薄明に融ける
お題箱サービスより創作お題「雪融け」をもとにした即興超短編です。大人の都合によって閉ざされた世界の中、眠れない夜と、見たことのない世界。一晩、いや、たった数時間かもしれない、小さく大きな冒険と変化の超短編です。
僕は眠れずに居た。
強がって飲んだ薄いインスタントコーヒーのせいか、暫く親が姿を見せないせいか、腹の膨れない栄養食のせいか。何にせよ静まった夜のシェルター上層は真っ暗で何もなく、ただ退屈だった。
なんとなく起き上がる。目が冴えに冴えてどうしようもない。
所せましと寝ている顔見知り達を抜け、廊下へ出た。暗い。こつ、こつ、自分自身の足音がやけに大きくて不気味だ。
うっすら灯る保安灯を頼りに少し歩くと、すぐに昇りと下りの階段が姿を見せる。下層に行けば父や母の、更には僕の仕事場もあるが、普段うんざりするほど通っている場所だ、行きたいとは全く思わなかった。
むしろ殆ど行かない昇りがやたらと気になって、足をかける。
螺旋階段。僕は憑かれたようにシェルターの背骨を登った。
普段上へ行かないのは、上には何もないからだ。外への出口が一つあるだけで、昼ならともかく、夜に鍵が掛かっていない筈などない。夜間は外出禁止、とは、このシェルター内では耳にたこが出来るほど聞かされていたのだった。
いくらか歩いて、ようやく階段が終わる。僕は情けないことに息が切れていた。
続く廊下は真っ暗だ。少しだけ躊躇った足を疲れのせいだと言い訳して、僕は歩く。
少し行って、その端へと辿り着いた。辿り着いてしまった。
扉だ。漂う冷気が強烈で、僕は戸惑う。
恐る恐るドアノブに手を伸ばす。当然鍵がかかっていて、戸はびくともしなかった。
と。
「おや、こんな所で人と会うなんて」
後ろから声がして、僕は文字通り飛びあがった。ばっと振り向く。
「ああ、驚かせちゃったか。謝るよ」
声の主は、闇に紛れて見えない。少年か少女か、高い声が廊下に響いていた。
「そこ、鍵、閉まってる?」
「うん、閉まってるよ」
大人ではないんだろうか。連れ戻されて懲罰を受けるかもしれない、体は勝手にびくびくしている。
「ふうん。……眠れない?」
「そうだけど、貴方も?」
「まあね」
影が近づいてくる。そっと廊下の端に避けると、その人は扉に手をかけた。
かしゃん。
高く、呆気ない、それでもって異質な音がした。
「なあんだ、開いてるじゃないか」
「えっ」
影がこちらを見ているのが分かった。ドアに当てたままの手が次第に外への道を開いていく。蝶番が軋んでいる。
「外へ出ないかい。面白い物が見られるよ」
冷たい風が吹き込んでくる。垣間見えた夜の闇は、しかし、シェルターの中より明るく見えた。
「……でも、外は危ないって」
「大人が言ってた?」
「うん」
言葉の先を読まれて、僕は少し顔を顰める。
「人が言ってたから何さ」
黒紫の天。僅かに覗く夜空には、いくつもの光る点があった。
「自分のことは、自分で決めなきゃ。他人を信じてばかりじゃ、ろくなことが無いよ?」
いま、一気にドアが開け放たれる。
一瞬の風。空気清浄機の独特のにおいがしない空気は、体の芯まで冴えわたる冷たさ。外の方が明るいというのは気のせいではなく、天に浮かぶ光の群れがそうさせているのだろうか、遠い山や瓦礫の影が黒いシルエットで見えるほどだった。
振り返れば、廊下の闇はいっそう深い。僕が踏み出した一歩は、鉄の板ではなく、土と砂と雪を踏んづけた。影が満足気に頷く。
周囲を見回す。夜には見境なく襲い掛かる機械が動き回るという話を聞いていたが、そんな物の姿はどこにも見えなかった。
風吹く夜を、二人行く。星や月や闇や土や、影は物知りだった。おもちゃ箱を開けたような、いや、むしろおもちゃ箱に迷い込んだような、わくわくに溢れる世界。知る度、見る度、声をあげて喜び楽しんだ。
かつて電車という交通機関が通っていた名残だという、線路と呼ばれた砂利道を歩いていた。
「もうすぐだ、急ごう」
影がおもむろに声を強める。上り坂。歩きを邪魔するようにコンクリートのブロックが等間隔で設置されていて、すごく進みにくい。足の疲れは麻痺し始めていた。
上り坂が終わる。ここだ、と影が言いかけて、言葉を止めた。
線路から目を離して見て、僕もかちりと止まった。
「この機械って……」
闇の中、青い夜空を切り取る山のような大きなシルエット。ごつごつと無機質で、そして何より真っ赤なランプが、生き物でないことを何より語っている。
シェルターの大人たちからの忠告を思い出した。
夜には見境なく襲い掛かる機械が動き回る。
こいつのことだ、はっきり分かった。僕を連れだした影は、呑まれて見えない。
「危ない、隠れなきゃ」
僕は呆然と呟いた。どうやって、どこに。自問自答、意味もなく。
狼狽する僕をよそに、声が響いた。
「大丈夫。大丈夫だから、その場で見てて」
声音が落ち着いていた。曖昧な闇に僕が息を殺すと、ただ機械の無機質な駆動音だけが響く。腕の形を変え、殺意を振りかざして――。
と。
「見て」
言われて、僕は初めて空の色が変わっていることに気が付いた。
朝だ。
小高い丘からは遠目でこそあるが海が見えて、その水平線からいま金色の太陽が顔を出す。薄明、まっすぐな光の線に、夜は千に万に散り散りになって薄く長く伸びた。
同時に、きいん、馬鹿に大きな音が近く遠くあちこちで響く。見れば、目の前の殺意を湛えていた機械が動きを止めていた。そのまま柱を失った家のように、ゆっくりと崩れ落ちていく。がらがら、静寂の朝にばらばらになる音は儚い。
「明けたね」
影は瓦礫と化したばかりの機械から、パーツを一つ抜き取ってみせた。
「こいつら、馬鹿だと思わない?朝になったら一斉に止まって、壊れた瓦礫のふりをするようになっているんだよ。目の前に獲物が二人居てもね」
動物はそんなミスをしたりはしないのにね、笑う声音は揺れている。
ほらね、やっぱり駄目じゃないか。小さな呟きすら、凪の朝はくっきりと拾った。意味をとりかねて、僕は首を傾げる。
影が、いや、影だった少女が天を仰ぐ。真似をすると、太陽に誘われた星が朝に融けていく所だった。藍色の夜の残滓と金色の朝焼けのグラデーションが、きらきらと輝いている。固まりかけていた足許の雪が天の色をそっくり映して白黒にきらめく。
「春の朝日は、特に好きだな。生き物も機械も、ぜんぶ融かしてくれそうでさ」
そう言う彼女のほっそりした腕が、足が、この時間が眩しい光に飲まれて消えてしまいそうで、僕は目を細めた。
読んでいただき、ありがとうございました。