第三話
うららかなる、日差し。鳥のさえずり。薫るはそよ風。
長閑な空気のもとに広がる畑に響くのは、働く大人の掛け声と手伝いに走る子供の笑い声。鍬取りふるう老人のすぐそばを、泥にまみれた少年少女が駆けていく。
「おいガキ共! あぶねぇからあんま走るんじゃねーよ!」
「はーい!」と元気よく、しかし行動に還元されない返事に老人は苦笑い。
「子供ってーのは呑気でいいよな」
うそぶいて、肩にかけた手拭いで汗をふく。空を仰げば燦々と照る太陽。しかしそれは、老人にとって悩みの種の具現でもあった。
「おじいちゃーん。お茶が入ったからひと息入れよう」
畑の端から孫娘の声がかかる。おう、と返事をかえし、のっしのっしと老いてなお精強な足どりで歩み寄った。
「今年の出来は良さそう?」
「ああ、上々なようだ。このままいけば蓄えも十分できるだろう」
小さな木陰に座り込み、音を立てて熱い茶をすする。労働で火照り、渇いた体には甘露であった。
「……無事で済むといいね」
遠く、流れる雲を見ながら呟く孫娘。寂しさと不安をはらんだ言葉に、なんと返すべきか少し悩む。安心させるための笑みを浮かべると、この数年でまた増えてきた皺がより深くなった。
「心配するな。儂がなんとかしてやる」
「……うん」
信頼に満ちた、華やかな笑みで孫娘は草場に寝転ぶ。
「もうしばらくは、安全に過ごせるよね?」
「ああ。いつも言っとるだろ? 休めるときには休んでおけ、ってな」
平穏を画に描いたような景色に、二人そろってひと息つく。
――――しかし不測の事態というのは、えてしてそんな時こそやって来るもので。
「んん?」
まず気づいたのは老人。空の一点を見て眉をひそめた。
「どうしたの、おじいちゃん?」
隣の孫に、視線の先を指で示す。むむ? と娘も目をこらす。
遠く高く、蒼天の空の果て。曇り無き蒼のなか、異物をひとつ発見する。
鳥かなにかと思ったが、しかしそれは違うらしい。するすると大きくなるそれは数秒とたたずに姿形を肉眼にさらす。
「人間……?!」
そう。それは人間の形をしていた。
果てしない大空にその身を委ね、地上に向かって降りてくる。
というより――――堕ちてくる。
重力任せの自由落下は加速度的にスピードを上げて、彼の体を地上に招き寄せる。
思考を挟む余地もなく、手を出す余裕も有るはずがなく。
吸い込まれるように人影がむかうその先は――――
バキバキっ! メキャドッゴォォォンっ!!
畑の向こうに建つ、他の家よりひと回り大きく立派な建物。派手な破砕音を立てて突き破られた屋根を、唖然呆然に見て呟く。
「ウチの、屋根が……」
「見事に当たったな」
あんまりにも唐突な出来事に、もはや空笑いを上げるしかなかった。
※
日常的に生活をおくっていて、意識が途切れる瞬間を知覚する機会はそうない。
例えば就寝時。起床まぎわに自分が眠っていたことは理解できても、いつどの瞬間に意識が切れ、眠りに落ちたのかはわからない。気がついたら寝入っていて、気がついたら朝まで眠っていた。だいたいはそんなものだろう。
強く頭を打って気を失うと記憶の混濁がおこるのはよく聞く話だが、外的な要因がなくとも意識が途切れる瞬間の前後をヒトの脳は記憶できないのだ。
だから意識が浮かび上がるのを自覚した涼吾は、半寝ぼけの状態で真っ先に考えた。
(あれ……、俺、いつ寝たんだっけ……?)
夢うつつのまま、次に感じたのは飢餓感。胃の腑がきゅうと悲しく伸び縮み、内容物を要求し始める。
ああ、腹が減るのも当たり前か。結局ラーメンにはありつけなかったのだから――――
と、そこまで考えたところで意識が覚醒に向けて急浮上する。
そうだ。俺はラーメンを食べていない。何故食べていないんだ? 食べられない異常事態が発生したからだ。それはいったい何だった――――――?
いや、そんなことはどうでもいい。
俺はいま、猛烈に腹が減っている。だから起きよう。さっさと起きて、飯を食うのだ。
文字通り腹の底から湧き上がる想いにまかせ、バチッと瞼をこじ開ける。ことのほか良い目覚めを得た両目は、眼前の光景を鮮明に映した。
歴戦の鬼軍曹がごとき白髭白髪のじいさんが、視界いっぱいに己の顔を覗き込む、そんな光景を。
「ぬおおおああああああああっ!!!?」
完全に不意打ちをくらい、涼吾は飛び跳ねるように転がって逃げる。いや逃げようとした、のだが。
「って全身痛ってぇえええええええええ!!!!!!」
両腕両脚肩腰背中。身体中の靱帯が断裂したかのような激痛が走った。わずかでも力を入れると生じる痛みの衝撃に、思わず力んでさらなる激痛の呼び水としてしまう負の連鎖。喉から絞り出すような唸り声を上げて耐え忍ぶ。
「起きてそうそう喧しいな、この若ぇのは」
老人は人相からして外人さんのようだが、荒っぽくも流暢な日本語で呆れてぼやく。
「お、おおおおぅ……、ちょっ、ちょっと、タンマ。マジでちょっと待ち。洒落んならん痛さなんだけどどういう状況っすかコレ」
「全身に打撲と切り傷が多数だ。まだしばらくは動けねぇだろうよ」
マジすか、と涼吾はようやく落ち着いて脱力状態にこぎつける。
いったい自分の身に何が降りかかったというのか。
「ンなこたぁこっちが聞きてぇよ。ウチの天井に大穴開けくさりやがって……。つーかあれだけ高い場所から落ちてきて、なんで生きてるんだ?」
どういう身体の構造してるんだ、と視線で問いかける老人に痛みとは別の理由で冷や汗がたらり。
吸血鬼としては最下級、底辺も底辺な涼吾だがその肉体のスペックは腐っても人外だ。特に種族的特性ともいえる生命力の高さは、底辺レベルでも遺憾なく発揮される。
骨折や重度の火傷、刀傷。高位の吸血鬼のように秒単位で修復することは不可能だが、時間さえかければ大抵の怪我は自己治癒力で回復できる。身体そのものが頑丈だから、そもそも大怪我を負うこと自体が少ないというのもある。
しかし、そんなチカラは人外特有のものだ。人間社会に紛れ込むならば、絶対に衆目にさらしてはならない異能のチカラ。さらせば確実に自分の正体がばれる。
『人前で怪我を負ってはならない』
これは吸血鬼が人間社会に溶け込む為の、必須条件のひとつだ。
この御老人が一般人ならばそこまで問題ではないが、仮に時代錯誤な教会関係者や自称聖義の味方の場合、
「汚物は消毒だー!」
「塵芥も遺さず現世から消え去れAAIMEEEEEEEEN!!」
な事になりかねない。いや冗談抜きで。阿呆のような話だが本当に居るのだそういう類の人間ってのは。
顔を青くしてガタガタと震える、と激痛が走るので結局は脱力するしかない。まさにまな板の上の鯉状態。
しかし涼吾のそんな不安をよそに、あっけらかんと老人は言った。
「いったい“箱庭”でどんな“スキル”手に入れてきたんだ? その様子だと、肉体強化か回復力上昇の類にみえるが」
「は……?」
なにか、妙な単語が頻出した気がする。
「“箱庭”、って……なんすか?」
「あ? “箱庭”は箱庭……いや待て、お前さん“冒険者”じゃないのか? 儂ァてっきり何処ぞの“迷宮”から飛んできたのかと……」
当然のようにポンポンと飛び出る聞き覚えのないキーワード。
“冒険者”? “迷宮”?
目覚める前の最後の記憶を掘り返して考えた結果、涼吾は非常に面倒くさい展開になっている気がした。
「……おじいさん。つかぬことをお訊きしますが、ここ何処っすか?」
「シャイナール王国の東の果て。プレイリース男爵領にある田舎村だ」
さっぱり聞いたことの無い国名。そうか日本じゃないのか。というか、現代に爵位制度の残ってる国ってあっただろうか?
いよいよ嫌な予感が現実味をおびてくる。
――――いや待て、待つんだ茜羽 涼吾。もしかしたら壮大なドッキリ企画に巻き込まれているのやもしれない。まだ目覚めてからこの部屋の内装しか見ていないし判断するのは早計すぎる。正直作ったにしては部屋のくたびれ具合とか爺さんの言動とかリアル過ぎてあんまり自信ないけど希望は捨てるな諦めたらそこで試合終了だから!
「混乱してるのか? まぁとりあえず落ち着きな。外の空気でも吸うか?」
寝かされているベッドの脇、ガラスの窓ではなく戸板がはめられた部分を老人が開く。
光量の少なかった室内に、一気に光が差し込む。流れ込んでくる空気が、熱い。まるで真夏だ。
まぶしさに目を細め、その向こう側を見た涼吾はただ一言、呟いた。
「あ――――……、詰んだわ。これ」
広がる畑。見守る案山子。あぜ道とそれに沿って流れる小川。回る水車。
絵葉書の一枚になりそうな、昼下がりの静かな村落の風景。
それらを照らす二つの太陽が青空に輝いていた。