第二十一話
早朝から、ドラクリア村はいつになく不穏な空気につつまれている。
暗い夜の山中に打ち鳴らされた怪音は夢現のなかにあった村人たち全員の耳に届き、眠れぬ夜を提供してきた。
“闇夜の異変は災いの予兆”。
この世界では幼児の頃から教え込まれる言い伝えだ。何の仕業かはわからないが、村を囲む山々に大きな異変が起こったことは間違いない。
その異変がなにか。大闇夜の今の時節からして、魔物や魔族の出現という発想に至るのは当然といえた。それと同時に、十年前の悲劇が村人全員の頭に思い起こされるのも。
浮き足立つ村人たちであったが、しかしその騒ぎもブラムとカルミラの一喝によって大きくなることなく鎮められた。そして長老格の男女十名ほどをまじえて話し合い、方策を練ることとなった。
※
「…………」
そわそわ。
「…………」
うずうず。
「…………」
そわそわうずうずそわそわうずうず。
「…………あのー、フィリオさん? もう少し落ち着きませんか。足元がえらいことになってますよ?」
「っお、おう」
言われてフィリオが足元を見ると、草原のなかに綺麗な土色のサークルが出来上がっていた。無意識のうちに踏み締めていたらしい。
その隣に立つ涼吾は、森の奥をじっと見やっている。堅すぎず、柔らかすぎず。いつものように、そこにいる。
「……余裕そう、だな」
「実感がないだけですよ。正直、魔族というのがどれだけ脅威なのか、俺にはまだわかりませんから」
肩をすくめてみせる涼吾。その仕種が妙に可笑しくて、フィリオは肩の力が抜けてしまった。
どうにもこういう部分は、この男には敵う気がしない。
「何時間も緊張しっぱなしじゃあ体力がもちませんよ。チカラをつかうのは、必要なときだけでいい」
「……ああ、そうだな」
とはいえ、そう理想的にはいかないのが現実だ。深く息を吸い、吐いて、それでも腹の底の不安感はぬぐえない。
すっと空を見上げてみれば、二つの太陽が頭上にあった。
……そうだ。今は、まだ“昼”だ。
太陽が、空にある。見守ってくれている。
だから、あいつらは出てこない。
出てこれない、筈だ。
言い聞かせるように繰り返し、ようやく気が落ち着いてきた。
…………昨夜からこうして警戒をつづけているが、まだ人的被害の報告は上がっていない。そのほかの異変も無し。現状、昨夜の地鳴り以外に異変という異変は確認できていなかった。
怪音が響いたのは宵の口。朝日が昇るまでには随分と時間があった。ヒトを襲い喰らう魔族であるなら、まっしぐらにこの麓の村へ向かって襲撃をしかけているはずである。
そこから推察できるのは、現れたのがおそらくは“魔物”であるということだ。
“魔物”と“魔族”のちがいは、ザックリと言うならその知能と、人間に対する敵意の高さ。魔族が人語を操る知能をもち、人間を嗜好的に襲う凶暴性を有しているのに対し、魔物の知性はかなり低く一般的な動物と大差ないといわれている。それと同時に、人間に対する敵意や執着も少ない傾向があるのだとか。
では魔物なら問題ないのか、というと、そうでもない。知性がないぶん、むやみやたらに暴れまわる個体が多い魔物は、尋常ではない物的被害をもたらすことがままあるのだ。
有名なところでは山中に現れた火炎蜥蜴が森林をマグマのうごめく焦土に変えたとか。
一年中温暖な気候の南部に現れた霜氷巨人が町ひとつを溶けない氷で凍てつかせたとか。
人間そのものを狙うことは少ないが、その生態や存在そのものが周辺の環境に大きな影響をあたえて被害が出る場合が多い。あくまで一例ではあるが最悪、生活圏自体が封鎖され、たちゆかなくなることもある。
しかし見たところ、現れた瞬間に天変地異を引き起こすほど理不尽な魔物ではないらしい。その点からみれば、多少の猶予はあると考えられる。
ここは安全を確保しつつ、現れたのがどんな魔物か実体の把握をするべきーーーーと、ブラムは結論づけた。
「けど一人で森のなかに入ってっちゃいましたけど、大丈夫なんですかね」
「少し様子を見てくるだけだ、って言ってたけどな」
村の守護をフィリオと涼吾にまかせて、ブラムは森のなかに入っていった。出現地点とおぼしき場所に向かって、手がかりがないか調べてくるそうだ。
正体不明の魔物が潜む山の中。分け入るのはかなりの危険がともなう。村の護りを手薄にするわけにはいかないと残されたが、躊躇なく危険地帯に踏み込む師匠の振る舞いにいまだ横たわる大きな格差を感じて、フィリオは少し悔しく思った。
「そのまま棲み処にブッコミかけて討伐しちゃいましたーーーーとかホクホク顔で帰ってきてくれるパターンだと助かるんですけどね」
「そりゃまぁな」
確かにブラムなら軽い乗りでそんなことをやらかしてくれそうな気がしないでもないが、流石に楽観的過ぎるだろう。
「そもそも今の時期、魔物は昼間は姿を見せない筈だしな」
「そうなんすか?」
きょとん、とした顔で言う涼吾。フィリオは逆に面食らう。この男はたまに、知っているべき常識を知らない。
「……大闇夜の年は、蜜の年。女神アポリスと神ホリルの、十年に一度の逢瀬の年だ。二柱が逢瀬を交わす昼の間は、あふれでる神力が“魔”のチカラを弱めてくれるーーーーとか、だったか。咎持ちの魔物はそれを嫌って、闇の中に身を隠すらしい」
「どんなヤツでも、ですか?」
「ああ」
ふーん、と涼吾は鼻を鳴らして考える。
「てぇことは、どっちかってーと怪異寄りの存在なんですかね? 身を隠すってのは、単純に姿が消せるのか…………いや突然現れるなら……どこか別の場所に……?」
なにやらぶつぶつと口にしながら思考し始めた。が、フィリオには半分以上理解できない。言葉こそ通じるが、合間にはさまる奇妙な論法がつながりを切れ切れにするあたりはやはり異国人らしい。
ともかく重要なのは、この辺りに現れる魔物や魔族は太陽の光が大嫌いだということだ。
「つまり、真っ昼間から神様がイチャコラしてくれてるおかげで安全ってことですね」
「間違ってはいないが何かが間違ってるなその解釈は」
「そしてそのぶん夜はサボることになるからあとはテメェらで頑張ってくれやってことですね」
「なんか神様に恨みでもあるのかお前は」
穿った言い方にフィリオも顔をひきつらせる。熱心な教徒なわけでもないが、流石にその言い種は不敬すぎやしないだろうか。
「いやいやそんなことないっすよー。女神さまだって無休で働きっぱなしじゃあやってらんないでしょうしねぇ。十年に一度ぐらいゆっくり休ませてあげるのが道理でしょ? ましてやイイヒトと久方ぶりに逢おうってんなら手ェ貸してやんなきゃ」
世話焼きなご婦人のような言動である。この男にとって神とはなんなのだろうか。少なくとも崇敬の対象ではないらしい。
「あーでも協力しといてイチャコラの様子も出歯亀できないんじゃやってらんねーな」
「下世話だな!?」
神様のアレやコレを覗き見させろとか聞いたこともないわ!
(……ったく……こういうところが師匠好みなのかねぇ)
危なっかしい言動は、かつて神殿の神官様と殴りあった逸話を語る師匠を彷彿とさせる。
師として男として尊敬の対象ではあるが、折々に現れる常識外の思考回路にはたまについていけない。
やはりそのあたりが決定的な差なのだろうか。
なかば強制的に緊張感を削ぎ落とされて、フィリオは溜め息とともに肩を落とした。
※
ふざけ半分に駄弁るような会話を垂れ流しながら、反面で涼吾は思考する。
眷族使役にも慣れてきた今日この頃。戦闘訓練での流血操作による並列思考の繰り返しもあいまって、外面と内面とで別人格を利用し全く違うことを同時に思考処理する裏技的な活用法を見いだしていた。
(昨夜のアレは……何なんだろうな)
あの後、怪音が鳴り響いた現場をコーの眼を介して見て回ってきた。
踏み荒らされたしげみの向こう側にあったのは、根元から大きく噛みちぎられたような大木とクレーターのような跡を残した地面。そして、僅かに残った血の臭いと、複数の獣臭。
現場の様相と当時聞こえた物音から察するに、突如現れた何者かが隠れていた“何か”を襲撃、それを討ち取って再び姿を消したーーーーというのが涼吾の見立てだ。
実行者も被害者も姿なく、ただ痕跡だけを残して、霞のごとく消えて去る。まさに“怪奇現象”。怪しい物たちによる、奇妙で奇天烈で奇矯な出来事。
(日本なら鬼か天狗か狐狸か貉か……。音の怪異ってだけならいくらでもいるが、ああも露骨に荒らす奴はいねぇよな)
日本妖怪全般にいえることだが、現れるなり通り魔的に襲いかかってくる怪異というのは実はそれほど多くない。大抵は子供の悪戯レベルか、そうでなくとも彼らなりの作法や行儀にのっとって必ず相応の手順を踏む。問答や謎かけをしかけたり、賭博や力くらべのような勝負事を挑んできたり。何がその琴線に触れるかは各々ちがうが、定めたルールから逸脱することはほぼ無いと言っていい。
(だとすれば、西洋系。森大鬼か赤帽殺鬼あたりが妥当か?)
森を住み処に隠れて暮らし、神出鬼没の身の上で、比較的好戦的な種族といえばその辺りだが……。
(嫌だなぁ)
外面でのらりくらりと笑いながら、内側で鬱窟としたうめき声をあげる。
昨夜に聞こえて、嗅ぎとれた、“音”と“臭い”。
活きた肉の潰れる音。
鼓動ともに滴る血の臭い。
脈動が、命が、停止していくその様も嫌だが、それ以上にーーーー
(……愉しそう、だったねぇアレは)
人も、化生も、妖かしも、怪物も。生きとし生けるもののみならず“感情”をもつあらゆるモノたちの“意志”を察しながら生きてきた、茜羽の血が教えてくれる。
現れた何者かが、何を求めているのかを。
ぞわぞわと、血が騒ぐ。見つめた山林の向こう側。木陰の奥のそのまた奥で、何者かもまた、こちらを見つめている。そんな気がした。
(愉快じゃないねぇ、まったく)
暑い暑い日差しのもと、吸血鬼は今度は少しだけ眉をひそめて笑うのだった。




