第十六話
欲望は罪だと誰かが言った。
嫉妬は罪だと誰かが言った。
なにも欲さず羨まぬ者に、この世を廻すはかなわぬというのに。
※
今日もまた、陽が暮れる。二つの太陽を西の山入端がのみ込んでいく。傾いだ日輪が放つ光はしたたるような茜色だ。
夕暮れのこの光景は、この世界においてはある種の特別な意味をもつ。
本来、二つの太陽が大地を照らしつづけているこの世界では、“夜”=“闇”の図式は成り立たない。この世界における日常の“夜”は、小太陽の光の元にある明るい夜なのだ。
十年に一度の大闇夜の年のみに発生する“闇”は、その地に住む彼らにとって何よりも恐怖を呼び覚ます脅威である。そしてその前触れといえる夕暮れの空は、まぎれもない不吉の前兆であった。暮れなずむ空が血のごとき赤に染まるを見て、この世界の人々はその恐怖を思い出すのだ。
あの太陽の赤は、太陽の女神が流した血潮にちがいない。魔物に襲われ女神様が弱ったところに、闇の軍勢は現れる。そんな言い伝えが各地に残っている。
そんな太陽を、フィリオはただ座って眺めていた。場所は小高く緩い丘陵の草っぱら。村全体が見渡せる、フィリオのお気に入りの場所だ。
村のすべてが赤く色付く光景は、フィリオに昔を思い出させる。良い出来事も、そうでないことも、色々だ。
「黄昏てますねぇ」
ふいに声を掛けられる。誰かも分かりきった相手に、フィリオは振り向くことともない。
「しっとり浸るのも悪かないでしょうが、似合いやしませんよ?」
そう言う涼吾は勝手に隣へとやってきて、どかりと居座る。横目でちらりとうかがえば腕にも肩にも、その身体には傷跡ひとつ見つけられない。フィリオの視線に気付いて、ぷらぷらと手を振ってみせる。
「完全復活、全力全快異常無し、ってなもんです。まったく理不尽な身体になったもんだ」
こりこりと首筋を掻きながら緊張感のない笑みを浮かべている。とても一度死んで、生き返った男とは思えない。
それが本気なのか外面だけのフェイクなのかは、フィリオには理解できかねた。
「……なんでそんなに呑気なんだよ」
「なんでも深刻に考えりゃいいってものでもないでしょう」
「そうじゃねえっ! 訳がわからねーんだよ! お前のやることは!」
揚げ足をとる涼吾にフィリオは声を荒立てる。そんな怒号も柳に風と堪えた様子もない。
「自分なりに、誠意をみせたつもりだったんですがね。納得してもらえませんか」
「イチからちゃんと説明するならな」
「もちろん。お喋りは好きですよ、俺は」
なんでも訊ねてくればいい、と涼吾はうながす。著しい温度差に出鼻をくじかれたフィリオは、やや萎びた剣幕を立て直すのに難儀する。
「……じゃあ訊くが、昼間のあれはいったい何だ? お前の身体からいきなり、血が噴き出してーー」
いや、噴き出すなんて生やさしいものではなかった。内側から肉を裂き、喰い破り、爆散したのだ。あきらかに致死量の血液が全身から抜け、大きな血溜まりを地面につくり涼吾は倒れた。
そこからすぐあとに数秒とかからず血が体内に舞い戻り、肉体の傷もふさがっていく光景にはわかっていても悪い夢でもみているのかと己の正気を疑った。
結果、なし崩し的に勝負は流れてしまった。最後まで立っていたという意味ではフィリオの勝ちだが、フィリオ自身がそんな理屈はゆるせなかった。
「昔、師匠に聞いたことがある。ギフトのなかには発動するのに条件があったり、一定の“禁”を背負わなければならないものもあるって」
神の奇跡も無限ではなく、また万能でもない。神があたえた“火”という知恵が、ときにすべてを灰塵に帰すように。祝福もまた、場合によっては持つもの自身を傷つける。
フィリオやブラムのギフトにはこれといった代償はなく、体力の続くかぎりは発動できる。しかしなかには発動どころか日常生活にまで制限がかかる場合がある。一日に三回までとか、一度発動すると一週間はつかえないなどの回数制限ならまだ一般的なほうで、前もって儀式的なことや特定の行動をおこなう必要があったり、一定の条件下でなければ発動しなかったり、変わったところでは体質が変化して特定の食物しか食べられなくなる、嘘が吐けなくなる、方向感覚が欠落するなど色々だ。
“禁”もそのひとつ。ギフトを発動させるのになんらかの禁即事項があり、それを破れば発動不能、もしくは自身に災いがふりかかるというものだ。
“流血操作”に“肉体再生”。異色にして強力なそのギフトに、命に関わる“禁”があったとしても不思議ではない。
「…………俺には、お前が俺を殴ったから倒れたように見えた。それに、お前はそうなるのが分かってた。違うか?」
あのときまで、涼吾は徹底して相手を攻撃しないことにこだわっていた。逃げて避けて捌いて、ときに己が傷つこうとも、相手を傷つけることなく立ち回っていた。自分のもつギフトに関して、何か知っていたとしか思えない。
何故わざわざ無知を装い、隠していたのか。それでいて、危険をおかしてまであの場でフィリオを殴ったのは何故か。どうにも行動がちぐはぐだ。
この男は、何がしたいのか。何を思って行動しているのか。
いいかげんに、疑ってかかるのも疲れた。信じるべきか否か、そろそろはっきりさせておきたい。
睨みをきかせるフィリオの視線にさらされながら、風に揺れる青草の音へ乗せるように涼吾は口を開いた。
「ギフトについて、よくわかってないって言ったのは本当ですよ。俺の故郷にはそういうものはありませんでしたからね」
涼吾の手のひらで流血が舞う。赤い西日に照らされる様は、妖しい輝きをはなっていた。
「改めて宣言しますが、故郷にいた頃の俺にはもともとこんな異能のチカラなんてものは宿っちゃいませんでした。多少、丈夫な身体は持ち合わせていましたが、体力だってここまで高くなかった。ーーーーただ、二つほど。ちょいとばかり普通とは違う、ヒトにはないものが俺にはありました」
血が騒ぐ。
血が踊る。
二つに分かれた流血が、それぞれカタチをつくりだす。
それは小さな小さなヒトの型。
右の手のひらには一人の男。フードを目深にかぶりたたずむ、幽鬼がごとき一人の男。
左の手のひらには一体の骸骨。恐ろしいほど細緻に造られた、おどろおどろしい緋色の髑髏。
「ひとつは、血筋。遥か昔のいにしえに、とある逸話を残した男の血脈。そしてもうひとつは、その血とともに受け継がれてきた負の遺産。祝福などとはほど遠いーーーー」
左の手の上で骸骨が踊る。カタカタ、ケタケタ、嘲笑うかのように。
それをやはり愉快そうに眺めながら、平然となんでもないことのように涼吾は続ける。
「敢えていうなら、“呪い”ですかね」
※
むかし、昔、はるかな昔。
ヒトが歴史というものを刻むことを覚えるよりも、さらに昔の太古の地球では、すでに怪物たちが地上のあらゆる場所に生きていた。
それは、まさしく幻想神話の時代。
竜が天空を駆け、巨人が山脈を闊歩し、怪魚が大海原に荒波を引きずりおこす。そんな光景が日常として繰り広げられていた、怪物たちの黄金期。
おのれの武勇をヒトが誇り口にしたがるように、当時の怪物たちの遺した逸話は、ヒトのあいだではまことしやかな伝説として、怪物たちのあいだでは懐かしい思い出話のように、いまなお語り継がれている。
ヒトの語る童話寓話とは似ているようでまったく違う、実際に見聞きしてきたモノたちによる血肉の通った物語。嘘のようで本当の話。
涼吾の先祖が遺したのも、そんな逸話のいちページ。
かつて“最強”と謳われ、のちに“最弱”として名を馳せる一族をつくった、とある男の物語。
※
遥か彼方の、大昔。
海のむこうの大陸に、とある一族がおりました。
その一族はその身体に、不思議なチカラを宿していました。
ある者は自在に空を駆け、
ある者は無双の怪力をもち、
ある者はあらゆる姿に変じ、
ある者は数千の眷属を従える。
数々の異能のチカラをもって生きているそのモノたちは、いまだ国も町も村もない世を誰より自由に生きていました。
あるとき、その一族に一人の男が生まれました。
その男は、一族の誰よりも強いチカラをもって生まれてきました。
速く自在に空を駆けるチカラ。
無双の怪力を成すチカラ。
あらゆるものに姿かたちを変えるチカラ。
無限の眷属をうみだし従えるチカラ。
一族すべてのチカラを合わせてもなお余りあるその強さは、正しく“最強”と呼ぶにふさわしいものでした。
“最強”と評され、やがて一族の長となった男には、ひとつの願いがありました。
それは強大なチカラに反してあまりにも小さくありふれた、ささやかな願い。
ーーーー平穏を。
ーーーー仲間と、家族と、愛しきモノと……共に過ごす安息を。
それは、既に男の手のなかに在ったもの。
何よりも大切だったもの。
望めばなにもかもを手に入れられただろう男が必要としたのは、最初からそのひとつだけ。
生きる為の糧は日々必要なだけあればいい。
竜種のように金銀財貨を集めて愛でる趣味もない。
修羅がごとく闘争を求めるような酔狂さもない。
苦楽をともにする仲間と。
温もりをともにする家族と。
生き様をともにしたい愛しいモノと。
それらと、ただ何というでもない。穏やかなひと時を味わうことーーーーそれが、男の望みでした。
望みを叶える為にどうするべきか、男は考えました。折しも、世はいまだ争いの絶えない混沌の時代。そのなかで平穏を保ち、一族を護ることは容易ではありません。
しかし、男にはチカラがありました。
一族最強と謳われた男の異能は、すなわち世界の頂に準ずるチカラ。振るえば前に敵はなく、振るった跡に敵はない。
ーーーー最強のチカラをもって敵を滅し、皆を護る。
誰よりも平穏を愛した男は、その平穏を護る為に自ら戦端へと身を投じたのです。
男は戦います。
仲間を狙う敵と。
男は戦います。
家族を害する敵と。
男は戦います。
愛しいモノを傷付けんとする敵と。
戦って、
戦って、
戦って、
戦って、
戦ってーーーー……。
ただひたすらに、戦いに明け暮れて。
百の戦場を乗り越え、
千の屍を積み上げ、
万の敵を退けて。
最強の称号に相応しい戦果を挙げて。
しかしーーーーそれでも、終わらない。
一族を狙う敵は無くならない。
今日は昨日と違う敵が、明日は今日より強い敵が、男の前に現れ、立ちはだかり続ける日々。男の望んだ平穏からはかけ離れた、ただただ殺伐とした毎日をくりかえすばかり。
傷付き倒れる仲間が増えていくなかで、少しずつ男の心は摩耗していきます。
疲れきった男は、敵のひとりに問いかけました。
「何故、我等を狙うのか」
相対したモノは答えます。
「怖いから」
「恐ろしいから」
「強すぎるお前と、同じ世に在るのがーーーー怖くて恐くてしかたがないから」
それは、存在の否定。
男のささやかな願いすら許さず、すべてを拒絶する言葉。
ーーーー生きたかった。
ーーーー仲間と、家族と、愛しいモノと、一緒に生きていきたかった。
ーーーーほかには何もなくとも、ただそれだけで良かった。
殺戮も、暴虐も、狂乱も、望んだことは一度もない。ただ、平穏が欲しかった。
しかしその想いは、誰にも伝わらない。
男は強い。
強すぎた。
“最強”の男のチカラは、平穏を語るには程遠く。
ただそこにいるだけで、チカラ無きモノの不安を煽る。
彼らの“平穏”を脅かす。
男がいくら平穏を語ろうとも、“最強”のチカラがその言葉を濁らせる。
圧倒的な強者の言葉は、もたざるモノには届かない。
欲しかったものを遠ざけていたのは、己のチカラ。
護りたかったものを傷付けていたのは、己が存在そのもの。
すべてを否定された男の悲しみは、慟哭となって遠く世界に響き渡りました。
2ヶ月ぶりです。お待たせしました。




