150日目
ラストスパアアアト!
150日目?だったっけ。
名前は……
ーJaden だよ。
最近は、ビデオを撮る時間もない。ジェイデンがいたずらっ子なのだ。家の外へは僕と一緒でなければ出てはいけないとかたく言い聞かせているのに、少し目をはなした隙にドアを開ける音が響く。ドアが軋む音ももう聞き飽きた。
さて、ジェイデンが遊ぶ姿を撮るこのビデオは、いつからホームビデオになってしまったのか。ただの映像記録で、たかが僕の生き甲斐だったはずだったのだが。画面の中の彼は、人間にして、10歳くらいだろう。正確な年齢はわからない。世界にたった一人のこの子にとって既存の人間たちのデータはあまりにも無意味だ。
見た目はまだ10歳くらいなのに、話す言葉はすでに深みを持ち、言葉の節々に彼の教養の高さが滲み出ている。木下がまだこの子が人の形もとっていなかった頃から、ひっきりなしに一人の人間に話しかけているかのように話しかけていたのは、彼に知識を与えるためだったのだと今更分かった。木下が彼に詩的な言葉を聞かせ続けていたこともあって、彼の言葉は少し僕らよりも時代錯誤というか、大げさというかそんな些細な弊害はあったが、彼に与えられた大量の知識は、いつか彼の身を助けるだろう。偉い人もそう言っていることだし。
「ノア、これを見てください、世界にはこんなに美しい場所があるそうですよ。ノアは見たことありますか?」
可憐なボーイソプラノで駆け寄って来たジェイデンは僕に問う。彼の手の中にあるのは、世界の空を写した写真や、各地の航空写真が載っている写真集だ。これは確か……リトアニアで買ったのだ。裏表紙の言語がリトアニア語だから、多分そう。
「ああ、ここには行ったことがある。この川は何万年も同じ地を流れ続けてどんどん蛇行して行ったから、川の曲がっている脇にたくさんの三日月の小さな湖があるんだ。三日月湖、と呼ぶんだ。そのままだろう?
明け方に行くと辺り一面靄がかかってとても幻想的だった。都市部の川は治水のために、大抵埋められているか、地下を通るようになっているから、こんな光景はどこでだって見られるものではない。この地に根付く風景だよ。確か、この写真は有名なリトアニアの写真家がとったものだ。あとで他のものも出してきてあげよう。」
「ありがとうございます!」
そわそわするジェイデンを見つめる。彼は未来そのものだ。
「君はまだ知らないかもしれないだろうけど、僕らの上に広がる空でさえも、一つとして同じ場所はない。その土地によって、青の深さが違う。その空の広さも違う。本当に世界は広いんだよ。」
「そうなんですか……。僕もいつか行ってみたいです。あ、もちろん家事はさぼりませんよ?」
思わず笑ってしまう。
「ジェイデン、リトアニアに行くとなったら、何日もこの家をあけなければいけないよ。気にしないでいい、もっと大きくなったらお前の好きなようにしなさい。家事は強制ではない。とりあえずの君の生きる意味でしかないのだから、ほかに見つかったら、捨ててもらって構わない。」
「生きる意味ってひとつじゃなきゃいけないのですか?」
「いや、必ずしもそうじゃない。……言い方が悪かった、ひとつでなくてもいいんだよ。大切なものは多ければ多いほど失うものも多いけれど、同じくらいいろいろなものを君にもたらすだろう。」
僕は写真集を握りしめる彼を引き寄せ、膝の間に座らせた。
僕と木下の間には、親愛の情なんてなかった。例えあったとしても、どうしようもないくらい一方的で、正直に言えば今となっては一方的だったかもわからないのが実情だ。少なくとも、記憶の中では同じくらいのものが返って来ることなんてなかった。
それが……普通だと思っていた。何も僕から変えられることはないと、諦めていた。どこまで辿っても平行線。どこまで行っても僕と木下の道が交わることはい。だから僕らは別れるしかない。それがまさか永遠になるなんて、考えてもみなかったけれど、これで良かったのだと思う。いつかは等しく皆に訪れることだ。人は必ず罪を背負って生まれてくると言う。僕の場合は、アダムとイヴの原罪のほかに、もうひとつ生まれながらの罪が加わっていただけのこと。償いとか、そんなどうしようもないことの前、もっと根本的な部分でそうやって自分を肯定できるようになったのは、彼が死に、ジェイデンが僕とともに生きてくれるようになったからだ。
「君がいてくれて良かった。」
ジェイデンはきょとんとして、嬉しそうに笑った。あの美しい瞳で、黒く濡れるような髪を揺らして。
「……そう言えるような自分になれて良かった。」
僕はジェイデンを抱きながら、静かに涙を流していた。




