1日目-1
お久しぶりです。今回もよろしくお願いします。
1日目
3、2、1
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今日も離れの木造の防音性が高いとは言えない一室から声が響いている。僕がここを訪ねたときから、いや、それよりもはるかに前から変わらないであろう辺りに響く低い声。声のトーンは低いのに、頭の中で変に反響する不思議な声だ。この声が原因で周囲の家からこの家の住人は気が狂っていると噂されていることも知っている。この家の庭はかなり広いのに、なぜ彼の声が周囲の住人に届いて、そのせいで悪評を呼ぶのかがわからなかったけれど、最近ようやくわかってきた。
僕は靴を履いて、木立を抜けて離れへ向かう。途端に土埃の中に足を踏み入れてしまい、僕は思わず一瞬息を止めた。柔らかな芝生に覆われていたはずの地面の大部分は芝が枯れ、土が露出してしまっているせいで、今日のような風の強い日には、土埃が舞って少し煙たいのだ。さて、今日もまた視線を感じてあたりを見渡す。
どうやら木立から小さな2組の目が覗いているような気がしたのは気のせいではなかったらしい。僕が音のしたほうをちらっと見ただけで、パタパタと小さな足音が2人分塀の方にかけていく音がした。止まっていてくれさえすれば、僕も気のせいにできたのだけれど。
有刺鉄線を塀にはわせたほうがいいだろうか。この庭には子供にとっては深いであろう池があるし、僕や、彼の知らないところで変に怪我をされても困る。そんなことを考えながら歩いていると、離れの扉が見えてきた。母屋からここまで徒歩3分くらいはあるかもしれない。測ったことがないから正確にはわからないけれど。なぜこの家の庭はこんなに大きのだろうか。この家に一番多く人がいたときですら、3人しかいなかったはずだから、こんなに大きな庭は土地の無駄といってもいい。大きい庭と言っても、整備された庭園があったわけでもないし。その理由も記憶の彼方でだれかに聞いたような気がしたけれど、忘れてしまった。
僕は離れの扉の前で歩みを止める。この扉をくぐったら、僕は空気にならなければいけないから。いや、正確には、このカメラを起動させてから、といったほうがいいだろうか。とにかく、僕は今からカメラを持った口の聞けないただの人形だ。
「……君はいつになったら、僕の目を見て、僕の話を聞いてくれるのだろう。」
「君は……ああ何か用でもあるからここにきたんだろう?」
ーー気にしないで、ただ撮ってるだけ。
ー僕は声を出さずにただ顔の前で手をふった。きっと画面が少しぶれてしまっただろう。左右に1、2回。ふらふらと。
「そうか。」
ーきっと彼はある意味狂っているのだ。だって、そうでもなければ突然きた人物が自身の映像を残したいなんて、突拍子もない提案を少しも疑いもせずに受け入れないだろう?狂っている、というのは狂人とか○狂いとか、そんな大袈裟な意味ではない。もっと、そう。ほんの少し生きるペースが僕らとは違っていて、向いている方向もほんの少しだけ違うような、そんなわずかなずれのことだ。
「いつも僕と君の朝は、僕が君を責める言葉から始まるみたいだ。君はなぜ目を開けないのか、なぜ口がきけないのか。僕は確かに君に命が宿っていることを知っているから。どうしようもなく辛い瞬間があるんだよ。いつもすまない。」
「……でも僕のことも君にはわかってほしい。時々疑いたくなるんだ。実は、君には命など宿っていないのではないかって。全て僕の勘違いだったんじゃないかって。ああ、でもそれこそ間違いだね。君はこうして生きている。僕がそれを知っている。」
ー彼は、なぜこの奇妙な試験管の中のモノに命が宿っていると信じているのだろう。
「さて、じゃあ今日も君の周りの様子を伝えるとしようか。」
ー彼はゆっくり周囲を見渡した。一周視線をぐるりと動かして、彼とひたりと目があった。いや、気のせいかもしれない。彼の目の焦点はこんなに近くには合わせることができないだろう。彼の目は彼に一番近い存在しか映さない。そんなこと分かってる。