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アーシャラフトの花嫁  作者:
雪色の花
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 肺に広がって全身を満たす古書のにおい。鼻の頭さえすすけさせるような、埃だらけの書庫。まぶた越しにちらちらと揺れる光にまばゆさはないものの、ほのかな明度が部屋を照らす。

 ふ、と。魚が水面に顔を出すように意識が浮かびあがって、ソニアはそっと目をひらいた。ぼやけた視界の向こう、ろうそくの明かりに影を落とす誰かがいる。ときおり紙のこすれあう音がして、小さく息をつく気配があった。

「……エリー、ゼ?」

 朦朧とした頭で呼びかける。向かいの席の人影がこちらを振り向いた。その背丈にどこか違和感を覚え、よく確かめようとまばたきをくり返すと、次第に視界は明瞭になっていく。ようやく輪郭を持った彼が迷惑そうに顔をしかめた。

「やっと起きた」

「え……って、わ、うわっ」

 ソニアはそこではっきりと目を覚ます。がばっと体を起こした拍子に椅子が倒れ、巻き込まれる形でうしろに転がった。地面に頭を打ちつけて、最近になって治ったばかりのそこにまたたんこぶを作る。頭をまわるような痛みは意識をはっきりとさせた。

「どうして、ここに」

 よろめきながら立ち上がる。机の振動を受けてろうそくの火が揺らめいた。

「物音が耳に障ったんだ。夜遅くまでなにをしているかと思えば」

 ラクスはそれまで手にしていた紙の束をソニアに放る。散らばりそうになったそれを受け止めて、ソニアは紙面に目を落とした。蛇ののたくるような自分の字の上に、走り書きでなにかが綴られている。よく見れば、単語の羅列の間違いを残らず指摘してあるらしかった。

「そんな調子で身につくとは思えないな」

「これ……全部、あなたが?」

「きみの字は見るに堪えない。汚いにもほどがある。同じ間違いを何度も繰り返すし」

 ラクスは馬鹿にするように肩をすくめた。

 ひとりで来たのかと問おうとして、部屋の外の気配に気がつく。どうやら隠れているつもりはないらしい。書庫に通じる扉をひらいた先の壁に体を預け、背の高い青年がこちらに目をやっていた。書庫と周りを見張るまなざしには心配の色があって、どことなくエリーゼと同じものを感じさせる。

「聞いているのか」

「あ、ご、ごめんなさい」

 これではまた怒られてしまう。エリーゼにするようにとっさに謝るとラクスは顔をそむけてしまった。しかし腹を立てているということはないようで、よそを向いたまま小声で言う。

「いつもか」

「え?」

「毎晩こうしているのか、って言ったんだ」

 やや声を荒げられる。怒りっぽいのかもしれない、とソニアはかすかに身を引いた。そうして出した声には、意図しない警戒がにじんでしまう。

「今日みたいに寝たりしません。ちゃんと勉強しています」

「……そこじゃない」

 呆れた声で言われてきょとんとした。ラクスはもういいとかぶりを振って、けれど椅子から立ち上がることもなく書棚のほうを眺める。近くに立つ人間の顔すら見えない彼の目に、本の背表紙を見分けることはできないはずだけれど。

 黙りこくっている彼の髪にろうそくの灯が揺れるのを、内心で怯えながら見つめていた。次に飛び出すのはどんな言葉だろうか、と。

 意味はない、早くこの宮殿を出ていけ。そう言ってこの努力さえも一蹴されてしまうかもしれない。もちろんそれを受け入れることはないけれど、胸にはおもりを落とされたような鈍い痛みが残る。ゆるやかに彼の頭が持ち上げられたとき、ソニアはつばを飲んだ。

 けれど、彼女を映したラクスの瞳には困惑が満ちていた。言おうかと迷う気色があって、やっとのことで喉を滑り出た声に覇気はなかった。

「どうして拒否しなかった」

「……どういうことですか」

「コルネリア夫人がきみに話を持ちかけたときだ。どうして嫌だと言わなかった」

 ラクスから顔をそらした。かすかな音も、彼には聞こえただろうか。挑むような、責めるような瞳が、ぶれることなくソニアを射抜いている。

 なにがあったかを思い出すまでもない。耳元にはコルネリアのもてあそぶような言葉がこびりついたまま残っている。

 あなたに、居場所を与えてあげる。

 ひどく優しい声でささやかれたあのとき、もう選ぶことはできないと悟った。自分には、その言葉ひとつで十分だった。

「その日の昼、きみはミセラの名を居場所だと言った。なら」一度言い淀んで、吐きだした勢いのままに続けられる。「きみの言う居場所とはなんだ。満足な食事と十分な衣服か、生きるのに不自由しない場所か。そうだとしたら僕は、」

「違います」

 さえぎるように首を振った。けれど少しだけ、嘘をついた。

「間違いではないけど、それは理由じゃありません」

 想像できますか。

 問いかけに、彼がひとつまばたきを返した。

「もし、もう一度生まれ変わったら。まったく違う生きかたができるなら、死んでもいいと思ったんです。誰かを愛して、誰かに愛されて、居場所に迷うことがないのなら、って。まだ生きたいとは思えなかった」

 ラクスが目を細める。想像なんてできなくてもいいと思った。ミセラが名前を捨てた理由が自分には理解できないように、自分が死ぬ間際の気持ちなど彼に伝わらなくてもいい。ただ知っておいてくれれば十分だ。

 死ぬはずだった命。拾ったのはこの教会で、望まれたのがミセラの名だとしても、ここにあるのはソニアの命だ。ならばそれは、自分の望んだ新しい生となんの違いがあるだろう。

「食べものや服、わたしが欲しいのはそんなものじゃない。……生きていたいと、思えるところです」

 ひとは孤独だ。母に限ったことではない。命が消える間際でそれを知った。

 誰かに望まれなければ生きていけない。生きることを許されなければ立ち上がれない。誰かに求められなければ、愛されなければ、息をすることさえ苦しいのだ。痛いほどの静寂と身を切るような冷気のなかで、自分は確かに、ひとりでいることを恐れていた。

「もとは違う誰かのものでも、もう一度生きることができるなら。わたしは、生きていきたい」

 自分はなにも持っていない。それだけはよく知っていた。

 空っぽな器に与えられたものはすべて、手放しがたいものに変わる。そのほとんどが嘲笑と罵倒に覆い尽くされていたとしても、共に降りそそぐ慈雨から目をそむけることだけはしたくなかった。

 ラクスは痛みをこらえるような顔をしていたが、やがてこわばっていた肩からゆっくりと力を抜いていく。静かに息をつくまでに、そう時間はかからなかった。

「やっぱり似ていない。……きみ自身が言ったことだけど」

「それは、ミセラさんに?」

 うなずかれて、すこしだけ寂しい気持ちになった。

「それなら、ミセラさんは、どんな人だったんですか」

 尋ねたのは、純粋な興味とわずかな自嘲のため。

 問われるとは思っていなかったのだろう。ソニアが予想していた通りにラクスは目を丸くして、一瞬だけ息をつめる。驚くときの反応は思いのほか素直なのだと知った。

「アーシャの庭で、ふたりで会っていたって」

「……エリーゼか」

 しかめ面をされた。かわされてしまうかと危惧したけれど、彼は思いだそうとするようなそぶりを見せる。彼自身も気がついていないだろう眉間のしわは癖なのだろうかと考えた。痕がついてしまいそうだとソニアが心配になってきたころに、ラクスは天井に顔を向けて言った。

「ひどいかんしゃく持ちだった」

「え、」

「怒りっぽくて、口が悪くて、公爵家の令嬢とは思えないような女性だった」

 呆気に取られる。ソニアはぽかんと口をあけた。

 友だち。恋人よりは身近だと思っていたその言葉の意味を見失いそうになる。自分の思い違いでなければ、仲がいいというのは、互いに認めあった関係のことだったはずだ。待ってと口を挟みそうになって、そこで息を止めた。

「でも、強い人だった」

 目を細めてほほ笑む、初めて見た彼の表情に寂しさがにじんだ。

「だから彼女は、自分の生き方が耐えられなかった。外に出たいと思ってしまったんだ」

 空はあまりにも広く、小さなアーシャラフトの中だけではその一端を見わたすこともできない。狭い屋敷に生まれ落ちた娘の身ならばなおのことだろう。やがてアーシャの花嫁となったとて、住む世界が宮殿に変わるのみ。

 翼を背に生まれた駒鳥は、鳥かごを出て羽ばたくことを夢見ていたのだろうか。


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