90日目-2
「お前はどうしたいんだろうね。」
「う?あーノア!」
最近この子、いや、ジェイデンか。ジェイデンは言葉をたどたどしいながらも、話せるようになっていた。この子は普通の子供とは明らかに異なるスピードで成長していく。普通の子供だと1年や2年はかかるくらいの時間を費やすこともこの子にとっては一瞬だ。おそらく2、3日すれば、はっきりとした言葉を言えるようになるだろう。さすがホムンクルスと言ったところだろうか。
少なくとも今の僕には、ジェイデンを孤児院やら、親戚に預けるつもりはない。木下の掌の上で踊っていると分かってはいても、木下は亡き人だ。だから、そんなこと関係ないと自分に言い聞かせて、自分の行動に理由を探している。
ジェイデンは人間と異なるところが多すぎるし、そういう特徴を持つものは社会で迫害されることが多いから。僕一人が、いくら愚かしいことだと訴えても、悲しいことに、何も変えられないのだ。
この小さな子が自分の足で歩けるようになるまでは僕が面倒を見るつもりでいる。だが、それは僕の子供として育てるのではない。あくまで、僕は育て親としてこの子の面倒を見る。この子が僕を利用するように、僕もこの子を利用させてもらう。ジェイデンは、僕の生きる意味になるのだ。
「こんなに打算的な人間が育て親なんてお前も不運だね。」
首をかしげるジェイデンは一生懸命に僕の言葉を聞き取ろうとしていたようだが、よく分からなかったらしく、ただこちらに丸く柔らかな手を伸ばしている。いつものように抱っこをせがんでいるのだろう。僕がパソコンに向かう手を止めて抱え上げると、彼は嬉しそうににっこりと笑い、邪心などひとかけらもない顔でこちらを見ると、書斎の前の窓を楽しそうに見つめている。彼にはまだ言葉が分かっているはずもないのに、こちらの言葉を理解しているように見えることがある。勝手に僕が想像しているだけかもしれないけれど。
「ああ、世界は美しいだろう?」
「あー」
さっきから夕立が降っている。数分前急に空が暗くなったと思ったら、ざあっと一気に降ってきたのだ。大粒の雨がぱたぱたと窓や、ここは二階だからことさらに大きく屋根を叩く音が聞こえる。書斎の目の前に生える大木がしとどに濡れて、クスノキの光沢のある葉の表面をすごい速さで雨が次から次へ滑り落ちていく。少し風もあるから、いつもクスノキが立てる窓の表面を葉が撫でる音も少し違って、葉が濡れているせいだろう、柔らかく擦る音が書斎の中いっぱいに響いていた。
「雨は好き?」
「あー」
ジェイデンは雨が好きだ。雨が降ると、今のように僕の膝から、机の方へ登って、より近くで雨をみようと、あわよくば窓の向こうを触ろうとするのだ。
「僕も雨は好きなんだ。行くべき場所が決まっているのは、さぞかし心地よいだろうと思うよ。」
「あー」
夕立が続いたのは15分くらいで、あっという間に終わってしまう。夕立がやんだ後、窓を開け放つと、もわっとした夏の夕方の雨の濃い匂いが部屋中を満たす。遠くに、遠くに広がる空はオレンジ色に色づき始め、空高くを漂う真っ白な雲さえも染め上げていく。沈む夕日にほど近い雲は黄金に、ヤマブキ色にと色が変化しているが、あの夕日でさえも万能ではなくて、光が届かない程遠くの雲はまだ白いままだ。これが、あわいの時間。夜と朝の境目が曖昧な朝でも、夜でもない半端な時間。
腕の中の子供の体温が、不思議なくらい愛おしかった。
僕は、きっと泣いてなんか、ない。




