1日目-2
「君、まだいたのか。」
ー彼は少し言葉を切った。休符でいうと八分休符くらい。
「三脚を使ったらどうだろうか?その体勢はとても疲れそうだ。おそらく君の右腕はすでに痺れてきているのでは?」
ーーそれじゃ意味がないんです。
ー僕は首を振って、カメラを構え直した。不完全なジェスチャーでも僕の言いたいことはわかったらしい。彼は黙って僕から視線を外してくれた。こんなとき、言葉の存在意義を疑いたくなるということは、あした来ると今朝メールを寄こしてきた原稿取り立て屋の〇〇には秘密だ。
「今日は君に初めての客人が来ているんだ。この僕と似ても似つかない男は、ぼくの息子、だった男の子だ。」
ー彼は少し笑った。僕の記憶の中にはないような、まるで新しい顔で。
「彼の名前は〇〇。名前も僕のような純日本風の名前とは全く似ていないだろう?横文字だし。親に子供が似るように、その名前もどことなく似るものだ。彼の名前はね、彼の母、つまり僕の妻がつけたものなんだよ。だから僕と彼は似ていないんだ。君にはまだ家族がいないから、実感がまるでわかないかもしれないけれど、でもね。親と子は血が繋がって、遺伝子を一部共有していても、夫と妻というのは元は他人だから。彼の名付けの瞬間、僕はその場にいなかった。妻が一人で彼に名前をつけたんだ。」
ー少し息をのむ。これが人のルーツをたどっていくテレビの番組で大袈裟に紹介される、裏事情、ってやつなんだろう。
「僕は彼の出産の時、君にかかりきりでね。とても妻の元へ行っている暇なんてなかったよ。こんな男、本当は父になんてなれやしないのに、僕は気がついたら、一児の父になっていた。」
ー何かを生み出すクリエイターは、いつも中立でいないといけない、と聞いたことがある。それを友人から聞いた時、絵空事だと思った。机上の空論だと。まるで現実味がない言葉だと思ったから。クリエイターの本質は、自分を他人に押し付け、見せつけ、自分を受け入れろとわめき立てること。僕はそう思って来たし、これからもそう思い続けるだろう。今の僕はただカメラを持っているだけで、クリエイターですらないのかもしれないが、これが、中立でいるという感覚なのかもしれない。自分で作っているときとは違う、ひどく冷静な自分が隣にいるかのようだった。
「そんな話はいいだろう?それよりもっと綺麗なものの話をしようか。ああ。まだいたのか。」
「……君にも、君の母にもすまないことをしたね。許して欲しいとは言わないから、ただ黙ってここを立ち去って、僕を見捨ててくれないだろうか。……僕の妻だった女性のように。」
ーーじっと見つめる。
ーそんなこと、わかってる。僕の母は優しかったから、黙って逝った。僕は母のようにはなれなかった。いや、ならなかったと言ったほうが正しいだろう。ただそれだけのこと。
「わかってたけど。」
ー彼は困ったように笑った。なぜ、笑えるのか。僕には理解ができなかった。僕が気に入っている言葉の一つに、『大丈夫、きっと今ならわかるはず』という言葉がある。今なら分かるかもと期待していたけれど、結局何年立っても、僕には理解できないらしい。口が聞けないのが残念だった。もしもいま、僕に言葉があったなら、僕は一体何を言う?
今日は、トータルで2時間くらい、彼とガラスの中の住人を撮影していた。その間、彼は最初の一時間以外、こちらをちらりとも見ることなくただただ、彼の本当の子供と話していた。