アシュトレイ・サーキスタ
アシュトレイ・サーキスタ。
サーキスタ子爵家の長男で、私より年上の十九歳で、長身細身のたおやかな身体付きで、いつも優しい笑みを絶えず浮かべていて、自他共に認める穏やかな性格で、私の元婚約者で、私と同じ被害にあった男性です。
そんなアシュトレイ様が手に小枝を持ったままこちらに向かって手を振っています。
なるほど。あの小枝を窓に向かって投げつけていたのでしょう。そして今現在、私に対し手を振っているという事は少なくとも悪戯目的ではないという事でしょうか?
では、いったい何のために?
今更、何をしに来たというのでしょうか?
しかもこんな夜更けに、あんな所から。
アシュトレイ様が今何をお考えなのかは分かりかねますが、私は今とても悲しい気持ちでいっぱいです。いえーーもっと単純に、嫌な気持ちといった風でしょうか。
理由はどうあれ、アシュトレイ様は一度私を捨てたお方なのですから。
眼下のアシュトレイ様は私に向かって右手で手招きをしており、反対の左手で屋敷の一階部分を指差しています。
指で指し示す場所はこの部屋のやや左下辺りの部屋、つまりお洗濯などをする洗い場辺りでしょうか? アシュトレイ様は私に洗い場に来いとおっしゃっているのでしょうか。
私はアシュトレイ様が指定した場所に行くべきか行かざるべきか散々迷ったあげく、最終的に行く事にしました。
怖い、とも思いました。当然。
よく知る人物ではありますが、しかしそれでも男性ですし、夜更けですし、乱暴な事をされるんじゃないかという漠然とした不安感は拭いきれません。
ここが自身の屋敷であるからもしもの時は悲鳴をあげれば誰かがすぐに来てくれるだろう、という思いがあったからこその決断です。
私はなるべく足音をたてぬように一階の洗い場へと向かいました。途中、マイヤーさんに出会すのではないかと思って色々と言い訳を考えていたのですが、結局マイヤーさんとは出会す事なく洗い場へと無事に到着しました。
そういえば、道中かなり暗かったのですが言い訳を考えるのに夢中で全く怖くはなかったですね。
私は洗い場の扉を開けて中に入ると、正面に並ぶ窓の一つに月明かりに照らされた黒い人影を発見しました。隠れるようにしながら、じっとこちらを覗き込んでいます。
恐怖です。
夜に黒い人影が窓からこちらを覗き込むというのは、これほどまでに恐ろしいものなのですね。
私は両手を胸の前でぎゅっと握り、窓の方へと歩み寄ります。
恐る恐るクレセント錠に手を伸ばし解錠すると、あまりの恐怖にたまらずその場から二歩ほど後退ります。
黒い人影は解錠されたのを確認すると慎重に窓を押し上げ顔だけを覗かせ、
「ローレライ! ああ……ローレライ、会いたかったよ」
ほんの数日ぶりにお聞きしたアシュトレイ様の声はなんだかとても懐かしく思えました。
そして、あの日最後に聞いたあの痛烈な声とは全く違ってとても馴染みのある、優しさがとても滲み出ているお声でした。
「アシュ……トレイ……様」
二度とその名を口にする事は無いと思っていたのですが、こうしてご本人を目の前にすると思いのほか何の隔たりもなくいとも簡単に口から滑り出てきました。
「もっと近くに……近くでその顔を見せてくれ」
絞り出すような、捉え方によっては悲痛な叫びにも聞こえてしまう震える声でアシュトレイ様そう言います。
まさか、泣いているのでしょうか?
私は様々な想いが全身を激しく駆け巡る中、アシュトレイ様の声に応えるようにゆっくりと歩み寄ります。
私の重みで床板が軋み、辺りに乾いた音が響きます。
そして、私は窓際へと立って月明かりで青白く光る窓ガラス越しにアシュトレイ様と視線を絡ませます。
数日ぶりにじっくりと拝見するアシュトレイ様のお顔は、体調があまり優れないのかひどく疲れているご様子で、若干#窶__やつ__#れてしまっています。
「ローレライ……ローレライ……ローレライ……」
アシュトレイ様は私の名前を何度も何度も繰り返しながら、小さく開いた窓からこちらへと向かって両手を伸ばしています。
私を求めるように差し出されたその手に対し、私は条件反射のようにほぼ無意識で自身の右手を差し出します。
アシュトレイ様は私の右手を上下から優しく包み込むようにすると、愛おしそうに撫でーー
そして、
「ローレライ……一緒に、一緒にこの国から出よう」
と、そうおっしゃいました。
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