って再び目を閉じました。
やった事がそのまま自分に返ってくる。自業自得であって情けをかける必要さえない。それが加害者がとるべき責任なのだと。きっと、そういう事なのでしょう。
《聞いた⁉︎ ルークレツィア嬢とアレンビー嬢が大怪我したって話》
突如、ジェシカ様の言葉が脳内に浮かびます。
階段から落ちて腕と足の骨を折る大怪我をしたルークレツィア様。
天井の窓ガラスが割れ顔と腕に酷い切り傷を負ったアレンビー様。
突然、思いもよらない大怪我を負ったお二人。
そう、あのお二人はーー。
私の腕を捻り上げ薔薇園の地面に押さえ込んだルークレツィア様。
まるで血の赤を想起させるほど真っ赤な薔薇が生い茂った植え込みの中へと私を突き飛ばしたアレンビー様。
私に危害を加えたお二人が相次いで痛々しい大怪我を負った。しかも私が実際に加えられた危害とは比べものにならないほどの危険なもの。それは下手をすれば命を落としていたかも知れないとても危険なものです。
いつになく真剣なアリー姉様が、部屋に充満する重々しい空気感が、アリー姉様の語った話と実際に起きた事象との関係性が、それら全てが怖くて仕方ありません。
あの日、あの薔薇園で感じた直接的な、物理的な恐怖心とは全く別の恐怖心です。
私の知らない世界の未知なるものが、私なんかでは到底理解できない力でもって、私の世界を全て壊してしまうのではないかという漠然とした朧げな恐怖心。何に怯え恐怖しているのかもよく理解できませんが、胸の中のずっと奥の方にある命の底から震えてしまうほどの激しい恐怖です。
出来る事ならこのまま消えてしまいたい。襲いくる恐怖心でどうにかなってしまいそうです。
早く逃げて、どこへ、何から、どうやって、どこまで、どこが安全、世界の果て、誰と、アンナ、ジェシカ様、アリー姉様、いつ、いま、この瞬間ーー。
「大丈夫、大丈夫。そんなに怖がらなくても、平気」
小さく呟くようなアリー姉様の声が耳もとで聞こえたかと思うと、私の髪が優しく撫でられます。鼻孔をくすぐる懐かしい匂いに幼い頃の記憶が蘇ります。
幼い頃、怖くて泣いてしまった私が泣き止むまでいつも抱きしめて髪を撫でてくれたアリー姉様。
互いに成長してからそんな機会はだんだんとなくなってしまいましたが、久しぶりにこうしてアリー姉様に抱かれているととても落ち着きます。
何だか眠くなってしまうほどに。
私はいつの間にかベッドの上で上体を起こしていたアリー姉様に抱かれて、静かに瞳を閉じました。




