10 優希レジに立つ
〈ノックせよ、知覚の扉は啓かれる! tomoko〉
しゃれたネームプレートのかかったドアを、ノックする。
「どうぞ」
と扉ごしに、智子の声がした、いささか鼻声だ。
ゆっくり、ドアを開いて、室内を、のぞきこむ。
ベッドの上で、
問題集とノートを開いて、
勉強している、パジャマを着た、友人の姿があった。
目がうるんで、熱っぽい感じだ。
「おかげんは、いかが?
あすからの試験は、受けられそう?」
「うん、なんとかね。
はってでも行くから、心配しないで」
メガネごしに、優希を、見る。
化粧をした彼女の顔は、ため息が出るほど美しく、
ブラウンのチークを、引いた頬が、
いまにも、ボッと炎を、はなちそう。
許容量を、
オーバーする美が、放射されていた。
「あー。よけい、熱が、上がりそうだ」
広いおデコに手をやり、
ベッドに・・・沈みこんでいく。
優希は、机用の椅子を、コロコロすべらせて、
ベッドのそばに、腰かけ、
至近距離から話しかける。
彼女が、無意識に、放ってくる美に、
自分の中の、なにかが、こわされないように、
智子は、毛布を頭からすっぽりかぶって、
防御した。
五分が経過した。
心臓の鼓動は規則正しさをとりもどし、
ようやく精神状態も落ちついた。
おそるおそる、毛布から、顔を出す。
理性の破壊者たる優希は、立ちあがって、
カベのそこかしこに、ベタベタ、はりつけてある、
短冊形〈たんざくがた〉の紙を、
うしろ手をくみ、
おもしろおかしそうに、ながめていた。
部屋のあるじが、
ドアーズの詩や、
ジム・モリソンの言葉などから、
特にお気に入りのフレーズを、
抜きだして、書きうつしたものだ。
<夜は、昼と、おなじ力を、持っている>
<向こう側に、突き抜けろ>
<復活の予約は、キャンセルした>
<ウェイク・アップ!>
<恋をしていたい、風が、こんなに冷たいから>
<ハートに火をつけて!>
「復活の予約はキャンセルした、か・・・。
ふむふむ、意味深い、言葉ね」
優希がつぶやいた。
「デヘヘヘヘ」
てれくさそうに、リアクトする智子。
「そうそう」
とシャープペンシルをしおりにした、
数学の問題集を、パラッと広げる智子。
「この問題の解きかたが、よくわからない。教えてくれる?」
優希は、椅子に、腰をおろすと、
問題集に、
その大きな瞳をむけて、読む。
ゴクリと、ツバをのみこむ智子。
ななめすぐ前にある、友人の顔は、
この世のものと思えないほど、美しい。
「ええっとね、
この問題は正攻法じゃ解けないのよ。
少しばかり、発想を転換してかからないと。
ほら、ここをこうしてこうするの」
「そうか、そうか、なるほど。さすがは優希だ」
「あのね、あなたは、
問題に対するアプローチが、あまりにワンパターン。
その上、ちょっぴり、強引。
公式に、問題をあてはめてやろうと、考えすぎるの。
もう少し、柔軟性が、でてこないと」
シャープペンシルのノッカーを、
形の良いあごにあて、指摘をする。
「へいへい!」
「もうひとつ、言わせてもらえば、ギブアップが早い。
あとひと押し、考えるクセをつけないと。
ボールを持って、
相手ディフェンスを突破する、
あの勢いよ!」
「病人に、ダメ出しするわけ」
軽くせきこむ、智子。
「あら、ごめんなさい」
友人の背中を、さする。
トン、トン!
ノックの音がした。
返事を待たずして、いきなりドアが開いた。
「はい、召し上がれ」
エプロン姿の智子の母が、入ってきた。
手にしたお盆には、
山ほどのパンと、コーヒー牛乳の1リットルパック、
コップが二個のっていた。
「焼きたてのホカホカよ。たんと食べてちょうだいな」
コップに、コーヒー牛乳を、トクトクそそいでくれる。
動作のひとつひとつが、ダイナミックである。
「うわぁ、美味しそう」
目をかがやかせる優希。
智子のベッドの上に、
簡易テーブルをしつらえ、
おやつの時間がはじまった。
優希はネオクリームパンを手にとると、
幸福そうな顔して、ハグハグ食べる。
智子は、
さしてめずらしくもなさそうな顔をして、もくもくと口にはこぶ。
毎日、パンを見て、暮らしているわけで、
さすがに、パンにたいする感受性が、うすれてしまっていた。
食べ物というよりは、
一個の物体という、認識だ。
もっとも、
ふだん智子の口に入るのは、たいはんが残りパンだったが。
そういえば、
夕食が、残りパンという日も、あったっけ、
あれは哀しかった。
優希は、ショルダーバッグから、
携帯用ウエット・ティシュを取りだして、
口のまわりをていねいにぬぐう。
使用ずみのテイッシュを、
バッグの中のビニール袋にいれる。
ゴミは・・・持ちかえる主義だ。
コーヒー牛乳をのみ、
つぎはどれにしようかな?と、
籐のお皿にのった、
食欲をそそるパンのかずかずに、視線をめぐらせる。
おなかいっぱい、パンを食べた、優希は、
満ちたりたようすで、コーヒー牛乳を飲んでいた。
智子の母が、あらたまった口調で、
娘の友人に、話を切りだした。
「ねぇ、優希ちゃん。お願いがあるんだけどね」
コーヒー牛乳を飲みおえ、
コップをコトリとお盆の上におく。
「なんでしょう、おば様?」
「じつはね、アルバイトの女の子に急用ができてしまって、
お昼前に、帰らなければ、いけなくなったの。
つぎのシフトの子が来るのが、午後の二時。
いろいろ手をうってみたけど、
そのあいだ、レジを打つ人がいないのよ。
うちのひとは、パンづくりでいそがしいし、
私は私で、パン出しやトッピング作業で、おおわらわなの。
そこで、二時間きっかり、
レジを手伝ってもらえないかしら?
お給料は、日払いさせてもらうけど」
「ダメ、ダメ!優希は、試験勉強でたいへんなんだから」
智子が、わりこんできて、
母親の要請を一蹴する。
「優希ちゃん。そこをなんとか、お願いできないかしらね」
手を合わせる、智子の母。
「いいです、引きうけましょう」
快諾する優希。
「ムリよ、ムリだってば。ゴホッ、ゴホッ!
うちは、パンの種類も多いし、
昼から二時といったら、
一番混む時間帯じゃないの。
私が手伝う」
「でもさ、お前、せきこんでるし、
熱だって完全に、さがっていないんだろう?」
「おば様、私に手伝わせてください。
一度、レジ打ちって、してみたかったんです」
優希が、申し出た。
智子の母は、ニッコリして言った。
「これで話は成立だね。
十二時十分前に、お店に、降りてきてちょうだい」
「はい」
バタン!
と扉をしめて、
智子の母は、あわただしく、出ていった。
「安うけあいして、だいじょうぶ?
うちは、人づかいが荒いし、たいへんなんだから」
うで組みして、
心配そうな顔を、むけてくる智子。
「まっかせなさーい」
カゼ気味の友人を、部屋にのこして、店へおりていく優希。
指示どおり、
せま苦しい更衣室で、
[aurora]
のグリーンのロゴが入ったエプロンと帽子を、身につけた。
智子の母は、優希に向かって早口で言う。
「あと十分で、レジ打ちしている女の子が帰るから、
仕事の流れを、よーく見ててね。
レジの操作はかんたんだから、
やっているうちにこなせるようになる。
分らないことがあったら、
大きな声を出してきいてちょうだい。
小さい声はダメ!
とりあえずパンの値段を、頭にたたきこんでおいてくれる」
「はい」
「ダメ!声が小さい。もう一回」
「はい!」
店内を、売り子姿の優希が、歩く。
プライスカードを、見てまわる。
なるほど・・・ 智子の言ったとおりだ。
パンの種類が、おどろくほど多く、
プライスも、ひとすじなわではいかない、幅があった。
おおまかに、分類すれば、
値段に法則性のあるパンと、
フィーリングで、つけたとしか、考えられない、
値段のパンの二種類がある。
むき身のパンには、
バーコードも、値札も、ついていない、
記憶力だけがたよりである。
お客の数はさらにふえ、
店の中は、そうとう混雑してきていた。
レジを引きつぐ。
最初の十分間は、智子の母親がサポートしてくれた。
レジの操作は、
比較的簡単に覚えられたが、
パンの袋入れ、
とくに、
焼きあがって間もないパンが、むずかしかった。
つぶさないようにするには、
知恵と工夫と手ぎわの良さが、
三方同時に、要求される。
注意のことばが、
智子の母から、ビシビシあびせられる。
「私はパン出しをするから。
分からないことがあったら、
恥ずかしがらずに、大声できくのよ」
「はい!」
智子の母親が、レジから離脱した。
作業場では、パン作りに、よねんのない智子の父。
つぎつぎと焼きあがるパン。
焼き釜から、
放出される熱は、かなりのもので、
エアコンをきかせているのにもかかわらず、汗が吹き出てくる。
フレッシュベーカリー[aurora/オーロラ]にとって、
お昼は、一番の稼ぎどきなのだ。
智子の母親が、プラスチックのヘラを使い、
スピーディーに、
プレート上へ、焼き立てのパンを並べていく。
「あの、可憐なお嬢さんひとりで、
混雑したレジを、こなせそうかい?」
と奥方にたずねる。
「だれもいないよりましよ。
ネコの手も、借りたいくらいなんだから。
あの子にとっても、いい経験になることでしょう。
なにかあったら、とんでいくから、心配ないわよ」
智子の父は、
窓越しに、
レジの方を、心配顔で見つめ、
成形作業を、続けていた。




