涙、伝い
「ーーそれではお気を付けて」
「ーーええ、ありがとう。すっかりとお世話になったわね、ローレライ」
あの会話の後、ベアトリック様はまるで腫れ物が取れたかのような清々しさで立ち上がると、いつかのように両手を胸の前でパチンと打って帰り支度を始めました。
思いがけない要請に侍女のお二人はすごい慌てようで、側から見ているとなんだか可笑しくって仕方がありませんでした。
眼前では屋敷に持ち込まれた数々の調度品が次々に運び出されていきます。そんな光景を眺めているとなんだか無性に寂しさが募ってしまいます。
いつか、もし、私が誰かと結婚した時、お父様はこんな気持ちでいるのでしょうか?
「…………」
そう考えると、なんだか複雑ですね。
『あの子の本当の名前はジェシカ・キラークイーン』
『あの日、あのお茶会を計画し支配していたのは間違いなくあの子よ』
『あの子は見ていたの、薔薇園の外から、ずっと……』
そんなベアトリック様の言葉がぽつりぽつりと脳内に浮かびます。
にわかには信じがたい話ですが、ベアトリック様はどう見ても嘘をついているようには見えませんでしたし、だからきっとあのお話は真実なのでしょう。
それでも、何かの間違いや勘違いであって欲しいという思いは、どうしても払拭できるものではありません。
しかし……いったいなぜ、ジェシカ様はあんな事を……。
あの日の、お茶会より以前は対面した事はあれどまともにお話さえした事もないくらい遠い存在、遠い関係性だったのに……それなのに……なぜ……。
数日前、クッキーを差し入れに来てくださった時のあの笑顔と言葉は全部嘘だったのでしょうか……?
ジェシカ様から向けられた悪意の理由も定かではありませんが、今はなによりもジェシカ様から悪意を向けられたという事自体がどうしようもなく悲しくて私の胸に色濃く影を落としています。
全てを投げうっても手にしたかった美の象徴とも言えるそんな存在から悪意を向けられた、嫌われた、疎まれた。
身が引き裂かれるような思いでした。
アシュトレイ様に婚約破棄を突きつけられた時と同じような鋭い痛みが胸に走ります。
いえ……あの時より酷く辛いですね。身体の底から生命力や気力といったエネルギーがみるみる消え失せていくようです。
これも……失恋と言うのでしょうか?
何というか、非常に漠然とした感覚なのですが今まで内に秘めていた光を失なってしまったような、そんな気がします。
夜、ランプの光に魅せられ集まった蛾の群れが突如、光を失なってしまい、悲しみにくれ、再び暗い夜空をあてもなく彷徨うような……。
光を失った蛾は、ジェシカ様という光を失った私はこれからいったいどこへと向かうのでしょう……。
いいえ……。
どころか、歩く事ももう……生きるという行為さえしたくありません……。
私の存在なんて、風に吹かれて消え去ってしまえばいいのに……。
辛くて嫌な事など一切ない、無の世界の一部になってしまえたら……。
そうなってしまえたのなら、どれほど幸せな事か。
「…………」
ベアトリック様の乗った馬車がもうほとんど見えなくなってしまいました。
仕方のない事ですが、ベアトリック様は馬車に乗る際に少し不安そうだったので、とても心配です……何のトラブルもなく王都の病院に無事到着する事が出来ればよいのですが……。
先ほどささやかながら、道中の無事を神様にお祈りしたのできっと大丈夫でしょう。
ここはアリーお姉様が言っていたように、信じて感謝していればきっと願いは叶う筈です。
ようやく本当の意味で友達になれたような気がするんですよね。
ようやく本当の意味で親交が深められたような気がしたんですよね。
何だか、ベアトリック様がまるで別人のように感じたんですよね。
きっと、これから私達はうまくやっていける気がするんですよね。
一筋の涙が私の頬を伝いました。
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