9 フレッシュベーカリー「aurora/オーロラ」
大通りを、左に折れ、
都電の線路沿いを、しばらく走ると、
ベンツの車窓から、
お目あての看板が、見えてきた。
フレッシュベーカリー「aurora/オーロラ」
ホワイトをバックに、グリーンの文字が、浮きぼりになっている。
アルファベットの小文字を、
縦にならべた看板は、モダーンな印象をあたえる。
店主のセンスが、うかがえた。
都電と私鉄と、
営団地下鉄が通る下町。
駅に、ほど近い商店街に、
パン屋をいとなむ、智子の家があった。
車からおりる、優希。
ショルダーバッグをさげ、
お見舞いの品を、手にもっている。
きょうはファッションを決め、
ちょいとばかり、おめかしをしているので、
日ごろの美しさが、いや増し、
匂い立つようなオーラを、発していた。
いつも以上に、すれ違う人が、ハッとしてふり返った。
お店のウインドウの、向こうがわには、
焼きたての、おいしそうなパンが、
バラエティー豊かにならんでいて、
なんとも、食欲を、そそってくれる。
腕時計に目をやる。
もうすぐ、
午前11時になろうとしていた。
自動ドアが、ひらいた。
店内に、入っていく。
お客の入りは、上々。
家族連れ、カップル、お一人さまなど、
日曜日とあって、さまざまである。
アルバイトの女の子が、
システマチックに、レジ業務をこなしていた。
店内を縫うようにぬけ、
つかつかと製造工場へと、歩いてゆく。
グリーンの暖簾をくぐり、顔をだすと、
作業台で、
せっせとパン生地を、
成形している、智子の父親と、目があった。
「おじ様、こんにちは。ごぶさたしてます」
ペコリと、頭をさげる。
「ひさしぶりだね。優希ちゃん」
白衣、白帽すがたの智子の父親は、
たちまち相好をくずした。
笑うと、十歳くらい、若返ってみえる。
成形を中断すると、
なぜか、引きだしを、開け、
デジカメを取りだし、
「ハイ、ポーズ!」
というなり、シャッターを切った。
あまりにも、自然な流れに、
優希は、思わずポーズを、作ってしまった。
彼女は、状況をつかめないまま、
目をパチクリさせている。
智子の父は、間髪をいれずに、
「来てごらん!」
と手まねきした。
とりあえず、お見舞いの品を、
作業台のすみに置くと、
すなおに、手まねきに、応じた。
店内の、
新製品コーナーへ、優希をみちびく。
<ネオ・クリームパン>
プライスカードに、
ポップな表現で描かれたパンを、トングでさし示した。
「こいつが新しいクリームパンだよ。
ようやく完成に、こぎつけたんだ」
トングで新製品をつかんで、
渡すと、試食をすすめた。
お客の、混みあってきた店内で、
すすめられるままに、食べてみる。
「やわらかい!」
生地の食感に、思わず、うなってしまう。
いままでとは違う、
カスタードクリームの、
上質な甘さが、口の中にひろがる。
フワフワした白いパン生地の、
シュークリムといった、趣きであった。
「おいしーい。ほんとうにトロけそう。
ヴァージョンアップした、クリームパンですね」
「そうだろうとも。こいつを作りあげるまでには、
けっこうな手間とエネルギーがかかっているからね。
焼成のときに、
生地からクリームが、流れ出ないための工夫には、
たいそう、頭を、ひねらされたもんさ」
理解者をえて、
ことのほかうれしそうな智子の父君。
「こっちの新製品も、ごらんあれ」
智子の父は、
作業場から、
パン切り包丁とマナ板を、持ってくると、
棚からブレッドをとり、
一センチ幅にカットしていく。
白いパン生地の中心部に、
おなじ絵柄の顔が、
つぎからつぎへと、あらわれ出た。
「金太郎ブレッドだよ」
金太郎アメのパンヴァージョンである。
「キャハハ、すごーい!見た目が楽しく、味もすばらしい。
おじ様は、五感を自在にあやつる、魔術師ですね」
手をたたいてよろこぶ。
優希のことばが、彼のツボを、刺激した。
この市井の芸術家は、
理解者である、
目の前の、女神に、
つぎなる新製品をプレゼンする。
ちょいと、公案めいた、言いかたでもって。
「おつぎは、<パンあん>だよ!」
「<パンあん>・・・ですか?」
しばし、首をひねる、優希。
やがて、彼女の頭の中で、フラッシュが焚かれた!
口をついて出たことばは、
以下のごとし・・・「おはぎ、ですね☆」
智子の父は、おどろいて、息をのんだ。
「そう、その通り!ズバリ<逆あんパン>だ、
または、パンのおはぎともいえる。
パンの中にあんこが入っているのが、ノーマルなあんパン。
あんこでもって、焼成したパン生地の表面を、くるんだものが、
<パンあん>だ。
お彼岸用に開発してみた。
なにも、故人のすべてが、ゴハン党とはかぎらない。
パン党だって、少なからず、いたはずだ。
そんな動機から、作ってみた。
ものめずらしさも、手伝ったとは思うが、
まずまずの、売れいきだった。
HP〈ホームページ〉で、宣伝してね」
いい終えると、現物を、優希の手のひらに乗せた。
やや小ぶりな、可愛らしい<パンあん>だった。
「味見してごらん!」
楽しげな表情で、すすめる、智子の父君。
「いただきます」
パクリと、ひと口食べる、優希。
「うーん甘すぎず、
さりとて、物たりなさも、ない。
ぜつみょうな、味バランス、してますネ」
「よくぞ言ってくれた!」
智子の父は大きくうなずいた。
「うちの娘とちがって、
優希ちゃんは、ほんとうに繊細な、
味覚の感受性にめぐまれているようだ」
「ウフフ・・・智子が聞いたら、怒りますよ」
「いや、事実は事実さ、曲げようがない。
しかし、ほんとうに、惜しいことをした・・・
夏場に来てくれたら、
〈9月の時点という意味だが〉、今年の一番のヒット商品を、
お目にかけることができたのに・・・
その名も・・・<空かける、冷やし中華!>」
「冷やし中華のパンなんて、珍しいですね・・・初耳です!
スープ〈タレ〉の問題は、どうやって、解決したんですか?」
「いい・・・実に・・・いい質問だ!」
オーバーアクションといってもいいくらい、
首を大きく、上下させて、応答する。
「ドッグパンが、冷やし中華のタレ〈汁〉を、
吸い込んで、水っぽくなるのを、防ぐのが、
新製品開発における、最大のキー・ポイントだった。
どうやって・・・解決したと・・・思うかね?」
「うーん・・・うーん・・・」
みけんに、可愛らしく、シワを寄せて、
勉強のときよりも、
真剣に、しんけんに、シンケンに、頭を絞る、優希。
「<タレを、別包装(べつほうそう〉にして、
食べる直前に、かけるようにした>
そこまでは、想像が、つくんですけど・・・
それだけでは、プロの技とは、言いがたい。
おじ様のことだから、
なにか、もう、ひと工夫ありそうですね・・・分かりません・・・降参します」
智子の父は、
つつみこむような、まなざしで、娘の友人を見る。
「素晴らしい!正解だ!
ただし、それでは、80パーセントに過ぎない。
タレを別包にしても、
丁寧に、まんべんなく、麺にかけないかぎり、
やっぱり、ムラができて、
ヘタをすると、食べる人の衣類を、汚してしまう可能性だってある。
ドッグパンを、垂直のまま持って、食べきる人は、少ないだろうからね。
そこで、肝〈キモ〉の部分である、残りの20パーセントだ。
どうしたか?
タレを・・・ジェル状に・・・したんだよ。こうして、難問は、解決した」
「なるほど・・・工夫もそこまでいくと・・・クリエイトですね」
ため息をつく優希だった。
クリエイターの称号を授けられた、
智子の父は、うれしそうに、ミューズの両肩に、手を乗せる。
「優希ちゃんを、ブレーンとして、迎えたい気分だ!
うちで、アルバイトする気は、ないかね?
時給は安いが、
残りパンを、お持ちかえりできるよ。
どうかね?
共同で、
新製品の開発に、取り組もうじゃないか!」
その気はなかったが、相手の好意を、
そこねてはいけないと考え、
ちょいと、思案してみせる、優希だ。
すると、
作業場から、
ブレスの強い声が、ひびいてきた。
「あんたァ、早いとこ成形しないと、生地が発酵するわよ」
智子の未来形のような母親が、
暖簾をくぐって、顔をのぞかせた。
やっぱりメガネをかけている。
「いかん、忘れてた!」
あわてて、作業場へ引きかえす、
市井の芸術家。
優希も、そのあとに続く。
「おば様、ごぶさたしています」
作業台から、お見舞いの品を、手にとり、渡した。
「智子のぐあいは、どうですか?」
「優希ちゃんのとこには、
いつもお世話になってしまって、どうもありがとね。
あの子が、カゼをひくなんて、秋の珍事よね、まったく。
病院で注射を打ってもらったから、じきに治るでしょう」
堂々とした母親は、きっぷよく、笑いとばした。
つられるように笑ってしまう、優希。
明るくって、
人間味があって、
いいお母さんだなと、会うたびに思う。
「あの子は二階よ。奥の階段をのぼった、つきあたり。
知ってるわよね。すぐに、おやつを、持っていくから」
「どうぞ、おかまいなく」
作業場を、通りぬける。
クツをぬぎ、そろえて置くと、
まわれ右して、うす暗い階段に、足をかけた。
各段の、左がわには、
お店で使用する、
在庫品である、
業務用の、
コショウやケチャップ入りの缶、
ソースの一斗缶、
スパゲッティーの入った大箱などが、
置かれているので、
慎重に、右がわをのぼっていった。
階段をのぼりきると、
廊下のつきあたりに、めざす部屋があった。




