お母様が歩いた道と目指したもの
様々な想いが胸を駆け巡る中、夜明け前のこんな早くから私の目の前ではマイヤーさんがせっせとお洗濯をしてくれています。
何のために沸かしているのかとずっと不思議に思っていたお湯を桶の中に入れて、それと倍以上の水を桶の中に入れながら何やら温度調節をしている様子のマイヤーさん。右手を桶の中に入れて軽く中の液体を躍らせると、
「よし。頃合いですね」
そう言いながら、麻袋の中から取り出した白い粉を桶の中に入れて軽くかき混ぜるとお母様のドレスを桶の中の液体に優しく浸し、ときおり泳がせるように混ぜました。
「これでよしっと。後は待つだけですね」
「えっ? これだけでいいんですか? もっとゴシゴシ擦らないと汚れが取れないんじゃあ……」
「ーーーーふふっ。このドレスはシルクで作られていますから、ゴシゴシ擦ると生地が傷んでしまいます。こうやってつけ置きしてから、優しく優しく濯いでお洗濯するのが一番生地が喜ぶんですよ」
「そうなんですね……」
知りませんでした。ゴシゴシ擦ると生地が傷んでしまうだなんて初耳です。だとしたら、先ほどマイヤーさんに出会えたのはかなりの幸運と言えますね。
私一人で洗い場まで来ていたら、間違いなく力任せに洗って大切なドレスをボロボロにしていたに違いありませんから。
あの暗闇の中、一人で辿り着けたかどうかも怪しいものですが。
「さっき入れた粉は何ですか? いつもの洗剤とは違うようですが……」
「あれは、汚れがよく落ちる漂白剤のようなものですね。天然由来のもので肌にも優しい魔法の粉みたいなものです」
「そんなものがあるんですね。私の知らないことばかりです」
「こういったものは私達が使用するものですから、お嬢様は知らなくて当然です」
マイヤーさんは優しい笑みを浮かべてそう言います。
私は知らなくて当然、ですか。
お母様も知らなかったのでしょうか。
いえ、お母様は何でも知っていましたからきっとお洗濯の方法も道具も知っていた筈です。
「あの……マイヤーさん」
「はい?」
「私に教えていただけます? お洗濯の仕方」
「お嬢様に?」
マイヤーさんは驚いた様子でそう言うと、右手で口元を押さえて笑います。
そして、
「やはり親子なんですね。まさかお二人から同じお願いをされるだなんて、思ってもみませんでした」
「えっ?」
「今から二十年ほど前の事でしょうか、旦那様と御結婚なされこのお屋敷に来たばかりの頃のルクス様にも同じ事をお願いされたんですよ。いつか生まれてくるであろう自分の子供に教えてあげたいからって」
「お母様が⁉︎」
「ええ。奥様は厳格な御両親の元で質の良い教育をみっちりと施されて育ったそうです。なので私達、使用人がやるような料理やお洗濯といった仕事は体験した事がほとんどないんです。今までもこれからもそれらの仕事は全部私達、使用人がやりますからね。なのに、奥様はなぜか未来の我が子にそれらを教えてあげたいとおっしゃったんです」
「それは……なぜでしょう?」
「なぜでしょうね……正解は私にも分かりません」
「立派な貴婦人になるために、必要な事だった……とかでしょうか?」
「ーーーーいいえ。奥様はすでに誰が見ても、例え王族の方々がご覧になられたとしても素晴らしいと口にするほどのご立派な貴婦人であられました」
「では……いったい……」
「そうですね……私もこのお屋敷で働く前は別のお屋敷で働いていたんですが、普通なら厳しい教育を終えて立派な貴婦人となったのならそこで終わってしまうんです。もちろんお勉強はずっと続けていくのでしょうが、それは今の状態であり続けるためのものであって今までやってきた教育とは全く違うもののように思うのです。現状を維持するための間に合わせのようなもの、と言えば分かりやすいでしょうか……」
「何となく分かります。目標を達成した事に満足してその場に留まり続けてしまうみたいな事ですよね?」
「そうですね。別にそれが悪いとは思いませんし今までのご苦労を考えれば、まずはゆっくりとお休み下さいと私は思うのですが奥様は違いました。どんどん新たな事を学んで、どんどん成長しようとなされるんです」
「…………」
「最初はなぜそこまで頑張るのかが私には理解が出来ませんでした。しかしそんなお姿を間近でいると私としても負けられないと言うか、勝手に奥様の事をライバル視して自分に割り当てられた仕事以外の事もこなすようになっていました。そしてある日、私は気付いたんです。ああそうか、奥様は貴婦人ではない別の何かになろうとしているんだって……今はその準備中なんだって……」
「別の……何か……?」
「ーーーーはい。奥様はきっと、母親になるための準備をなされていたんです」




