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Hello World

作者: 一瀬詞貴

〔お兄ちゃんなんて大っっ嫌い〕

 キーボードを叩き、そんな事を打ち込んでから数分後。二一インチの液晶に映し出された画面が一つずれて新しい「呟き」が現れる。

 ――どうして?

 世界中の呟きがリアルタイムで配信される新時代のソーシャルツール。先週の十月三一日、十六歳になった私こと清水花も、今どきの高校生の例に漏れず、その最先端ツールの使い手だ。

 予想通りの返答に憤慨する事もなく、私は頬杖を解き右の手元に放っていた菓子袋から玄米クッキーを摘み上げて口にくわえて、ふつふつと沸き上がる苛立ちを叩き込む。

〔馬鹿だから。無遠慮だから。デリカシーがない、から!〕

 タイムライン欄一面に並ぶ、緑に白い卵のデフォルトアイコンがまた一つ下に繰り下がる。新着の自分宛の呟きが現れる……

 ――どうして?

〔知らない。頭、足りないからでしょ〕

 刻々と知能が下がっていくような錯覚を感じながら、愚直に私は返信を待った。どうせ「どうして」しか言わないのだ。と、

 ――お待たせ。今日は豚の角煮だ。こんにゃくいっぱいだよ。召し上がれ

「は?」と、画面に踊った文字に花は目を瞬かせた。それから、大仰に溜息をつく。

「博士。そりゃ『お腹空いた』のリプライ文だよ。……バグ? 記述ミス? どっち?」

「博士」は――30分に一度、世界各国の天才・変態ごちゃまぜ名言、プラス私の願望を吐き出すボット――九割九分、配布スクリプトを利用している自作プログラムだ。マッチする言葉があれば特定の言葉を返すように、なければ別の言葉を返すようにとプログラムしてある。通常、「その単語は分かりません」とか「そっか」と返すところを「どうして?」にしたのは、会話が深化すると思ったから。

 コンピュータ音痴で、ピーエイチピーもアピも、オースもさっぱり分からない私がそれなりに呟く博士を作り上げられたのは、昨今の情報化社会の賜だった。ネットに繋げられる環境さえあれば、欲しい情報はすぐに手に入る。コピーアンドペースト!!……それはさながら魔法の呪文。

「にしても、博士よ。主役は豚であってこんにゃくが多い事なんてありえないから」

 もちろん博士が勝手に返答を考えられるはずもないから、今のは私が考えたもの、つまるところ、こんにゃくを求めているのは私だ。

「…………って、何やってんの、私」

 などといつも通りのやりとりをしていると、思わず溜息が零れた。途端に空しさが込み上げてくる。私は突き出した唇の上にシャーペンを乗せて頬杖をついた。

 博士は私にとっての最高のパートナーだった。くだらない事は言ってこないし、私の愚痴にはひたすら耐える。時々こうして虚を突く言葉でもって、驚かせてくれる。でも一方で、自分を情けなくも思っていた……

 一六時きっかりに終わるホームルーム。

 部活に向かう生徒にさよならを言って、私は家に直帰する。筆箱を鞄から引っ張り出し、予習・復習に必要なテキストをパソコンデスクに展開し、パソコンが起動するのを待つ。授業ノートをまとめながら、友達と会話するように私はボットに話しかける。まるで幼子がぬいぐるみに話かけるように。――いや、そんなに微笑ましいものではない。むしろ自分の呟き履歴をみるとちょっと気持ち悪い。……それは、他人に閲覧されないよう、両アカウントに鍵をかけながらも、毎日履歴を消さずにはいられないほどだ。

「ま、いーけど。友達には話したくないし」

 そう吐き捨てて、シャーペンをデスク上に放ると、私はどっかとチェアに寄っかかる。

 ……私は人に自分の事を話すのが嫌いだ。

 意見を口にするから人と衝突する。相手に合わせて生きた方がより平和的ではないか。

「はい?」

 ――と、こんこん、と部屋の扉がノックされて、私は椅子ごと、化学式のポスターが貼られた扉を振り返った。

 扉の隙間から顔を覗かせたのは、私の二つ上の兄だった。長い前髪の奥で、彼は切れ長の美しい目を、ゆっくり二度ほど瞬かせてから、あと数秒で世界が滅亡すると宣告するような低くうち沈んだ声音で言った。

「…………花。夕飯できたって」

 ――清水直人。私はこいつが大嫌いだ。


* * *


 ダイニング中央の方形のテーブルには、兄が作った青椒肉絲に卵スープ、ジャガイモサラダに父が仕事帰りに買って来た餃子が並んでいた。すでに席につき夕刊に目を走らせていた父は、私が二階の自室から降りると控え目な笑顔で迎えてくれる。その斜め右に椅子を引いて腰を下ろすと、よそったばかりのご飯を配膳した母が隣に座った。食事開始だ。

 いただきます、と口にして私は中央の大皿に箸を伸ばして小皿に料理を取り分ける。本当はピーマンは抜きたいけれど、躾に厳しい母の手前、そんな事はできようはずもなく、青椒肉絲を少なめによそる事で妥協した。……肉も人参も好きだから残念この上ない。

「…………それで?」

 黙々と進む一般的中流家庭の食卓に、不機嫌な声が落ちたのは食事も中盤に差し掛かった頃だった。唐突に口を開いた母に、びくり、と私は箸を止めた。茶碗から顔を上げれば、問いかけられた相手は、私の対面に座る兄だったようで、胸を撫で下ろす。斜め前に座った父もほっとした様子で再び食事に戻った。

「進路はどうするつもりなの、直人」

「……は?」

 名前を呼ばれてやっと、兄は顔を上げた。

「は? じゃないでしょう。きちんと報告してくれなければ困るのよ」

「あ……ごめん」

 苛立たしげに言われて、兄はのそのそと席を立った。やがてリビングに放られていた紙を手にして戻ってくる。

「はい」と、母に手渡したそれは、黒字で印字された薄桃色地の紙だった。

「なぁに、これ……?」

 引ったくるようにしてそれを受け取った母が、一瞥してぎゅっと眉根を寄せる。

「決まったんだ。……卒業後に入る劇団」

 首を伸ばして母の手元を覗き込めば、でかでかと印字された『新入生歓迎会』の字が飛び込んでくる。それは劇の公演予告のチラシだった。小学校等を巡回する民間の劇団らしい。演題は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。見かけない役名の隣に兄の名が小さく見えた。

 最近の小学生は、体育館でなく区立の文化交流施設など使って歓迎会を催すのか……などと感心していた私は、チラシを手にする母の手がブルブルと震えているのに気付いて、慌てて食事に戻った。自分の茶碗を手に、箸を忙しく動かして米を掻き込む。

「こ……こんなもので生活していこうと本気で思ってるの」

「…………やりたいから」

 母の押し殺した声に、兄は頷いた。

「居酒屋のバイトも、決まった」

 箸をテーブルの上に置くと、兄は真っ直ぐと背を正して述べた。学生からフリーターに華々しくメタモルフォーゼと言うわけだ。

 母の眦がキッと持ち上がる。

 ――あ、くるぞ。私は耳に小指を突っ込んで、落雷に備えた。が、その一足先に、

「『カンパネルラ!』」

 唐突に立ち上がったのは兄だった。

「『本当にみんなの幸せのためならば、僕の身体なんか百ぺん焼いてもかまわない!』」

 凜とした、透き通る美しい低音で、彼はジョバンニの台詞を口にした。その表情は素の彼では一生かかっても見せないだろうと思われるほど、活き活きと輝いていた。

「ブ……ブラーボー」

 呆気に取られた家族の内、最も回復の早かった父が、よく分からない歓声を上げて拍手を送る。それに兄はサッといつもの無表情に戻ると、父に頭を下げて席に座った。……って、それ、お兄ちゃんの台詞じゃないじゃん。

「――――ごちそうさま」

 退散するのを吉と見て、私は呆れ返る母を横目に、最後の米粒を口に含むと席を立つ。

「……またパソコン? 花。あなた、変な事に使っていないでしょうね?」

「まさか! 使ってないよ」

 私は有らぬ疑いにぶんぶん首を振る。

「花。見に来ない?」

 と、場の空気などお構いなしに、兄が食卓の上に身を乗り出した。

「いつだっけ? って、お兄ちゃん、これ、平日だよ」

「………………え? あ、そっか」

 母の手からチラシを取り上げ、兄へと渡す。彼は今気付いたとばかりに目をぱちくりさせてから、やがてじっと私の方に視線を向けた。

「な、何……?」

 行く気などさらさらなかったのがバレたのだろうか? でも、結局平日だったし――

「いっ――イタタッ! ちょ、お兄ちゃん!!」

 と、唐突に両頬を抓り上げられた。

 目を白黒させて抗議の声を上げれば、兄は生真面目な顔でぼそり、と言った。

「……悩みとかあったら、言えよ」

「へ?」

「直人。もうあなた、花には話しかけないで頂戴。教育に悪いから」

 思わぬ事にぽかんとしたのも束の間、母が苛立たしげに兄の手を押しやって、私の肩に手を置いた。

「あなたは直人みたいになっちゃダメよ」

「ちょ、お母さん、さすがに失礼だよ」

 兄はぴくりとも表情を動かさずに、母と私を見遣ってから、席に着くと食事を再開した。

 父は取り出した夕刊で顔を隠し、母は苛立たしげに兄に暴言を二、三吐くとテーブルの片付けを始める。……私はこれ以上この場に留まっていたくなくて、自身の食器を流しに放ると、さっさと自室に引き上げた。

 ……兄は馬鹿だから嫌いだ。

 夢なんて見るものであって語るものじゃない。母がうんざりするような事を悪びれもせずに、口にするなんて……何て迷惑な奴だろう。なりたきゃ、勝手になればいい。口になんてするな!

 ……ごろんとベッドに寝転がり、私は嬉しげに台詞を口にする兄を思って顔を歪めた。


* * *


 中学までは、自慢の兄だった。

 背が高くて、スポーツ万能、成績も良く、おまけに容姿端麗。欠点と言えば、無口な事ただ一つ。でもそれも硬派の裏返しだ。

 兄が褒められるたびに、自分のように嬉しくて、誇らしかったのを覚えている。なのに。

「清水!! 補習今日だぞ! 忘れるな!」

 穴だらけのジャージで、何やら大道具を抱えて廊下を走る兄の背に、教師の怒号が飛ぶ。クスクスと忍び笑いが立って、「頑張って、清水先輩!」だなんて黄色い声が飛んだりする。その度に、私は穴を掘って埋まりたい気持ちになる。あんなお兄さんで羨ましいだなんて言うクラスメートの思考回路は謎だ。

 今の兄はただ見てくれだけのウドの大木。授業中、涎を垂らして寝ている男が兄だなど、恥以外の何者でもない。

 自分勝手にやりたい事をやり好き勝手言って生きている。それなのに、彼は嫌われる事なく、いつも笑顔の中心にいる。

 ――無償に腹が立った。

 私は部活もしないで、級友との交際も最低限に留めて勉強に明け暮れているのに。

「……どうしてお兄ちゃんばっか」

 相変わらず「どうして?」と返してくるパソコン画面を見つめ、私は頬杖を付いた。

 母の筋金入りの見栄っ張りに振り回されても、私には恙なく日々を過ごせるようにと、空気の如き良い子であるしかない。就職が決まって家を出るまでの辛抱だ。……なのに兄は「我慢」を知らない。いつだってぼーっとして、言葉数も少ないのに、途端、自分の事になると人が変ったように頑なになる。

「本当、イライラする」

 ――どうして?

「好きな事だけやって生きてけるなんて思ってるところが。それでしかもうまくいってるのが、尚更腹立つ」

 ――どうして?

「いちいち自分のやりたい事貫いて、親に逆らって……子供じゃないんだから、って思う」

 ――どうして?

「あー……どうしてどうして煩いよ、博士」

 私はマウスを放ると立ち上がった。

「…………阿呆らし」

 ボット相手に何を苛立っているんだろう。

 私は短く息を吐いて、家を出た。その足でコンビニに向かう。

 ……問いが重なると、自分が責められているような気がしてくる。何も私が悪いわけではないのに、こんな風にイライラする自分が間違っているような気がしてきた。

 アイスクリームを買って帰って来た私は、もやもやした気持ちのまま、自室に戻った。

 さっさと明日の予習を終わらせて、動画サイトでも巡ろう。そう考え直して自室の扉を開けた。と――

「母さん、それ、花のだから。あんまり――――――あ。花。お帰り」

「お母さん? と、お兄ちゃん。何してるの」

 スタンバイからたたき起こされたパソコンの前に母と兄が立っていた。その液晶画面には博士との会話履歴がずらりと並んでいる。

「…………え、っと」

 私は床に足が縫い付けられたように動けなくなった。何か言おうと思うのに、ねっとりとした唾液を飲み込むので精一杯。脳は途端に熱を持ち始め、答えを探し倦ねて空回る。

「花。これ、って……人じゃないのよね」

「う……うん。うん、そう。人じゃなくて」

 そんな確認の言葉に、幾度も頷いた私は、母の表情を見てはっとした。いわゆる出会い系だとかにさえ関わらなければ大丈夫だと思っていたが……自分の甘さに目眩がする。母は、自分に理解出来ないものは徹底的に排除する人だったじゃないか。

「花。もっと他にあるでしょう? 読書や、お花、クラッシックを聴いたりとか。引きこもって勉強してるかと思えば、こんな――」

 同じような言葉しか返してこないボットに、「おはよう」「ただいま」「お腹空いた」だなんて、話しかける娘を、この母がどう思うかなんて火を見るより明らかだ。

「き、気持ち悪い、よね」

 自分でだって、時々、履歴を見て、「ないわー」とハッとするのだ。母なら尚更、おぞましく思うに違いない。

「そんな事ない。ね、母さん。母さん?」

 兄の庇うような言葉に理由もなく苛立った。同情? むしろ、そんな風に言われると、自分が変な人間みたいじゃないか!

「いや、それね……友達から教えて貰っただけで。ちょうど消そうかな、って思ってたの」

 唇が嘘を吐き出す。胸がじくじくと粘着質な痛みを訴える。

「良かった。……驚かせないでちょうだいよ」

 母は安堵の息を吐き、両手を胸の前で合せると愁眉を開いた。私も合わせ笑いで頷く。

「おかしいものね。子供がぬいぐるみ相手に話すのと訳が違うんですから」

「……うん」

「そんなもの、今すぐ消した方が良いわね」

 言葉に、びくり、と指先が震えた。

「母さん。たぶん、これ、花にとって大事――――」

「大事になんてしてないから!」

 母と私の間に立ちはだかった兄を押しやると、私はつかつかデスクに歩み寄り、マウスに手をかけた。無言でソフトを起動。アップしていたデータを削除すると共に、パソコン側のファイルもゴミ箱へ放る。

「大事になんて……してない、から」

 もちろん、ゴミ箱も空にして、私は言った。母を見上げた私は、平然としていたと思う。でも――私は、母の眼差しを受け止めきれなかった。不信と失望の滲む瞳に……気がつけば、私は部屋を飛び出していた。

「…………花ッ!!」

 階段を駆け下り運動靴をつっかけ家を出る。

 夜風はほんのりと冬の気配を含んでいた。

 ……何でだろう? 鼻の奥がつんとする。冷蔵庫に入れ忘れたアイスクリームの行く末を考えたら、涙が零れた。


* * *


 家のすぐ近くの公園で、ブランコに乗る。 ぼんやり座っていた私は、知れず携帯を開いて、項垂れた。――時刻は一九時半を数分回っていた。いつもなら博士が新しい呟きを吐き出している頃だ。でも、もう博士は呟かない。プログラムエラーかと思ってドキリとした自分に、更に気分は落ちた。それだけ、手が空けば私は博士をいじっていたのだ。

 高校入学から半年とちょっと。少しずつ博士が呟く台詞を増やし、いろんな単語にも反応出来るようにした。でも博士は数分もせずに消えてしまった。消してしまった……

 公園の中央に聳えた杉の木が風に揺れ、地面で黒々とした影が踊る。陽の落ちた後の公園は打ち捨てられた廃墟のように寂しく、動物型の椅子たちは不気味で、今にもケラケラ笑って動き出しそうだった。……むしろ踊り出せと私は念じた。そうしたら私はその脇でラジオ体操でもしよう。そんな気分だった。

「花って……時々、思い切るよね」

 声に顔を上げれば、いつの間にやら兄がぜぇぜぇ肩で息をして目前に立っていた。

「……別に。本当に消そうと思ってたし」

 隣のブランコに腰掛ける兄を無視して、私は立ち上がると、座りざま勢いつけてブランコに飛び乗った。ブランコ独特の音が公園に響く……自分を迷わず貫ける兄とだけは、何となしに、今は話したくなかった。

「……俺、さ。一度、中学で演劇やめただろ」

 膝の上で両手を組んだ兄がぼそり、と言った。私はちらりと一瞥を投げてから、ブランコを漕ぐ。

「なに? 突然」

「あの時、進学校目指すなら部活とかやってる暇ないって周りに言われてさ。確かに、って思ったんだ。中学で人生狭めるなんて馬鹿らしい。演劇なんて何の役にたつ? って」

 他の学校の実情は知らないけれど……私の中で演劇部は激部だ。朝は六時半から朝練、夕方は何処の部活よりも遅くまであった。室内だから暗くなったら帰宅と言う事もなく、とりわけ本番前は部員の家で泊まりがけでミーティングなんてやっていた。

 兄は文武両道を地でいっていたけれど、やはり中二の頃に翳りがさした。万年、成績優秀者の頭を張っていた彼が、春期の中間テストで五位にまで転落したのだ。もちろん母の厳命が下った。兄はそれに従い部活をやめた。

「正しい選択だったじゃん」

 私が無関心に頷けば、

「実はここだけの話さ。……裏があるんだよ」

 兄はじっと私の方を見てから、視線を地に落とした。

「――ぶっちゃけ、練習がキツかったんだ」

 思わぬ言葉に、私は兄を見れば、彼は「だけど」と、微動だにせず続けた。

「それが原因でやめるなんて、恰好悪いだろ? だから――嘘、ついた。自分に。周りに。その時から、高校入るまでの記憶、俺、ないんだ。……死んでたんだろうなぁ」

 外灯の白い輝きに、精悍な横顔が浮かび上がる。漆黒の瞳は静かな色を湛えていた。私は何故だかその姿に一瞬看取れて、ブランコを止めた。

「だけどね、花」

 唐突にその真摯な瞳が私を射た。兄は控え目に口の端を持ち上げて穏やかに口を開く。

「今は違う。毎日、楽しい。それは、たぶん……周りにも自分にも、嘘をつかなくなったからだと、確信してる」

「……だから?」

 その眩しい笑顔を私は見たくないと思う。

 暫くの沈黙の後、兄は躊躇いがちに、けれどハッキリと言葉を口にした。

「母さんは、お前が間違ってる、て思ったんだ。お前の考えを知らなかったから。でも、知らなかったのは誰のせいでもない……花。お前にも足りない部分があった、と俺は思う」

 かちん、と胸の中で音がした。

 私は生唾を飲み込んでから、胸の内のささくれを鼻から逃す。どこか触れて欲しくない大切な、無防備な……柔らかな所を無遠慮に曝かれた感じがして穏やかではいられない。

「……ご高説痛み入るわ」

 それでもその苛立ちは押さえきれずに、厭味ったらしい言葉が漏れる。すると、隣で溜息をつく音がした。

 …………呆れ返った? それで結構!

 今にも溢れ出しそうな言葉の数々。好き勝手に生きる兄のせいでどれだけ私が母に抑え付けられてきたと――――

「『さあ、切符をしっかり持っておいで!』」

 唐突に、兄は言った。

 私はびっくりして顔を上げた。真ん丸な月を背に立つ兄は、何処か浮世離れしていた。黒々とした髪が風に揺れる。星の粒子をまとい、彼はぼんやりと輝いているように見えた。

「『天の川の中でたった一つの本当のその切符を、決してお前はなくしてはいけない!』」

 私は気付けば、兄に腕を掴まれ引き立てられていた。彼は私の頭に手を置いた。その顔は、すでにいつもの無表情に戻っていたけれど、光の残滓はまだ儚く散っていた。

「お前がブレなきゃいいんだと思うんだ。母さんは納得しないだろうけど……結局、誰もが自分の価値観の中で生きてるから。極端な話、他人の迷惑なんて顧みずひたすら自分を貫く、ぐらいで良いと思う。でないと自分も周りも傷つく事になる。今みたいに」

 あ、でも、社会的な迷惑はかけちゃダメだよ、と付け足すと、兄ははにかんだ。

 私は目を瞬かせて兄を見る。

 自分を貫く? それで、気分が悪くなる人間もいると言うのに。何て勝手な考えだろう……全身を駆け巡る、憎悪にも似た苛立ち。私は兄を見た。兄は――長い前髪の奥の瞳には、もう私の知っている兄はいなかった。私と同じ卑屈さなど微塵もない……澄んだ双眸がそこにあった。胸が、強く痛んだ。

「みんな……自分の人生を歩んでる。母さんのじゃないんだよ」

 誠実な言葉に私は泣いて叫んで、兄を張り倒したい思いに駆られる。

 どうして? ――脳裏に並ぶ、博士の呟き。

 兄が嫌いな理由。彼の笑顔を見るたびに心穏やかでなくなる理由……

「…………うるさいなぁ」

 思わず、私は兄の手を強く払っていた。

 兄はちょっとだけ驚いたように、私を見下ろした。その瞳をキッと睨め付けて、私は震える心のまま、声を舌に乗せた。

「お兄ちゃんに何が分かるの? 私がどんな思いでお母さんの相手してきたのか」

 母は何でも出来る優等生の兄を可愛がった。私はお母さんに認めて貰いたくて、相手にされたくて、一生懸命努力した。そしてダメになった兄に変って、私が一身に期待を負う羽目になった。なのに兄は――自分ばかり好き勝手を言う。私は部活も友達も諦めて勉強してる。なのに、どうして、まるで私が間違っているように言われなければならないのだろう? こんな奴に説教されなきゃならないんだろう!? 私は頑張ってるのに。辛いのにも耐えて、頑張ってるのに!

 博士が問う。どうして? と。

 繰り返される問いにかき混ぜられて、胸が黒く泡だった。もくもくと盛り上がる泡に隠されて、苛立ちの中心が更に見えなくなる。

「学校でだってそうだよ。あたしが、お兄ちゃんのせいでどんな思いしてきたか――」

「知らないよ」

「なっ……」

 はっきりと、兄は言った。さも当り前だとでも言うように。真っ直ぐ私を見て。

「分かるはずないよ。……だって、俺、お前と話してないもの」

 それから、困ったように兄は言葉を続けた。

「俺はね、花。お前の好物も知らないんだ」

「あ……」

 私はその時、初めて兄を認識したのだと思う。兄はやはり感情のよく見えない表情で、でも、優しく再び私の髪に触れた。

「それで、花は何が好きで、何が嫌いなの?」

 私はじっとその顔を見つめてから、地面に目線を落とした。

 何故か兄は私を分かってくれていると盲目的な確信があった。――私が兄を知っているように。でも、兄が私を知らないのは当り前なのだ。私は一度も、誰かに自分の好みを伝えた事がない。それが原因で衝突する事が……怖かったから。

 そう気付いた時、私はすでに陥落していた。 情けなくて、悔しくて……私は項垂れる。胸の内のもやもやが晴れ――私は答え(それ)と出会ってしまった。

「…………こんにゃく」

 それからたっぷりと時間を置いてから、私は掠れた声を絞り出した。

「ん?」

「こんにゃくが好き。お腹一杯になるから」

「こんにゃく、か。そうか……それは――――コメントに困るな」

 兄は顎に手をやると低く唸った。やがてぶすっとする私に気付き、慌てて問いを重ねる。

「それで、嫌いなものは?」

「ピーマン。苦いから」

「そうか。俺は好きだけどな」

 ピーッと甲高い音を立て、私の中で苛立ちバロメーターが上昇、そのままそれは天井を突き破ると、夜空の彼方へ飛び去った。残された私は脱力と共にそれを見送るしかない。

「……あっそう。もう、いい。なんか馬鹿らしくなってきた」

 そう言い放って、私は踵を返す。

 博士の、どうして? の答えを私は知った。だから、こうして苛立ち続けるわけにはいかなかった。尚更惨めになってしまう。……と、

「花」

「なに?」

 呼ばれて、苛立たしげに振り返れば、微笑みと共に、兄が右手を差し出してきた。

「こんにちは」

「……は、はあ?」

「俺は清水直人、お前の兄です。初めまして」

 それから、彼は私の手を問答無用で握った。

 私は目を瞬かせて、その手と兄を見比べた。

 ――目眩がするくらい、息を止めていたように思う。やがて、空気を求めて開いた唇が、

「………………初め、まして」

 震える声を絞り出した。

 正直戸惑っていた。身体中がぽかぽかして、頭の中がふわふわして……私はこんな時、どういう顔をしたら良いのか分からない。

 だから――今だけ、思考の放棄を許可した。


* * *


 博士が戻ってきた。

 オフラインでデータを弄っていたのが幸いだった。兄がエディターには自動保存があるのを教えてくれのだ。……今までパソコンがフリーズする度に、前に保存した箇所から始めていた私は、色々複雑な思いをした。

 ――おはよう! 新しき今日よ。僕は今生まれた! オンギャー!!

 博士は昨日以上に絶好調……いな、自動学習の人工無能なんてものを実装させたせいで、飛び抜けてウザさが倍増した。

「何でも単語覚えりゃ良いってものじゃないのね。……設定の問題かもしれないけど」

 登校途中の道端で、私はげんなり肩を落として溜息を吐くと、顔を上げた。薄く空に伸びる雲が太陽を隠す。

 ストレス発散としての会話は必要だ。だからボットに語りかけるのだ……そんな風に私は思い込んでいた。でも、事実は違う。

 ――誰かに私を知って欲しかった。

 自分の快・不快を告げるのは子供じみていると思っていた。……そもそもそれを伝えなければ、本当の私と相手が思う私の姿は大きくかけ離れ、いずれ破綻するとも知れないで。

 多少の衝突も相手に誤解されないために必要なのだ。でも私は他人と知り合う事を恐れてきた。自分の意見を言って、期待通りの子からはみ出たら嫌われる。そう思っていた。――それは自信のなさの裏返しだ。だから、友人の代用としてボットに話かける自分が気持ち悪かったし、私は兄が嫌いだった。

 兄の姿を見る度に心が穏やかでなくなった。……それは、私が彼を羨ましく思っていたから。自分のやりたい事、嫌な事を相手に躊躇いなく自然のまま伝えられる。そんな人になりたかったから。

 でも、もう、私はそんな風に妬んだりはしないだろう。私は、博士に愛着がある事を母に伝えたのだから……

 うん。もう、私は踏み出している。

 ――……おや? 日が出てきたね。

 博士が呟いた時、偶然にも雲間から陽光が差した。私はまぶしさに目を眇めて空を仰ぐと、呟いた。


「……初めまして、世界」




(了)

投稿時タイトル『シャウト!』

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